中嶋神社と三宅

中嶋神社と三宅

中嶋神社は豊岡市三宅に鎮座する。豊岡市三宅は、古くは出石郡安美郷で、屯倉が置かれたことに由来する。

宿南保先生「但馬史研究」第31号 平成20年3月 の考察を抜粋してみた。

天日槍命(あめのひぼこのみこと)の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国から「非時(ときじく)の香の木の実」(橘)を持ち返ったと記される田道間守命(たじまもりのみこと)を主祭神とし、天湯河棚神(あめのゆがわたなのかみ)を配祀する。そこから菓子の神・菓祖として崇敬される。また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから養蚕の神ともされる。

天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神である。天湯河棚神(天湯河板挙命)は鳥取造の祖である。一説には、日本書紀に記される、垂仁天皇の命により天湯河板挙命が鵠を捕えた和那美之水門の近くに天湯河棚神を祀ったものであるという。

中嶋神社は、天日槍(日矛)を祀る但馬一宮・出石神社とともに立派な社で、この地が古くから屯倉(三宅)としてヤマト政権の直轄地にあることが重要であろう。また、但馬の出石・城崎(豊岡)・気多(日高町)には天日槍ゆかりの神社が多い。

現在の社殿は、応永年間の火災の後、正長元年(1428年)に再建されたもので、室町中期の特色をよく示しているものとして重要文化財に指定されている。
国司文書 但馬故事記によれば、第33代推古天皇15年(607年)、田道間守の七世の子孫である三宅吉士*1が、祖神として田道間守(たじまもり)を祀ったのに始まる。「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからという。中古、安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した。

中島神社と田道間守(たじまもり)については別ページに詳しく触れているのでミヤケについてにしぼる。

拙者註
*1 『但馬故事記』文
人皇36代推古天皇15年秋10月、屯倉を出石郡に置き、米粟を蔵し、貧民救恤きゅうじゅつの用に供う。多遅麻毛理の七世孫・中島公その屯倉を司る。故に家を三宅と云い、氏と為せり。(「世継記」には10世)
34年秋10月、天下大いに餓ゆ、故に屯倉を開き、救恤す。
中島に三宅吉士の姓を賜う。中島公はその祖・多遅麻毛理命を屯倉丘に祀り、中島神社と云う。

(救恤 貧乏人・被災者などを救い、恵むこと。)

豊岡市三宅と奈良三宅周辺

垂仁天皇と但馬

さて垂仁天皇は、実在する初代天皇とされる崇神天皇の第3皇子で、『記・紀』には崇神天皇と垂仁天皇の代に、他の天皇では記述がないのに、丹波(いまの丹後が中心)と但馬の記述が圧倒している。しかし、それらの事績は総じて起源譚の性格が強いと、その史実性を疑問視する説もある。

しかし、他には残された史料がないから、それに従い記述すると、崇神天皇の第3皇子。生母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。皇后は丹波からで最初の皇后は垂仁天皇5年に焼死したとされる狭穂姫命(彦坐王の女)で、口が利けなかった誉津別命をもうけている。そして全国で唯一のコウノトリにゆかりの久久比(クグヒ)神社が低い山の北の豊岡市三江にある。狭穂姫命の後の皇后には同じく丹波から日葉酢媛命(彦坐王の子・丹波道主王の女)、妃は丹波からは日葉酢媛の妹の渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)と3人が続きそのあと他にも3名あるが本題に関係ないのでここでは割愛する。

奈良県垂仁天皇御陵

垂仁天皇は、『延喜式』諸陵寮に拠れば、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」として見える。現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。

現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かっての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。

現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。
全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。

弥生時代中期後半から末にかけての洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。ここに唐古・鍵遺跡の特質がみられる。

集落南部で青銅器の製作。古墳時代前期に衰退している。遺跡中央部に前方後円墳が造られ、墓域となる。

但馬と奈良との天日槍の因果関係の謎を解明する

ここでの本題は出石と大和に共通する三宅という地名である。奈良県三宅町と田原本町には天日槍と但馬に関わりのありそうな事跡が多いことである。
郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。
平成16年5月に『和田山町史』を執筆した筆者は、『川西町史』と『田原本町史』の古代編に惹かれていて、読みふけった。両町には、半島からの渡来人の足跡が色濃く残っていることを知った。その中には天日槍伝承をもつ氏族集団もいる。その後、同氏族に関して、

1,彼らの渡来は古墳時代のことであるのに、出石には日槍の伝承を持つ氏族の古墳と伝えられるもおのはない。ヤマトに存在するのだろうか。

2,日槍伝承を持つ氏族がヤマトへ移住するに至った理由は何であっただろうか。その間に斡旋者が介在していたのだろうか。
上記の疑問がフツフツとわいてきて、その解明に取りかかりたいと思うようになった。この思いを導き出したのは『川西町史』に盛られた諸項である。(中略)

1.大和盆地における古墳の分布状況

(大和の)主要古墳群は盆地の周辺部に集中的に分布している。ヤマト朝廷を構成した大和の古代氏族は早くにこの地を占拠して開拓し、やがてはヤマト国家の基を築く。そして巨大古墳群を築造する。

これに対し、地図の中央部、川西、三宅、田原本の三町が所在する中央部は古墳の分布がほとんどないところから、古墳の空白地帯といった感すらする。前時代までは低湿地であったため大規模な古墳を造る在地勢力の存在は考えにくいとみられていた。そこへいきなり「島の山古墳」「河合大塚山古墳」といった巨大古墳が出現しているものであるから、『川西町史』は驚きの口調をもって解説している。

「島の山古墳」は川西町の西方域に所在し、満々と水を貯えた周濠の中に大きな島が横たわっている状態にあるところから「島の山古墳」と呼ばれてきたのであった。東西から西北に延びる標高48mの微高地の北端に営まれていて、墳丘の全長190m、後円部の径98m、同高17.42mの前方後円墳である。築造時期は古墳時代前期末、年代でいうと四世紀末ごろに相当するという。200m近い規模をもつ規模で、(大和地方で)宮内庁の陵墓及び陵墓参考地や国の史跡にも指定されていないものは、この島の山古墳が唯一のものといわれており、逆にそのことからもこの古墳が大王もしくはそれに準ずる程度の人の古墳と推定されている。

しかし大王もしくはそれに準ずる程度の人びとの墳墓が集まっているとされる大和・河内の他の墳墓と大きく異なるところがある。それはかなり低地にあること、島の山古墳の一帯では同古墳につづく同規模のものが造営されていないこと、他の古墳では、その地域にすでに在地勢力が存在していたことを窺わせる小規模な古墳が存在するものであるが、またそれに続く大型古墳もなく、系譜的に断絶していることを表しているという。

では「島の山古墳」は、どのようなねらいをもってこの場所に築造したのだろうか。『川西町史』はそのことを詳しく論述している。

2.「倭のミヤケ」と川西・三宅・田原本三町域

「島の山古墳」の被葬者像については、これまでに出されている見解の多くが、「倭のミヤケ」よの関係に言及しているところから、『川西町史』でも「倭のミヤケ」との関係に解析の重点が置かれている。

ミヤケとは、「ヤマト王権が多様な目的を果たすために地方官である国造(くにのみやつこ)等の領内に置いた政治的(軍事も含む)・経済的拠点である。ミヤケが設置された歴史的意義については、ヤマト王権が初めて地方に打ち込んだくさびであり、ここを拠点に国造・伴造(とものみやつこ)などの地方官制を運用し、王権が必要とする物資の調達・集積や、よう役労働・兵役への徴発を行ったとされる(熊谷公男『大王から天皇へ』講談社)」との定義と歴史的意義を紹介したうえ、ミヤケが設置された時期は、ヤマト王権が誕生した四世紀末から、ヤマト王権の機構が整う六世紀中ごろまでの間であると述べている。

つづいて、多くの場合、それぞれのミヤケで地域や管理形態の特徴から類型化されている前期・後期の二つのタイプを挙げたのち、倭のミヤケの性格・位置・範囲等を述べている。

1)前期(開墾地系)ミヤケ

四世紀末から六世紀までに設置されたミヤケで、特徴としては大王によって開発された直轄的性格をもつことから、開墾地系といわれ、その管理は現地の国造もしくは地方豪族に委ねられている形態である。

2)後期(貢進地系)ミヤケ

その特徴は、国造等の地方豪族がヤマト王権にいったん反抗し、その後制圧されるに及んで改めて恭順の意を表すために、それまで自分が支配していた領地の一部を献上し王権のものとする。このタイプのミヤケは貢進地系といわれ、その管理については王権から直接管理者が派遣されて行われることになり、このことが律令的地方支配
の前提をなしたとされる。

川西・三宅・田原本の三町域が関係するミヤケとしては、「倭(ヤマト)のミヤケ」が考えられている。このことについて『川西町史』は次のように述べている。

「仁徳天皇即位前記には、“倭の屯田”の来歴について知っている人物として、“倭の直(やまとのあたい)”とは倭国造のことであるから、この一族がミヤケの来歴について尋ねられるということは、倭国造一族が倭のミヤケの管理を担当していたためであろう。このことから“倭のミヤケ”は前期ミヤケの一つに位置づけられる。」
(中略)
糸井造(みやつこ)や三宅連(むらじ)の出自や役割については後に述べるが、天日槍の伝承をもつ集団の中から、抜きん出て名の現れているこの両名は、造・連といった姓(カバネ)から、伴造に補せられた可能性が考えられるところから、彼らがミヤケ古墳群のいずれかの古墳に葬られていることの確証が得られたなら、天日槍伝承をもつ氏族の古墳は出石地域には確認されていないけれども、大和盆地のミヤケ古墳群が彼らの葬地ということができることになる。

ミヤケの開発に当たって、ヤマト王権は意図的にそこに渡来人の集団を設置していたことが隋所に見られる。渡来人は大陸や朝鮮半島からそれまでにない技量や知識などを携えて来ているので、その新しい技量を生かした生産活動の拠点をミヤケ周辺に構えさせて、ヤマト政権はその勢力を利用して組織や経済基盤を強固なものとする狙いがあったと考えられる。川西町域およびその周辺には渡来人に関係する神社や土木工事などの史跡がかなり濃密に分布しており、それらをつぶさに考察してみると、ミヤケの歴史的役割や意義、この地域の特色が浮かび上がってくるように思うので、改めて取り上げることにしよう。

3.三町域にみられる渡来人の足跡

さらに『川西町史』から引用させていただこう。

渡来人は朝鮮半島の情勢変化に伴い、ある程度まとまった集団を形成して来航する場合が多いと見て、その集中渡来の時期として、『川西町史』は次の三つピークを挙げている。

第一波は四世紀末から五世紀初めに、高句麗が「広開土王」の名をもつ好太王に率いられて南方に領土を拡大したことにより、主に朝鮮半島南部の人びとが五世紀前半にかけて渡来したもので、『日本書紀』では応神天皇のころにそれに関する記事が見られる。その時渡来したとされる人びとには、後に有力な豪族となる東(倭)漢(やまとのあや)氏の祖・阿知使(あちのおみ)主や西文(かわちふみ)氏の祖・王仁(ワニ)、秦氏の祖・弓月(ゆづき)君がいる。この時伝えられたとされるものや渡来談話を見ると、本来この時代にはないものがあるので、次に紹介する第二波の渡来に関係した氏族が、自分たちの始原を古いものであると示すために作った説話がかなり混じっている可能性がある。しかし第二波の渡来人を「今来(いまき・新しくやって来たの意)の漢人」と呼び、東漢氏や西文氏、秦氏が支配下においていることから、やはり五世紀後半以前に日本列島に渡来し、ヤマト王権のもとに組織されていたグループがあったものとされている。その人たちの出身地は、東漢氏や西文氏の場合は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)(『日本書紀』では任那)、秦氏は新羅と考えられている。

渡来の第二波は、五世紀後期に高句麗が百済の漢城(現ソウル)とう都を陥落させたことにより圧迫を受けた多くの人びとの渡来が顕著な時期で、『記・紀』にいう雄略天皇の治世に当たる。この時期の渡来人は須恵器や鞍(くら)といった生活や武具関係の工業技術を持った人びとが多く、ヤマト王権は東漢氏や西文氏等の渡来氏族の支配下に置き、部民制をとり陶部(すえつくりべ)や鞍作部(くらつくりべ)という職業部を組織し、労働と製品を確保する体制をとった。

渡来の最後の波は、七世紀中ごろになり、唐が勢力を拡大し、それと組んだ新羅が強大化することで、高句麗・百済が相次いで滅亡し、白村江(はくすきえ)の戦いで敗れ、王族も含む各種の階層の人びとがわが国に政治亡命してきた時期である。
渡来人が太子道沿いの地域に設置され、その技術を活用して開発や生産が行われたことを示す列証を『川西町史』が挙げている。

田原本町には鏡作りに関係する神社として、『延喜式』では鏡作伊多神社(祭神の石凝姥命は鏡製作に関する守護神)、鏡作麻気神社(祭神の天糠戸命は鏡作氏の祖神)がある。鏡作りは、弥生時代後期後半から唐古・鍵遺跡にいた銅鐸鋳造の技術者集団が、五世紀初めに新羅から伝えられた鋳造・鍛造技術を吸収していったとされ、その技術集団は倭鍛冶(やまとかぬち)と称し、この集団が鏡作氏んいつながる(『田原本町史』)。

また工芸品の製作技術だけでなく、大規模な土木工事に生かす技術も渡来人によってもたらされ、その技術によって造営されたと考えられる池についての伝承もある。『日本書紀』応神天皇七年九月の条に、「高麗人・任那人・新羅人、並びに来朝り。時に武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて、池を名づけて韓人池(からひといけ)と号ふ」とある。

川西町域にも渡来人の活動を推定させる史跡が二つある。糸井神社と比売久波(ひめくわ)神社である。現在は結崎市場垣内の寺川の右岸に鎮座する。『奈良県史』は、「古来、当社の祭神や創祀について諸説があって判然としない面もある」としている。糸井神社の社務所が出している「由来について」には、「ご祭神については豊鋤入姫命、また一説には綾羽呉羽の機織りの神とも伝えている」と微妙な表現をしている。豊鋤入姫命とは、崇神天皇の時代にそれまで宮殿に祀られていた天照大神を、倭の笠縫邑に移して祀らせた祭にその祭祀を託されたとされる姫命である。

糸井造と三宅連

出石に落ち着いてからヤマトへ移ったとみられる天日槍伝承をもつ氏族の中から、名前の現れている者に糸井造と三宅連がある。9世紀初めに撰集された氏族の系譜書である『新撰姓氏録』の大和国諸藩(特に朝鮮半島から渡来してきた氏族)新羅の項の中に「糸井造

新羅人三宅連同祖天日槍命の後なり」とある。また三宅連については右京諸藩と摂津国諸藩の項に、「三宅連 新羅国王子天日鉾(木へん)の後なり」とある。両氏族とも天日槍命を同祖とする新羅系渡来人である。『川西町史』は、この姓(カバネ)を与えられた氏族は五世紀末におかれた新しい型の品部(王権に特定の職業で仕える集団)を掌握する伴造であり、より古い型の品部を掌握する連姓氏族より概して地位は低かった。以上から三宅氏の「三宅」が前述の倭のミヤケを指し、そのミヤケの管理を担当した有力な氏族であるとすれば、糸井氏と三宅氏の関係は、三宅氏が天日槍の直系の子孫に当たる氏族で、その三宅氏から分かれた一分族が糸井氏であると推測できる。

三宅氏の姓が倭の三宅に由来するのか、但馬国出石郡(豊岡市)三宅のミヤケ地名に由来するのかについては断定できないけれども(中略)、「糸井造」も同様に但馬の糸井(旧養父郡糸井村・現朝来市)に由来すると但馬の人たちは考えているだろう。

豊岡市三宅は、旧名穴見村で、土師口という字がついたバス停があり、天日槍ゆかりの神社は円山川とその支流域である出石郡・城崎郡・気多郡・養父郡に集中しており、また兵主神社という兵団もしくは武器庫を意味する神社が全国的に多くはないのに式内兵主神社がこの4郡に7社もある。その中で大が冠せられているのは式内更杵村大兵主神社(養父郡糸井村寺内字更杵=現朝来市寺内)だけだが、更杵神社以外にも村が分離して近世にいたり、更杵集落が衰退し当社は取り残されて荒廃していた。幕末の頃、当社の再建と移宮をめぐって寺内と林垣の対立があったが、結局、現在地に遷座された。室尾(字更杵)には式内桐原神社がある。古社地は不明だが、かつての更杵集落は、現在の和田山町室尾あたりであったという。

また同じ更杵村(寺内)には、佐伎都比古阿流知命神社という式内社がある。この神社は、中世には山王権現を祭神とし、山王社と呼ばれていたが、主祭神は、社号の通り、佐伎都比古阿流知命。『日本書記』垂仁天皇八十八年紀に以下の一文がある。「新羅の国の王子、名を天日槍という」と答えた。その後、但馬国に留まり、但馬国の前津耳の娘・麻挓能烏を娶り但馬諸助を産んだ。この前津耳が、佐伎都比古命であり佐伎都比古阿流知命は、その妻であるという。一説には、佐伎都比古命は前津耳の祖であり、佐伎都比古阿流知命は、佐伎都比古命の御子であるという。いずれにしろ、延喜当時の祭神は、佐伎都比古命と阿流知命の二柱だったのだろう。

『古事記』には、「昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚した」としている。であるから、佐伎都比古命は天日槍で阿流知命は阿加流比売神(アカルヒメ)だと思う。

この神社の祭神がヤマトへ渡って糸井造になった人と関係があるように解するのは、『校補但馬考』の著者の桜井勉である。「日槍の子孫、糸井姓とせしもの漸次繁殖し、その大和に移りしものは、大和城下郡に糸井神社を建立し、但馬に留まりしものは、本郡(養父郡)にありて本社(佐伎都比古阿流知命神社)を建立し、外家の祖先を祭りしものならんか」としている。実のところ、よく分からないというのが本音といってよかろう。

ただし、日槍伝承をもつ集団の子孫が大和と但馬に分かれ、大和へ渡った者達がヤマトに糸井神社を建立、但馬に残った者達が寺内に佐伎都比古阿流知命神社を建立したとは考えられるところである。豊岡の三宅に落ち着いた者達についても同様の経過があったとみれば、豊岡市の人たちは納得が得られよう。(中略)

更杵村大兵主神社は中世にはほとんど廃絶に近い状態となっていたのだろう。このため明治期の式内社指定からははずれ、隣の林垣区の十六柱神社が式内社に指定医されている。いまでは寺内区の七、八戸が氏子となって更杵神社と称する小社を建立し、寺内区内に祀っている。

以上のように、更杵村という小さな村の村域とその隣接地に三社もの式内社が存在していたというのは、更杵村が古代にはきわめて重要な役割を果たしていたことを物語る証であろうか。円山川を隔てた対岸に但馬最大で近畿地方でも5本の指に入る規模の前方後円墳である池田古墳が存在している。但馬の首長が埋葬されたのではないかといわれているが、そのお膝元ともいっていい場所に更杵村は存在する。この地理的条件が、更杵村に多くの式内社を存在させる理由になったと考える。

この場合、畿内中枢部から派遣されてきたヤマト王権の首長が、天日槍伝承集団の分派をヤマトへ移住させる仲介役を果たしたとの仮説を立ててアプローチしてみてはどうだろう。

中島神社が鎮座する豊岡市三宅はかつては出石郡神美村ですぐ北に隣接する出石郡穴見郷には、穴見郷戸主大生部兵主神社(出石郡穴見市場村=現豊岡市市場)がある。奥野にはもう一つの大生部兵主神社があり、一説に、弘仁元年(810)、当地に兵庫を建て在庫の里と呼ばれて兵主の神を祀り、兵主神社と称したという。後に、有庫兵主大明神とも称し、奥野と穴見市場の二村の産土神であったが、中古、二村が分離したため、市場にもう一つの穴見郷戸主大生部兵主神社と有庫神社を祀るようになったようだ。

どちらも中古からいくたびか分離のたびに遷座もしくは並立されており、それだけ由緒がある証しだ。

また、出石郡但東町薬王寺にも大生部兵主神社があり奥野とともに論社であるとしている。出石町鍛冶屋には伊福部神社、気多郡伊福(いふ・現豊岡市日高町鶴岡)という鍛冶に関わる神社・地名が残り、入佐山古墳の石棺からは被葬者とともに納められたであろう砂鉄が見つかっていて、鉄に関わる渡来系の由来が残るのである。

天日槍伝承をもつ集団のヤマト移住先は大和盆地の中央部、川西町など三町域のあたりだろうということは前に述べた。ヤマト王権の支配という面から見たこの辺りの政治・経済的な立地条件について『川西町史』は、次のように述べている。「この地が五世紀のヤマト王権の直接的な支配が及ぶ最先端部にあたり、それまでほとんど手つかずのまま残されている広大な平地であったため、灌漑・水利の面等で新しい技術やそれを身につけた人たちを投入すれば、未開の低湿地は肥沃な耕地に生まれ変わり、王権にとって重要な経済的拠点になる、ということである」。

天日槍の伝承をもつ集団はこの地に打ってつけの人たちであったことが理解できよう。この地に投入された人を語る一つになるか知れないのが、大和盆地に散在する国名集落である。三宅町には上但馬・但馬といった地名が現存する。同町には他の国名集落として石見・三河が存在する。

(中略)

以上のような展開は、五世紀初頭のころを意識して想定を試みた。以上のような空想的経過が、もし部分的にも認められるところがあったなら、天日槍の(円山川開削という架空の)開発伝承は、但馬では神話という架空に近い単なる物語であるけれども、大和盆地においては彼らの活動が実施に移された史実であったということができよう。

実はこの投稿を見たのが昨日であった。しかし、それまで勝手に素人で数年間進めてきた但馬史というほどのものではないが、歴史探索は遠からず近いものであったと思う。田原本町に但馬や石見・三河などという国名地名があることは少年時代から地図好きだったので不思議に思って知っていた。

おそらく『記・紀』編集当時、このようなヤマトに根付いた地方集団の伝承を多く取り入れたのではないかと考えれば、神功皇后や崇神・垂仁天皇などの時代の主たる節目に当たり、丹波(但馬・丹後を含む)が頻繁に登場することがむしろ納得がいくのである。

(一部補正しています)

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弥生文化圏の成立とタニハ

『倭の古王国と邪馬台国問題上』 著者: 中島一憲から。

三千年前からはじまって二千五百年前に「真冬」となる大気候の寒冷期は、紀元後八世紀(1300年前)まで続き、ちょうどこの時期に「製鉄」が世界に普及するので「鉄器時代初期の寒気」と呼ばれている。

二千五百年前といえば列島では縄文晩期の「葉畑・曲り田段階」である。列島の平均気温は現代より二度低く、11度ほどであったという。

早期稲作が瀬戸内海地方や東北地方に始まったことを考えると、この時期に西北九州地方に稲作が普及するのは、「渡来人」が新たに優れた(水)稲作技術を朝鮮半島からもたらしたからではなく列島の大気候の寒冷化と関係があるのではないだろうか。
だが「鉄器時代初期の寒気」には、世界的にも紀元前後を通じて例外的に温暖な時期があった。

中国大陸では戦国時代のはじめ(紀元前403年・2400年前)から、後漢時代のはじめ(紀元25年・2000年前)までのおよそ400年間が寒冷期の谷間の温暖期となった。日本では尾瀬ヶ原の泥炭層の花粉分析の結果、紀元前約400年から紀元20年にかけて「弥生暖期」の名がつけられている。

しかし、つかの間の温暖期も大陸の内陸部から崩れはじめる。中国の文献には、すでに紀元前1世紀から内陸部に寒冷化と乾燥化が同時進行し、旱害とと鍠害と飢饉と疫病がきょう奴の社会文化を壊滅させたことが記録されており、紀元48年の南北分裂後、南きょう奴は後漢に帰順したが、北きょう奴は91年の後漢の攻略によって西方へ逃散し、古代中国史から姿を消している。

黄河流域の中原(ちゅうげん)でも後漢の桓帝(147~167年)の時代の184年には数十万人の飢餓農民の反乱である「黄巾の乱」が勃発する。

ちょうどこの時期が『後漢書』「倭伝」や『太平御覧』にのる『魏志』逸文に記録された「倭国大乱」という列島の内乱時代と重なっているのは、列島の大気候が寒冷化したためか、大陸の動乱の直接・間接の影響によるもの寡欲検討する必要がある。列島の本格的な「冬」はもう少し遅れて240年ころに始まったとされているからである。

大陸内陸部の冷涼寒冷化は黄河中原の冷害はまだ予兆的なもので、魏王朝(220~264年)時代の225年には黄河と長江(揚子江)の間を流れる准河(ワイガ)が凍結し、227年には「連年穀麦不収」という記事がある。

弥生時代600年間の列島の大気候は、前半暖かく後半はやや寒かったと要約できるだろう。

豊葦原の瑞穂の国

佐原真氏は、福岡県遠賀郡水巻町立屋敷遺跡は福岡県中央部を北流して響灘に注ぐ遠賀川の川底にある。1931年、この遺跡から豊富な文様をもつ弥生土器が発掘され、遠賀川式土器と命名された。

その後の発掘調査で、この土器は弥生前期(紀元前300~同200年)に太平洋側では愛知県西部の名古屋、日本海側では京都府丹後半島を東限とする西日本一帯に分布していることがわかった。

この土器が出土する遺跡にはコメや稲もみ、農具類が伴出するので、この土器は農民の生活道具であり、遺跡の性格は農村集落であるとされている。

ところが1982年ごろ、青森県八戸市松石橋遺跡で「遠賀川式と見まごうばかりの完全な壺が発見されて以来、八戸市是川、山形県酒田市地蔵田B、秋田市生石2、福島県会津盆地の三島町荒屋敷などの遺跡でも、続々と遠賀川式そっくりの土器が出土した。

なかにもみ跡がついているものがあり、東北でのこの時期の水田遺跡の発掘が期待されていたが、1187年に弘前市砂沢遺跡でその水田が発掘された。
このようにして日本列島では弥生前期には、すでに北は青森県から南は鹿児島県にいたる稲作と土器を共有する文化圏が成立していた。北海道と南西諸島、沖縄を除く本州、四国、九州がきわめて均質な稲作文化圏を形成しているのである。(佐原2000)

記紀の神話で、天照大神が孫のニニギノミコト(邇邇芸命)を降臨させた、豊葦原のチアキナガイホアキ(千秋長五百秋)の水穂國(瑞穂国)、アシハラノナカツクニ(葦原中国)というのは、おそらくこのように水稲耕作が普及した時代の日本列島主部のことだろう。(中略)

主な縄文前期の遺跡

■縄文草創期~早期(1万2千年前~6千年前)
紀元前8000年頃
静岡県富士宮市若宮遺跡(最古の集落)
福井県三方郡鳥浜遺跡(海港・農耕遺跡)
島根県隠岐諸島島後宮尾・中村湊遺跡(黒曜石コンビナート・海港)
京都府京丹後市丹後町平遺跡(海港)
同 6000年頃
函館市函館空港遺跡(大規模定住集落)

■縄文前期(6千年前~5千年前)
紀元前3800年
山形県米沢市一の板遺跡(石器のコンビナート的集落)
東京都伊豆諸島八丈島樫立(海港)
長崎県多良見町伊木力遺跡(海港・丸木船出土)

京都府京丹後市峰山町は、丹後半島を流れて日本海に注ぐ竹野川の中流域に位置する。そこの扇谷遺跡は深さ4m、最大幅6mの濠が直径270m、短径250mの範囲をめぐる弥生時代の前期後半から中期初頭にかけての丘陵上の環濠遺跡である。
濠の底から土器、碧玉やメノウなどの玉造りの遺物とともに鉄斧と鉄滓が出てきた。鉄斧は鋳鉄で原料は砂鉄ではないかと考えられている。

「チタン、バナジウムの量が多く、砂鉄系の原料を使った可能性が強い。鉄滓も砂鉄系の鍛冶滓の感じがする」ということであるから、私は弥生前期後半にはすでに列島内で砂鉄原料による精錬製鉄が行われていたと考えている。

この峰山町を含む丹後半島一帯は「記紀」伝承に登場する「丹波の県」の地であり、古くからひとつの政治文化圏を形成していた特別な地域である。ここには今に残る「丹波」という小字があるし、隣の弥栄町との町境にまたがる4世紀後半の大田南五号墳からは、1994年に紀年銘鏡としては最古の「青龍三年」(235年)という魏の紀年銘のある青銅鏡が出土している。

また弥栄町の遠所遺跡では1987年に、いまのところ列島最古とされる五世紀末のタタラ・コンビナート遺跡が発見されている。

森浩一氏、門脇氏は、

さらに峰山町には、扇谷遺跡とほぼ同時期の途中ヶ丘遺跡という高地性集落がある。扇谷遺跡から2km程しか離れていない。「これほど接近して二つの大きな高地性集落があるところなんて、全国的にもまれ」である。

そしてこれも同時期に、弥栄町には奈具岡遺跡という「弥生中期の玉造り遺跡があって、緑色の凝灰岩に加えて、そんなに古くから水晶が使われていたのかと思うほど、たくさんの水晶の玉を造っている。

竹野川上流にある「大宮町には弥生時代の小さな古墓がたくさんある。ガラスの玉がたくさん(7~8千)出て、それがブルー系のきれいなガラス玉なんです。弥生時代に限れば、ガラス玉があんなにたくさん墓から出るところは珍しい」(森浩一氏、門脇氏)。

こうしてみてくると、古代タニハ国は、弥生中期から砂鉄製鉄を行ってきた伝統的な「工業国」で、八世紀の『古事記』に「大県主」として記録されたユゴリの名は、門脇氏が指摘されるように「湯凝」すなわち、哲也青銅などの金属素材を熱で溶かして精錬した四世紀代の技術集団の指導者の名ではなかったか。

またヒコ・ユムスビのユブスビも「湯結」すなわち製鉄王の孫にふさわしい命名だと思われる。このようにして弥生中期以来、製鉄とガラス工芸の一大コンビナート地帯であったことがうかがえる仮称「タニハ国」は、三世紀末には畿内の大王と緊密な関係を結ぶようになる。

もちろん「記紀」に基づく系図は後世的なものでとりわけ婚姻関係や血縁関係をそのまますべて史実とするわけにはいかないが、伝統的な政治関係がそこに投影されていると考えることはできるだろう。

私はそのことからさかのぼって、弥生中期の仮称「タニハ国」は、日本海と近畿の中心を関係づける重要な軍事的・経済的戦略拠点として栄えたのではないかと想像している。

これも後世のことになるが、「大和へ結ぶ道も、丹後(タニハ)には、現在のように京都市から出ていく道と、丹後の加悦谷から福知山の方へ出て、山越えで神戸の垂水に出る。系図で見たタケトヨ・ハズラワケの母のワシッヒメは葛城垂見宿禰の娘とされているが、垂見は垂水でしょう。そして大阪湾をわたって堺から上陸し、葛城に出る。このルートの意味をもっている。

「そういう点で、丹後(タニハ)というのは、古くは、大和からいえば、西の瀬戸内へ出ていくルートに加え、近江を経て敦賀へ出るルートとは別に、かなり重視されていたと思っているわけです」(門脇氏)。

門脇氏はそれを古墳時代のこととして述べておられるが、弥生中期の近畿中心部の発展状況と、仮称「タニハ国」

の発展状況に技術的な格差が見られないことや、仮称「タニハ国」の地政学的条件から考えると、私は両者の緊密な関係はすでにこの時期からはじまっているのではないかと思うのである。

丹後町竹野遺跡で、弥生前期の地層から外洋とつながる直径1kmほどの潟湖が見つかった。同じ地層から大陸製と思われる磁器も出土し、個々に古くから開かれた港市国家が成立していたことが裏付けられた。

拙者はこの野田川から元伊勢神宮を通り天田郡(福知山)から由良川上流、石生(水分かれ)という日本一低い分水嶺からそして加古川へというルートが信憑性があると思う。またこのルートと前後してまた別のルートでより近い但馬・出石の沖の気比から朝鮮半島に出向いていたとも考えられる。天日槍や神号皇后のルートにほぼ一致していることが、記紀が単なる神話ではなく、当時のヤマト政権の勢力範囲を示していると考えられるからだ。

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渡来人の活躍が蘇我氏の成長をもたらした

関裕二氏は、『古代史謎解きの「キーパーソン50」』で、蘇我氏についてこう記している。

蘇我氏の業績

蘇我氏の全盛期は、蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代である。六世紀後半から七世紀前半にかけてのことだ。その基礎を築いたのは、馬子の父・稲目が娘たちを盛んに入内させ、天皇家と強い姻戚関係を結んでいった。この稲目の蒔いた種を刈り取ったのが、蘇我馬子で、用明、崇峻、推古という蘇我系の天皇を立て、この間大臣となって活躍した。

蘇我馬子の功績は、日本で最初の本格寺院・法興寺(飛鳥寺)を建立したこと、推古天皇と二人三脚で政局を動かし、聖徳太子と共に改革事業に邁進したことであった。憲法十七条や冠位十二階は、聖徳太子の功績として名高いが、蘇我馬子の後押しがなければ、到底成し遂げることはなかったのである。また蘇我馬子は娘を聖徳太子や舒明天皇に嫁がせ、盤石な体制を築いた。

蘇我氏は渡来人か

蘇我氏の出自は明らかになっていない。なぜ六世紀、彼らは忽然と権力の中枢に上りつめたのだろう。

『古事記』によれば、蘇我氏の祖は武内宿禰(たけのうちのすくね)で、この人物は孝元天皇の孫のあたる(『日本書紀』には曾孫)のだが、この記事はあまり重視されていない。一般に蘇我氏は渡来系ではないかと考えられているからだ。その理由は、蘇我氏が渡来系の工人を支配下において力を得たこと、蘇我氏のその中に、渡来系を連想させる人物が登場しているからである。
まず、蘇我稲目の祖父の名は韓子(からこ)、父は高麗(こま)で、どちらも朝鮮半島の「韓」「高麗(高句麗)」の名を負っている。
武光誠氏は、『大人のための古代史講座: 常識としてこれだけは知っておこう』のなかで、
六世紀には、地方豪族の多くがヤマトの文化の高さを認識し、ヤマト王権を中心に日本をまとめていくほかないと考えるようになっていったなかで「磐井の乱」が起こった。(中略)
「磐井の乱」については別項にゆずるが、
飛鳥時代の直前にあたる六世紀初めに、朝廷の勢力図に大きな変化が起こった。同等の十数個の豪族の集合体であった朝廷が、一、二の有力豪族のもとに秩序づけられていったのだ。この体制は、のちの藤原政権へと連なっていく。

ヤマト王権は、四世紀末に西日本をほぼその支配下におさめた。そして、朝鮮半島に軍勢を送って
五世紀の朝廷の構造と六世紀の朝廷のそれとが大きく異なることが注意する必要がある。

五世紀の王室は有力な王族の連合体であった。王族たちは各自の宮を構えて自立しており、王位をめぐって勢力争いをくり返していた。中央の豪族たちは、そのような王族と離合集散をくり返しながら自家の勢力を強めていこうとしていた。

そのため、五世紀には群を抜く実力をもつ豪族も現れなかった。ところが、六世紀初めに継体天皇(大王)が王位についたことをきっかけに、王位を嫡系で継承していく習慣ができ、大王を補佐する者が大きな権力を保有するようになった。

六世紀初めには、大伴氏と物部氏が諸豪族を支配下におさめて朝廷を動かした。ところが、大伴金村が外交上の失敗で失脚すると、蘇我稲目がそれに代わって力をもつようになった。
六世紀末には、物部氏が蘇我氏によって討たれたが、七世紀半ばの大化改新で蘇我氏は衰退し、七世紀末に藤原氏が成長してくる。
蘇我稲目は、今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人の意)である王辰爾に難波の津の船賦(ふねのみつき・港湾税)を徴収させた。また、彼の甥に当たる胆津に命じて吉備の児島に広大な王室領を開発させた。このように、朝廷の財政を富ませることによって、蘇我氏は成長していったのである。

『日本書紀』は、五世紀末の雄略天皇のときに、東漢掬(やまとのあやのつか)が百済から来た今来漢人陶部(いまきのあやひとすえつくり)や鞍部(くらべ)を大和国高市郡に安置したという。また同じころ、180種の勝(すぐり・渡来系の小豪族)を秦氏に与えたと伝える。

しかし、蘇我氏はしだいに東漢、秦という渡来系の配下にない今来漢人を自己の管理下に組織して成長していった。
六世紀半ばまでは、中央豪族の構成員は、各自で館を営んでいた。ところが、六世紀末に個々の豪族の代表者の勢力が強まった。『日本書紀』は蘇我蝦夷、入鹿の父子が甘樫丘(明日香村)に大王の物に並ぶ壮大な御殿を造ったことを伝える。蘇我一族をまとめるには、朝廷並みの政治機構が必要だったのだ。
このとうな豪族勢力のなかで、支配層の服装は華やかなものになっていった。五世紀末にようやく、渡来系の工人が質の良い絹織物をつくり始めた。『日本書紀』は、五世紀末に活躍した雄略天皇が蚕を集めさせ、さらに身狭青(むさのあお)と言う者を江南に送り、呉服と呼ばれる綿や綾を織る中国人の工人を招いたと伝える。
しかし、豪族たちが華美な服装を競い合うのは好ましくない。そこで、聖徳太子が活躍した七世紀初頭に、服装に関する規則がいくつか作られた。たとえば、中国からの使者を迎えるときは、豪族はその冠位に応じた色の服を身につけよと命じた。
冠位十二階制定時に用いられた冠は、さまざまな色の織物を用いたぜいたくなものであったが、七世紀末になると位冠と呼ばれたそのような冠の着用は禁じられ、黒絹でつくった素朴な冠が使われるようになった。

蘇我入鹿と物部の関係を証明する『先代旧辞本紀』

『日本書紀』や教科書で習う限り、仏教派の蘇我氏と神道を残したかった物部氏は争いで衰退したかのように思えてくる。だが、物部系の『先代旧辞本紀』によれば、物部守屋は傍流であり、物部の主流派は生き残ったと記されている。それどころか、物部氏はこの時代、蘇我氏と姻戚関係を結び、協調体制を取っていたと記している。またこの文書は、蘇我入鹿に物部の血が入っていることを誇らしげに記録しているのである。

この物部側の証言は、大きな意味を持ってくる。なぜ大悪人蘇我入鹿と物部の関係を、物部自身が強調しているのだろう。ここに、七世紀の真実を解き明かす、ひとつのヒントが隠されている。『古事記』は蘇我氏の祖が物部氏の女系から生まれていたと支持している。蘇我氏の七世紀の特権の一つに「方墳」があった。蘇我氏の墓ではないかという飛鳥の石舞台古墳の土台が四角形なのがこれだ。そして日本で唯一方墳をつくれたのが出雲国造だった。蘇我氏が出雲=物部と同族だったからこそ、物部の伝承は蘇我氏を自慢している。

また蘇我氏が仏教支持派にまわったとされるがよくわらない。蘇我氏はスサノオとの関係が指摘され、それは出雲の偉大な神である。蘇我氏も物部氏も祖は出雲神としている。
大化の改新の前夜乙巳の変で討たれ、蘇我入鹿を悪人にされる。

関裕二氏は、
のちに藤原不比等が『日本書紀』を編纂した理由として、物部氏や蘇我氏の功績を後世に残してしまえば、「藤原氏の野望」の正当性が崩れ去ってしまう。乙巳の変、大化改新の本質を以下に改竄するかであり、不比等の父・中臣鎌足の出自をごまかすことにあった、としている。

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初代天皇と物部の関わり

『古代史の秘密を握る人たち: 封印された「歴史の闇」に迫る』 著者: 関裕二によると(一部改訂)、
『日本書紀』の記述に従えば、神武天皇は今から二千年(2600年)以上も前にヤマトにやってきて、一大王朝を築いたということになる。しかしそうなると、縄文時代突入してしまい、このころ日本列島の大半を統一したことなど考古学的に想定できない。そこで、神武天皇は一種の「神話」だった、という発想につながる。では本当の初代の大王は誰かというと、崇神天皇が濃い、ということになる。年代的にはこちらの方が相応しいからだ。
その一方で、神武と崇神は、もともとは同一人物だったのではないか、とする有力な説もある。なぜかというと、二人とも「ハツクニシラスノミコト」と記されているためだ。神武天皇の場合、ヤマト入りの直後から晩年までの間に、ぽっかりと記事が抜け落ちていて、逆に崇神は、即位直後の記事が希薄で、二つの記述を合わせて一つの記事になるのではないか、というのだ。
この奇をてらったかのように思える推理も、考古学的には裏付けが得られるのだが、気になるのは二人のハツクニシラス天皇(まだ大王であるが名称だけでその内容に変わりはないのため、一般的に天皇とされているので、以下天皇と記す)と「出雲」の関係なのだ、と記している。
その前に、近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。
7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち唐の高宗皇帝の用例の直後とするのが、平成10年(1998年)の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。それ以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていた。
いろいろ調べるうちに、各地方の大国主のような大王が、ヤマトの纏向に宮を立ててヤマト王権が成立する。そしてその中から選ばれた大王を、「治天下大王または天王」とかのではなかろうかと思っている。
本題に戻る。
神武天皇はヤマトに入ってから物部氏の祖・ニギハヤヒ(饒速日命)は野卑の一族から王権を禅譲され、出雲神(物部系)の娘の妃に選んでいる。一方神武天皇は、出雲神の祟りに悩まされ、のちに出雲神を手厚く祀っている。(中略)
ヤマト建国と前方後円墳
神武と崇神の問題は、ヤマト建国とは何かという問いかけでもある。考古学の進展によって、これまで三世紀末から四世紀初頭と思われてきた前方後円墳の出現が、三世紀半ばのものと分かって、ヤマト建国もこの頃と考えられるようになったということ、そして、いくつかの地域の埋葬文化を寄せ集めて完成したということだ。
次に前方後円墳の出現年代が繰り上がったのは、これまで三世紀後半のものと思われていた副葬品の鏡が、実際には三世紀半ばのものであったことがはっきりしたからだ。秀麗な姿で名高い箸墓古墳も、このころつくられていたことが分かってきた。纏向遺跡や箸墓は、邪馬台国論争でも取り上げられるようになって、卑弥呼の墓ではないかとも疑われ始めている。邪馬台国は二世紀後半から三世紀にかけてのことで、卑弥呼の死が、ちょうど三世紀の半ばのことだったからだ。
前方後円墳のもうひとつ大切なことは、西日本のおおよそ四つの地域の埋葬文化が集合したということで、それはヤマト・出雲・吉備¥北部九州だった。
具体的には、ヤマトの方形周溝墓の周囲をめぐる溝が前方後円墳の堀に、出雲の四隅突出型墳丘墓の四角い出っ張りが前方後円墳の「方」に、また、吉備の特殊器台形土器と北部九州の鏡が採用された、という具合である。
こうしてみると、前方後円墳の意味というものがはっきりしてくる。前方後円墳はその巨大さが「売り物」だが、一見して強大な権力の象徴のように見える代物が、実際には天皇(大王)の弱さを象徴していたということになる。西日本の四つの地域(国)の首長がそれぞれの埋葬文化を寄せ集めて、合意のもとで新たな王権が生まれたからだ。
そしてここからが大切なのだが、この前方後円墳がヤマトから東方に向けて混乱なく一気に広まっていった点がヤマト王権の性格を明らかにしている。四世紀、前方後円墳は東北南部まで広まっていった。しかもそれは、ヤマト王権の武力による征服とはとても考えれず、そうすれば、東国がヤマト王権を追認し、平和裡にその枠組みの中に収まったということになる。このようなヤマト王権誕生のいきさつが分かってきてみて初めて、神武天皇と崇神天皇の正体というものが理解できてくる。
神武・崇神の二人の「ハツクニシラス天皇」の業績を重ねてみることで、ヤマト建国の過程を正確に再現できることになる。とすれば、二人の初代天皇という『日本書紀』の不可解な記述は、本来一人の業績であったものを、わざわざ二人に分けてしまったというのが本当のところらしい。
それにしても、なぜ『日本書紀』は、こんな手の込んだカラクリを用意する必要があったのだろうか。
一つの理由は、ヤマト王権誕生時の「天皇家の弱さ」というものをひた隠しにしたかったからだろう。そしてもっと重要なことは、「出雲」や「物部・蘇我」の歴史に占める大きさを秘匿したかったからではなかったか。としている。
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【もう一つの日本】秦氏 日本の文化経済発展の先導者たち

「秦野エイト会 」さんのサイトとでなるほどと思った。というのはスサノオやニギハヤヒ、アメノヒボコも、天皇家の史書「記紀」の中で主役から遠ざかってるが、地名や神社に秦氏や漢氏に関するのではないかと感じられるものが散見し、物部氏系と秦氏の関係がよくわからなかったからである。というのも、秦氏に関しては史料が少なく、知っているのは京都の太秦や広陵寺、八幡神社、丹波の武家・波多野氏などは秦氏ではないかという程度だったが、「はた」や「あや」ではじまる地名は全国的にみられるが、これは渡来系有力豪族の秦氏と漢氏によってつけられたものが多い。

大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織・酒つくりなどの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。

この氏族に出自を有するとされる後代の有名氏族としては、薩摩の島津氏 対馬の宗氏、四国の長曽我部氏、伏見稲荷社家、松尾神社社家、雅楽の東儀、林、岡、薗家らの楽家と称される氏族などである。
一般的には、日本各地の富裕な土豪として各地の殖産事業に貢献したとされている。

また京都府・丹波地方に多い「部」のつく地名、姓も秦氏と強い関係があるとされている。
例えば戦国武将「物集女氏」、丹波出身の「波多野氏」。また「綾部」「園部」「六人部」「物部」「曽我部」「土師部」など職人部にあたる地名が多く残っている。但馬・丹後にも秦氏とゆかりのありそうななどの地名が多い。綾部は昔は「漢部」と書いたという。「郡是」の地名があり、この地に誕生し名をとった「グンゼ」となった。

元は同じ丹波だった丹後には、「加悦(カヤ)」「六万部」(与謝郡伊根町)、「辛皮(カラカワ)」(粉ザンショウ、辛皮(しんぴ)かも)、「畑」(久美浜町)にもある。
伽耶に通じる豊岡市加陽(カヤ)、「加悦(カヤ)」(与謝野町)、福知山市三和町加用(カヨウ)、南丹市美山町萱野(カヤノ)
但馬には阿羅伽耶(安羅)に通じる安良(出石町)、安牟加(アムカ)神社、韓国物部神社、畑上、飯谷(はんだに)、但東町唐川、畑山、朝来市物部
古寧伽耶(居昌(コチャン)に通じる石生、射添(イソウ、読み同じ)、小伽耶(慶尚南道固城郡(コソンぐん))に通じる小代(オジロ)

京都の中心にある上賀茂神社、下鴨神社、嵐山の酒の神・松尾大社、南の伏見稲荷、大分県の宇佐八幡などの八幡神社などは全て秦氏の勧請とされている。これらの神々は、新羅に仏教が伝来する以前の古い神々であるようです。秦氏の末裔はこれらの社家となった。

奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である藤原京や、唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされる平城京や長岡京・平安京を造営したのも秦氏・漢氏の財政面とノウハウだろう。中央で伊勢神宮や法隆寺・四天王寺・東大寺の大仏などの社寺の巨大な建物の建造にも寄与したとされる。
またこのころ秦氏をはじめ有力渡来系氏族は、主に書紀では外来系使節の翻訳仲介者・導者あるいは、遣隋使・遣唐使など外国へ使節としてみられることが多い。外来系使節への仲介、外国使節などを通して、秦氏等の渡来系氏族は、諸外国の技術・知識を調べ出すことを、当時の政権のため、あるいは氏族自身の朝廷での優位性をたもつために、熱心におこなっていただろうことが想像される。

kitunoの謎シリ-ズで、
縄文時代以来、日本にはすべての「もの」に神が宿るという「アミニズム」が存在していましたが、このアミニズムと秦氏が持ち込んだ「神道」が結びついて、「日本神道」が生まれたのではないでしょうか?
と言うのは、神社と言うのは日本の文化そのものと思っていたが、 何と京都や全国に神社を作ったのは、秦氏らしいのだ。
秦氏の宗教は、もともと景教と言われているから、 古代イスラエルの風習が日本の神社の風習になっていると言うのだ。

この説は納得できる。もともと、神が宿る山・川・木・磐座(いわくら)などを祀る神域に社はなかった。秦氏が持ち込んだ信仰・建築技術で社殿をつくるようになったのだ。そのころから神社は、自然物や自然現象を神格化した「精霊信仰」から、祖先はすべて神となり、自然現象を司り、子孫を見守るとするものである「祖霊信仰」へと発展した過程と合致している。

「秦氏が日本の文化・経済発展のルーツか?」
「秦野エイト会 」さん
秦野の歴史を調べると、日本の歴史になってしまう。 どうも秦氏は政治の表舞台に出ないで経済面や文化面で活躍しているらしく、 目立たないのだが日本の経済や文化のルーツらしいのだ。
戦後の首相の名前すら覚えられないのに、歴史教科書で時の政治面での権力者の名前を覚えても あまり意味がないのではないか。
歴史教科書には出てくる政治面の権力者(=さまざまに変化する)の歴史ではなく、 歴史教科書には出てこない経済面・文化面の権力者(=秦氏)の歴史を追って見たい。
政治的な権力なしになぜ秦氏が経済面・文化面の権力者になれるかが不思議な点であるが、 それは天皇制の維持と同じ理由によるのではないか。

つまり、秦氏は陰で(主に文化面で)天皇制の維持に貢献することで、 経済面・文化面の陰の権力者になれているのだと思う。

秦氏が作った文化は、日本の心の故郷でもあるのである。
秦氏は、朝鮮東部の新羅経由で日本に来たが、 新羅は中国大陸からの漢族以外の逃亡民(秦人、新羅は元、秦韓と言った)で構成されており、 五胡十六国時代の前秦滅亡(394)、後秦滅亡(417)と時代が一致している。
すなわち、秦氏は、チベット系(前秦・(てい)、後秦・羌(きょう))の民であり、 羌は、アミシャブ(イスラエルの10部族調査機関)が発見した、
現在の中国四川省のチベット系少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じであり、 彼らは失われたイスラエル10部族のひとつであるマナセ族の末裔であると自称し、 アミシャブからも認められている。

これはそこまでさかのぼって考えるのは、いささかまだ納得しづらいが、牧畜や養蚕、醍醐(チーズ)を伝えたのも彼らではないだろうか。酒造りもチーズも発酵のメカニズムを知っているからだ。

秦氏のルーツを探る
日本書紀の記述に、日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が、 朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったという。
しかし、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている説もある。 新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある。
いすれにせよ、彼らの出身地は朝鮮半島ではなく、朝鮮半島は単なる経由地であった。

日本列島が弥生時代と呼ばれる頃、半島南部は紀元前2世紀から4世紀にかけて「三韓」とよばれ、風俗や言語によって大きく三つに分かれていた。「韓」の由来については諸説あり、山東半島にいた韓族ともいうが、明確でない。
馬韓(ばかん)は、帯方郡の南、黄海に接し、後の百済と重なる場所にあった地域である。西部に位置し、五十数カ国に分かれていた。馬韓人は定住民であり、言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。
弁韓は、12カ国に分かれ言語は馬韓と異なり、辰韓と類同していた。のちの伽耶・任那(みまな)。
朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いる文化を所有していた。
紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。紀元前後にこれらの製鉄技術が慶尚南道海岸地帯に普及したことで、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件によって相当な富と技術を蓄積するようになった。それによって社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。

伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、弁韓を母体とし、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。新羅においては伽耶(カヤ)・加耶という表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅(カラ)又は任那(ニンナ・みまな)とも表記された。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官加羅)。大伽耶・任那加羅とも書く。

伽耶の前身である弁韓の言語については、『三国志』東夷伝は辰韓の言語(朝鮮語の直接の先祖である新羅語の前身)と似ている(相似)と記すが、『後漢書』東夷伝は違いがある(有異)と述べており、相反する記述となっている。
辰韓は馬韓(のちの百済)の東方に位置し、12カ国に分かれ言語は馬韓と異なり、中間の弁韓と類同していた。
辰韓と弁韓とは居住地が重なっていたとされるが、実際の国々の比定地からみるとほぼ洛東江を境にして分かれているのが実態である。

2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官伽耶)であり、金官伽耶を盟主として前期伽耶連盟を形成し、対外的に周辺地域と交易を行い、斯盧(新羅)を中心とする辰韓と勢力を争ったりした。

『後漢書』の中の辰韓伝、『三国志』中の「魏書」の辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民ががおり、馬韓はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人と名づけたという。また、『三国志』中の「魏書」の弁辰伝によると、馬韓人と辰韓人は言語が異なっていたという。朝鮮南部の三韓の「韓」の由来については諸説あり、山東半島にいた韓族ともいうが、定かではない。と記している。

上記の『後漢書』辰韓伝、「馬韓はその東の地を割いて住まわせ…」「魏書」弁辰伝、「馬韓人と辰韓人は言語が異なっていた」に注目すると、馬鹿を除いた辰韓・弁韓は、もともと同じ言語・と風俗をもっていたようだ。弁韓を母体とする伽耶は、漢の読みから来ているように思われ、文字(漢字)と中国青銅器・養蚕・機織りが伝わっただろう。
朝鮮半島も日本列島も漢字が伝わるまでは文字を持たなかった。日本人が漢字の意味を日本語(大和言葉)に当てはめて訓読みをつくった。同じ人名や地名でも書物によって表記が異なるのがざらである。同じように、半島でも土地土地の言葉を漢字で表記したように、シンカン(ハン)を、ルーツである祖国、秦とそのあとの国家である漢を合わせたと考えても不思議ないと思う。シンカン(ハン)を、辰韓と書いたり、秦韓と書いたりしたであろう。

というよりも、文字とさまざまな技術を有した古代中国から亡命なのか、船に乗って半島南西部に上陸した。なぜ彼らがそこではなく東部に移住したのかは、上記の『後漢書』辰韓伝、「馬韓はその東の地を割いて住まわせ…」でわかる。

その後、数百年も半島に居住していたのであって、当然言葉や習慣は周辺の民族との交流によって変化していったであろう。

しかし、「馬韓人は定住民であり、言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。」とあるように、半島の三国で、百済人が朝鮮民族の特色が一番濃いとすれば、ヤマト建国のルーツは朝鮮半島であると主張する根拠は薄い。なぜならば、秦氏や東漢氏は、伽耶や新羅に移住した秦・漢人を祖とする人びとなのであり、伽耶・辰韓(新羅)国も、中国から文字や文明が伝わり、長い歴史において見れば、ほぼ経由して列島に伝わったと考えられるからである。

したがって、秦氏・東漢氏や、もっと古くスサノオ、アメノヒボコなどの渡来人たちが、中国人なのか朝鮮半島人なのか、辰韓(のちの新羅)なのか伽耶(のち新羅)なのか、どこを基準にするのか、そこにこだわり本質を見失いたくないと思う。そんなこと言いだしたらアジア人はみな同じだし、古代イスラエルまでさかのぼると範囲がわからなくなる。せめて弥生時代の到来期に留めておきたい。もっと大きくいえば、世界中の人類はみな人類発祥の地とされるアフリカ人ということになり、日本人のルーツをどこにおくべきかの文化人類学に留まりたくないからだ。

綾織りの意味が分かった

東漢氏は、『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする帰化系氏族集団である。

『古事記』には、4世紀末の応神天皇の時代に、倭からの要請もあり、新羅や百済から技術者・文人が多く渡来し、その中に「秦造の祖、漢直の祖、が渡来した」と。『日本書紀』応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。

しかし、東漢氏は集団の総称である。東漢氏は「倭漢氏」とも記述された。六世紀末頃までには河内国を本拠地としていた漢氏と区別するために両氏はともに、東西を氏上につけて区別した。それまではどちらも漢氏であったと思われる。秦氏も一度に渡来したというのではなく渡来した集団の総称だ。

両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませていることから実際は朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国(現在の慶尚南道咸安郡)を中心とした氏族が渡来してきた可能性が提唱されている。

つまり「安羅」が「アヤ」となり呼称となったということである。そして、それらのアヤ氏のなかで伝わっていた「先祖は朝鮮北部にあった漢帝国に属した帯方郡から渡来した」という伝説から「漢」という文字をあてるようになったのではないかと考えられている。

また、漢氏の漢を「あや」と読ませたのが、秦氏の「はた」が機織りを意味することから、綾織りのあやであるなら、東漢氏も「漢からヤマトに来た綾織りの上手な民」をさして、だんだん縮めてそう呼ぶようになったのではないだろうか。枕詞の「飛ぶ鳥の明日香」が縮まって「飛鳥」を「あすか」「日下(ひのもと)の草香(くさか)」が日下(くさか)となり、日下が日本に字が変わったとされるように、日本人は何でも縮めて改良するのが好きな民族ではある。

秦氏は、中央で伊勢神宮や東大寺の大仏などの巨大な建物の建造にも寄与したが、 日本全国にも散らばり、稲荷神社や八幡神社などを作り、 彼らの文化と技術(景教、建築、絹、薬など)を日本に広めた。
京都は秦氏に丹波(京都府中部)は、秦氏にゆかりがある。

これで「綾部」の地名の意味がつかめた。
秦氏・東漢氏は、同時に文字(漢字)と稲作・機織り土木建築などを伝えた、と考えるのが弥生時代の到来として最も可能性があると思うのである。
前出の、「新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある。」を思い出してもらいたい。

秦氏と漢氏は、中国の時代によって出身地名から、一族をそう名乗ったのであり、ルーツは同じと考える。

半島南部伽耶と日本列島の鉄の関連性を追う

いずれにしても、日本列島に青銅器が伝わったのは鉄の産地である伽耶だろう。その輸出商品は、自国で生産する大量の”鉄”だったのである。じつは、伽耶が古代東アジア有数の”鉄”の国であったらしい。
海峡を往還する神々: 解き明かされた天皇家のルーツ 著者: 関裕二氏は、

記紀神話に現れたスサノオと鉄の関係を追っていくと、日本列島の森林資源が燃料として貴重だったこと、朝鮮半島の人びとがこれを求めて大量に渡来してきたのではないかと思えてきた、と記している。

製鉄には大量の木(炭)が必要だ。当然木材はすぐには育たないから枯渇していく。彼らは優秀な商人でもあった。彼らは鉄の見返りに何を求めたかというと、日本列島の豊富な木だ。輸出のために日本列島に往来するうちに、豊かな森林に惹かれて、だんだん製品化して木材を持ち帰るよりも、日本列島に鉄原料を運び、生産拠点を移して現地生産するようになったのではないか。

日本民族の祖先とされる縄文人も、長い年月の間に北方や南方から他種類の民族が日本列島に集まってきたものだ。国境がない時代だから、人びとは獲物を求めて自由に往来していたのである。彼らは、定住するようになり土地への執着心が強い現代風に考えるほど、出自は問題ではなかっただろう。「三代住んだら江戸っ子といっていい」というが、だいたい三代以上そこに住んでいたら、そこの住民と見る方が自然だ。みんな最初はどこからか移り住んできたのだから。

弥生人誕生のルーツとなる渡来人は、最初から海をまっすぐに、いまだ知らない日本列島を目指していたわけではないだろうし、秦は紀元前206年に滅亡して漢となる。そして後漢も220年に滅亡した。したがって、半島に定着した人びとの中に、さらに島嶼やそれを経由して九州北部に渡って来た。それがいつごろなのかわからないが、一度に渡来したのではなく、たびたび渡来した人びとがいたと考えられる。したがって、秦族であり漢族でもあり、半島人の韓族でもある。それが自然だと拙者は思うのだ。

蘇我氏や物部氏もルーツは秦氏や漢氏だろう。しかし秦・漢氏を名乗った一族の行動は、政治や神道の権力よりも、「名よりも実利」と思える実業分野でエンジニア・ビジネスのエキスパートだった。また文化面でも雅楽・猿楽・歌舞伎など。だから、歴史の表舞台に立たなかったから生きながらえることが出来たのかも知れない。徐福・浦島太郎、鼻が高い猿田彦・天狗、また、垂仁天皇が床に伏せて、常世の国にときじく(ダイダイ?)の実を10年も探しにいって帰ってきた田道間守(たじまもり)も、海洋航海術に長けたそれは、現在もたくましいビジネス魂の「華僑」と呼ばれるイメージとつながる感がある。

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弥生.徐福と兵主神社

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が日本列島外から渡来して、北部九州に移住することによって始まった時代です。

紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、縄文時代に日本列島にはいなかった多くの人々が大陸から流入したことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。

北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っていますが、これによると、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡していますから整合性はとれます。

福岡板付遺跡のように、縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、侵略による拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな弥生人と中国大陸の渡来人との混合が弥生人だったのです。

秦から斉の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で常世の国に仙薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。

『出雲と大和のあけぼの: 丹後風土記の世界』斎木雲州氏(元日本大学教授)にアメノヒボコと製鉄集団についての興味深い内容があった。

兵主(ヒョウズ)とは、中国の山東半島方面の古代信仰であった。戦国時代の中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の斉(セイ)国では、八神を崇拝した。徐福の家系は斉国の出身であったので、八神の信仰を倭国(日本)に伝えた。

八神について『史記』の「封禅書」には、「八神の第一は天主である(これはユダヤ教の信仰に基づくという)。兵主は八神のうちの第三で、蚩尤(しゆう)を祀る。蚩尤は、西方を守る神だとされる。(戦の神と考えられている。また戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器(五兵)を発明したという。蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったとも言う。)

徐福の息子イタケの時代には、ハタ(秦)族は出雲のおもに太田(市)の東に住んでいた。その西を守るために建てられた社が、五十猛神社になった。

丹後の地に移ってからは、ハタ(秦)族は漁民になった者が多かった。その宮津湾(あそ海)の漁村を守る西の位置に、カゴヤマは真名井神社(宮津市)を建てた。カゴヤマ(香具山)は『書紀』に一書として、天火明命の子で、尾張連らの遠祖とある。

射楯兵主神社は播磨国にも祭られた。「播磨風土記」に飾磨の郡因達(いだて)の里の記事がある。

因達というのは…伊太代(いだて)の神がここに鎮座しています。それで神の名前より、里の名前になった。

射楯兵主神社は今は姫路市に鎮座するが古くは八丈岩山に祭られていた。因達の里のとなりに昔は安師の里があった。
大和に住まわれた天村雲命は、三輪山の神奈備を守るために、その西麓の穴師で兵主の神を祀った。

イタケの発音から、イダテやイタチにもなった。戦国大名の伊達氏は、因達の神を拝む家系であった、といわれる。伊達藩の支倉常長がローマ法王に書いた書状には、ローマ字で「イタチ藩」と書かれている。
カツラギ王家のタタラ五十鈴姫の御子に八井耳がおられたが、出雲王の血を引くので、臣の名称を使い多(おお)臣の祖となった。多家では、苗字に「太」の字も使った。

その一族は磯城郡田原本町の南端・多の地を本拠としたので、そこに多神社が鎮座する。そこには八井耳命とともに、子孫の太安万侶もまつられている。太安万侶は、古事記を書いたことで知られる。かれは晩年に、出雲国庁の脇(松江市竹矢町)に住んだと伝わる。その屋敷跡が「オウ(太)の杜」といばれる。

ヒボコが日本に携えてきた神宝にも、「出石の小刀」「出石の鉾(木偏)」「日鏡」と、やはり「金属器」が含まれている。どこから見ても「ホコ」を名に持ち、鉄の産地からやってきたアメノヒボコが「鉄の男」であることは、はっきりしている。

この属性は、ツヌガアラシトのそれでもある。「鉄の神=蚩尤(しゆう」ではないかと疑われるツヌガアラシトが、本来同一だった可能性は、やはりヒボコの将来した神宝の名前からもうかがい知ることができる。

それは「イササ(イザサ)」で、ヒボコがヤマト朝廷に献上した八つの宝物のなかに「胆狭浅太刀」がある。その「イザサ」が、ツヌガアラシトの祀られる角鹿の気比神宮の現在の主祭神の名と重なってくる。それが「イザサワケ(伊奢沙和気命)」にほかならない。

もっとも、門脇禎二氏のように、八世紀の『日本書紀』の編者が「新羅」と「加羅」両者の王子を混同するはずがないという理由から、説話が似ていて共通の要素があるからといって二つの話を同一視することはできないとする説もある。

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歴史の両側 米国務省の公文書公開!「真珠湾は奇襲ではなかった」

草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN
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>1)周知:左翼は真珠湾事件を日本人をだます材料に使ってきたので、この情報を隠ぺいしようとするはずである。そこで愛国者は大至急このメールを転載回覧し日本中にこの史実を周知していただきたい。
以上によりそのまま転載します。
米国務省の公文書公開「真珠湾は奇襲ではなかった」
ソ連の崩壊で米ソから貴重な情報が公開され、戦後の反日歴史観が見直されています。しかし最近、歴史をゆがめ日本人を外国に隷属させようとする悪だくみが見られます。
こうした状況で本情報は日本人全体にとって非常に重要と考えます。ぜひ友人、知人に至急転送しご回覧願います。
東京近代史研究所 代表 落合道夫
***********************************************************************
米国務省の公文書公開「真珠湾は奇襲ではなかった」
1.事実:
米国ウィスコンシン大学の国務省外交文書図書館で戦前の駐日大使グルーの国務省あての公電が公開されている。この中に日本の真珠湾攻撃の十ケ月前の1941年1月27日に日本軍の真珠湾攻撃計画を国務省のハル長官に報告したものがある。
その内容は、「米大使館員が入手した情報によると日米関係が難しくなった場合、日本軍が総力をあげて真珠湾を攻撃する計画があるという。驚くべきことであるが、東京の日本人を含む複数の外交筋からの情報なので急ぎ報告する」というものである。
これで長年の日本近代史の大きな疑問がひとつ解けたことになる。
2.意義:
1)反日宣伝からの解放:日本人は戦後占領軍と左翼に長く真珠湾攻撃が卑怯であるという誤った贖罪感を埋め込まれてきた。しかしこれで解放された。ルーズベルトは明らかに日本の反撃計画を知っていた。その上で対日貿易封鎖をおこない過酷な対日要求ハルノートを出してきたのである。
2)歴史の真実:
  それでは日本の攻撃を挑発したルーズベルト大統領の狙いは何だったのか。それは言われているように、欧州大戦への参戦契機づくりと満州を狙う邪魔もの日本の排除のためと考えるのが合理的であろう。これで東京裁判史観は誤っていることがわかった。必然的に日本に戦争責任がない新しい近代史観が必要になってきた。
3)なぜ国務省は公開するのか:
  現在の米政府が戦前のルーズベルト外交の対日陰謀の重要証拠文書を公開しているのは、米国の極東政策が戦前とはガラリと変わったからである。戦前の日米は満州を争う競争者だった。しかし今は共通の敵を持つ同盟国である。
  そこで米国は極東の要となる自由主義国家日本を再建したいと考え、そのために日本人の時代遅れの敗戦ボケからの覚醒を待っているのであろう。
3.日本人の対応:
1)周知:左翼は真珠湾事件を日本人をだます材料に使ってきたので、この情報を隠ぺいしようとするはずである。そこで愛国者は大至急このメールを転載回覧し日本中にこの史実を周知していただきたい。
2)靖国神社や護国神社はこの情報の常時掲示をお願いしたい。
3)歴史教科書へ盛り込む:生徒が誤った歴史教育を受けているので、文科省はすぐに教科書の補正資料として印刷し生徒に配布すべきである。
4.本米国公文書情報へのアクセス方法は以下の通りである。
1)グルーの電報の元のファイル: 米国ウィスコンシン大学 外交文書図書館
 http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=header&id=FRUS.FRUS193141http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gif02&isize
2)ここのSearchのところにGrewと入力すると、グルーの電報のリストが出てくる。(Gは大文字)
3)問題電報は133ページにある。公文書番号は711.94/1935である。
以上
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【但馬史パラドックス】 こうのとり神社の真相を探る

兵庫県豊岡市は日本でただ一か所の国の特別天然記念物コウノトリの生息地です。
その近くにある久々比神社。しかし、いつからかコウノトリゆかりの神社と思われてきた。久々比は鵠と書き、白鳥など鳴く鳥をいう。コウノトリは鳴かない鳥であるし、そもそも久々比神社は、城崎郡司久々比命を祀った神社で、コウノトリとは関係ない。

コウノトリとは関係ないとはいっても、別に同じ鳥に因んだ名前なのだし、全国で兵庫県立コウノトリの郷公園に行く機会には、このの式内久々比神社と式内酒垂神社を立ち寄られることをおすすめする。ともに豊岡最古の本殿(国指定文化財)
鵠を追って但馬で捕らえたとされるのは、養父郡和那美。今の式内和那美神社(養父市下網場)
コウノトリと誉津別命は無関係だ

『日本書紀』』巻六 第六話 伊勢の斎宮[*1] 治世23年秋9月2日、群臣を集めて詔して言った。
誉津別皇子(ほむつわけのみこと)[*2]は父の垂仁天皇に大変鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。
「誉津別命(ほむつわけのみこと)は三十歳になり、長い顎髭が伸びるほど成長したが赤子のように泣いてばかりいる。それに声を出して物を言うことがないのは何故だろう。皆で考えてくれ。」
冬10月8日、天皇は大殿の前に誉津別命と立っていた。そのとき鵠(くぐひ)[*3]が空を飛んでいた。皇子は空を見上げて白鳥を見て「あれは何者ですか。」と言った。天皇は誉津別命は皇子が白鳥を見て口を利いたので驚き、そして喜んでそばの者に詔して言った。
天皇 「誰かあの鳥をとらえて献上せよ。」
臣下の一人 「手前が必ず捕らえてご覧に入れましょう。」
天皇 「よし。もし捕らえることが出来たら褒美をつかわす。」
こう申し出た者は鳥取造(ととりのみやつこ)の祖で、天湯河板挙(あめのゆかわたな)という者だった。天湯河板挙は白鳥の飛んで行った方向を追って、出雲まで行って捕らえた。ある人は(但馬)で捕らえたともいう。
11月2日、天湯河板挙が白鳥を献上した。誉津別命はこの白鳥を弄び、ついに物が言えるようになった。これによって天湯河板挙は賞をもらい姓を授けられた。鳥取造(ととりのみやつこ)という。そして鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)を定めた。

治世25年春2月8日、阿部臣の先祖である武渟川別(たけぬなかわわけ)、和珥臣の先祖の彦国葦(ひこくにぷく)、中臣連の先祖の大鹿島(おおかしま)、物部連の先祖の十千根(とおちね)、大伴連の先祖の武日(たけひ)らの五大夫達に詔して言った。

天皇 「先帝の御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ・崇神)天皇は聖人であられた。慎み深く、聡明闊達(そうめいかったつ)であられた。よく政務を取り仕切り、神祇を祀られた。それで人民は豊かになり、天下は大平であった。私の代でも怠りなく神祇をお祀りしようと思う。」

3月10日、天照大御神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)からはなして、倭姫命(やまとひめのみこと)に託した。倭姫命は大御神が鎮座あそばす地を探して宇陀(うだ)の篠幡(ささはた)に行った。さらに引き返して近江国に入って美濃をめぐって伊勢国に至った。
そのとき天照大御神は倭姫命に言った。

「伊勢国は波が重ねて打ち寄せる国だ。国の中心というわけではないが美しい国だ。この国に腰を下ろしたいと思う。」

そこで大御神の言葉に従ってその祠(ほこら)を伊勢国に建て、斎宮(いつきのみや)を五十鈴川(いすずのかわ)の畔(ほとり)に建てた。これを磯宮(いそのみや)という。
同様な話が久々比神社等に伝わります。

一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられています。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池、軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、近江、美濃、尾張、信濃、越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。

久々比(くくひ)神社

祭神:久久遲命(くぐひのみこと)

式内小社 コウノトリに縁のある神社。 室町末期の建物と推定され、三間社流造の本殿は、中嶋神社・酒垂神社・日出神社(但東町畑山)とともに 【国指定重要文化財】に指定されている。
一説には天湯河板挙命(あめのゆかわぞなのみこと)を祀るともいわれています。
ご由緒には、コウノトリは古くは「鵠(くぐひ)」と呼び、大きな白鳥を意味する言葉です。霊鳥なのでその棲んでいる土地も久々比(くくひ)と呼び、その後この土地に神社を建て、木の神「久々遅命(くくちのみこと)をお祀りした。これが久々比神社の始まりでした。
ところで、その頃豊岡盆地は、「黄沼前海(きぬさきのうみ)」といって、このあたり(下宮)はその入り江の汀(なぎさ)でした。また、あたりは樹木が繁茂し、木霊のこもるところ、神自ら鎮まり座す景勝の地でした。私たちの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久々遅命」を奉齋し、その御神徳の宏大にしたのも当然のことでしょう。

和名抄では城崎を「支乃佐木」と訓じています。木の神がきのさきと訛ったとも考えられます。

鳥取造の祖、天湯河板挙命

このコウノトリの伝説はお隣の鳥取県にもあります。こちらが伝承の本家なのかも。
「鳥取」の語は『古事記』や『日本書紀』垂仁天皇二十三年九月から十一月の条にかけて「鳥取」の起源説話がみえます。
誉津別王子が成人しても言葉が喋れないことを天皇が憂いていた時、大空を白鳥が飛んでいるのを見つけ「是何物ぞ」と発した。天皇、喜びて、その鳥の捕獲を命じた。天湯河板挙が鳥を追いつづけ各地を巡り、ついに出雲の地で捕獲に成功した。この功績から「鳥取造」の称号(姓:かばね)を拝命した。『記』にも同類の説話が見えるが、結末は違っているが、上記の久々比神社の御由緒と同じです。単なる偶然かも分からないが、同じ気多郡という郡名がそれぞれ存在しています。
鳥取県のHPに鳥取県の名前の由来があった。

「鳥取」とは、大和朝廷に直属していたといわれる職業集団の一つ、白鳥を捕獲して朝廷に献上する人たち「鳥取部(トトリベ)」に由来しています。』…鳥取県の名前の由来は、平安時代に書かれた和名類聚抄に出てくる因幡国の「鳥取郷」まで遡ることができます。
そして、その「鳥取郷」という地名は、古代、白鳥を捕らえて朝廷に献上する「鳥 取部」という部民の住んでいた土地に由来するといわれています。ちなみに鳥取県史によると、「鳥取部」は、河内・和泉・伊勢・美濃・上野・越前・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・備前・備中・肥後など広く日本中に分布していたそうです。

北海道・福島県・群馬県・千葉県・富山県・愛知県・三重県・京都府・大阪府・兵庫県・鳥取県・岡山県・愛媛県・熊本県・佐賀県に、「鳥取」を含む地名がある(あった)ことが分かりました。なんと、全都道府県の約3分の1にあたる数です。

ところでこのほかにも、古事記中に2か所、「鳥取」という言葉を見つけました。「鳥取」という地名の起源は「鳥取部」にあるはずなのに、「鳥取部」より前に「鳥取」という地名(や神名)が出てくるのは面白いなと思ったので、ちょっと紹介しておきます。

ひとつは上で紹介した話の少し前で、垂仁天皇の御子が「鳥取の河上宮」で太刀を千振つくらせた、という記事が出てきます。「鳥取の河上宮」というのは、和名類聚抄に出てくる和泉国の「鳥取」で現在の大阪府阪南市に当たると考えられています。日本中に数ある「鳥取」の中でも、最も由緒ある地名といえるかもしれません。垂仁天皇の在位は(西暦で)紀元前29年から紀元70年ということですから、阪南市内にある「鳥取」、「和泉鳥取」、「鳥取中」、「鳥取三井」といった地名は2千年の歴史を持っていると言えるかもしれません。

また、古事記の中で、大国主命は6柱の女神と結婚していますが、6番目の妃は「鳥取神」という名前です。この「鳥取神」という神は他の古代史料に現れないため、残念ながらその名の由来までは分からないようですが、大国主命の最初の妃が「稲羽之八上比売(因幡の八上姫)」で、最後の妃が「鳥取神」というのも、なんだか不思議な縁を感じませんか。

ただ、これは神話の世界を含んでいますので、本当に2千年の歴史があるかどうかは、残念ながら誰にも分かりませんね。では、古代の史料で裏付けられる最古の「鳥取」はどこになるのでしょうか? 調べてみたところ、どうやら藤原宮跡から出土した木簡に記されている「旦波国竹野評鳥取里大贄布奈」が最古のもののようです。

これは、現在の京都府京丹後市弥栄町鳥取に当たると考えられていますが、藤原京といえば、694年に飛鳥京から遷都され710年に平城京へ遷都されていますから、京丹後市弥栄町の「鳥取」は、正真正銘1300年の歴史を誇る地名と言えるのではないでしょうか。「太田南古墳」の近くです。

丹後に似た伝説

由緒
『竹野郡誌』では、天湯河板挙命が但馬国から当地の水江に来て白鳥を捕ろうとし、松原村の遠津神に祈誓して水江に網を張ったので、この付近を水江網野と称するようになったという。
現在の網野神社付近はかって墨江(離湖)とよばれ、西に広がっていた浅茂川湖の水が日本海に入る河口でした。

当地には全長200m弱の日本海岸最大の前方後円墳・銚子山古墳があり、旧社地の後方にあたる。網野神社はこの地に居住した者の祀る神社でした。現社地の東南800m。
当町内では網野神社をはじめ、浅茂川・小浜・郷・島・掛津の各区で天湯河板挙を「早尾(はやお)神社」神として祀っています。

網野地名の起源が語られています。「天湯河板挙命(アマノユカワタナノミコト)」(他にも異なる表記法あり)が登場し、網野地名の起源が語られている。その意味でもこの神(人物)は当地にとって重要なキャラクターであり、その名は次のように『日本書紀』に登場する。(但し『古事記』では“山辺(やまのへ)の大(おおたか)”という名で現れる)

「垂仁帝の子誉津別王(ホムツワケノオウ)は物が言えなかったが、ある日大空をとぶ白鳥をみた時『あれは何か』と口を動かした。垂仁帝は鳥取造(トトリノミヤッコ)の先祖である天湯河板挙に白鳥を捕えるよう命じたので、かれは遠く但馬(一説には出雲)まで白鳥を追ってこれを捕えた。」(原文の大意を口語になおした)

但馬・丹波(のち丹後)の伝承では天湯河板挙が白鳥を迫った道筋は、但馬八鹿(ようか)町の網場(なんば)和那美(わなみ)神社、豊岡市森尾 阿牟加(あむか)神社、同下宮(しものみや) 久々比(くぐい)神社を経て網野(松原村)に到り、鳥取(現弥栄町)でこれを捕えたというものです。

垂仁天皇の皇子である誉津別皇子(ホムツワケノオウジ)は、なぜか成長しても言葉が話せませんでした。天皇は残念に思い、とても可愛がっていました。ある日、大きな白鳥が鳴きながら群れをなして飛んで行きました。これを見た皇子は初めて何か言いました。それは「あれは何という鳥か」と言われたように聞こえ、天皇は驚き、大変喜びました。そこで、天湯河板挙(あまのゆかわたな)という者にこの白鳥を捕まえる役を命じられました。天湯河板挙は白鳥を追って但馬から松原村(網野町)に来て水之江に綱を張り、日子生命(網野神社の祭神のうち一柱)の御神霊にお祈りし、とうとう白鳥を捕えて天皇に献上しました。皇子は白鳥を友達のようにして遊び、ついに話すことができるようになりました。天皇は大喜びされ、天湯河板挙に厚く賞を与え、鳥取造(とっとりのみやつこ) という姓を賜りました。

「網野神社明細帳」に、白鳥を捕らえようと網を張った地を以後「網野」といい、白鳥を捕えた地を「鳥取(弥栄町鳥取)」というようになったと記されています。

垂仁天皇は大和国纏向宮(まきむくのみや)で国を治めていましたが、ある時「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)をさがしに行ってくれる者はいないか」と尋ねました。この大役を田道間守が命を受け、その後十年後に無事大命を果たし帰国してきましたが、すでに垂仁天皇はその前年なくなっており、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」と言って陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓い自ら殉じてしまいました。 田道間守の持ち帰った非時香菓は、その後田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」(丹後木津)に至っています。

出雲大神の祟りを畏れて修理した

それは、七世紀の飛鳥に君臨した女帝・斉明天皇にまつわる話です。

この『日本書紀』の記述には、誉津別皇子の「口が利けない」こととクグヒの伝承と似ています。誉津別皇子の話では、その原因が「出雲神の祟り」であったとは記されていませんが、『日本書紀』編者が、出雲の祟りと知っていたらしいことは、意外な場所からはっきりします。

ある晩、斉明天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占(ふとまに)[*4]で夢に現れたのが何者であるか占わせると、それは出雲大神の祟り(たたり)とわかった。天皇は皇子を曙立王(あけたつのおう)[*5]、菟上王(うなかみのおう)とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。その帰り、皇子は肥長比売(ひながひめ)と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神(出雲)の宮を造らせた。また鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を設けたという。

斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)

要するに出雲大社を修理(建立)したという。これに続けて、出雲のキツネが意宇(おう)郡の葛(かずら)を食いちぎって去っていった話し、犬が死人の手首を、ある神社に置いていった話しなどが載っています。
不気味な内容ですが、なぜ斉明天皇が出雲大社を修繕したのか、その理由がはっきりと書かれていません。ただ、どうやら垂仁天皇の故事にならったらしいことは分かっています。というのも、斉明天皇には建皇子(たけるのみこ)という孫がいて、生まれて以来口がきけなかったこと、しかも早逝し、斉明天皇は深い悲しみに包まれていたと『日本書紀』は記しています。

要するに、斉明天皇は建御子(たけるのみこ)の不具は、出雲神の祟りに違いないと憶測していたのでしょう。それほど、「出雲は祟る」という伝承は、強いインパクトを以て伝わっていたことを証明しています。
そしてそれは、平安時代に至っても変わることはありませんでした。

平安時代中期に記された『口遊(くちずさみ)』には、有名な「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」という言葉がありました。当時の建物の大きさを語ったもので、出雲大社が一番、大和の大仏殿が二番、京都の平安京の大極殿が三番目の大きさだったという意味です。出雲大社が京都の天皇がおわします大極殿よりも大きく、日本一の大きさを誇っていたといいます。

『日本書紀』では、「天皇と同等の宮を建てろ」と出雲国造に脅していたのが、時代とともに、いつしか、「天皇のものよりも立派な宮」になってしまっていたわけです。「出雲」が「天皇」を抜いてしまったかというと、「出雲」が祟る神という伝承が恐怖を呼び、さらに増幅されていったからでしょう。
近年発掘された柱から、室町時代には、出雲大社の本殿が、約48mもあったとという伝承が証明されたのです。

伝承の内容や(出雲)大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神(おおくにぬし)の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえます。また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされています。
記紀に出雲について相当あてています。

[註] [*1] 斎宮は斎王(今でいう宮司)のこもる宮。
[*2]…誉津別皇子 のちの応神天皇。『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。『尾張国風土記』逸文に品津別皇子。垂仁天皇の第一皇子。母は皇后の狭穂姫命(サホヒメノミコト。彦坐王の娘)。
[*3]…鵠(クグイ・クグヒ)は現在の白鳥あるいはコウノトリの古名です。鴻と共に大きな鳥の代表として引用された中国の故事成語で有名。片手刀の一つ。性能は相方の鴻と極めて近く、敏速性は勝る。
鴻(おおとり)はその名が示す通り大型の水鳥で雁の近縁種。菱食い(ひしくい)とも呼ばれる。片手刀の一つ。鴻ノ鳥とは、大きな白い鳥という意味。 京丹後市観光協会

記紀に崇神天皇と垂仁天皇の話が集中したワケは

コウノトリは、鴻の鳥と書きますが、古くは鸛(こうのとり)、鵠(くぐい)と書きます。鴻(おおとり)は現在の白鳥の古名です。鵠は鴻と共に大きな鳥の代表と読み、ツルは大きな声で鳴くことができるが、成鳥のコウノトリは鳴くことはできないため、クラッタリングと呼ばれるくちばしをたたく行為を行います。

コウノトリを捕らえ、献上したところ、誉津別命(ほむつわけのみこと)は話すことができるようになったという話は、ツルは大きな声で鳴くことができるが、成鳥のコウノトリは鳴くことはできないという、そのコウノトリの特性を、三十歳になっても口が利けない誉津別命と合わせたのではないかと想像します。

崇神天皇と垂仁天皇の代になって初めて、記紀に日本の広範囲の出来事の記述が出てくるので、このころ全国規模(九州から東日本)の政権になったのではと考える説もあります。また、大漢国(丹波国・越・近江)中心の話が集中的に記されています。垂仁天皇は、『古事記』では153歳、『日本書紀』では140歳、『大日本史』では139歳で崩御と記されています。これは「一年二歳論」といい、古代の日本には6ヶ月をもって1年とし、1年を2歳とする数え方があったとする説で、当時の年数は実際は2で割ると、それぞれの年齢が通常の人間としてもっともらしい数字になるとする説です。

記などの多様な伝承を集めているので、整合性がとれない矛盾点が多くあるのは承知で、天皇は神であり人間の寿命とはかけ離れた絶大な存在であるとしたのか、日本という統一国家がまだ成立していな時代であり、複数の王統を一息に神武・崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后に集合したのか、苦心があります。また、この崇神・垂仁・応神天皇・神功皇后の代に丹波・但馬の記述が集中していることから、この時代に丹波・但馬がヤマト王権に組み入れられたのではないでしょうか。

9代開化天皇の皇后は伊香色謎命(いかがしこめのみこと。物部氏の祖・大綜麻杵の女)で次の后はやはり丹波から大県主由碁理の女 丹波竹野媛(たにわのたかのひめ。)で丹波からです。10代崇神天皇は丹波から后を娶ってはいませんが、四道将軍の一人 丹波道主王を派遣して丹波を平定させたということは、一時期、丹波勢力と不仲になっていた丹波を支配下におくことに成功したことを意味したのだろうか。

次の垂仁天皇になって、にわかに実に沢山の皇后・后を娶っていることです。先代の10代崇神天皇が、皇后一人、后二人のみで、しかもまったく丹波に姻戚関係が見られないのに、11代垂仁天皇になるとにわかに最初の皇后と二番目の皇后、3人の后と宮人までが丹波(丹後)から同じ丹波道主王の子の姉妹で同じ日に宮廷に入っている、神功皇后は天日槍の後裔とするなど、どう信じていいものか?それだけ丹波(但馬を含む)との関わり方を誇張したかったのだろうか。籠神社から伊勢神宮に遷宮したことへの(祟りを畏れて)謝意だろうか。

『古事記』では、垂仁天皇は即位すると丹波から狭穂姫命を娶り、但馬の天日槍から始まり、本牟智和気が生まれると河内から出雲・因幡・但馬・丹波に向かわせてコウノトリを捕らえる

そして、出雲から野見宿禰を見つけて相撲をとらせる。

狭穂彦と狭穂姫命によって暗殺されかかり、狭穂姫命は焼身自殺したのに、いくら愛していた狭穂姫命が進言したからといって、姫の兄弟の丹波道主王から娘をもらう。それだけで政略的なのに、しかも一人でいいものを、5人も一度に娶るなど信じがたい話ですが、それだけ日本海の要衝・丹波・但馬との政略結婚で姻戚関係を強固なものに築き上げたかったということだろうか。

それは何が何でも丹波を朝鮮諸国との要害かつ鉄資源を手中に収めねばならない理由だったのではないだろうか?

日葉酢媛が丹後与謝宮(籠神社)から伊勢神宮に移す。

それは出雲神祇の力を丹波・但馬から遠ざけたかったのではないだろうか?
出雲神社を建てて、祭神をスサノヲから大国主に替えて国作りを大国主に、出石神社に大和から長尾市を派遣して、祭神を天日槍に代えて?、但馬を切り開いたのは天日槍であるとすり替えているからだ。
その後19年後には山背(山城)から国造であろう大国不遅から二人の娘をもらうという記載は、丹波はそのころ支配下として安定したので、次は丹波と大和を結ぶ山城を臣下に置くねらいとも読める。
それは、こう考えられる。

丹波はようやく制圧できたが、但馬の王はなかなか言うことを聞かない。田道間守(たじまもり)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせるが、ようやく田道間守が帰ってきたときには天皇はすでに崩御された後だった。手に入れたら許してやろうと思っていたのに。時すでに遅し。だから神様をオオナムチ(大国主)からヒボコ(天日槍)に替えよう。常世国の非時香菓、それは新羅征伐に向かっていたことを表しているのか?大和傘下にしたことを意味するのでは。

[註] [*4]太占(ふとまに)…事記や日本書紀に吉凶を占う占法として登場する神道の秘法で、ト骨(ぼっこつ)と呼ばれるものの中でも鹿の骨が多く、鹿ト(かぼく)と呼ばれ、多く使用されている。鹿の肩甲骨を焼き、串で刺したうえ、オキにかざしその亀裂の大きさや方向を持って吉凶を判断する。
[*5]…曙立王(あけたつのおう)は、『古事記』に登場する皇族。大俣王の子で、菟上王と兄弟。開化天皇の皇子である彦坐王の孫にあたり、伊勢の品遅部、伊勢の佐那造の始祖とされる。三重県多気郡多気町の式内社・佐那神社は天手力男神と曙立王を祀る。
『古事記』によると、唖の誉津別命が出雲国に赴くさい、そのお供をするべき人物として占いに当たったので、曙立王がウケイをすると、一度死んだサギが蘇り、また一度枯れた樹木が蘇った。そこで垂仁天皇は彼に大和師木登美豊朝倉曙立王という名を与え、さらに菟上王をもお供にして、出雲を訪問させたという。
一説に曙立王が唖の皇子の伝承と関係を持っているのは、伊勢の佐那造がこれを語り伝えたためであるとされる。伊勢の佐那(三重県多気郡)近辺は古来より水銀の産地として知られるが、尾畑喜一郎氏は佐那造が古代の水銀採掘に携わった人々であるとし、気化した水銀を長時間呼吸することによって喉の病を患い、その職業病が誉津別命と曙立王の伝承を結びつけたとしている。
出典: 『日本の古代』放送大学客員教授・東京大学大学院教授 佐藤 信
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【但馬の歴史】(27) 山名四天王 田結庄氏(1)


津居山

田結庄氏は、但馬国城崎郡田結郷田結庄(豊岡市田結)を本貫とする中世豪族でした。田結(たい)は、円山川が日本海の注ぐ河口で、海水浴で知られる気比ノ浜の東に位置する漁村です。わかめ漁などがさかんです。


田結庄氏家紋 違い鷹の羽

田結庄は「たいのしょう」と読み、出自は桓武平氏であったといわれますが、その世系については詳らかではないようです。

『田結庄系図』によれば、桓武天皇の子で桓武平氏の祖、皇子葛原親王(かずらわらしんのう)の後裔とみえ、七代後の平 盛嗣(盛継 たいら の もりつぐ 生年不詳 – 建久5年(1194年))、通称は越中次郎兵衛盛嗣がいました。平安時代末期の平家方の武将です。父・平盛俊(たいらのもりとし)同様平家の郎党として勇名を馳せました。

『平家物語』では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将でした。源氏との数々の戦に参戦し、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢三郎義盛(さぶろうよしもり)との詞戦(簡単に言えば嘲笑合戦)の逸話を残しています。

能登守教経(のとのかみのりつね)が、越中次郎兵衛盛嗣を引き連れて小船に乗り込み、焼き払った総門前の渚に陣取りました。侍大将である盛嗣が、船の上に立って大声で言うには、「さきほどお名乗りになったのは耳にしたが、遠く離れた海の上であったのではっきりと分からなかった。今日の源氏の大将はどなたでおはしますか」。そこで、伊勢三郎義盛さまが馬を歩ませ、「言わずと知れた清和天皇(せいわてんのう)(平安前期の天皇、源氏の先祖)十代の御子孫、鎌倉殿(かまくらどの=源頼朝)の御弟、九郎太夫判官殿(源義経)であるぞ」とおっしゃいました。

すると敵が
「そう言えば思い出した。平治の合戦で父を討たれて孤児になったが、鞍馬(くらま:京都)の稚児(ちご)になって、その後はこがね商人の家来になり、食べ物を背負って奥州へ落ちぶれ去ったという若ぞうのことか」
と失礼なことを申します。

そこで義盛さまが「軽口をたたいて、わが君のことをあれこれ申すな。そういうお前らは、砥波山(となみやま)の戦いに追い落とされ、あやうい命を助かって北陸道をさまよい、乞食をして泣く泣く京へ上がった者か」。

すると敵が重ねて言うには、「そういうお前たちこそ、伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしてきたと聞いておるぞ」と。

そこで、金子十郎家忠(いえただ)さまが、
「お互いに悪口を言い合っても勝負はつかぬ。去年の春、一の谷での戦いぶりは見たであろう」

と、おっしゃる横から、弟の親範(ちかのり)さまが敵に向かって矢を放ちました。その矢は、盛嗣の鎧(よろい)の胸板に、裏まで通すほどに突き刺さったのでした。

寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、残党狩りの結果、平家の子孫は絶えたと思われましたが、彼は自害を快く思わず、平盛久らと共に京の都に落ち延びます。都では平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後但馬国で潜伏生活へ入りました。盛嗣は城崎郡田結郷気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われています。

その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っていました。道弘は婿が越中次郎だとは知らなかった。けれども、錐(キリ)を袋の中に隠してもその先が自然と外へ突き出てしまうように、夜になると舅の馬を引き出して、馬を走らせながら弓を引いたり、海の中を十四、五町から二十町(1町=約109メートル)も馬で泳ぎ渡ったりしているので、地頭・守護は怪しんでいました。そのうちどこからかこの事が漏れたのだろう、鎌倉殿から文書が下されました。

源氏側は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦め(縛る)ても誅して(殺して)もまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が『平家物語』(延慶本)にもあります。

諸説あるものの、そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。やがて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたいものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。

「但馬国の住人、朝倉太郎大夫高清、平家の侍である越中次郎兵衛盛次が但馬国に居住していると聞く。捕らえて身柄を引き渡せ」との命を受けました。気比四郎は朝倉太郎の婿であったので、朝倉は気比四郎を呼び寄せて、どのようにして捕まえるかと相談した結果、「浴室で捕まえよう」という事になりました。

越中次郎を湯に入れて、ぬかりのない者五、六人を一度に突入させて捕まえようとしたところが、取り付けば投げ倒され、起き上がれば蹴倒される。互いに体は濡れているし、取り押さえる事もできない。けれども、大人数の力にはどれほどの力持ちでも敵わないものなので、二、三十人がばっと寄って、太刀の背や長刀の柄で打ちのめして捕まえ、すぐに関東へ連れて行きました。鎌倉殿は越中次郎を前に引き据えて、事の子細を尋ねました。

「どうしてお前は同じ平家の侍であるだけではなく、古くから親しくしていた者であるというのに、死ななかったのか」

「それは、余りに平家があっという間に滅びてしまいましたので、もしや鎌倉殿を討ち取る事ができるかもしれないと、狙っていたのでございます。切れ味のいい太刀も、良質の鉄で作られた矢も、鎌倉殿を討つためにと思って用意したのでございますが、これ程までに運命が尽き果てています上は、あれこれ言っても仕方ありません」

「その気構えの程は立派なものだ。頼朝を主人として頼むのならば、命を助けてやるがどうか」
「勇士というものは、二人の主人に仕える事はありません。この盛嗣ほどの者にお心を許されては、必ず後で後悔なされるでしょう。慈悲をかけてくださるのなら、さっさと首をお取りください」

と言ったので、
「それならば切れ」と、
由井ヶ浜(神奈川県鎌倉市)に引き出して首を切ってしまいました。越中次郎の忠義の振る舞いを誉めない者はいなかったといいます。

赤間神宮(山口県下関市)にある壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓七盛塚は、江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていました。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、「耳なし芳一」の舞台でもあります。

墓は、左近衛少将有盛、左近衛中将清経、右近衛中将資盛、副将能登守教経、参議修理大夫経盛、大将中納言知盛、参議中納言教盛、伊賀平内左衛門家長、上総五郎兵衛忠光、飛騨三郎左衛門景経、飛騨四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛継、丹後守侍従忠房、従二位尼時子の一門が並んでいます。

平家落人伝説は、但馬でも約40ヶ所に残されていますが、唯一確かといえるのが、この越中次郎兵衛盛嗣にまつわる話です。豊岡市気比と城崎町湯島に残る2基の宝篋(ほうきょう)印塔がその供養塔と伝わっています。

さて、竹野町には宇日(ウヒ)があり、香美町香住区御崎地区は余部(あまるべ)鉄橋で知られる余部からさらに岬にあり、日本一高い所にある灯台で知られ、1185年の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将門脇宰相教盛(清盛の弟)らがこの地に逃れてきたと伝えられる平家落人伝説の地です。鎧(よろい)、丹後半島には平などもゆかりがありそうな地名です。いずれも田結同様に陸の孤島というべき魚村です。

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