【但馬の歴史】(39) 秀吉の但馬平定(2) 竹田城落城

高生田城(たこうだじょう)落城

朝来市和田山町糸井の寺内と高生田の境の山に、中世戦国時代の山城の跡があります。この城を高生田城または福富城と呼んでいます。
この城は山名宗全が全盛のころの山城のひとつで、規模は小さいですが、豊臣勢に滅ぼされるまでは、堅固な城として栄えていました。この城に登る道が、南山のすそから大手門道、寺内の前谷というところから登る道、東の方からの道、北の城ヶ谷から登る道の四つがありました。
寺内の前谷というところも狭い谷間ですが、この奥に「奥市のだん」または地元の人々が「市場」というところがあって、昔は商家も建ち並び、城へのまかないも受け持っていたと言い伝えられています。そしてそこから一ノ段、二ノ段、三ノ段があり、その奥に城の館があったといわれていますが、いまはそのあともはっきりとは残っていません。
この城の城主は、出石・桐野の出身である福富甲斐守であるといわれています。弘安のころ(1278~1287)出石の桐野に、土野源太家茂という人があり、その子孫である福富氏は、山名宗全が但馬の守護になったころに、太田垣氏(竹田城主)や八木氏(八木城主)らとともにその家来となり、代々桐野の城にいたのですが、応仁の乱によって天下が乱れ、大名たちが相争うようになると、山名宗全もそれぞれの要地に城を築いて守りを固めたのでした。その中で、八鹿の浅間坂には佐々木近江守を、糸井の坂には福富甲斐守をつけて守らせたのです。
福富甲斐守は武勇の誉れ高く、淡くて元気盛りでしたので、秀吉が但馬を攻撃するにあたり、竹田城を滅ぼす前にこの高生田城を攻め落としたのだといわれています。この時、小さい城ながらなかなか落ちませんでした。そこで秀吉軍は易者に占いをたてさせたところ、「この城には東と西に二つの道があり、あたかも巨人が両足を踏ん張って建っているようだ。つまり、この城は生きている。だから、その片方の足を切れば必ず城は落と落ちるであろう。」ということでした。そこで、一方の道を切り落とさせたところ、占いの通り、さしもの堅城もとうとう落城したといわれています。今もこの地を「片刈り」と呼び、そのいい伝えを残しています。
城主はこの戦いに討ち死にしましたが、その子孫は逃れて糸井の庄で暮らしていました。その後沢庵和尚の知人であった福富紹意という人が、出石の桐野に移り住んで代々庄屋を務めていたといわれています。
城主はこの城の出城として、和田城や土田城(遠見が城または鳶が城ともいう)を併せ持ったといわれます。この遠見が城との間の通信を、弓矢をもってしていたと語り伝えられており、たまたま矢のぶつかりあって落ちた所を今も林垣の「落ち矢」と呼んでいましたが、近年の耕地整理でこの地名もなくなったようで、またひとつ古い伝説が消えていくような基がします。
秀吉軍は、この高生田城を攻め落としたのち、竹田城を攻めるために、竹田城が一目で見える室尾山に本陣を置き、その攻略の策を練ったと伝えられ、そのとき村人たちにふれ札を立てて知らせたといわれますが、その所在がはっきりしていないのは残念です。(記事は昭和48:1972)
一方、藤堂孝虎も小代谷には小代大膳、塩谷(えんや)左衛門、上月悪四郎、富安源内兵衛ら、いわゆる「小代一揆」とよばれる武士とも農民ともとられる勇士百二十騎ばかりがたてこもっていました。彼らはゲリラ戦が得意で、容易に高虎に屈しませんでした。ある日、高虎は「こんな田舎侍、今にいたい目に遭わせてくれようぞ。」と、征伐に向かいました。ところが、反対に小代勢の計略にひっかかって大敗し、命からがらたった一騎で大屋谷へ逃げ帰るという有様でした。
大屋に向かった高虎は、加保村の栃尾加賀守、その子源左衛門を頼って隠れ、体制の立て直しをはかりました。このことを隣の瓜原村瓜原新左衛門が小代へ知らせました。知らせを聞いて一揆の連中は天滝を越え、大屋谷へ攻め込んだのです。自分らの本拠を離れてまで攻めていこうとは、なかなか剛の者たちです。高虎は栃尾親子の助けを借りて蔵垣村にまで出て防戦しました。戦いはなかなか決着がつかず、疲れてきた一揆の連中は横行(よこいき)村に引きこもり、ここに砦を築きました。そして隙をみて攻めてくるゲリラ戦に変えたのです。横行村は平家の落人の伝説で有名な山奥の村です。この間に瓜原新左衛門は一揆の連中と連絡をとり、ある晩、百人余りで栃尾の邸を囲みました。しかし、源左衛門や刈鈷(かりなた)新兵衛らの活躍により、反対に瓜原新左衛門の方が首をうたれてしまいました。
こうしている間に高虎は次の作戦を進めました。夜陰にまぎれて密かに行動を起こし、一挙に、一揆の本拠横行砦を襲ったのです。一揆勢は不意をつかれてびっくり仰天、体制を立て直す暇もなく、散々にうちのめされ、おもな大将のほとんどは討ち取られてしまいました。しかし、高虎もこの夜は、あやうく命を失うところでした。源左衛門が駆けつけてうち払い、九死に一生を得たのでした。 藤堂家はこのときの恩義を忘れず、栃尾家に対して代々厚く報いています。天正八年(1580)、秀吉が再び但馬に攻めてきた時、完全に息の根を止められてしまいました。

竹田城落城

羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により天下の山城竹田城はついに落城します。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえました。
その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となりますが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となりました。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となりました。嘉吉の乱以降、たびたび山名氏との死闘を繰り返した赤松氏が山名氏が築いた城を任されるということはなんとも皮肉なことです
赤松広秀(斎村政広)は、羽柴秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となりました。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬竹田城2万2000石を与えられました。因縁の宿敵赤松氏が山名氏の築いた竹田城最後の城主となったのは、これも因縁だろうか。
赤松広秀は、関ヶ原合戦では西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めますが、西軍は敗戦しました。広秀は徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させましたが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は無城となりました。
竹田城は築城後約150年間存続しましたが、関ヶ原の合戦が終わり世の中が平和になると、江戸幕府の一国一城令により、竹田城は廃城となりました。
現在も頑強な石垣が残る山城の名城です。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【但馬の歴史】(38) 秀吉の但馬平定(1)

中国地方攻略

織田信長に中国地方攻略を命ぜられた秀吉は、播磨国に進軍し、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房、別所長治、小寺政職らを従えていきます。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高・官兵衛)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とします。一部の勢力は秀吉に従いませんでしたが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼします。

天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防(上月城の戦い)の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻したことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされます。

天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃、途上において竹中半兵衛や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降しました(三木合戦)。同年、但馬国の山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏におきました。

天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻しましたが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させました(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続きました。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置きました。

天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る高松城を水攻めに追い込みました(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請しています。
このように中国攻めでは、三木の干殺し・鳥取城の飢え殺し・高松城の水攻めなど、「城攻めの名手秀吉」の本領を存分に発揮しています。

但馬征伐

秀吉の第一次但馬平定は、天正五年(1577)十一月上旬より播磨を起点として開始されました(ただし、それより先の永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長が羽柴秀吉を但馬に派遣しています)。但馬征伐ともいいます。

しかし、播磨上月城主木器政範が叛したため秀吉は但馬を撤兵し、上月城攻撃に向かいました。上月城はわずか七日間で鎮圧しますが、戦線が播磨と但馬の両方に拡大することを避けたので、八木豊信はそのまま八木城に留まることができました。しかし、翌六年には、秀吉は竹田城を拠点に、但馬奪取を企画しており、養父郡の八木氏領あたりが織田氏と毛利氏の境界線となりました。

永禄12年(1569年)、山名祐豊(すけとよ)の時、羽柴秀吉に攻められ落城。天正二年(1574)ごろに祐豊は残った勢力を集めて、出石の此隅城から有子(こあり)山に「有子城」を築いて移りました。築城間もない翌年の天正三年十月、隣国の丹波国黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めました。隠居した山名祐豊と城主になった氏政には、これを抑える力はなく、助けを信長に求めました。部下の明智光秀を派遣して荻野直正を討たせました。光秀軍は奪われていた竹田城を取り返し、丹波に敗走して黒井城に入った直正を攻め、山名はやっとこの難から逃れることが出来たのでした。

但馬国は、織田信長が中国平定のために秀吉(実質は弟の秀長)による侵攻を二度受けることになりました。この侵攻を受けて山名祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地出石に復帰しています。

秀吉→山陽方面・山陰方面
光秀→畿内・丹波・山陰方面
第一次 但馬征伐(平定 1577)
第二次 但馬征伐(平定 1580)
弟の秀長軍…養父・出石・気多・美含・城崎の郡
藤堂孝虎軍…朝来・七美・二方の郡

天正五年(1577)秋、織田信長が中国の毛利氏を攻略するため、その先発隊を家臣の羽柴秀吉に命じました。秀吉は播磨国に兵を進め、姫路に本拠を構えることになるのですが、それには側面の敵でもある山名氏を討伐する必要があるので、北上して但馬国に入って太田垣氏の占領している生野城をはじめ山口の岩州城を落とし、高生田(たこうだ)城を攻め落とし、進んで太田垣朝延の竹田城をおとしいれた時、秀吉は播州一揆の起こったことを聞きました。直ちに、秀長に但馬の各城を攻略するように命じ、自分は播州へ引き上げました。このあと、秀長は勢いに乗って養父郡の多くの城を落とし、有子城(出石城)をめざして進んでいきました。先陣はもう養父郡小田村に着いていました。宿南城を焼き払い、浅倉ほうきから水生城を攻めてくると思いきや、出石城へ向かいました。出石へ攻め込んだ秀長軍は、思わぬ苦戦に悩まされました。有子城は山名氏の本拠だけあって、たやすく落ちません。

そのうちに近くの城主たちの反撃体制が整って、一世に立ち向かってきましたから、秀長は散々に敗北し、米地山(めいじやま)を越え、播磨へ逃げていきました。
記録によれば、秀吉の但馬平定によって但馬の城18が落ち去ったとあり、新しい装備をした秀吉軍のまえに山名勢はその敵ではなかったようです。こうして山名の名城 有子山城も名実ともに消え去りました。

第二次但馬征伐

天正七年(1580)、吉川元春は毛利派の垣屋豊続らの要請で、七月但馬に出陣し、美含郡(みぐみぐん)竹野まで進出しますが、背後で東伯耆の南条氏が織田方に離反したため急遽撤兵しました。これにより、但馬の毛利派は孤立してしまい、八木氏はこれを機に織田方につき、秀吉傘下に入ったものと思われます。

翌年(1580)一月、別所長治の播磨三木城を落とした秀吉は、三月に再び但馬征伐の兵を進めました。但馬の平定は弟の秀長に任せ、自らは因幡に侵攻しました。五月に山名豊国の籠もる鳥取城の攻撃を開始します。この時、八木豊信は秀吉に従って因幡攻めに参戦しています。

秀吉は鳥取城に対する城を築くと、攻撃を宮部継潤(善祥房)に任せて自身は播磨に転戦していきました。この時、豊信は若桜鬼ヶ城の守備に当たり、山名氏政は私部城、岩常城には垣谷光政が入り、但馬出身の武将を登用していることが注目されます。

同年九月、秀吉は再び因幡に入りますが、山名豊国は鳥取籠城を続けていました。秀吉は長期戦を覚悟して、周辺の地盤固めを行っただけで再び撤退しています。この時、豊信は智頭郡の半分を知行することを許され、若桜鬼ヶ城に在城しました。翌年の春ごろ、豊国は鳥取城を追放され、代わって毛利の武将・吉川経家が鳥取城に入城しました。 これとともに吉川軍の巻き返し攻撃があり、八木豊信は城を支えきれずに但馬に退去し、以後、豊信の消息は不明となります。おそらく、因幡に与えられた領地を守ることができなかったため、禄を失ったものと思われています。

のちに、豊信の子で垣屋氏の養子となっていた(異説あり)信貞の子の光政が再び八木姓を名乗っています。そして、光政は関ヶ原の合戦で徳川家康に味方したことで、拝領し徳川旗本となりました。八木守直は二代将軍徳川秀忠の近侍となり、四千石の知行を得て、子孫は徳川旗本家として続きました。

さらに、朝倉氏が但馬から越前に移った際に、行動を共にした八木氏もあり、その後裔が越前に広まっています。また別に、戦国時代の播磨国寺内城主に八木石見守がいました。ことらは代々赤松家の家臣であったといわれています。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

日下部氏流(2) 朝倉氏

朝倉氏の起源


三つ盛木瓜
(日下部氏流)

養父郡八鹿町朝倉(養父市八鹿町朝倉)は、越前国(福井県)の守護となって北陸に勢力を張った朝倉氏の出身地として知られています。この村の高さ60mばかりの山の上に残る城跡が朝倉城です。室町時代の末頃、朝倉大炊守(おおいのかみ)が城主であったといわれています。

朝倉氏は但馬最古の豪族、彦座王を始祖とする日下部(くさかべ)氏の一族で、平安時代末期に余三太夫宗高がここに居住し、地名をとってはじめて朝倉氏を称したといいます。朝倉氏が築いた3つの城(但馬朝倉城跡・但馬朝倉比丘尼城跡・但馬朝倉向山城跡)があります。宗高の子高清には興味深い話が伝わっています。

白猪を退治した豪傑高清と朝倉城

朝倉氏の歴史を述べた『朝倉始末記』によると、高清は豪勇の人として知られていました。寿永年中(1182~84)平氏にしたがって西国で戦いましたが、平氏の滅んだ時密かに逃げ帰り、七美郡(美方郡東部)小代谷の山の中の洞窟に隠れました。しかし、鎌倉方の平家残党さがしがきびしくなり、建久五年(1194)捕らえられて鎌倉へ送られました。

このころ鎌倉地方に長さ2.1mもある大きな白猪がいて、人々を襲い悩ませていました。対峙に出かけた者はことごとく殺されてしまう有様でした。

占ってみますと「西国に異様な姿をした武士がいる。その人なら必ず退治してくれるだろう。」ということです。高清は身の丈1.8m、色黒く体中毛に覆われ、熊の皮の衣服を着ていました。人々は高清を見て、「この人こそお告げの人だ。」と思い、そこで白猪退治を頼みました。これを引き受けた高清はm三七日の暇を与えてもらうことを願い出て、許されると彼は風のような早さで但馬に帰りました。わずか七日間であったといいます。そして七日七夜養父明神にこもり、一心不乱に神に祈りました。そして満願の夜のことです。いつものように神前におこもりをしていますと、深夜にわかに辺りが騒がしくなったと思うと、腹を揺さぶるような鳴動が起こり、神前のとびらが大きな音を立てて倒れました。と同時に、神々しい光が辺り一面にみなぎり、その光の中に尊いお姿が浮かびました。

「汝の願い聞き届けたり。すみやかにこの矢を持ちて関東に下り、白猪を撃て」とのお告げを聞き、「ハハ-ッ」とひれ伏した途端、高清は我に返りました。辺りは元の静けさに戻っていました。夢を見ていたのでした。うつろな思いで前の床を見て、高清は「アッ」と驚きました。ほの暗い光の中に夢で見たそのままの鏑矢(かぶらや)がそこにあるではありませんか。この矢を持ち、高清はいさんで鎌倉へ下りました。そしてめざす獲物に遭うと明神のお加護を祈りながら、ヒョーッと射ると、さしもの魔獣も一矢で倒されてしまいました。この功により高清はとらわれの身を許されて但馬に帰ることができました。

ところが、国にはまた意外なことが待っていました。高清の一族の者たちが高清の豪勇を恐れ、彼を亡き者にしようとはかっていたのです。このたびの大功で鼻を高くし、前以上に一族のものをさげすみはしまいかというのでした。建久六年(1195)5月23日、高清は帰る途中堀畑村(養父市)に泊まりました。その夜、一族の者たちは高清の寝所を襲い、あわやその命は風前のともしびとなって消えようとした瞬間、例の鏑矢が赤々と光を放って飛び出してきました。そして一族の者どもに襲いかかったのです。この不思議に圧倒され、一族の者どもは高清を撃つことができなかったのです。

かずかずの神徳をよろこんだ高清は、但馬に落ち着くと養父明神の近く、奥米地(養父市)に表米神社を建て、城崎郡の妙楽寺(豊岡市)には等身大の阿弥陀仏をつくって祭ったということです。

高清には鎌倉方に捕らえられるまでに一人の男の子がありました。関東へ下るにあたり、同族奈佐太郎知高の養子にやって奈佐氏を継がせました。奈佐春高といいます。帰ってからさらに四人の子をもうけましたが、最初の子を又太郎高景といい、彼に朝倉氏を継がせました。この子孫が朝倉城を築いたのです。高清から八代の孫広景は南北朝のころ越前に移り住んで活躍し、朝倉氏繁栄のもとをつくりました。また高清の三男次郎重清は八木荘(養父市八木)に、四男三郎右衛門尉高房は宿南荘(養父市八鹿町宿南)に、五男四郎清景は田公荘(美方郡西部)に住まわせました。それぞれの地名をとって姓としたのでした。

越前朝倉氏

数代下って、南北朝時代に広景が、足利方の斯波(シバ)高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、越前国坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍しています。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていきました。甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席。のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになります。

朝倉孝景(英林孝景)が守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立し、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追う。孝景は越前国守護に取り立てられ、一乗谷城に城を構えて戦国大名化に成功しました。孝景は分国法である『朝倉敏景十七ヶ条』を制定しました。

義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名です。

元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めました。ところが信長の妹お市の方を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻しました。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることにななりました。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の戦いが行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしましたが敗北してしまいました。
天正元年、信長は、古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害しました。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまいました。

出典: 「校補但馬考」「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家列伝さん他

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

室町 但馬守護 太田氏

[catlist id=34 orderby=title order=asc]

国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。

鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。
設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

■但馬守護
1185年~?  小野時広(惣追捕使)
1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
1285年~1321年 太田政頼
?~1333年 – 太田氏
1336年 今川頼貞
1336年~1338年 桃井盛義
1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
1340年~1351年 今川頼貞
1361年~1365年 仁木頼勝
1366年~1372年 長氏
1372年~以降1536年まで 山名氏

安達親長

但馬守護で最初に記録があるのは安達親長です。親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力しました。

豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

太田氏の繁栄と滅亡

むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘(おそらく大阪府高槻市土室)と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」に伺われます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。
武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

【たじまる】 村岡山名氏をたずねる


村岡山名氏ゆかりの兵庫県香美町村岡区に行って来ました。


村岡陣屋が置かれた御殿山

あいにく雪で断念しました。また別の機会に行きたいと思います。


武家屋敷

住んでおられ、手入れが行き届いています。


村岡山名氏菩提寺の法雲寺

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

たじまる 鎌倉-3

鎌倉時代

鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

5.国衙から守護へ

やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

6.但馬国司

■守護

  • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
  • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
  • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
  • 1285年~1321年 太田政頼
  • ?~1333年 – 太田氏
  • 1336年 今川頼貞
  • 1336年~1338年 桃井盛義
  • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
  • 1340年~1351年 今川頼貞
  • 1361年~1365年 仁木頼勝
  • 1366年~1372年 長氏
  • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
  • 960年頃 源経基
  • 1010年頃 源頼光
  • 1110年頃 平正盛
  • 平経正
  • 1130年頃 平忠盛
  • 1182年 平重衡(権守)
  • 矢沢頼康
    柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
    戸田氏西 美濃大垣藩主
    山口弘豊 常陸牛久藩主
    浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
    遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
  • ? 源満頼
  • 1224年 平有親
  • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
  • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
  • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

    7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

    その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。 聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

    この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

    地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

    ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

    8.安達親長

    安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

    源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

    9.源頼光と頼光寺

    3.頼光寺(らいこうじ)

    曹洞宗 但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

    頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
    気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

    10.太田氏の繁栄と滅亡

    むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

    ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

    その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

    昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

    前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

    このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

    昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

    以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

    武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

    11.大岡山と進美寺

    東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。 古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

    日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

    山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

    『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

    大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

    山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

    大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

    進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

    但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

    しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

    大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

    12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


    十二所神社 豊岡市日高町松岡

    承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。 首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

    雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

    「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」
    といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、
    「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

    と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

    この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

    今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 鎌倉-2

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

鎌倉時代

鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

5.国衙から守護へ

やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

6.但馬国司

■守護

  • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
  • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
  • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
  • 1285年~1321年 太田政頼
  • ?~1333年 – 太田氏
  • 1336年 今川頼貞
  • 1336年~1338年 桃井盛義
  • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
  • 1340年~1351年 今川頼貞
  • 1361年~1365年 仁木頼勝
  • 1366年~1372年 長氏
  • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
  • 960年頃 源経基
  • 1010年頃 源頼光
  • 1110年頃 平正盛
  • 平経正
  • 1130年頃 平忠盛
  • 1182年 平重衡(権守)
  • 矢沢頼康
    柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
    戸田氏西 美濃大垣藩主
    山口弘豊 常陸牛久藩主
    浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
    遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
  • ? 源満頼
  • 1224年 平有親
  • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
  • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
  • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。

聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

8.安達親長

安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

9.源頼光と頼光寺

頼光寺(らいこうじ)
曹洞宗

但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

10.太田氏の繁栄と滅亡

むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

11.大岡山と進美寺

東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。

古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


十二所神社 豊岡市日高町松岡

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」

といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、

「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 鎌倉-1

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

鎌倉時代

概 要

目 次

  1. 鎌倉時代設定のむずかしさ
  2. 武士政権の誕生
  3. 関東武士政権
  4. 二つの王権
 鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

1.鎌倉時代設定のむずかしさ

 日本の中世社会は600年という長きにわたる社会です。平安時代後期の平氏政権の成立(1160年代)から1568(永禄十一)年の織田信長の上洛(統一権力の成立)までを中世とするのが一般的です。院政時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代という時期区分が用いられてきました。これは権力の所在からの時期区分ですが、しかし、その長い年月は権力の分裂が著しく、たとえば、院政が終わって鎌倉幕府が成立したわけではないし、南北朝時代にはすでに室町幕府が成立していました。このように所在地による時期区分では捉えきれないのです。近世の始まりはいつとするのかが、成立期と末期とでは大きな違いも存在し、中世と一括りにできないですが、五味文彦氏は中世の時代的特徴を次の五つとしています。

  • 古代の中央集権に対し権力が統合されておらず、分権化の傾向が著しかった
  • 人々は自立による生存を求めていった
  • 神仏への信仰の広がりと文化活動の活発化
  • 日本列島各地の地域社会形成
  • 主従関係を基本とした多様な人間関係 始期については、従来源頼朝が将軍(征夷大将軍)に任じられた1192年とするのが一般的ですが、頼朝が平家打倒のために挙兵し御家人を統率する侍所を設置した1180年説、寿永二年十月宣旨で東国(東海道および東山道)の支配権を朝廷に公認された1183年説、対立する弟・源義経追討の名目で惣追捕使(後の守護)・地頭の設置権を獲得した1185年説、頼朝が上洛し権大納言・右近衛大将に任命された1190年説、また一部では1196年説など様々な考え方があります。この中で、壇ノ浦において平家を滅ぼし、さらに全国統治の基礎となる守護・地頭の設置権を獲得した1185年を画期とする考え方が現在では比較的有力です。

    ▲ページTOPへ

2.武士政権の誕生

 1179(治承)年11月、福原(神戸市)に引退していた前太政大臣・平清盛は、突如として数千の兵を率いて入京。後白河上皇の院政を強引に停止し、政治の実権を掌握しました。日本史上初めて、武士の政権が誕生したのです。

関白以下、多くの貴族が解任され、平家と良好な関係を持ち者が代わってその座を占めました。日本全国(六六ヶ国)のほぼ半数にあたる三二ヶ国が、平家とその与党の知行国となりました(その前は十七ヶ国)。たがて清盛の外孫にあたる幼い安徳天皇が即位し、福原への遷都が強行されました。

まず清盛の祖父正盛と父忠盛は、西国の受領を歴任しながら勢力を蓄えました。平家との縁が薄い東国と西国の境界、現在の中部地方に強固な防衛ラインを築きます。それ以西、畿内と西国を直接の地盤とした政権でした。

正盛・忠盛は、瀬戸内海沿岸の海に生きる武士団を勢力下に組み込む努力を重ねてきました。そのため、清盛の代になると、瀬戸内海を一括して掌握することが可能となりました。福原の外港として大輪田の泊が修造されました。海運の要衝である厳島(宮島)には平家一門の祈りを捧げる厳島神社がありました。
九州の海の玄関である博多には太宰府を平家が実質支配しました。厳島・博多からさらに中国大陸に向かいました。

宋からは絹織物・陶磁器・香料、それに大量の銭が輸入され、日本の金・水銀・硫黄や蒔絵・日本刀などが輸出され、これらの交易が平家に膨大な富をもたらしました。

知行国重視を明確に打ち出し、当時のすでに国衙を核として、留守所を形成していた在地領主たちに従属と忠誠を要求しました。見返りとして、国衙領における彼らの本領を保護・安堵しました。

▲ページTOPへ

3.関東武士政権

 「源平の戦い」といわれる一連の戦乱は、一体何だったのか。どちらが朝廷を守護するにふさわしい「武士の棟梁」であるかを決定する戦いだったと、また皇位をめぐる朝廷内の争いであるとか、いわれています。しかし、内乱の真の主役は、在地領主、すなわち武士たちであると考えられています。地方で生活する彼らは中央の朝廷の支配に不満を募らせていました。多くの税(米や特産物)を課せられ、大番役といって、しばしば膨大な費用で京都に上がり、朝廷の警備に当たらされる。隙を見せれば国衙に領地を奪われてしまいます。

誰も自分たちの利益を護ってくれる権力がないならば、自立するしかない。自立を勝ち取るための戦い、武士たちのいわば独立戦争、それが「源平の争乱」の実体なのです。

小さな各地の勢力は、その過程で武士の棟梁になるべき候補者が明らかになってきました。西国を中心とし、さらに宋との交易を重視した平家と、それに対し、東国武士の支持を得た関東の棟梁が源頼朝です。「一所懸命(一つの土地に命を懸ける)」という言葉があるように、御家人たちは土地に根ざして生活していた、動産よりも不動産が重視され、土地が主従関係をつないでいたのです。

▲ページTOPへ

4.二つの王権

 王権とは、周囲に従属を要求し、かつ他者の助力を必要としない自立した存在です。つまり、王は自らの統治に属する地域を掌握し、そこに生きる人々を自らの働きかけを因果関係として能動的に認識することです。

王権を維持するには、官僚組織と、強制力を行使する軍事力の常備が有効となります。ただし、官僚組織も軍事力も、王権の必要不可欠な要件ではありません。むしろ、自らの統治力を過不足なく服する人々を率いて立つ強固な決意を持つことこそが、中世の王たる証しです。

東の王たる将軍は、官僚組織(鎌倉幕府)と、強力な軍隊を有していました。これに対し、西の王たる天皇は、官僚組織は育成したが、軍事力を持っていませんでした。1221(承久三)年の承久の乱の敗戦により、朝廷の軍事力は幕府の手によって解体されてしまったのです。

多くの庄園を集積した後鳥羽上皇は、庄園の下司職や官職を与えることによって忠誠を誓う武士を京都に集め、朝廷の軍事力を形成しました。京都周辺の治安維持に多大な威力を発揮し、自信を深めた上皇は鎌倉幕府の打倒を目指しました。しかし、朝廷軍は関東の武士たちに敗北し、京都は占拠されました。上皇は捕らえられ、隠岐の島に流されてしまいました。

幕府は京都に六波羅探題を設置して、天皇が軍事力を再建できないよう監視の目を光らせました。朝廷は王権を支える要素として、伝統と祭祀権を強調する他はなくなりました。こうして天皇は伝統を体現する歴史的権威として、また仏教の法会や神事を主催する祭祀王として振る舞ったのです。

▲ページTOPへ

鎌倉藤紫(ふじむらさき)#a59aca最初のページ戻る次へ
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail