【たじま昔ばなし】 かっぱの恩返し  「赤石の者」襲わず(豊岡市赤石)

豊岡市赤石の玄武洞のすぐそば。道路脇にひっそりと立つ地蔵がある。明治時代に近くの川でおぼれた子どもをまつったものだという。

そこでは昔から、かっぱが出て子どもを引っ張るという言い伝えがあり、時々子どもがおぼれていた。

ある時、おじいさんが玄武洞近くの畑で草取りをしていると、子どもが近づいてきた。ところが頭に皿があり、かっぱが化けたのだと分かった。水浴びをしようとしつこく誘ってくる。おじいさんはかっぱのすきを見て捕まえてしまった。

「これまでたくさんの子どもを川へ引っ張ったな。もう許さんぞ」

「助けて」。かっぱは、命ごいに必死になった。川へ入るときに「赤石の者だぞ」と言ったら引っ張らないと約束し、毎日、魚を届けることも申し出た。

おじいさんは、かわいそうになってかっぱを逃してやった。それから毎日、玄関の木の鍵に魚が掛けられるようになった。しかし鍵を鉄に替えると、ぱったり途絶えてしまった。

引用:神戸新聞「但馬の説話探訪」 豊岡市赤石 (2004/08/28)

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【たじま昔ばなし】 淀の洞門 鬼とスサノオ対決

昔むかし、人が現れるよりずっと前の話。竹野の海岸に大きな鬼が住みつき、頑丈な金棒で山のふもとを一生懸命掘っていた。どうやら、岩をくりぬき、金棒でかついで、山ごとどこかへ運ぼうとしていたようだ。

大鬼はやがて、穴を貫通することに成功する。さあ、山を持ち上げようと腰を上げた瞬間、沖の方から大きな波が押し寄せてきた。さすがの大鬼も飲み込まれ、海の底に沈んでしまった。

鬼の振る舞いがあまりに乱暴だったため、海の神が腹を立てたのだ。後には洞門だけが残った―。

やがて人々が暮らし始めた竹野の村に、都から「淀の大王」を首領とする鬼の集団がやってきて、洞門を拠点に暴れ始めた。酒や食料を奪われた村人は、それまでの穏やかな生活が壊されてしまい、ほとほと困ってしまった。

そんなうわさを聞き付け、息巻きやって来たのがスサノオ。鬼を一匹ずつ投げ飛ばし、最後には大王もやっつけた。村には再び平和が戻ったという。

竹野町切浜 (2004/09/05)

専門的には海食洞(かいしよくどう)と呼ぶそうだ。波が岩山を少しずつ砕き続けた結果、地質の弱い部分が崩れてできる穴。但馬海岸一帯で広く見られ、竹野町切浜の「淀の洞門」もその一つとされる。  けれど、自然のメカニズムが解明されたのは、つい最近のこと。これまで親から子へ、子から孫へと長く語り継がれてきたのは、鬼とスサノオの伝説だ。

洞門は高さ約十五メートル、奥行き三十―四十メートル。近付いてみると、鬼の創造物だと信じた先人の気分が実感できる。

引用:神戸新聞「但馬の説話探訪」

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【たじま昔ばなし】 青倉さんの不思議な水(朝来市山内)

むかし、朝来(あさご)の伊由谷(いゆうだに)に、たいそう心の優しい、親孝行な息子が、年老いた父親といっしょに住んでいました。二人で小さな畑を耕すほかに、山に入って山菜や川魚をとって暮らしをたてていました。

ある春のことです。お天気がよい日を選んで、父親は近くの山へ入っていました。うどをとろうと思ったのです。うどが思いのほかたくさんとれるので夢中になってしまい、気がつくと遠く青倉山(あおくらさん)まで来ていました。

「あまりおそくなると、息子が心配するだろう」

父親は、うどを束ねて背負いましたが、立ち上がろうとしたとたんに足がもつれて、よろよろとたおれてしまいました。すると運悪く、さきほど自分がかり取ったうどの株の上にたおれこんで、切り株で右目をさしてしまったのです。

右目からは血があふれてきます。ひどい痛さをがまんしながら、父親はけんめいに歩いて、ようやく家まで帰り着きました。

息子は、父親が血だらけの顔で帰ってきたので、おどろきました。小さな山の村ですから、もちろんお医者さんなどいるはずがありません。井戸(いど)の水で手ぬぐいをしぼって、傷口を冷やしたり、いろいろと手をつくしましたが傷の痛みはひどくなる一方です。  とほうに暮れた息子は、必死になって神仏にいのりました。

そのうちに息子は、昼間のつかれもあってうとうととねむりこみました。

「高い山の滝(たき)まで行って、その水を取ってきてつけなさい」

真っ白な衣を着た老人が、息子の夢の中に現れてそう言ったところで、息子ははっと目を覚ましました。

「何ともふしぎな夢だ。けれど、もしかすると神様のお告げだろうか」

そう思った息子は、ねむっている父親を近所の人にたのみ、山へ入って滝をさがしました。

ところが滝はなかなか見つかりません。必死になって山という山を探しまわり、つかれきった時、小さな祠(ほこら)をみつけました。

「ああ、もう一度神様にお願いしてみよう」

息子が祠の前で手を合わせようと近づいてみると、水音が聞こえます。ふと見上げると、祠の上に滝があるではありませんか。

「これが、お告げにあった滝にちがいない」

大喜びした息子は、その水をくむと飛ぶように走って家まで帰り、父親の目を洗ってやりました。  するとおどろいたことに、あれほどの痛みがすうっと消えてゆき、父親の目は元通り見えるようになったのです。

この話を伝え聞いて、目の病気で困っている人たちが、山へ登って滝の水を求めるようになりました。そしてたくさんの人が、ふしぎな滝の水で目を治し、喜んで帰ってゆきました。こうして青倉山の水は、目によい水として知られるようになったのです。

それ以来、青倉神社の氏子(うじこ)たちは、うどを食べなくなったということです。


青倉神社

兵庫県朝来市山内権現谷82-1
祭神 和久産果神、倉荷魂神の二説がある

青倉神社(あおくらじんじゃ)は兵庫県朝来市の青倉山(811m)の中腹にある神社であり、善隆寺(納座地区)の奥の院とされている。

「目の神様」として知られている。巨岩の裏よりわき出る水は御霊水とされ、目の病気に効くと言われている。実際、微量のホウ酸が含まれているようである。巨岩をご神体とし、神社はそれに張り付くように建築されている。

国道312号沿いに参道の入口となる巨大な石造りの大鳥居がある(神社はこの地点より約7km先)。

引用:兵庫県立歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」

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【たじま昔ばなし】 出石乙女(いずしおとめ)

古事記によれば、「むかしむかし、出石(いずし)の里に、出石乙女(いずしおとめ)という、美しくて心のやさしい女神が住んでいました。

出石乙女は天之日樫(あめのひぼこ)の娘で、美しさも家柄も良かったので、多くの若い神々が競って結婚を申し込んだのでした。

ところで、秋山之下氷夫(あきやまのしたびおとこ)と春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)という二人の兄弟神も、この土地に若い二人の兄弟神がいました。
あるとき兄神が、弟神に向かって、

「私は出石乙女に求婚したが駄目だった。お前はどうだ?」

と、尋ねました。

「あはははっ、出石乙女といっても、ただの女です。このわたしがその気になれば、簡単なことですよ」

と、弟神が言ったので、兄神は笑いながら、

「そうか。もし成功したら、私の背と同じ高さの瓶(かめ)に一杯の酒と、山海の珍味をすべてやろう」

と、約束したのです。

弟神は、さっそくこの事を母神に話すと、母神は山から藤の葛(かずら)を取ってきました。

そしてそれで衣服を織り上げて、弟神にそれを着させると、乙女の家に行かせました。

すると不思議なことに、弟神が乙女の前に出ると着ていた衣がいっぺんに藤の花に変わり、ついに弟神は乙女の心を得ることができたのです。

やがて二人は夫婦となり、毎日幸せに暮らしていました。
ところがこれをねたんだ兄神は、約束した品物を弟神に贈らなかったのです。
さあ、この様子をすべて見ていた父神は、

「兄とはいえ、弟との約束を破るとは何ごとだ!」

と、約束を破った兄神に呪文をかけたのです。

そのため、兄神は日増しにやせ細って、病の床につくようになりました。
そしてそれから八年もの間、兄神は父神に泣いて許しをこうたのです。
そこで父神はこれを許して呪文もとかれたので、やがて兄神も元気になって、その後は平穏な日々が続きました。

今でも出石町桐野(いずしちょうきりの)には、出石乙女を祭ったといわれる御出石神社(みづしじんじゃ)が残っています。」

註…津田左右吉は、『古事記』独自説話はほとんど皇室になんらかのかたちで関係する説話であるのに、この出石乙女の話はまったく皇室とは関係ない説話として登場していることを不思議がっている。

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【たじま昔ばなし】 竹田城にまつわる昔ばなし

千石の米を食べた千石岩

竹田城は三百㍍もある山上に築かれています。こんな高いところにどうして城をつくったのでしょうか。今のように機械の力があっても並大抵のことではないのに、人の肩と手と足をただ一つの頼りとした五百年も昔では、考えることもできない大変なことだったのでしょう。

竹田の町はいうまでもなく、但馬の国中から、遠いところでは鳥取や岡山あたりからも、築城のために多くの町人や百姓が駆り出されて十三年もの間、明けても暮れても労役として使われました。あまりの苦しさにこの十三年間に、村中みんな夜逃げをするところも多く、驚いた築城奉行は、「夜逃げをする者は一家一族死罪にする。」というふれ札を立てました。このふれ札は今でも残っています。この話一つでも、城を築くために町人や百姓がどんな苦労をしたかわかるようです。

また竹田の町でも広くてよく米がとれるので、加都千石と呼ばれましたが、加都の畑に松の木が生えて田は荒れてしまうという、想像もできないような話も残っていて、築城の大変な有様が目に見えるようです。

ところで、竹田城の北側の門をつくるために、とても大きな石がいることになり、竹田河原に手頃な石が見つかったので、これを山に上に引き上げることになりました。
ろくろをはじめ、その時代にあったありとあらゆる道具を利用し、大変な数の人が毎日毎日汗を流して死にものぐるいで引き上げましたが、ようやく中腹まで運んだものの、それからは一ミリも動かなくなってしまいました。

ありとあらゆる力を振りしぼっても、全くだめでした。さすがの築城奉行も思いあまって、この石をその場にうち捨ててしまいました。そして、この石を河原から山の中ほどまで運ぶのに千石のお米を食べてしまったということです。いつしか人々はこの石を千石岩と名づけて、築城の苦しさをかたる話の種にしたよいうことです。

水源とみつばうつぎ

人間が生きていくためには、水はなくてはならない者ですが、300mもの山上に築かれた山城の竹田城に入る水は、どこからどうして求めたのでしょうか。

竹田城の西裏にある大路山の滝谷といいうところから、約2kmもの長い間を銅管を引いて城に水を送りました。ところが合戦のあった時、敵にこの水源を見つけられると、城は一日ももたないで落城してしまいます。水源を隠さなければなりません。城主は考えに考えたあげく、この滝谷に寺を建ててごまかしました。これを香華院千眼寺といいます。はじめは水源の無事を祈って千人の願いを封じこめたので千願寺と書いていましたが、いつの間にか千眼寺となりました。今でもここに寺があったあとがはっきり残っています。

もうひとつの謎が残されています。

「黄金千両 銀千両 城のまわりを七まわり また七まわり七もどり 三つ葉うつぎのその下の六三がやどの下にある。」

という不思議な歌が伝えられていますが、これはおそらく水源や銅管のあり場所を、暗号に伝えたものでしょう。のちの時代に欲の深い男が、これは城が落ちる時に、城の金や宝を隠した場所をいったものであろうというので、本気になって山の中をあちこち掘りまわって物笑いになったという話しもあります。しかし、城にとっては、黄金千両、銀千両に代えることのできない水源であり、銅管であったことは間違いありません。

雨乞いの神様三谷神社の由来

竹田城主太田垣宗寿(むねひさ)の時代のことです。
ある日突然、太田垣氏の主君である出石の山名氏から使いが竹田城にやってきました。上使をもてなすために、数々のご馳走が出され、城中の多くの女の人が給仕をしました。その中に絹巻という十七才になる美しくてかしこくやさしい娘がいました。上使は絹巻の様子を見込んで、出石の本城に連れて帰りたいと宗寿に頼みました。宗寿は絹巻を手放すことをかわいそうに思いましたが、主人に当たる出石城の使いの頼みであるので、仕方なく絹巻をいいふくめて出石に行くようにすすめました。

さて、その夜は大へんな嵐となり、夜が明けた城山の麓の三谷ヶ淵は昨夜の大雨に水かさを増し、ものすごい有様でした。そのにごり水の中に、絹巻の死体が浮かんでいるのを村の人が見つけました。かわいそうに絹巻は、永年住み慣れた竹田城を離れたくはなかったのですが、主人宗寿の命令にそむくわけにもいかず、考えにあまってこの淵に身を投げたのでした。これを聞いた人々は絹巻きを憐れんで、小さいほこらを造りその霊をとむらいました。そして、いつしかこのほこらを三谷神社と呼ぶようになったのです。

さてその後、この淵に時おり白い蛇が姿を見せるようになりました。ところがある夏のこと、近年にない大日照りで百姓たちは困り果て、この三谷ヶ淵に水を取りに集まりました。水を取ろうとすると、どうしたことか、かんかんでりの青空は急に黒雲となったかと思うと、立ってもいられないほどの大雨となり、村人たちは、これは絹巻の変身である白蛇様が、滝壺の水がなくなって自分の姿を見られると恥ずかしく思い、大雨を降らしたのだと喜ぶとともに、さらに絹巻の霊を厚くとむらったということです。

それからは、この三谷神社は雨乞いの神様として、村人から信心され、大切にされたのです。

武士の恩がえしとつくし

天正九年(1581)のことです。播磨赤松氏の律師光影が二人の家来を連れて竹田城に乗り込んできました。

城主は五代目太田垣朝延でした。軍使は朝延に、ただちに赤松氏に降参し城を明け渡すようにと迫りました。これを聞いた朝延は怒って、軍使三人を大路山滝谷ヶ原で切り捨ててしまったのです。ここで、赤松氏と太田垣氏の戦いの火蓋が切られたのです。

その後何年か経ったとき、村人たちはこの切られた三人の侍の霊を慰めるために、三体の石地蔵をつくって、手厚く祭りました。ところが妙なことに、この滝谷ヶ原付近は、昔からつくしが一本も生えない土地であったのに、このことがあったあくる春からこの地蔵堂の付近だけ、つくしがたくさん生え、村人たちを驚かせました。

これは地蔵様のお陰であるとともに、霊をとむらった武士の恩がえしであろうと、それからのち、毎年春の一日を村人たちは、つくし取りに楽しむようになりました。

庵主を救った人食い地蔵

城が落ちた時、裏山づたいに密かに逃れ出た一人の若い女がありました。

敵の目をかすめてようやく辿り着いたのは、城からさして遠くもない久留引の村でした。助けを求められた村人たちは哀れに思い、かくまうとともに、小さい庵を建てて堂守にしました。この庵主となった女は、明けても暮れても、戦死した竹田城の勇士の霊をとむらって仏に仕えていました。また、何くれと村人たちの世話をするので、立派な尼さんだと大へん大事にされました。

ある夜、賊がこの庵を襲った時のことです。庵主に斬りつけた賊の刀が、門前にまつられていた石地蔵に当たり、庵主は危ないところを逃れることができました。そしてその拍子に倒れた地蔵様の下敷きになって、賊はついに死んでしまったのです。まさに仏ばちがあったわけです。その後、村人たちはこの地蔵様を人食い地蔵と呼ぶようになりました。

どういうわけかと土地の物知りに聞くと、庵主が一生懸命に仏様に仕えたので、地蔵様が身代わりになられたことをある名高い坊さんが聞かれて、施徳地蔵といわれたのを、いつしか人食い地蔵となまっていうようになったのだとのことでした。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

【たじま昔ばなし】 本当は恐い?!「通りゃんせ」伝説(朝来市生野町)

「佐渡の金山、生野(イクノ)の銀山」として知られる銀の町として有名な兵庫県生野。生野鉱山は約1200年前に開坑されたとも伝わる古い鉱山で、操業時の坑道は地下880m・坑道の長さ延べ350kmにも及び、採掘した鉱石は、金・銀・銅・亜鉛など70種類にも及びました。山名・織田・豊臣・徳川の直轄地を経て、明治22年以降皇室財産になりましたが、明治29年には三菱に払い下げられ昭和48年にその長い歴史を閉じました。

要衝の地に有りながら、町の中央を流れる市川の度重なる氾濫や、鉱毒の為に、田畑を耕しても育たず民家も少なかったので、あまり人の住めるところでは無かった様で、「死野」とも呼ばれていたようです。「播磨国風土記」には、垂仁天皇が「死野」から「生野」にするよう言ったと言う話も伝わります。もし生野に鉱山がなければ人は住まなかっただろうとさえいわれ、鉱山とともに栄えた町です。

童謡「とおりゃんせ」は、垂仁天皇の頃の本当は恐ろしい神の伝承だというものです。

「最新 日本古代史」恵美嘉樹著によると、
自由に坂道を往来する10人の旅人の5人を殺し、残りの5人を通す。20人が通ればそのうち10人は殺す。

『播磨風土記』で、「生野というところは、むかしこの地に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を殺した。このため死野(シニノ)と呼んだ。」とも一文である。童謡「とおりゃんせ」の原型ともいわれるが、この恐ろしい神の居場所は、但馬、丹波、播磨の3つの国の国境地帯にあり、近くには但馬一宮 栗鹿(アワガ)神社がある。祭神のアメミサリは神社の背後にある粟鹿山に鎮座します。大国主(オオクニヌシ)の子とされているが、元来はこの要地に独自の関所をもうけた氏族の神であったのだろう。そこに大和の三輪山の神官家のオオヒコハヤが颯爽と現れ、この粟鹿神を鎮めて、五穀豊穣の神にしてしまった。

神社の北側には、古代国家によって全国に張り巡らされた道路網の一つ、山陰道が通っている。近年、沿道から「駅子(エキシ)」と書いた木簡(墨で書かれた札)が発掘された(柴遺跡は朝来郡山東町)。

「駅」とは古代の緊急連絡網のために設けられた施設のこと。都までつながる道に等間隔に設置された。駅には馬が常時つながれており、緊急連絡がある場合、次の駅までリレー式に早馬で伝達していくわけだ。緊急でない場合は一役人も使っていた道でもありました。ちなみに陸上競技の駅伝の語源でもある。

この「駅子」の発見から、付近に駅があり、粟鹿神社の地が交通の要所であることがわかり、伝説の信憑性が裏付けられた山陰道など古代の道路網は飛鳥時代に整備されたといわれている。

交通の要衝で、荒ぶる神が通行人の半数を妨害し危害を加えるという伝承は、古代社会ではわりとポピュラーで、同じタイプの伝承は数多くみられる。神話学では「行路妨害」と分類されるこの伝承は、先住民が土地支配の正当性を語る思いが込められているのだという。地方豪族がまだ完全にヤマト王権に従属していなかった時代には、激しい縄張り争いから境界に見張りをつけ、場合によっては危害を加えた、といったことが日常頻繁にあったに違いない。「行路妨害」-それは地方の豪族が自らの土地を守る最大の抵抗だったのであり、境界が有名無実化した後世になって伝承として伝えられたのかも知れない。」

池田古墳(前方後円墳)や近年発見された「茶すり山古墳」(朝来市和田山町筒江)は、5世紀前半に築造された円墳で、直径は90mを測り、円墳としては近畿最大、全国でも第4位という大古墳が見つかりました。かりに朝来氏、粟鹿氏といった但馬王というべき豪族がいたことを裏付けます。

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