4 第四巻・城崎郡故事記 現代語

天照国照彦饒速日天火明命(*1)は、
アマテラス(天照大神)の命によって、外祖・タカミムスビ(高皇産霊神)より十種瑞宝(奥津鏡1・辺津鏡1・八握剣1・生玉1・死去玉1・足玉1・道反玉1・蛇比札1・蜂比札1・品物比札1)を授かり、后のアメノミチヒメ(天道姫命)といっしょに、

サカヘノアマツモノノベ(坂戸天物部命)・フタタノ 〃 (二田天物部命)・シマヘノ 〃 (嶋戸天物部命)・ナミツキノ 〃 (両槻天物部命)・タルヒノ 〃 (垂樋天物部命)・アメノイワフネ(天磐船命)・アメノフナヤマ(天船山命)・アメノカジトリ(天揖取部命)・イキシニギホ(稲年饒穂命)・タケニギホ(長饒穂命)・サクツヒコ(佐久津彦命)・ササウラビメ(佐々宇良毘売命)・ササウラビコ(佐々宇良毘古命)・サキツヒコ(佐伎津彦命)らを率いて、天の磐船に乗り、タニワ(田庭)の真名井原に降り、

トヨウケ(豊受姫命)に従い、五穀蚕桑ゴコクサンソウの種子を得て、射狭那子嶽イサナゴダケに行き、真名井を掘り、水稲や麦・いも・アワの陸種をつくるために、大小の田に植え、昼夜生井・栄井イクイ・サクイの水を引く。その秋には垂穂の長い穂が所狭しく一帯に広がった。

豊受姫命は、これを見て大いに喜び、「大変良い。これを田庭に植えなさい」と皆にいった。

そして豊受姫命はアメノクマビト(天熊人命)に、アメノホアカリに従って田作りの事業を補佐をさせて、そしてのち、高天原に上って(帰って)いった。

したがって、この地を田庭タニワという。丹波タンバの名はこれに始まる。

そのあと、アメノホアカリは五穀蚕桑の事業を国中に起こし、大いにおおみたから(蒼生)を幸福にした。

この時、オオナムチ(国作大巳貴命)・スクナビコナ(少彦名命)・ウカノミタマ(蒼魂命)は、諸国を巡って見て高志国(越の国)にとどまり、アメノホアカリを呼んで言った。
「あなたは、この国を治めるのがよい。」
アメノホアカリは、大いに喜び言った。
「永世です。青雲の志楽国」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる)
それでこの地を志楽国という。(京都府舞鶴市志楽あり)

アメノホアカリは、これより西に向かい、タニマ(谿間)に来た。清明宮スアカリノミヤに駐まり、豊岡原に降り、御田を開き、垂樋天物部命に真名井を掘らせ、御田に灌水する。

するとその秋、垂穂の長い穂が一帯に広がった。
それでその地を豊岡原といい、真名井を名づけて御田井という。のち小田井に改める。

アメノホアカリは、また南に向かい、佐々前原に至り、磐船イワフネ宮に止まる。
サクツヒコ(佐久津彦命)を、篠生原シノイクハラに就かせ、御田を開き、御井を掘り、水を引く。

後世、その地を真田サナダ稲飯原イナイハラという。(いま佐田伊原サタイハラという。現在の豊岡市日高町佐田・道場稲葉川南岸)これが気多ケタ佐々前ササノクマ村である。

サクツヒコは佐久宮に坐し、アメノイワフネ(天磐船命)は磐船宮に坐す。
アメノホアカリは、またアメノクマビト(天熊人命)を夜夫ヤブに遣わし、蚕桑の地を探させる。アメノクマビトは夜父の谿間タニマに就き、桑を植え、蚕を屋岡ヤオカう。それで谿間の屋岡原と云う。谿間の名はこれに始まる。(谿間は但馬の古名)

アメノホアカリはこの時、浅間の西奇霊クシヒ宮に坐し(式内浅間神社)、アメノイワフネの子、船山命を供にまつる。

サクツヒコは、ニギハヤヒの妃、アメノミチヒメ(天道姫命)の侍婢、シマヘノアマモノノベの娘、佐々守良姫命を妻にし、サキツヒコ(佐伎津彦命)を生む。

アメノホアカリは、サキツヒコに命じて、浅間原を開かせる。サキツヒコは小田井をたえ、これを御田にそぐ。

それで稲栄大生原イナサノオオイハラという。(今の伊佐・大江)

サキツヒコは、タルヒノアマモノノベの娘、ミイツヒメ(美井津比売命)を妻にし、アルチ(阿流知命)を生む。

サキツヒコとアルチは花岡宮に鎮まり坐す。この地の開発祖神である。

アメノフナヤマ(天船山命)は、船山宮に坐(いま)す。
アメノミチヒメ(天道姫命)は、浅間の東奇霊クシヒ宮に、アメノホアカリ(天火明命)は、西奇霊宮に鎮まり坐す。
ミイツヒメ(美井津姫命)は、深谷の宮に鎮まり坐す。

その時、オオナムチ・スクナビコナ・ウカノミタマは、高志国(越の国:福井・石川・富山・新潟)より帰り、御出石県ミズシアガタに入り、その地を開いて、この地に至り、アメノホアカリを招集して、

「なんじは、この国を治めなさい」といった。

アメノホアカリは大いに喜び、

「あな美し永世です。青雲弥生国(*2)なり」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる)と。

オオナムチはウカノミタマに、「アメノクマビトとともに心を合わせ、力をともにし、国作りの事業を助けなさい。」と教えられた。

2人の神は、アメノホアカリに、比地の原を開かせ、
タルヒノアマモノノベに、比地に行き、真名井を掘り、御田を開き、水を引く。すぐに垂穂が秋の野一帯に充ちた。
それでこの地を比地の真名井原という。(比地は霊異の意味。比地県はのち朝来郡)
アメノホアカリは、
イキシニギホ(稲年饒穂命)を小田井県主とし、(小田井県は、のち黄沼前県、その後、城崎郡)
イキシニギホの子、タケニギホ(武饒穂命)を美伊県主とし、(美伊県は、のち美含郡)
サクツヒコを佐々前県主とし、(佐々前県は、のち気多郡)
サクツヒコの子、サキツヒコを屋岡県主とし、(屋岡県は、のち養父郡)
イサフタマ(伊佐布魂命)の子、イサミタマ(伊佐御魂命)を比地ヒジの県主とする。(のち朝来郡)

アメノホアカリは、それぞれの役目の神を率いて、天の磐船に乗り、美伊県に至る。その時、狭津サヅ川(のち佐津川)より黄色の泥水が流れ出て、船を黄色にした。それでこの川を黃船川という。
御船はイカリ山に泊まり、川の瀬戸を切り開き、瀬崎を築いた。その水嶋山のうしろに漂う。せれで水ヶ浦という。
アメノホアカリは黄船宮に鎮まり坐す。

タケニギホは、オオナムチの娘、ミイヒメ(美伊比咩命)(またの名は、または木俣命・白山比咩命)を妻にし、タケシマ(長志麻命)を生み、狭津の美伊宮に鎮まり坐す。(式内美伊神社:兵庫県美方郡香美町香住区三川87-1)

アメノホアカリの神としてのしごとは終わり、徳は大いにあり。美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡回し、田庭国(丹波)を経て、河内に入り、哮峰イカルガミネに止まり、大和白庭山に至る。跡見アトミノ酋長跡見長髄彦ナガスネヒコの妹、ミカシキヤヒメ(御炊屋姫命)を妻にし、ウマシマジ(宇麻志麻遅命)を生む。

アメノホアカリは高天原におられる時、アメノミチヒメ(天道姫命)を妻にし、アメノカグヤマ(天香久山命)を生む。
アメノカグヤマは、アメノムラクモ(天村雲命)を生み、
アメノムラクモは、アメノオシオ(天忍男命)を生み、
アメノオシオは、アメノトメ(天砺目命)・タケノヌカアカ(武額明命)を生み、
アメノトメは、タケノトメ(武砺目命)を生み、
タケノトメは、タケダセ(武田折命)・タケノワネ(武碗根命)を生み、
タケノヌカアカは、武筒草命・武波麻命を生み、
武波麻命は、大佐古命を生み、
大佐古命は、吉備津彦命を生み、
武筒草命は、武田背命を生み、
武田背命は、建諸隅命・建田姫命・建日方命を生み、
建日方命は海部直命を生む。

アメノホアカリは、天熊人命の娘・熊若姫命を妻にし、イキシニギホ(稲年饒穂命)を生む。また、瞻杵磯丹穂命。稲年は瞻杵磯と訓むべき、稲年の古語は瞻杵磯または瞻杵都御年また意杵都御年なる。
稲年饒穂命は、ナミツキノアメノモノノベの娘・映愛姫命を妻にし、タケニギホ(長饒穂命)を生む。
サカヘノアメノモノノベは、イツオハシリノカミ(稜威雄走神、別命:天之尾羽張神)の御子であり、豊御食トヨミケを司る。したがって、コウジノアメモノノベ(香餌天物部命)という。香餌宮に坐す。香餌大前神はこれである。
フタタノアメノモノノベは、天鳥姫命の子にして御船の楫をとる。それでカジヘノアメノモノノベ(楫戸天物部命)という。楫戸宮に坐す。楫戸大前神である。
シマヘノアメノモノノベは、アメノハヅチ(天葉槌男命)の御子で御帆前に坐す。それで帆前ホマエ天物部命という。帆前宮に坐す。帆前大前神である。
ナミツキノアメノモノノベは、シマヘノアメノモノノベの御子にして御苑を司どる。それで御苑天物部命という。高屋宮に坐す。御苑大前神である。それで両槻天物部命という。
タルヒノアメノモノノベは、フタタノアメノモノノベの御子で真名井を司る。それで真名井天物部命という。垂樋宮に坐す。真名井大前神である。
アメノイワフネノオサ(天磐船長命)は、アメノイワクスフネ(天磐楠船命)の御子で御船を司る。それで船長天物部命という。磐船宮に坐す。御船大前神である。
アメノフナヤマ(天船山命)は、天磐船長命の御子で船山宮に坐す。
アメノカジトリ(天楫取部命)は、カジヘノアメノモノノベ(楫戸天物部命)の御子である。

サクツヒコ(佐久津彦命)はナミツキノアメノモノノベの御子である。佐久宮に坐し、シマヘノアメノモノノベの娘・佐々宇良毘売命を妻にし、佐伎津彦命・佐々宇良毘古命を生む。(註 娘は孫娘の誤伝または誤写と思う)
サキツヒコ(佐伎津彦命)は、花岡宮に坐し、佐々宇良毘古命・佐々宇良毘売命は三島宮に坐す。(佐々宇良は豊岡市楽々浦であろう)

以上諸神は、みな国作りの事業に参与したという。

第1代神武ジンム天皇3年(BC658年)秋8月 ニギハヤヒの子・イキシニギホ(瞻杵磯丹穂命)を谿間小田井県主とする。

瞻杵磯丹穂命は、父の旨を奉じ、オオナムチを豊岡原に斎きまつり、小田井県神社と称えまつり、帆前大前神の子、帆前斎主命を使わして、御食の大前に使えまつる。(式内小田井県神社:豊岡市小田井町15-6)
またニギハヤヒを州上スアガリ原に斎まつり、清明スガ宮と申しまつる。
瞻杵磯丹穂命は、のち山跡国(大和国)に帰る。

第2代綏靖スイゼイ天皇23年(前559年) ウマシマテ(甘美真手命)の子、ウマシニギタ(味饒田命)を小田井県主とする。亀谷宮にあり、これもまた山跡国に帰る。

第4代懿徳イトク天皇33年(前478年)夏6月 味饒田命の子・佐努命を小田井県主とする。佐努命は味饒田命を亀谷宮に祀る。

第5代孝昭コウショウ天皇80年(前396年)夏4月 佐努命の子・与佐伎命を小田井県主とする。与佐伎命は佐努命を佐努丘に葬る。

第6代孝安コウアン天皇67年(前326年)秋9月 与佐伎命の子・布久比命を小田井県主とする。布久比命は与佐伎命を都留居丘に葬る。布久比命は奈佐を開く。(式内与佐伎神社:豊岡市下鶴井字上ノ山2456)

第7代孝霊コウレイ天皇62年(前229年)秋7月 布久比命の子・美々井命を小田井県主とする。美々井命は布久比命を登地江に葬る。美々井命は父の後を受けて奈佐を開く。

第8代孝元コウゲン天皇56年(前159年)夏6月 美々井命の子・小江命を小田井県主とする。
小江命は大浜を開き、オオナムチを小江丘に祀る(式内小江神社:豊岡市江野1452)。小江命は美々井命を宮江(今の豊岡市宮井)に葬る。(式内耳井神社:豊岡市宮井字大門215)

第10代崇神スジン天皇9年(前89年)秋7月 小江命の子、穴目杵命を(小田井県改め)黄沼前県主とする。
10年(前88年)丹波国青葉山の賊、陸耳の御笠は、群盗を集め、民の物を略奪する。その党の狂の土蜘蛛は久流山(来日岳)にいて、所々に出没し、良民を損なう。その勢いは大変さを極める。

(以下は、第一巻・気多郡故事記に重複するので割愛)

11年(前87年) アナメキ(穴目杵命)は新田を開く。これを新墾田という(新田村、今の豊岡市新田)。

第11代垂仁スイニン天皇45年(西暦16年)夏6月 穴目杵命の子・来日足尼命を黄沼前県主とする。来日足尼命は穴目杵命を篠丘に葬る(式内穴目杵神社:豊岡市大篠岡377-1)。

第12代景行ケイコウ天皇32年(102年)秋7月 伊香色男命の子・大売布命を黄沼前県主(気多県主兼務)とする。
大売布命は気多の射楯宮にありて、この地を領知する。来日足尼命はその久流比宮に鎮まり坐す(式内久流比神社:豊岡市城崎町来日ロ587-2)

第13代成務セイム天皇46年(176年)冬10月 丹波六人部連の祖、武砺目命の子、多遅麻海部直の祖、武田背命を黄沼前県主とする。

第14代仲哀チュウアイ天皇2年(193年) 天皇は皇后の息長帯姫オキナガタラシヒメ命(神功皇后)と百人の群臣とともに越前笥飯ケイ宮(気比神宮)に行幸される。そして、皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡行し紀伊に至られる。

この時、たまたま熊襲クマソがそむいた。(九州南部)
天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后と穴門国(長門国、今の山口県)で会うことを教え、自らは海から穴門国に至られる。

皇后は越前角鹿(今の敦賀)より御船で北海キタノウミ(日本海の当時の名)に取り、若狭(丹波の誤り)の加佐・与佐・竹野タカノ海(今の京丹後市丹後町竹野)を経て、多遅麻タヂマ国の三嶋水門ミシマミナト*3)に入り、内川(今の円山川)を遡り、伊豆志大神(出石神社)に詣でられる。
伊豆志県主の須賀諸男命は、子の須義芳男命を皇后に従わせる。
須義芳男命は、豪勇にして力があり、射狭浅太刀を脇に差し随身する。これを荒木帯刀部命という。

皇后は下って、小田井県大神(神社)に詣で、水門ミナトに帰り泊まられる。
ある夜、越前笥飯宮の五十狭沙別大神が夢に現れ、皇后に教えて曰く、
「船で海を渡るには、当然住吉大神を御船に奉れ」と。

皇后は謹んで教えにしたがい、
底筒男神・中筒男神・表筒男命を御船に祀られた。船魂大神である。
いま住吉大神を神倉山に祀るのは、これがもとである。
また御食を五十狭沙別大神に奉る。それでこの地を気比浦という。のちに香飯大前神13世の孫、香飯毘古命は五十狭沙別大神・仲哀天皇・神功皇后をこの地に斎きまつるという。(式内気比神社:豊岡市気比字宮代286)

皇后の御船がまさに水門を出ようとする時、黄沼前県主の賀都日方武田背命は、子の武身主命を皇后に従い、嚮導キョウドウ*3)をする。それで武身主命のまたの名を水先主命という。

御船が美伊(のち美含)の伊佐々の御碕に至り日が暮れる。五十狭沙別大神は御火を御碕に現し、これによって海面が明るくなる。それで伊佐々の御碕という。
御火は御船を導き、二方の浦曲に至り止まる。それでその地を御火浦という。
五十狭沙別大神を御碕に祀るのはこれに依る。(式内伊伎佐神社:兵庫県美方郡香美町香住区余部字宮内2746-2)

皇后はついに穴門国に達しられる。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、海上鎮護の神とする。水先主命は水先宮に坐す。水先主命の子を海部直とするのはこれに依る。

神功皇后は、新羅親征の元年(201年)春3月 武田背命を奉幣使とし、新羅降伏を粟鹿神に祈り、幣帛を納める。

(この頃より耐えず歯向かう韓国について詳細は気多郡故事記)

3年(203年)春3月 粟鹿神の神徳が顕れたので、社殿を造営し、勅使門を建てる。
また武身主命に潮涸る珠(*5)を相殿に納め、祀らせる。これを沫和神といい、また住吉大神を合わせ祀る。(粟鹿丘に祀り、また気比の神倉山に祀るのを船玉神という)
また武田背命に小田井県神に幣帛を納め、新羅の降伏を祈らせる。

3年春2日 神徳が顕れるのをもって、社殿を造営し、幣帛を納める。武身主命を黄沼前県主とし、幣帛を納め、祭祀を行わせる。武身主命を水主臣という名を賜る。水主直の祖である。
オオナムチ・アメノホアカリは上座にあり、
水先主命斎く所の表津海童神・底津海童神は下座にあり。
すなわち小田井県神を海神とするのはこれに依る。

第15代応神オウジン天皇3年(272年)夏4月 大山守命に山海のマツリゴトを統治させる。大山守命は、多遅麻国黄沼前県主、水主命の子、海部直命を、当国の海政を行わせ、当国の海部を司る。

第16代仁徳ニントク天皇10年(322年)秋8月 水先主命の子、海部直命を(黄沼前県主改め)城崎郡司(*6)、兼海部直とする。
海部直命は諸田の水害を憂い、子の西刀宿祢命に命じて、西戸水門を浚渫(*7)させる。
それによって、御田はたわわに生るという。海部直命は水先主命を深坂ミサカの丘に葬る(式内深坂神社:豊岡市三坂字見手山76-1)

第17代履中リチュウ天皇 海部直命の子、西刀宿祢命を城崎郡司とする。西刀宿祢命は海部直命を気比の丘に葬る。
海部直命は、在世中は仁政多くあり。故に農民・漁民など父母を亡くしたように哀悼し泣く。そのあと相談して国司に請い、祠を建て祀る。海神社はこれである。
この由緒により、天災風害があれば必ず祓い、不漁のときは必ず祈る。
ある日、御霊が信者に告げた。
「海を守るは黄沼前宮に坐す海童神にあり。
船を守るは神倉宮に坐す船魂神にあり。
この海童神をこの地に勧請し、歳時にこれを斎き祀れ。
われ風災のたびにこの神などに供しまつり、難船を救わん。もし社頭に不時の神火が顕れれば、すなわち災いが起きるものと思え」と。
地元の民は、これを城崎郡司、西刀宿祢命に申し上げた。

西刀宿祢命は国司に請うて海童神・船魂神を遷し祀り、神人を置き、気比義麿をもって奉仕させる。

第21代雄略ユウリャク天皇2年(458年)秋8月 西刀宿祢の子、桃嶋宿祢を城崎郡司とする。桃嶋宿祢は西刀宿祢を瀬戸の丘に葬る。西刀宿祢はまたの名を阿刀宿祢という。(式内西刀神社:豊岡市瀬戸字岡746)

第25代武烈ブレツ天皇7年(504年)夏5月 味饒田命の末裔・熊野連を城崎郡司とする。
熊野連は味饒田神を氏神となし、改めてこれを斎きまつり、久麻神社と申しまつる(式内久麻神社:)。
また両槻天物部命の末裔・波多宿祢に桃嶋宿祢命を桃島の丘に祀らせる(式内桃島神社:豊岡市城崎町桃島字宮脇1339-1)

第30代欽明キンメイ天皇25年(564年)冬10月 大売布命の末裔・物部韓国連モノノベノカラクニノムラジ榛麿ハイマロを城崎郡司とする。
物部韓国連は、武烈天皇の勅により韓国に遣わされ、そのご報告の日、姓の物部韓国連を賜う。榛麿はその子である。

韓国連榛麿は、針谷を開き住処とする。それで榛谷という。父の物部韓国連命を榛谷の丘に祀り、物部モノノベ神社という。また韓国カラクニ神社という。(式内韓国神社:豊岡市城崎町飯谷250)

第33代推古スイコ天皇35年(627年)冬12月 物部韓国連榛麿の子、神津主を城崎郡司とする。神津主は物部韓国連榛麿を榛谷の丘に葬る。

第40代天武テンム天皇の白凰3年(674年)夏6月 物部韓国連神津主の子、久々比命を城崎郡司とする。久々比命は神津主命を敷浪の丘に葬る(式内重浪神社:豊岡市畑上字宮843)
この時、大干ばつにより、雨を小田井県宮に祈り、戎器(*8)を神庫に納め、初めて矛立神事を行う。また水戸上神事を行う。後世これを矛立神事・河内神事と称し、歳時にこれを行う。
また、祖先累代の御廟を作り、幣帛を奉り、豊年を祈り、御贄田(*9)・神酒所(*10)を定め、歳時にこれを奉る。
また、海魚の豊獲を海神に祈る。これによって民の食糧不足を免れる。
よって、酒解子サカトケコ神・大解子オオトケコ神・小解子オトケコ神を神酒所ミキトに、保食ウケモチ神を御贄ミニエ村(のち三江村)に斎きまつる。(神酒所は式内酒垂神社:豊岡市法花寺字長楽寺725-1)

白凰12年(683年)夏閏4月 物部韓国連久々比は勅を受け、兵馬・器械を備え、陣法博士大生部了(*11)を招き、子弟豪族を集め、武事を講習する。また兵庫を赤石原に設け、兵器を収める。(元田鶴野村、現在豊岡市赤石)
楯縫連須賀雄を召し、奈佐村に置き、部族を率いて、楯・甲冑を作らせる。
葦田首金児を召し、三江村に置き、矛および刀剣を作らせる。
矢作連諸鷹を召し、永井村に置き、弓矢を作らせ、これを兵庫に納める。

物部韓国連久々比は、兵主神を赤石の丘に祀り、兵庫の守護神とする。祭神は武素盞嗚神。(式内兵主神社:豊岡市赤石字下谷1861)
楯縫連須賀雄は、その祖、彦狭知ヒコサシリ命を藤森に祀り、楯縫神社と称す。また藤森神社という。(村社赤藤神社:豊岡市庄字谷口390)
葦田首金児は、その祖、天目一箇命を金岡森に祀り、葦田神社と称す。また金岡神社という。(村社金岡神社:豊岡市金剛寺356-1)
矢作連諸鷹は、その祖、経津主神を鳥迷羅の丘に祀り、矢作神社と称す。また鳥迷羅神社という。(村社戸牧神社:豊岡市戸牧字福井1393)

第41代持統ジトウ天皇3年(689年)秋7月 本郡の壮丁(*12)および美含郡の壮丁らは気多郡馬方原(現在の豊岡市日高町三方)に至り、当国の大毅(*13)・忍海部広足に就いて、兵士の調練を受け、帰って楯野調練所に集まり練習する。

物部韓国連榛麿の子、当国の校尉、物部韓国連格麿は奉行であり、よってこの地を物部村という。

第42代文武モンム天皇の大宝元年(701年)秋10月 物部韓国連久々比が没す。三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称しまつる。(式内久々比神社:豊岡市下宮318-2)(久々比は鵠の倭名)

物部韓国連格麿の子を城崎郡の大領とし、正八位下セイハチイゲを授ける。
佐伯直赤石麿を主政とし、大初位上ダイショイジョウを授く。
大蔵宿祢味散鳥を主帳とし、少初位上を授く。

佐伯直赤石麿はその祖、阿良都(またの名は伊自別命)を三江村に祀り、佐伯神社と申しまつる。(また荒都神社という)(村社八幡神社?;豊岡市梶原613)
大蔵宿祢味散鳥はその祖、阿智王を吉井に祀り、大蔵神社と申しまつる。(村社大歳神社:豊岡市吉井434-3)

第45代聖武ショウム天皇は、金銅の盧遮那仏ルシャナブツ(東大寺大仏)を鋳造するために、金工・泥工・石工を諸国に募り、かつ大力の者を集め、その工事を助けさせる。
当国の校尉・物部韓国連格麿もまた募集に応じ、皇都に上り、よく大石を運び、工事は速やかに完成する。
天皇はこれを喜ばれ、天平17年(745年)春正月 物部韓国連格麿に姓大石宿祢を与える。

天平18年(746年)冬12月 本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎・美含2郡の壮丁を招集し、兵士に充て武事を調練する。
佐伯直岸麿を判官とし、火撫直ヒナドノアタエ浅茅を主典とする。
判官・佐伯直岸麿は兵主神(素盞嗚神・武甕槌神)を山本村に祀り、主典・火撫直浅茅はその祖、阿智王を火撫の丘に祀る。(村社八坂神社:豊岡市日撫字谷口456-1)

第46代孝謙コウケン天皇の宝亀勝宝元年(749年)冬11月 物部韓国連三原麿は、姓を大石宿祢と称す。

第49代光仁コウニン天皇の宝亀10年(779年)春3月 大石宿祢三原麿の子、正躬を城崎郡司とし、正八位上を授く。
佐伯直弘世を主政とし、従八位下を授く。
大蔵宿祢味須鳥を主帳に任じ、大初位下を授く。
大石宿祢正躬マサミは、三原麿を葬り、祠をその傍らに建て、これを三原神社と申しまつる。(村社鏡神社:豊岡市三原730)

また主帳に命じ、神社の格例を定め、式典を挙げ、左社をもって式典の例に入る。

(神社10社記載省略)

第50代桓武カンム天皇の延暦3年(784年) ご遷都の時、但馬国城崎郡の佐伯直弘世は藻壁門ソウヘキモン*14)を造る。よって正六位下を授けられる。

第53代淳和ジュンナ天皇の天長9年(832年)冬11月 従八位上 佐伯直弘主を城崎郡大領に任じ、道守部ミチモリベ貞躬サダミを主政に任じ、大家首手束オオヤノオビトテヅカを主帳に任じ、道守・大家ともに大初位下を授けられる。

道守部臣貞躬はその祖、建豊葉頬別タケトヨダノホオワケ命を智坂の丘に祀り、道守神社と申しまつる。(村社智坂神社:豊岡市福成寺209-1)
大家首手束はその祖、彦真倭命を結の丘に祀り、大家神社と申しまつる。(村社大家神社:豊岡市城崎町ゆい148)

第54代仁明ニンミョウ天皇の承和12年(845年)秋7月初め 但馬国城崎郡の無位絹巻キヌマキ神に正六位上を授けまつる。国司らの解状ゲジョウ*15)に依る。

第57代陽成天皇の元慶2年(948年)春正月 佐伯直弘貞を城崎郡少領に任じ、従八位下を授く。
道守部臣貞世を主政に任じ、大初位上を授く。
大家首束雄を主帳に任じ、大初位下をを授く。

右(以上) 国司の解状により、これを進上する。

城崎大領正八位上 佐伯直弘麿
天暦5年(951年)辛亥3月21日


[註]

*1 天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は天照国照彦火明櫛玉饒速日命とも書く。瓊瓊杵尊 の 子・ニギハヤヒ(饒速日命)のことで、天火明命は瓊瓊杵尊の兄にあたる。天火明命とあるから尾張氏・海部氏の祖天火明命と混同するが、同一人物ではないとする。『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒとアメノホアカリは同一神としている。

*2 青雲弥生国 弥生は「ヤフ」と訓むべきであろう。このヤフにのち夜父と漢字を充て、さらに養父と好字に改めた。
*3 三嶋水門(みなと) 津居山港。当時はそれより上流の楽々浦であったかもしれない。
*4 嚮導 先だちをして案内すること。
*5 潮涸る珠 しおふるたま・しおひるたま 潮を引かせる霊力があるという玉。潮干珠・干珠ともいう。
*6 郡司 律令制下において、国造が国司に、県が郡になり、県主に替わり、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官で、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備される。
*7 浚渫(しゅんせつ) 水底をさらって土砂などを取り除くこと。
*8 戎器 戦争に用いる器具。武器。兵器。戎具。
*9 御贄田 神に供える米(稲)を作るための神社所領田。御神田。
*10 神酒所 神に供える酒を造る所。朝廷における酒造所は酒殿という。
*11 陣法博士大生部了 『日本書紀』に「陣法博士を遣わして、諸国に教え習わしむ」とあり、大生部了は城崎郡および養父郡において、大いに武事を教えた。しかしその素性は明らかでない。
*12 壮丁 成年に達した男。一人前の働き盛りの男子。労役や軍役に服せられる者。
*13 大毅 軍団の長
*14 藻壁門 平安京大内裏の外郭十二門のひとつで西面4つの門の北から3番目。
*15 解状 国司より郡司に令達する公文書のことだろう。


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3 第三巻・養父郡故事記

ニギハヤヒ(天照国照彦饒速日天火明命)は、その后のアメノミチヒメ(天道姫命)といっしょにサカヘノアマツモノノベ(坂戸天物部命)・フタタノ 〃 (二田天物部命)・シマヘノ 〃 (嶋戸天物部命)・タルヒノ 〃 (垂樋天物部命)・ナミツキノ 〃 (両槻天物部命)・アメノイワフネ(天磐船命)・アメノカジトリ(天揖取部命)・アメノフナヤマ(天船山命)・サクツヒコ(佐久津彦命)を率いて、アマテラス(天照大神)の勅により天の磐船に乗り、タニワ(田庭)の真名井原に降り、トヨウケ(豊受姫命)に従い、五穀蚕桑ゴコクサンソウの種子をとり、射狭那子嶽イサナゴダケに行き、真名井を掘り、水稲の種や麦・いも・アワの陸種をつくるために、大小の田に蒔いた。秋には垂穂の長い穂が一帯に広がった。

トヨウケは、これを見て大いに喜び、「大変良い。これを田庭中に植えなさい」と皆にいった。

そしてトヨウケはアメノクマビト(天熊人命)に、アメノホアカリに従って田作りの事業を補佐をさせて、そしてのち、高天原に上って(帰って)いった。

したがって、この地を田庭タニワという。丹波の名はこれに始まる。

そのあと、アメノホアカリは五穀蚕桑の事業を国中に起こし、大いにおおみたから(蒼生)を幸福にした。この時、オオナムチ(国作大巳貴命)・スクナビコナ(少彦名命)・ウカノミタマ(蒼稲御魂命)は、諸国を巡って見て高志国(越の国)にとどまり、アメノホアカリを呼んで言った。
「あなたは、この国を治めるのがよい。」
アメノホアカリは、大いに喜び言った。
「永世です。青雲の志楽国」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる)
それでこの地を志楽国という。(京都府舞鶴市志楽あり)

アメノホアカリは、これより西に向かい、タニマ(谿間)に来た。清明宮スアカリノミヤに駐まる。

豊岡原に降り、御田を開く。

タルヒノアマモノノベに真名井を掘らせ、御田に灌水する。するとその秋、垂穂の長い穂が一帯に広がった。
それでその地を豊岡原といい、真名井を御田井という。(のち小田井に改める)

アメノホアカリは、また南に向かい、佐々前原に至り、磐船宮に止まる。
サクツヒコ(佐久津彦命)を、篠生原に就かせ、御田を開き、御津川を掘り、水を引く。後世、その地を真田の稲飯原という。いま佐田伊原と称する。これが気多郡佐々前村である。

サクツヒコは佐久宮に坐し、アメノイワフネ(天磐船命)は磐船宮に坐す。
アメノホアカリは、またアメノクマビト(天熊人命)を夜夫やぶに遣わし、蚕桑の地を物色させる。アメノクマビトは夜父の谿間たにまに就き、桑を植え、蚕を屋岡やおかう。それで谿間の屋岡原と云う。谿間の名はこれに始まる。(谿間は但馬たじまの古名)

天火明命はこの時、浅間の西奇霊クシヒ宮に坐し(式内浅間神社)、アメノイワフネの子、船山命を供にまつる。

佐々前県主のサクツヒコは、アメノホアカリの妃、アメノミチヒメ(天道姫命)の侍婢、シマヘノアマモノノベの娘、佐々守良姫命を妻にし、サキツヒコ(佐伎津彦命)を生む。

天火明命は、サキツヒコに命じて、浅間原を開かせる。サキツヒコは小田井にたたえ、これを御田にそそぐ。それで稲栄イナサ大生原オオイハラという。(今の伊佐の大江)

サキツヒコは、タルヒノアマモノノベの娘、ミイツヒメ(美井津比売命)を妻にし、アルチ(阿流知命)を生む。

サキツヒコとアルチは花岡宮に鎮まり坐す。この地の開発祖神である。

アメノフナヤマ(天船山命)は、船山宮に坐(いま)す。
アメノミチヒメ(天道姫命)は、浅間の東奇霊宮に、アメノホアカリ(天火明命)は、西奇霊宮に鎮まり坐し、
ミイツヒメ(美井津姫命)は、深谷の丘に鎮まり坐す。

その時、オオナムチ・スクナビコナ・ウカノミタマは、高志国より帰り、御出石県に入り、その地を開いて、この地に至り、アメノホアカリを招集して、

「なんじは、この国を治めなさい」といった。

アメノホアカリは大いに喜び、
「あな美し永世です。青雲弥生国なり」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる)と。(*1)

オオナムチはウカノミタマに、「アメノクマビトとともに心を合わせ、力をともにし、国作りの事業を助けなさい。」と教えられた。

2人の神は、アメノホアカリに、比地の原を開かせ、
タルヒノアマモノノベに、比地に行き、真名井を掘り、御田を開き、水を引く。すぐに垂穂が秋の野一帯に充ちた。
それでこの地を比地の真名井原という。(比地は霊異の意味。比地県はのち朝来郡)
アメノホアカリは、
イキシニギホ(稲年饒穂命)を小田井県主とし、(小田井県は、のち黄沼前県、その後、城崎郡)
イキシニギホの子、タケニギホ(武饒穂命)を美伊県主とし、(美伊県は、のち美含郡)
サクツヒコを佐々前県主とし、(佐々前県は、のち気多郡)
サクツヒコの子、サキツヒコを屋岡県主とし、(屋岡県は、のち養父郡)
イサフタマ(伊佐布魂命)の子、イサミタマ(伊佐御魂命)を比地の県主とする。

アメノホアカリは、タケニギホ(武饒穂命)・アメノカジトリ(天揖取部命)・サカヘノアマツモノノベ(坂戸天物部命)・フタタノ 〃 (二田天物部命)・シマヘノ 〃 (嶋戸天物部命)・タルヒノ 〃 (垂樋天物部命)らを伴い、天の磐船に乗り、美伊県に至る。
その時、狭津川(のち佐津川)より黄色の泥水が流れ出て、船を黄色にした。それでこの川を黃船川という。
船はイカリ山に泊まり、川の瀬戸を切り開き、瀬崎を築いた。その水嶋山のうしろに漂う。せれで水ヶ浦という。
アメノホアカリは黄船宮に鎮まり坐す。タケニギホは、オオナムチの娘、白山比咩命(またの名は美伊比咩命、または木俣命)を妻にし、タケシマ(武志麻命)を生む。狭津の美伊谷という。

アメノホアカリの神としてのしごとは終わり、徳は大いにあり。美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡回し、田庭国(丹波)を経て、河内に入り、哮峰イカルガミネに止まり、大和白庭山に至る。

跡見酋長跡見長髄彦の妹、ミカシキヤヒメ(御炊屋姫命)を妻にし、ウマシマジ(宇麻志麻遅命)を生む。

第1代神武天皇8年(BC653年)夏6月
サクツヒコの子サキツヒコを屋岡県主とする。サキツヒコはタルヒノアマモノノベの娘、ミイツヒメを妻にし、アルチ(阿流知命)を生む。※

※すでに、アメノホアカリの項に記載があるが、気多郡故事記もこの年号なのでこちらを採用する。サキツヒコは佐々前県主から弟のサクタヒコ(佐久田彦命)が同9年10月、佐々前県主となるまで、しばらく両県を兼務していたことになる。

15年(BC646年)秋8月 サキツヒコは、オオナムチを朱近(夜夫の苗葉山)に斎き祀り、またアメノホアカリを浅間の西奇霊宮に、アメノミチヒメを浅間の東奇霊宮に斎き祀る。(式内 養父神社・浅間神社)

因幡のヤガミヒメ(八上姫命)は、御子のミイヒメ(御井比咩命)を大屋の比々良木の下に置いて去る。それで、土地の神たちは崇めて、大屋宮に祀る。(式内御井神社:兵庫県養父市大屋町宮本481)
ミイヒメはのちに母に従い、気多の比遅井宮に遷り、鎮まり坐す。(式内御井神社:豊岡市日高町土居228)
ヤガミヒメは天珂森宮に鎮まり坐し、ミイヒメは美伊県主のタケニギホに嫁いだ。
天珂森神社:豊岡市日高町山本269

第2代綏靖天皇15年(BC567年)夏6月 サキツヒコの子、アルチを屋岡県主とする。
アルチは、アメノフナヤマヒメ(天船山毘売命)を妻にし、オオテルヒコ(大照彦命)を生む。

第4代懿徳天皇20年(BC491年)夏4月 アルチの子オオテルヒコを屋岡県主とする。オオテルヒコは大屋宮に遷る。
オオテルヒコは、佐々前県佐久山彦命主の娘、サクラビメ(佐久良毘売命)を妻にし、ナカオマワカ(中男真若命)を生む。
オオテルヒコは、サキツヒコ・アルチを花岡山に祀る。
花岡神社:養父市八鹿町坂本650-1)

第5代孝昭天皇40年(BC436年)夏5月 オオテルヒコの子、ナカオマワカを屋岡県主とする。
ナカオマワカは、御出石県主アメノハガマ(天波賀麻命)の娘、大美毘売命を妻にし、トチノヤヒコ(遠屋彦命)を生む。ナカオマワカは、遠屋宮に在す。(遠屋はのちの建屋郷)

第6代孝安天皇50年(BC343年)秋7月 ナカオマワカの子、トチノヤヒコを屋岡県主とする。
トチノヤヒコは、比地県主オオテルヒ(大照日命)の娘、テルワカビメ(照若毘売命)を妻にし、イサワヒコ(石禾彦命)を生む。

第7代孝霊天皇30年(BC261年)秋9月 トチノヤヒコの子、イサワヒコを屋岡県主とする。
イサワヒコは、小田井県主フクヒノスクネ(布久比足尼命)の娘、ミミイヒメ(美々井比売命)を妻にし、ミカタラシヒコ(美香帯彦命)を生む。

第8代孝元天皇20年(BC195年)冬10月 イサワヒコの子、ミカタラシヒコを屋岡県主とする。
ミカタラシヒコは、比地県主・玉前真若命の娘、玉前毘売命を妻にし、ミツタマヒコ(美津玉彦命)を屋岡県主とする。

第9代開化天皇56年(BC102年)秋7月 ミカタラシヒコの子、ミツタマヒコを屋岡県主とする。
この御世になると、土地は大いに開ける。それで弥生ヤブと名づける。

ミツタマヒコは、伊曾布県主・黒田大彦命の娘、アサヂヒメ(浅茅比咩命)を妻とするが、御子はなし。

第10代崇神天皇10年(BC88年)秋9月 丹波青葉山の賊クガミミのミカサ、ツチグモヒキメら群盗を集め、民のものを略奪する。

(これ以降は、気多郡故事記にて割愛)

第11代垂仁天皇10年(BC20年)夏6月 気多県主・当芸利彦命を夜父県主とする。母はイコハヤワケ(伊許波夜別命)の娘、伊曾志毘売命である。

天皇は、狭津彦命の妹・狭穂姫命(またの名は佐比遅比売命)を妻にし、ホムツワケ(誉津別命)を生み給う。

ホムツワケは、長いあごひげを生やし、年は30になっても、なお泣き、話すことができない。天皇はこれを大いに憂い、23年秋9月初め、群卿に詔して申された。

「ホムツワケが30になってもあごひげを長く伸ばし、泣くこと子どもの如く、常に話さず、何の原因か。みなで会議せよ。」

冬10月初め 天皇は大殿の前に立ち、ホムツワケ王は、そば近くにひかえている。その時、クグイ(*2)が鳴いて大空を渡った。

ホムツワケ王は、それを見て、「これは何ものだ?」と話した。

すると天皇は、王子が鵠を見て、初めて言葉を得たのを知って喜び、
「誰かこの鳥をつかまえなさい。」と命じた。
これに、鳥取部の祖、アメノユカワタナ(天湯河板挙命)は、
「必ず捕まえて参ります。」と申し上げた。
天皇はアメノユカワタナに命じて「この鳥を捕まえれば、必ず厚く賞する」と。

アメノユカワタナは、クグイを追い、紀の国・播磨を経て、因幡・但馬・丹波と東の方を追い回り、近江・美濃・尾張・信濃・越の国・丹波を越えて、ついに但馬の和那美水門に網を張り、その鳥を捕まえ献上した。それでこの水門を「和那美の水門」という。

天皇は大いに喜び、姓の鳥取部連を与え、諸国に命じ鳥取部を定め、アメノユカワタナに与えた。

出雲の宇夜江(現在の島根県出雲市斐川町宇屋谷付近)・因幡・丹波・越・信濃・美濃・播磨・紀の国の鳥取部らはこれである。

アメノユカワタナは、夜父県の和那美神社に鎮座する。(式内和那美神社:養父市八鹿町下網場156)

第12代景行天皇3年(73年)秋7月 アセビヒコ(阿瀬日彦命)の子、タカノヒコ(竹野彦命)を夜父県主とする。母は多遅麻国造、天橘守命の娘、細見姫命である。

第13代成務天皇5年(135年)秋9月 丹波竹野君の同祖、ヒコイマス(彦坐命)の5世孫、フナホノスクネ(船穂足尼命)を、多遅麻国造とする。

フナホノスクネは、県主オオタムサカ(大多牟坂命)の子で、母は墨坂大中津彦命の娘・大中津姫である。

神功皇后は、仲哀天皇の2年(193年)夜父大神に参拝し、熊襲の降伏を祈願する。

神功皇后の元年(201年)夏5月 多遅麻国造のフナホノスクネが亡くなる。寿67歳。21日、大養父船丘山に葬る。

それで、この地を弥生やぶと云う。(中略)佐久津彦命の子・佐伎津彦命に命じて屋岡県主と為し、(屋岡は弥生の丘の義)

オオメフ(物部連大売布命)の子・キミタケ(物部多遅麻連公武)を多遅麻国造とする。船穂足尼命の娘・美愛志姫命を妻にし、物部連多遅麻毘古を生み、美愛志姫命の弟・ウルハ(宇留波命)を夜父県主とする。

ウルハは、フナホノスクネを夜父宮下座に斎き祀り(名神大養父神社:養父市養父市場827-3)、また将軍・丹波道主命を水谷の丘に祀り、これを水谷神社と称しまつる。(名神大水谷神社:養父市奥米地235)

第15代応神天皇元年(270年)秋7月 ウルハの子・建稲種子命を夜父県主とする。母は朝来県主マサカツノスクネ(当勝足尼命)の娘・勝田姫命である。
建稲種子命は、その父・ウルハを宮代の丘に祀る(式内宇留波神社:養父市口米地1)

第16代仁徳天皇30年(342年)夏6月 建稲種子命の子・オオイリネ(大入尼命)を夜父郡司とする。母は多遅麻国造物部多遅麻連公武の娘・綾目姫命である。

第18代反正天皇2年(407年)秋9月 オオイリネの子・大足尼命を夜父郡司(県を郡に改め県主を郡司とする)とする。母は紀の国名草郡紀直吉角の娘・若毘売命である。

第20代雄略天皇17年(473年)春3月初め 土師連らに詔して、朝夕の御食を盛る清器を納めさせる。
献上させる。
これにおいて、土師連の祖・吾笥アケは、摂津国来佐々村(大阪府豊能郡能勢町宿野)、山背国内村(京都府宇治市)、俯見村(京都市伏見)、伊勢国藤形村(三重県津市)および丹波(京都府福知山市)・但馬・因幡の私民部キサイカキベ(鳥取県八頭郡八頭町市場)をたてまつり、これを贄土師部という。

養父郡土田ハンダ村はこれである。土師の民部・本の民部・内蔵(のち大蔵)の民部はこの地に居り、のち部落をなす。

土師の民部らは、その祖・野見宿祢ノミノスクネ命および阿笥アケ命を土田ハンダの丘に祀り、民部カキベ神社という。(村社大歳神社:朝来市和田山町土田1238)

第30代敏達天皇5年(574年)夏6月 若足尼命の甥・高野直夫幡彦タカノノアタエフバタヒコを夜父郡司とする。紀国名草郡の人である。

この御世、仏を信じ、国の祭りを軽んじる(*3)。これによってか、諸国に悪い疫病が流行り、穀物は実らず、人が多く死に、民が苦しんだ。

天皇は詔して、神祇を崇拝させる。

郡司高野直夫幡彦は、この災害を(*4)祓おうと願い、14年(583年)夏5月 石原山に祀ろうと、草むらを開き、

天御中主アメノミナカヌシ神・高皇産霊タカミムスビ神・神皇産霊カミムスビ
五十猛神(またの名は大屋津彦命)・抓津姫ツマツヒメ神、己が祖・大名草彦命のおよそ7坐を祀る。(式内名草神社:養父市八鹿町石原1755-6)

五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神はスサノオ素盞鳴神の御子、大名草彦命は神皇産霊神の御子である。

第33代推古天皇15年(607年)冬10月 多遅麻国夜父郡養耆邑に屯倉(*5)を設け、米・粟を貯え、貧民救済のために備える。
大彦命の子、波多武彦命の末裔・大与比命に、これを管轄させる。その後裔を三宅氏という。
三宅首は、その祖・大与比命を三宅に祀り、大与比神社と申しまつる。(式内大輿比神社:養父市三宅392 輿は与の旧字)

35年(627年)秋5月 高野直夫幡彦の子、高野直石木麿を夜父郡司とする。母の若香毘売は若足尼命の子である。

第36代孝徳天皇の大化元年(645年)春3月 多遅麻国造フナホノスクネ(船穂足尼命)九世孫、日下部宿祢を夜父郡司とする。

白雉4年(653年)秋7月 日下部宿祢の子、都牟目を夜父郡司とする。第40代天武天皇の白凰12年(683年)冬10月 紀臣の子・麻奈臣の子・保奈麻臣を夜父郡司とする。
保奈麻臣は遠佐郷(今の養父市八鹿町小佐)を開き、その祖・武内宿祢を屋岡の丘に祭り、屋岡神社と申しまつる。(式内屋岡神社:養父市八鹿町八鹿1513)

また紀臣を大恵保(今の養父市八鹿町大江)に祀り、保奈麻神社と申しまつる。遠佐郷開拓の祖である。(保奈麻神社は現存しないが、大江の村社は春日神社:養父市八鹿町大江542-1)

第41代持統天皇2年(688年)秋7月 三宅宿祢神床(*6)は、陣法博士イクサノリノハカセ大生部了オホフベノサトル(*7)を率いて、夜父郡更杵サラキネ邑(今の朝来市和田山町寺内)に来る。一国の壮丁(*8)の四分の一を招集し、武事を講習する。

またその地に兵庫を設け、大兵主神を祀り、これを更杵村大兵主神社と申しまつる。(式内更杵神社:朝来市和田山町寺内字宮谷・十六柱神社:朝来市和田山町林垣字門前1285)

神床の子、博床は、更杵邑に留まり、大生部了の子、広とともに軍事を司る。(博床の子孫を糸井連という)
また兵器を造るため、
楯縫連吉彦を召し、楯を作らせ、
矢作連諸男を召し、矢弓を作らせ、
葦田首形名を召し、矛および刀剣を作らせる。

楯縫連吉彦はその祖・彦狭知命を兵庫の側に祀り、楯縫神社と申しまつる。
矢作連諸男はその祖・経津主命を兵庫の側に祀り、桐原神社と申しまつる。(式内桐原神社:朝来市和田山町室尾169-21)
葦田首形名はその祖・天目一箇命を兵庫の側に祀り、葦田神社と申しまつる。

第42代文武天皇の大宝元年(701年)冬12月 朝来郡司・荒島宿祢の子、磯継を夜父郡司とし、
保奈麻臣の甥・寺人を主政とし、
その弟・少君を主帳とする。

第43代元明天皇の和銅5年(712年)秋7月 糸井連厳床は勅を奉じ、幡文造束緒を召し、織工を集め、綾錦の方法を教え、栲を和田に作り、その皮で栲布を織らせる。また蚕を高生に養い、繰糸で錦綾を織らせる。
そして、天萬栲幡姫命を栲幡原に祀り、錦綾の精巧を祈る。歳時に祀り奉る。
幡文造束緒を高生に祀り、産土神とする。(村社若宮神社:朝来市和田山町高生田656)
糸井連厳床の子孫らは、厳床を竹野内の丘に祀り、氏神とし、厳床神社という。(村社威徳神社:朝来市和田山町竹ノ内303-1)

第44代元正天皇の養老3年(719年)冬10月 機業が拡張したので、当郡の兵庫を浅間邑に遷し、健児所を置く。
伊久刀首武雄を判官とし、
大蔵宿祢散味を主典とする。
伊久刀首武雄は、兵主神を浅倉に祀り、その祖・雷大臣命を赤坂の丘に祀る。兵主神社・伊久刀神社これなり。(式内兵主神社:豊岡市日高町浅倉202・式内伊久刀神社:豊岡市日高町赤崎字家ノ上438)

7年(723年)春2月 但馬国の寺人・小君・椅君・寺君・由君ら5人を改めて、道守臣の姓を与える。
道守臣寺人は、その祖・波多八代宿祢を盈岡ミツオカに祀る。
石禾邑はその所領である。(式内盈岡神社:朝来市和田山町宮内42)
主典・大倉宿祢散味は、その祖・阿智王を青山に祀り、大蔵神社と申しまつる。阿智王は後漢の霊帝劉宏リュウコウの子・延王の子孫である。(村社大蔵神社:養父市八鹿町青山82-2)

第45代聖武天皇の天平2年(730年)春3月 多遅麻国造・山公峯男の末裔・山公樽男を夜父郡司とし、
杜公芳男を主政とし、
吉井宿祢幕里を主帳とする。(養父市万久里がある)
山公樽男はその祖・五十日足彦命を養耆邑に祀り、夜伎坐山神社と申しまつり、(山神神社(式内 夜伎村坐山神社):養父市八鹿町八木1182-1)
杜公芳男はその祖・大確命を建野屋邑に祀り、杜内神社と申しまつり、(式内社内神社:養父市森919)
吉井宿祢幕里は、その祖・高麗国人、伊利須使主麻弖臣を養耆邑に祀り、井上神社と申しまつる。(式内井上神社:養父市吉井1656-1)

10年(738年)夏5月 健児所を廃止する。
11年(739年)夏6月 兵庫の百丁を調べ、神庫に納め、衛守を置き守らせる。
18年(746年)冬12月 さらに兵士を置き、一国の壮丁を招集し、これに充てる。
先帝の元正天皇は、天下に令し、地方の荒れ地を開くため、三世一身の制(*9)を定める。
そうとはいっても、三世続かなければ、すぐに公に返す定めとする。これによって、開発をする者は少なかった。

今の聖武天皇は、この制を改め、永く私領とすることのできる制を定められた。
これによって、高位高官はもとより、伴造(*10)・国造(*11)らの旧族に至るまで、国守・郡司の官を罷め、その土地に住む。そして各々は私領を召し、租庸調の役(*12)を免れるために、本籍の人を離してその耕田に従事させる。
これにおいて、軽の我孫らは因幡国より当国に来た。軽邑を開く。軽邑部民ら、のち改めて軽部という。(今の養父市上箇。村社軽部神社
軽の吾孫らは、大国主彦坐命の4世孫、彦白髪命の末裔である。子孫はいっぱいに増えて聚楽をつくる。武屋・乙屋・建屋などである。
水を田畑に注ぐため垂樋(用水路)を作る。垂水公(*13)の祖・賀保真若命を玉水の丘に祀り、玉水神社と申しまつる。(村社玉水神社:養父市玉見38)
軽の我孫らはその祖・彦坐命4世の孫・彦白髪命をそれぞれの地に祀る。

笠臣益世がやって来る。大屋邑を開く。笠臣益世はその祖・稚武彦命を大屋の丘に祀り、加佐神社と申しまつる。(加保の一ノ宮神社ではないだろうか)

志賀連果安がやって来る。養耆の羽山を開く。それでその地を志貴という。
志貴連果安は、その祖・彦湯支命を羽山の丘に祀り、志貴神社と申しまつる。(関神社:養父市関宮1017の1)

第47代淳仁天皇の天平宝宇3年(759年)夏6月 田中臣正名を健児所の判官とし、小田寄人を主典とする。
田中臣正名は、その祖・許勢小柄宿祢を宿南の丘に祀り、(村社田中神社:養父市八鹿町宿南1027)
小田寄人は、その祖・屋奈岐命を小田の丘に祀る。屋奈岐命は、豊城入彦命の八世孫・射狭命の子である。(村社柳神社:養父市八鹿町上小田448-4)

5年(761年)秋8月 坂合部連伊志岐を養父郡司とし、忍坂連美佐加を主政とし、吉井宿祢万佐喜を主帳とする。
坂合部連伊志岐は、その祖・大彦命を上山の丘に祀り、坂蓋神社と申しまつる。三方邑はその所領である。(坂益神社(式内 板蓋神社):養父市大屋町上山6-1)
忍坂連美佐加は、その祖・天火明命を三方の丘に祀り、忍坂神社と申しまつる。(式内男坂神社:養父市大屋町宮垣字天満山196)
吉井宿祢万佐喜は、吉井宿祢を井上宮に合わせ祀る。(式内井上神社:養父市吉井1656-1)

第51代平城天皇の大同2年(807年)夏4月 出石郡司高橋臣義成の末裔・高橋臣義材を養父郡司とし、高橋臣義材は、その祖・手谷神を石禾邑に祀る。石禾邑はその所領である。(式内手谷神社:朝来市和田山町寺谷字宮ノ下162)(出石郡に同名の式内手谷神社:豊岡市但東町河本885)

第52代嵯峨天皇の弘仁4年(813年)春正月 但馬国養父郡に令し、郡司の子妹、年は16歳以上20歳以下の容姿端麗にして、采女と為すに耐える者、各一人をたてまつらしむ。

第54代仁明天皇の承和7年(840年)夏5月初め 養父郡兵庫のツヅミが理由もなく夜に鳴り、数里に聞こえた。
また、気多郡兵庫のツヅミが自ら鳴らすことは、鼓行(太鼓を鳴らして進軍すること)のようだ。

12年(845年)秋7月 但馬国養父郡無位養父神に従五位上を授かる。国司らの解状による。

第56代清和天皇の貞観11年(869年)春3月22日 従五位上養父神に正五位下を授く。

16年(849年)春3月 正五位下養父神に正五位上を授く。

第57代陽成天皇の元慶元年(877年)春正月初め 天皇は豊楽殿にて即位され、3日間宴を群臣に振る舞われた。この日、但馬国は白キジをを献上する。よって貞観を改めて元慶という。

元年4月16日 その白雉を出した養父郡に、当年の庸を免じ、その捕獲者、但馬公得継を正六位上に叙する。

第59代宇多天皇の寛平5年(893年) 従八位上・荒島宿祢利実を養父郡司に任ずる。荒島宿祢の八世孫である。

右、国司解状により、これを進上する。
養父大領従八位上 荒島宿祢利実
承平五年(935)八月十五日


[註]
*1 天火明命とあるが、養父郡故事記、城崎郡-、では「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命」となっており、天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は天照国照彦火明櫛玉饒速日命とも書く。瓊瓊杵尊 の 子・ニギハヤヒ(饒速日命)のことで、天火明命は瓊瓊杵尊の弟にあたる。天火明命とあるから尾張氏・海部氏の祖天火明命と混同するが、同一人物ではないとする。『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒとアメノホアカリは同一神としている。
*2 弥生国 『国司文書 但馬故事記』訳注者吾郷清彦氏は、「この弥生はヤフと読むべきであろう。このヤフにのち夜父と漢字を当て、これをさらに養父と字を改めた」とする。
*3 鵠(くぐい) 白鳥の古名
*4 仏を信じ、国の祭りを軽んず 敏達天皇元年、蘇我馬子の力が大きくなり、大臣に任じられている。5年頃になると馬子の勢力は益々大きくなり、仏教信仰が全国的に伝播していき、国の祭り、すなわち神を軽んずるに至った。全国的な悪疫流行と飢饉は、蛮神尊信による神罰として、保守的庶民の目に映った。
*5 上記に対抗して、物部守屋は祭祀を司る中臣氏と手を組んで、蛮神排除・祖神崇拝を起こした。夜父郡においても、郡司の高野直夫幡彦は、神祠崇拝の詔を受けて、15年石原山に、造化三神の他に、五十猛神他二柱と、己の祖・大名草彦命を祀った。(式内名草神社)
*6 夜父郡養耆邑に屯倉 現在の養父市八鹿町八木・養父市三宅
*7 三宅宿祢神床 多遅麻毛理の七世孫、中島公は出石郡の屯倉を管理する。それで三宅氏となる。三宅吉士の姓を賜う。その祖・多遅麻毛理を屯倉の丘に祀り、中島神社という。神床はその子孫。
*8 陣法博士大生部了 『日本書紀』に「陣法博士を遣わして、諸国に教え習わしむ」とある。大生部了は陣法博士として招かれ、きのさ
*9 壮丁(そうてい) 律令国の成年に達した男子、または労役や軍役に服せられる者。
*10 三世一身の制 養老7年(723)4月 太政官の上奏によって定められた新田開発に関する法令
*11 伴造(とものみやつこ) 古代皇室の部民を率いる有力な氏が、朝廷に必要な手工業品等を生産する品部という部民を率い、これらの手工業品を朝廷に納める職務。
*12 国造(くにのみやつこ) 地方の豪族的存在で、土地・人民を領有する国の首長。世襲的地方官としての地位が与えられた。
*13 租庸調の役 租…獲れた稲50束に応じて稲2束を課す。庸…労役またはその代償として布を納める税。調…郷土の産物に課す人頭税(納税能力に関係なく、全ての国民1人につき一定額を課す税金)。
*14 垂水公 垂氷を司る役職

2 第二巻 朝来郡故事記

アメノホアカリ(天火明命)[*1]は、丹波国加佐志楽国において、この国をオオナムチ(国作大己貴命)をいただき、
アメノミチヒメ(天道姫命)・サカヘノアメノモノノベ(坂戸天物部命)・フタタ(二田 〃 )・ナミツキ(両槻 〃 )・マナイ(真名井 〃 )・シマヘ(嶋戸 〃 )・アメノイワフネ(天磐船命)・アメノイトリベ(天揖取部命)・アメノクマヒト(天熊人命)・ウカノミタマ(蒼稲魂命)
を率いて、この地にやってきた。
真名井を掘り、田を開いて、その水を引くと、稲穂が垂れるうるわしき秋の稲田の風景になった。
それでこの地を比地の真名井原という。(比地は奇霊地の意味)

アメノホアカリは、奇霊宮(式内浅間神社:養父市浅間)に、后のアメノミチヒメは老波シワナミ宮(朝来市佐嚢老波)、アメノクマヒトは大斎宮(朝来市大月)に、ウカノミタマは弥生宮にいます。(名神大 養父神社:養父市藪崎)

第1代神武天皇の8年秋7月 イサフタマ(伊佐布魂命)の子であるイサミタマ(伊佐御魂命)を比地県主とする。

イサミタマはオジミタマ(牛知御魂命)の娘テルタエ(照栲姫)を妻にし、アサフミタマ(麻布御魂命を生んだ。

第3代安寧天皇の10年(BC539年)夏5月 イサミタマの子、アサフミタマを比地県主となる。アサフミタマは、御出石県主ミズシアガタヌシ多他知命タダトモヒコの娘、タダビメ(多他毘売命)を妻にし、アメノテルヒ(天照日命)を生んだ。

第5代孝昭天皇の11年(BC465年)夏6月 アサフミタマの子、アメノテルヒを比地県主とする。

アメノテルヒは、小田井県主(のち城崎郡)サノ(佐努命)の娘・オオテルヒメ(大照毘売命)を妻にし、テルワカヒコ(照若彦命)を生んだ。アメノテルヒは照日宮にいます。

第6代孝安天皇の20年(BC373年)7月 アメノテルヒの子、テルワカヒコ(照若彦命)を比地県主とする。

テルワカヒコはハナナシヒコ(花梨彦命)の娘・花梨姫命を妻にし、タママエマワカ(玉前真若命)を生んだ。テルワカヒコは照若宮にいます。

第7代孝霊天皇の4年(BC387年)冬9月 テルワカヒコの子、タママエマワカを比地県主とする。

タママエマワカはクトマワカ(久刀真若命)の娘、タマキヒメ(玉木毘売命)を妻にし、ミホツヒコ(美穂津彦命)を比地県主ヒジアガタヌシとする。

ミホツヒコはオオイツキ(大斎主命)の娘、ミヤノビメ(宮野毘売命)を妻にし、ミホマワカ(美保真若命)を生んだ。

第10代崇神スジン天皇の10年(BC88年)秋9月
丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠クガミミノミカサ土蜘蛛ツチグモ匹女ヒキメなどの盗賊を集め、民衆の物を略奪していた。

そのヤカラクルヒ(今の豊岡市来日)土蜘蛛は多遅麻(但馬)に入り、盗みを行う。
(多遅麻)国造の祖、倭得玉命ヤマトノエタマ、多遅麻国造・アメノヒナラキ(天日楢杵命)は、それを崇神天皇にこもごも奏した。天皇は、(九代開化天皇の皇子)ヒコイマス(彦坐命)に命じて、これを討つようにと命じた。

(中略 『気多郡故事記』参照)

天皇はその功を賞し、(ヒコイマスに)丹波タンバ多遅摩タヂマ二方フタカタの三国を与えた。
12月7日 ヒコイマス(彦坐命)は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県(先の比地県)に下り、刀我禾鹿(今の東河・粟鹿)の宮に居した。アワビは、塩ケ渕(のり味沢)に放つ。水が枯れたのち、枚田ひらたの高山の麓の穴渕に放った(のち赤渕神社に祀ると云う、朝来市和田山町枚田2115)。
のちに彦坐命は(天皇から)勅を奉じて、諸国(三国)を巡察し、平定を奏した。

天皇は勅して、姓を日下部足泥(宿祢)クサカベノスクネと賜い、諸国に日下部を定め、これを彦坐命に与えた。

11年(BC87年)夏四月、(粟鹿)宮に還り、諸将を各地に置き、鎮護(まもり)とした。

丹波国造クニノミヤツコ 倭得玉命ヤマトノエタマノミコト
多遅摩国造タヂマノクニノミヤツコ 天日楢杵命アメノヒナラキノミコト
二方国造フタカタノムニノミヤツコ 宇都野真若命ウツノマワカノミコト
その下に、
当芸利彦命の功を賞し、気多県主ケタアガタヌシ(のちの気多郡)とし、
武額明命タケヌカガノミコトをもって、美伊県主ミイアガタヌシ(のちの美含ミクミ郡)とした。
同じく、
比地県主(のちの朝来郡)・美保津彦命
夜夫県主(のちの養父郡)・美津玉彦命
黄沼前県主(のちの城崎郡)・穴目杵命
伊曾布県主(のちの七美郡)・黒田大彦命
みな、刀我禾鹿宮に朝して、その徳を頒した。
朝来アサコの名は、ここに始まる。

ヒコイマスは天御影命の娘、ヲケツビメ(袁祁都毘売命)を妻にし、山代大筒城太真若命を生んだ。弟のイリネ(伊理泥命)の娘、丹波味沢姫命を妻にし、迦邇米雷命を生んだ。迦邇米雷命は丹波遠津臣命の娘、高材毘売命を妻にし、オキナガノスクネ(息長宿祢命)(*2)を生んだ。息長宿祢命は河俟稲依姫命を妻にし、オオタムサカ(大多牟坂命)を生んだ。

第11代垂仁天皇84(55年)年九月 丹波・多遅摩・二方三国の大国主・日下部宿祢の遠祖・ヒコイマス(彦坐命)は、刀我禾鹿トガアワガ宮にて亡くなる。寿二百八歳(*3)。禾鹿の鴨の端の丘に葬った。(兆域28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れる)守部モリベはニ烟(けむり)を置き、これを守る。

オキナガノスクネ(息長宿祢命)の子、オオタムサカをもって、朝来県主とした。オオタムサカは、墨阪大中津彦命スミサカオオナカツヒコの娘・大中津姫命を妻にし、フナホノスクネ(船穂足泥命)を生んだ。
オオタムサカは、山口宮(朝来市山口)にあり、彦坐命を禾鹿宮に祀った。(名神大 粟鹿神社

第13代成務天皇5年(135年)秋9月、
オオタムサカの子・フナホノスクネを多遅摩国造と定めました。フナホノスクネは大夜夫宮に帰る。(名神大 養父神社)

フナホノスクネの子・マサカツノスクネ(当勝足泥命)を、朝来県主とする。マサカツノスクネはオキナガミズイヒメ(息長水依姫命・)・ヲケツビメ(袁祁都毘売命)を禾鹿宮に合祀する。

第14代仲哀天皇の2年(193年) オキナガタラシヒメ(皇后の息長宿祢の娘・神功皇后)は禾鹿宮に詣で、(熊襲征伐の)戦功を祈る。

オキナガタラシヒメ(息長帯比売命)は多遅麻国造のアメノヒタカ(天日高命)の娘、カツラギのタカヌカヒメ(葛城高額命)を妻にして生まれる。

8年(199年)秋7月 丹波六人部連タンバムトベノムラジの祖、タケノトメ(武砺目命)の子、多遅麻海部直タヂマアマベノアタエの祖、黄沼前県主キノサキアガタヌシ、賀都日方、タケダセ(武田背命)を朝来県主とする。タケダセは竹田宮に坐(い)ます。

神功皇后は神教を奉じ、みずから新羅に征する元年(201年)春3月 朝来県主のタケダセを奉幣使とし、新羅の降伏を粟鹿神に祈る。

立朝の3年春2月 神徳が現るのをもって、県主のタケダセに社殿を造営し勅使門を建てらせる。

またタケダセの子、タケミヌシ(武身主命)に命じて、潮涸珠(しふるたま)(*4)を相殿に納め、これを祀らしむ。これを沫[氵和]

(あはなき)神と云う。また住吉大神を祀らせる。

第15代応神天皇元年(270年)8月 県主のタケダセは粟鹿神の託宣タクセン(*5)により、マサカツノスクネ(当勝足尼命)の子、オモテシネワケ(表米別命)に、神功皇后を粟鹿神の八代の丘に祀る。(式内足鹿神社:朝来市八代229)また水谷神として丹波道主命を祀る。(名神大 水谷神社:養父市奥米地235)

40年(309年)春3月 県主タケダセは、娘のタケダヒメ(武田姫命)をオモテシネワケの妻にし、朝来県主とする。(表米別命は日下部宿祢の上祖) 表米神社:朝来市和田山町竹田)

第17代履中天皇の3年(402年)春2月 オモテシネワケの子、カツシネワケ(賀都米別命)を朝来県主とする。母は夜父県主タケノイナタネコ(武稲種子命)の娘、イカシヒメ(茂志毘売命)。

第21代雄略天皇の12年(468年)春3月 カツシネワケの子、イユノトミヒコ(伊由臣彦命)を朝来県主とする。母は出石の郡司イソベノオミ(石部臣命)の娘イチョウビメ(杏葉毘売命)。

第27代安閑天皇の2年(532年)春正月 尾張連の祖アメノトメ(天砺目命)の末裔、朝来直命を朝来郡司とする。

第31代用明天皇の2年(586年)夏4月 オオモノヌシ(大物主命)の子クシミカタ(櫛日方命)の末裔、朝来石辺公を朝来郡司とする。石辺公はその祖クシヒカタを滝田の丘に祀る。(石部神社・式内朝来石部神社:朝来市山東町滝田559

第36代孝徳天皇の大化3年(647年) 多遅麻国朝来郡朝来村において、兵庫を造り、郡の甲弓矢を収集し、以って軍団(*6)を置き、朝来・夜夫・七美三郡を管どる。

道臣命の末裔、大伴宿祢左中を大毅ダイキとし、
イカシコオの末裔、物部連飛鳥を少毅ショウキとし、
磯部広麿・石辺公の末裔、石辺金麿を校尉コウイとし、
伊由の賀泥万呂・賀都の与志牟袮・大田牟袮麿・伊由の鹿万呂・賀都の波流与志・大田牟袮与志を旅師ロソチとし、
大屋の国万呂・吉井秀津麻・建屋義樹・国屋の多他麿・吉見幸世らを隊正タイショウとする。
朝来直智嘉麻呂を主帳とし、兵庫を当らし、朝来郡司石辺公は駅鈴エキレイを管理する。

(弓一張、征箭ソヤ*7) 50隻、太刀タチ一口、
※書が読みづらいのでここのみ気多郡から引用)

5人を伍とし、伍2を火とし、火5を隊とし、隊2を旅とし、
旅10を団とする。
太刀1口、革鼓2面 軍穀これを掌る。
大角2口 校尉これを掌る。
小角4口 旅師これを掌る。
努弓(いしゆみ)2張 隊正これを掌る。
兵を招集し、非常を警備するときは駅鈴(*8)を鳴らす。
駅鈴は鈴蔵に収め、他の兵器は兵庫に納める。出納は適時行い、兵士を訓練する。

主帳、朝来直智嘉麻呂は、兵主の神を兵庫の側に祀り、兵庫守護の霊神と為し、かつ己の祖・天砺目命をその下座に合わせ祀る。(式内 兵主神社:朝来市山東町柿坪)

大毅、大伴宿祢左中は、その祖道臣命を佐嚢の丘に祀り、(式内佐嚢神社:朝来市佐嚢字大宮西山132-2)

少毅、物部連飛鳥は、その祖イカシコオを八代の丘に祀り、(式内足鹿神社:朝来市八代229)
旅師、伊由鹿万呂は、その祖伊由臣彦命を伊由の丘に祀る。(式内伊由神社:朝来市伊由市場字谷口243-1)

大化3年秋8月 朝来石辺公在麿を、朝来郡司とする。

第40代天武天皇の3年(674年)秋7月 仲哀天皇の皇子、誉屋別命の末裔、刀我磯部臣を、朝来郡司とする。
刀我磯部臣は、その祖誉屋別命を刀我の丘に祀る。(石部神社(式内 刀我石部神社:朝来市和田山町宮645)

◻◻◻◻◻◻◻◻◻◻◻◻
正八位下荒島宿祢を、朝来大領に任ず。 在任18年にして卒す。
式内 但馬国朝来郡 兵主神社:朝来市山東町柿坪972)

第43代元明天皇の和銅5年(712年)秋7月 桃文師竹原直吉人、勅を受け、この郡の綾目沢に下り、織工を集め、織綾を教え、
桃文師倭文宿祢正人、勅を受け、この郡の倭文野に下り、織錦を教える。
この郡が錦・綾を織る最初である。

秋8月 竹原直吉人は竹原直の祖、伊佐布魂命を竹原野の丘に祀る。(熊野神社:朝来市生野町小野)
倭文宿祢正人はその祖、天羽槌雄命を倭文野に祀る。(式内倭文(しどり)神社:朝来市生野町円山201)
竹原神社・倭文神社これなり。これより歳時に織工を集め、錦織の精巧を祈る。

第44代元正天皇の霊亀2年(716年)春3月 荒島宿祢の子、乙主(一に磯主)を朝来小領に任じ、養老7年(723年)、大領に任ずる。
若倭部貞良を主政に任じ、
忍阪連仲麿を主帳に任とする。
若倭部貞良は、その祖、武額明命を和賀の丘に祀る。(霧尾岩谷神社:朝来市山東町和賀)

養老3年(719年)冬9月 朝来軍団を廃し、健児所とする。健児所を物部邑に遷し、健児50人を置き、兵庫および鈴蔵を守らせ、伊由武万侶を健児所の判官とする。

第42代文武天皇の慶雲2年(705年)夏4月 国内は酷い日照りとなり五穀が実らず、民が困窮する。
天皇は勅して雨を祈ることを群臣に問うた。
群臣は「但馬国粟鹿神に雨を祈りましょう」と申し上げる。
天皇は勅して、これを許された。
清原朝臣冬満卿を、奉幣使とし、社域内1町5反を、生い茂った雑草を取り、墾田とし御饌米を作り、もって御贄にお供えし、祭祀を行う。

第46代孝謙天皇の天平勝宝8年(756年)春正月 荒島宿祢の孫、荒島安樹を朝来大領に任ずる。安樹は養父郡大領、磯継の子である。

天平宝宇2年(758年)春3月 朝来大領、荒島安樹の孫、親直を、健児所の判官とする。親直は安親の子である。

第50代桓武天皇の延暦19年(800年) 荒島宿祢の玄孫、従八位上、荒島宿祢国守を朝来大領に任じ、殿木連友身を主政に任じ、塩田首早雄を主帳に任ずる。

殿木連友身はその祖、殿諸足尼命を賀都邑に祀り、塩田首早雄はその祖、武恵我前命を磯部邑に祀る。
殿諸足尼神社・仲臣神社これなり。

(殿諸足尼神社は村社加都神社:朝来市和田山町加都1803、仲臣神社は村社熊野神社:朝来市山東町塩田442と思われる)

第53代淳和天皇の天長5年(828年)春正月 アメノホアカリ(天火明命)八世の孫、大御日足尼命の末裔、従八位下・津守宿祢子村を朝来大領に任じ、
磯部首貞任を主政とし、新良貴臣吉躬アララキオミヨシミを主帳とする。

第54代仁明天皇の承和12年(845年)秋7月 但馬国朝来郡無位粟鹿神に従五位下を、無位佐長神に正六位を授けまつる。
国司等の解状による。但馬守従五位下・紀朝臣綱麿を奉授使とする。

第55代文徳天皇の斉衡2年(855年)秋7月 従八位下・津守宿祢はその祖、大御日足尼命を山口の丘に祀り、津守神社と申しまつる。(村社一宮神社:朝来市羽渕20と想定する)
新良貴臣吉躬はその祖、稲飯命を刀我邑に祀り、新良貴神社と申しまつる。(村社 大森神社:朝来市和田山町白井1045)

第56代清和天皇の貞観10年(868年)冬12月27日 但馬国従五位上・粟鹿神に正五位下を授け、但馬守従五位上・行伴宿祢須賀雄を奉授使とする。

閏12月21日 正六位上・左長神に従五位下を授く。国司の解状による。

貞観16年(874年) 全国に疫病が流行し、民が困窮する。
天皇は勅して粟鹿神に祈られる。
3月14日 勅使の倭朝臣時之卿は下向し、但馬国正五位下・粟鹿神に正五位上を授ける。

第57代陽成天皇の元慶5年(881年)秋8月 正八位上・山口朝臣数雄を朝来大領とする。
山口数雄は応神天皇・武内宿祢命および波多矢代宿祢命を山口の丘に祀る。(村社 山口八幡神社:朝来市山口385)

都夫江首政成を主帳とし、飛鳥直義資を主帳とする。
都夫江首政成はその祖、天津彦根命を賀都邑に祀り、都夫江神社と申しまつる。(村社厳島神社:朝来市和田山町筒江1059)
飛鳥直義資はその祖天事代主命を賀都邑に祀り、飛鳥神社と申しまつる。(村社加都神社:朝来市和田山町加都1803

第62代村上天皇の天暦5年(942年)秋8月 従八位下・和田山守部を朝来小領とする。
和田山守部はその祖、天道根命および大国主彦坐命を賀都邑に祀り、和田山二宮神社と申しまつる。(村社二宮神社:朝来市和田山町和田山493)

 

右、国司解状により、これを進上する。
朝来小領従八位下 和田山守部
天暦八年(954)甲寅三月二十ニ日


[註]

*1 天火明命とあるが、養父郡故事記、城崎郡-、では「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命」となっており、天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は天照国照彦火明櫛玉饒速日命とも書く。瓊瓊杵尊 の 子・ニギハヤヒ(饒速日命)のことで、天火明命は瓊瓊杵尊の弟にあたる。天火明命とあるから尾張氏・海部氏の祖天火明命と混同するが、同一人物ではないとする。『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒとアメノホアカリは同一神としている。
*2 息長宿祢(おきながのすくね) 2世紀頃の日本の皇族。第9代開化天皇玄孫で、迦邇米雷王の王子。母は丹波之遠津臣の女・高材比売。河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡される。
*3 寿二百八歳 倍数年暦で104歳か?それにしても当時に104歳は考えられない長生き。

*4 潮涸珠(しふるたま) 潮を引かせる霊力があるという玉。大きさの違う円柱を4段重ねた形をしている。
*5 託宣 神が人にのり移ったり夢に現れたりして意思を告げること。そのお告げ。神託。
*6 軍団

軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
軍団の規模によって
千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。
六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。
五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。

*7 征箭 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう。
*8 駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴である。646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。

『校補 但馬考』で桜井勉は、

この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。俗には、この郡にいます粟鹿の神、国中の一宮ゆえ、諸の神たち、朝ことに来たりまみえ給う。故に、朝来郡と名づけしと云うは、臆説ならん。すべて郡郷名の名は、その地名を取って名づけること、古くからの事実なり。

『校補 但馬考』桜井勉 *1

 

私は『校補 但馬考』自体も鵜呑みにしていない。

桜井は、地名がすべて古くからの土地の起源というならば、その地名の起源を説明すべきだろう。地球誕生から地名があったというのか?それは桜井の勝手な思い込みか、出石藩学に都合が悪いにすぎないとんでも解釈だ。臆説は桜井の方だろう。史家として歴史に自分に都合の悪いものを否定するような行為は最もやってはならない。校補但馬考のなかにも事実でない勝手な解釈の箇所は多々ある。客観的に『国司文書 但馬故事記』を評価する謙虚さが欠けていると思う。

[解説]
『天日槍』の著者今井啓一郎は、同じ出石の郷土史家桜井勉が『国司文書 但馬故事記』を偽書説などを牙歯にもかけず、人或いは荒唐無稽の徒事なりと笑わば笑えと堂々の論れんを張り、天日槍研究に自信の程を示した。すなわち彼は、桜井とは見解を異にし、この但馬国司文書を大いに活用している。

「この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。」とするならば、その朝来山の由来はどう説明するのだろう。(『国司文書 但馬故事記』注釈本著者 吾郷清彦)


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1-3 第一巻下 気多郡故事記 現代語版

第40代天武天皇4年(675)2月乙亥朔キノトイ サク
但馬国等の十二国に勅して曰わく、
「国内の百姓オホムタカラのなかより、よく歌う男女および侏儒ヒキト(*1)・伎人ワザト(*2)を撰んで貢上タテマツれ」と。

同年、兵政司ツワモノノツカサ(*3)を置き、諸国の軍団を管轄し、天皇の子孫、栗隈王クリクマノオオキミを長官とし、大伴御行オオトモノミユキを副とする。

8年(679) 親王は諸臣に兵馬を貯えるように命じた。

12年(683)夏4月 詔して、文武の官人に教え、軍事を習い努めしめ、兵馬の道具を備え、馬を持っている者を歩卒とし、時々検閲する。

馬工連刀伎雄ウマタクミノムラジ トキオを、但馬国の兵官ツワモノノツカサとし、操馬の法を教える。その地を名づけて、馬方原ウマカタハラ(三方郷は馬方郷の転訛)と云う。

13年(684)3月、馬方連刀伎雄トキオは、その祖、平群木菟宿禰ヘグリノツクノスクネ命を馬方原に祀り、馬工ウマタクミ神社と称えまつる。(馬工村 今の馬止神社:豊岡市日高町観音寺)

冬10月14日 地震が起きる。気多郡は火災により人畜多く死に、止美トベ神社(戸神社)・太多神社・矢作神社・栗栖神社など震災に遭う。

同じ月 応神天皇の皇子 大山守命の末裔 榛原公鹿我麿ハイバラノキミカガマロ(*4)を、(初代)但馬国司(*5)とし、位小錦上(*6)を授く。

榛原公鹿我麿は気多郡狭沼を開墾し田を作る。

14年(685)秋8月 その祖大山守命を[木蜀]椒ホソギ山に祀り、祭式を行う。(式内名神大[木蜀]椒神社:豊岡市竹野町椒1738-2)

朱鳥元年(686)5月 小錦上・榛原公鹿我麿に務広参(*7)を授く。墾田の功による。
榛原氏の後裔はこの地にあり、蜀椒ハジカミ(*8)の実を採集し、油を絞り取り、これを朝廷に献じた。のち献上を定めとなる。ゆえにこの地を名づけて、蜀椒ホソギ村と云う。

蜀椒は保曾伎または伊多智波遅訶美。また古夫志波訶美。

第40代持統天皇の巳丑ミウシ3年(690)秋7月、
左右の京職(*9)および諸国の国司に命令して的場を設け、築かしむ。
国司務広参、榛原公鹿我麿は、気多郡馬方原に的場イクハバを設け、的臣羽知イクハノオミハジをもって令(長官)とした。的臣羽知はその祖・葛城城襲津彦命カツラギノソツヒコを馬方原に祀り、的場神社と称した。(今の萬場神社(*10):豊岡市日高町河畑)

巳丑3年(690)閏8月、忍海部オシヌミベの広足を、但馬の大穀とし、人民の四分の一を点呼し、武事を講習させた。

広足は陣法に詳しく、兼ねて経典に通じ、神祀を崇敬し、礼典を始める。

すなわち、兵主ヒョウズ神を久刀村(今の久斗)の兵庫のカタワラに祀り、(式内 久刀寸兵主神社:豊岡市日高町久斗)
高負神を高田丘に祀り、(式内高負神社:〃 夏栗)
大売布命を射楯丘に祀り、(式内売布神社:〃 国分寺)
軍団の守護神と為し、軍団守護の三神と称した。

また将軍・田道公を崇敬し、田道公の神霊を止美トベの丘に斎き祀り、これを戸神社と称えた。(式内名神大 ヘ・との神社:豊岡市日高町十戸18-1)

また、楯石連小袮布に命じて、楯石連大袮布命を楯石の丘に祀らせ、
大多公をして、多他別命を多他の丘に祀らせる。(楯石神社:豊岡市日高町祢布446)

第42代文武天皇庚子4年(701)春3月 二方国を廃し、但馬国に合わせ、八郡とする。
朝来アサコ養父ヤブ出石イズシ気多ケタ城崎キノサキ美含ミクミ七美シツミ二方フタカタ

府を国府邑に置き、管轄する。従五位下・櫟井臣春日麿イチイノオミカスガマロ但馬守タジマノカミとする。
櫟井臣春日麿は孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命アメタラシヒコクニオシヒトの孫、彦姥津命ヒコオケツ五世の孫・大使主命オオオミノミコトの裔です。

大宝元年(701)春正月 詔によって、皇都に大学寮を設け、諸国に国学寮を設ける。

2月 初めて先聖・先師(ともに中央の学者)を大学寮に招く。

3月壬寅ミズノエトラ (3代目国司の)右大臣従二位 阿部朝臣御主に、絹500足、糸400束、布五千段、スキ1万口、鉄5万斧、備前・備中・但馬・安芸国の田20町を賜う。

秋8月 但馬など17ヵ国でイナゴや台風が百姓の家を破壊、秋の収穫を損なう。

大宝3年(703)春3月 国司櫟井臣春日麿イチイノオミカスガマロはその祖大使主命オオオミノミコトを市ノ丘に祀る。

5月 市場を設け、貨物を交易す。しかして商長首宗麿命アキオサノオビトムネマロを祀る。(式内伊智神社:豊岡市日高町府市場935)

慶雲元年(704) 詔にて、諸国の兵士団を10に分けて、十日間教習する。鍛錬に務め、雑役を禁止する。

3年(706)春2月 但馬など19社を、初めて祈年祭幣帛(*11)の例に入れる。

朝来郡 粟鹿神社、
養父郡 夜父坐神社、
気多郡 山神社・戸神社・蜀椒神社、
城崎郡 海神社
(いずれも名神大社となる)

5月 但馬国気多郡馬方原に国学寮を設けるあたり、郡司の子弟を教える。国学博士 ・文部の息道が教授し、学頭(学長)とする。(西文氏カワチノフミウジ(*12)の末裔)

7月 丹波・但馬2国で山火事が起きる。使を遣わし、幣帛を神祇(天の神と地の神=天津神と国津神)に奉る。すると雷鳴は 幣に応じおさまる。それにより、雷神を狭沼の丘に祀り、長く雷による火災を免れることを祈る。(名神大 雷神社:豊岡市上佐野)

同年 三木島宿祢足人は賀陽村を開き、墾田する。この所に住み、祖・34代舒明天皇の皇子、賀陽王を中山に、賀陽神社と称えまつる。(中山神社:豊岡市加陽81-1)

4年(707)春2月 初めて先代の聖人孔子を国学寮にまつる。(釈尊神社・豊岡市日高町広井にある釈山神社が関係あるのではないかと思っている)

第43代元明天皇の和銅元年(708)秋7月 但馬・伯耆二国で疫病がはやる。薬を配給し治療する。

冬11月 大嘗祭(*13)を行う。遠江・但馬二国が供奉を担当する。神祗官および二国の郡司並びに国人男女、すべて1,854人が叙位し、禄を賜う。格差はある。

養父郡大領従八位上・荒嶋宿祢磯継、
朝来郡 〃正八位下・荒嶋宿祢磯主、
出石郡 〃従八位上・高橋臣義成、
城崎郡 〃 〃  ・物部韓国連鵠(久々比)、
美含郡 〃 〃  ・矢田部連守柄、
七美郡 〃 〃  ・村岡首用野麿、
以上、七位下
二方郡 〃 七位下・榛原公弖良木テラギ
七位上を授かる。

6年(709)冬11月 但馬国は白キジを献上する。

第44代元正天皇の霊亀元年(715)夏5月 従五位上・阿部朝臣安麿を但馬守とする。以下、国守は正史にあるため、省略する。

2年冬11月 大嘗祭あり。親王以下、百官の人らに禄を賜う。格差あり。

遠江・但馬の郡司二人が位一階を進められ、養父郡大領・従七位下 荒嶋磯継は従七位上を授けられる。

第45代聖武天皇の天平期 但馬国の大毅(軍団の最高職)正八位上・忍海部オシヌミベの広足を因幡に遣わし、従七位下・川人部の広井を但馬大毅とする。(但馬に隣接する鳥取県岩美町に佐弥乃兵主神社・許野乃兵主神社)

第46代孝謙天皇の天平勝宝元年(749)6月 大炊山代直都賀麿オオイヤマシロノアタエツガマロを但馬介とする。八代邑を開き、墾田を行う。
これによって、5年秋9月 その祖・天砺目命アメノトメを八代の丘に祀り、これを大炊山代オオイヤマシロ神社という。また八代神社という。地元の人が訛って、思往オモイヤリノ神社と云う。(式内思往神社:豊岡市日高町中326)

7年春正月 国学の頭・文部息道は気多郡神社神名帳を編纂し、総社(気多神社)に納める。


[註]

*1 侏儒(ひきと・しゅじゅ) 背丈が並み外れて低い人。こびと
*2  伎人(わざと) 芸事の上手な人
*3 兵政司(つわもののつかさ) のちの兵部省
*4 榛原公鹿我麿 おそらく大和国東方の榛原(今の奈良県宇陀市)にゆかりのある人だろう。
*5 国司 国造にかわりの行政官として中央から派遣された官吏。四等官である守(かみ)、(すけ)、(じょう)、(さかん)等を指す。国司の制が敷かれたのは大化二年であるから、鹿我麿が初代の但馬国司に任ぜられた天武天皇13年(684)は、それより40年後に当たる。
*6 小錦上 664年から685年まで日本で用いられた冠位である。26階中10位で上が大錦下、下が小錦中。
*7 務広参 (読み方不明)天武天皇14年(685年)1月、冠位二十六階を改訂し、さらに冠位四十八階が制定された。

*8 蜀椒 ショクショウ、はじかみ さんしょうの別称。
*9 京職(きょうしき) 日本の律令制において京(みやこ)の司法、行政、警察を行った行政機関
*10 萬場(万場) おそらく、的場はイクハバからマトバになり、マンバとなり万場。明治まで羽尻三区(金谷・河畑・羽尻)は三方村ではなく西気村万場の一部。田ノ口は清滝村の一部であった。それは河畑・羽尻に萬場神社が、田口に清瀧神社があることが証である。
*11 幣帛(へいはく) 「帛」は布を意味し、古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だったことを示すもので、神饌(食物の供物)以外のものの総称だった。のちには神饌も含む。『延喜式』の祝詞の条に記される幣帛の品目としては、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などがある。
*12 西文氏(かわちのふみうじ) 古代の中国系の有力渡来氏族。王仁わにの子孫と伝えられ、河内国古市郡古市郷に居住。東漢氏やまとのあやうじとともに東西史やまとかわちのふびととして、文筆を専門に朝廷に仕えた。
*13 大嘗祭 天皇即位のの後、初めて行う新嘗祭

1-2 第一巻上 気多郡故事記「上の2神功皇后から」 現代語版

(前回までの簡単なあらすじ)

  • アメノホアカリが丹波に降りて、丹波を開いてのち但馬にやって来て、但馬ナミツキ(両槻天物部命)の子サクツヒコに佐々原を開かせた。
  • 第十代崇神天皇のころ、丹波のクガミミやツチグモが但馬のツチグモを加え日本海岸で暴れ、四道将軍タンバミチヌシの子ヒコイマスが但馬の将兵とともにやっつけた。
  • ヒコイマスに、タンバ・タジマ・フタカタ三国を与えられた。
  • 第12代景行天皇のころ、ヤマトタケルは東国を平定し、その臣下オオメフは摂津川辺・但馬気多・城崎を与えられる。オオメフは気多の大県主となる。

 

第15代(*1) 神功皇后立朝の2年5月21日 気多の大県主オオメフ(物部連大売布命)が亡くなった。寿79歳。射楯丘(*2)に葬る。

オオメフの子、キミタケ(物部多遅麻連公武)を多遅麻国造とし、府を気立県(のち気多)高田邑(今の久斗)に置く。
キミタケは、
アメノマヒトツ(天目一箇命)のスエ 葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、
ヒコサチ(彦狭知命)のスエ 楯縫首を召し、矛・盾を作らせ、
イシコリトメ(石凝姥命)のスエ 伊多首を召し、鏡を作らせ、
アメノクシタマ(天櫛玉命)のスエ 日置部首を召し、曲玉(勾玉とも)を作らせ、
アメノホアカリ(天明命)(*3)六世の孫、タケハチネ(武碗根命)の裔 石作部イシツクリベ連を召し、石棺を作らせ、
ノミノスクネ(野見宿祢命)のスエ  土師臣陶人ハジノオミスエトを召し、埴輪ハニワカメ秀罇ホダリ(4)・陶壺スエツボを作らせた。
また、オオメフの御遺骸におもむき、 御統玉ミスマルノタマ(*5)を以って、モトドリ(*6)を結い、御統五十連ミスマルノイツラ(*7)のタマを御クビに掛け、御霊ミタマの鏡を御胸に掲げ、御統玉を、手まとい・足まとい首に結び、 御剣を御腰に履かせ、御楯を左手に捧げ、御矛を右手に携え、磐石の上に立て、これを石棺に納めて、射楯の丘に葬る。 そして、埴輪ハニワを立てて、御酒を秀樽に盛った。 御食ミケを陶壺に盛りて、これを供え、草花を立てて、祀った。

(上代の首長墳墓=古墳の埋葬方法が詳細に記述されている。)

神功皇后45年、新羅は、朝貢(*8)しなかった。将軍であるアラタワケ(荒田別命・豊城入彦命4世の孫)・カガワケ(鹿我別命・大彦命の末裔)は、新羅に行き、これを破った。

比自[火本]ヒシホ(ひしほ)・南加羅アリシヒノカラ啄国トクノクニ安羅アラ多羅タラ卓淳トクジュ加羅カラの七国を平定した。なお兵を移して西に廻り、古奚津コケツに至る。南蛮アリシヒノカラ耽羅タムラ=済州島)倒し、百済クダラに向かった。

百済王は古沙山に登り、磐石の上にすわり誓った。

「もし草を敷いて座ろうとすれば、恐らくは火で焼かれるだろう。木を取って座ろうとすれば、恐らくは水のために流されるであろう。枯れ磐石にすわり、チカイを表わし、永久に臣を称すると信じよ。」

二人の将軍は、これらにより、増封され、荒田別命に多遅摩タヂマの太多邑(今の豊岡市日高町太田)および山口邑(いまの 〃栃本)を与えられた。

第16代仁徳天皇の元年(313年)4月に、
キミタケの子・タヂマビコ(物部多遅麻毘古)を、多遅麻国造タヂマノクニノミヤツコとし、府を日置邑に遷した。 タヂマビコは、キミタケを射楯丘に葬った。

5月、将軍アラタワケは、子のタカハセ(多奇波世君・他に竹葉瀬公と書く)の弟・タジ(田道公・他に田路と書くのであるいはトウジ)を山口邑に置き、タジの子・タダビコ(多田毘古)を多他邑(今の太田)に置いた。 それで、タダビコを多他別の田道という。 多他の名は、このアラタワケが夜夫県主ヤブアガタヌシ(三代)・タカノヒコ(竹野彦命)の娘・ウイヒメ(宇日比売命)を妻とし、タカハセ・タジを生んだことに基づく。

2年(314年)春3月、タヂマビコ(物部多遅麻毘古)は、キミタケのミタマを気多神社に合祀した。 これにならい、葦田首アシダノオビトは、鍛冶カジの祖・アメノマヒトツ(天目一箇命)を鍛冶の丘に合祀した。(式内葦田神社・豊岡市中郷)
楯縫首タテヌイノオビトは、楯縫の祖・ヒコサチ(彦狭知命)を楯屋の丘(多田ノ谷)に祀った。(式内楯縫神社・豊岡市日高町鶴岡(古社地は多田谷)
伊多首イダノオビトは、鏡造りの祖・イシゴリドメ(石凝姥命)をイフク(鋳含)の丘に祀った。(式内井田神社・豊岡市日高町鶴岡)
石作部連土師陶人イシツクリベノムラジハジノスエトらは、その祖・タケハチネ(建碗根命)・ノミノスクネ(野見宿祢命)を陶谷スダニの丘に合祀した。(式内須谷神社・豊岡市日高町藤井)
日置首ヒオキノオビトは、その祖・クシタマ(櫛玉命)を日置の丘に祀った。(式内日置神社・豊岡市日高町日置)

 

49年、新羅シラギは(またもや)朝貢しなかった。アラタワケ(荒田別命)の子・タカハセ(多奇波世君)を責めた。白鹿を獲って帰り、これを献上しました。重ねて、その弟の田道公を遣わしましたが、新羅はあなどりそむきました。田道公はこれを撃破し、4つの邑の人民を捕虜にして帰った。

55年、蝦夷エゾがそむいた。田道公を遣わして、討たせた。しかし、田道公の軍は敗れ、奮闘して死んでしまった。地元の人がそれを心痛めて葬った。蝦夷はますます怒り、略奪しようとその塚をあばくと、中に大蛇がおり、死体はほとんどなかった。

第18代反正天皇の3年(408年)春3月、タヂマビコ(物部連多遅麻毘古)の子、物部連多遅麻公タヂマノキミを、多遅麻国造とする。タヂマノキミは、タヂマビコを射楯丘に葬る。

第21代雄略天皇3年(459年)秋7月、黒田大連クロダノオオムラジを以て多遅麻国造とし、府を国府村に移す。

黒田大連は、アメノコヤネ(天児屋根命)の末裔にして、大職冠・藤原鎌足公の5世の祖なり。

黒田大連は、アメノユカワタナ(天湯河板挙命)の末裔・美努連嘉摩ミヌノムラジヨシマを召し、鳥取部とし、鳥を捕まえ、御贄ミニエを作らせる。

有功の諸人を祀り、神門臣カムトノオミを召し、神人ミワヒトとする。

4年(460年)秋9月 美努連嘉摩ミヌノムラジヨシマは、その祖アメノユカワタナを国府邑に祀り、美努ミヌ・ミノ神社と称えまつる。(式内三野神社:豊岡市日高町野々庄)

神門臣神人は、その祖、天穂日命12世の孫、鵜濡渟命を、神門の丘に祀る。(式内神門カムト(かんと)神社:豊岡市日高町荒川)

17年(473年)春3月サク(1日) (国々に)詔して、土師ハジ等をしてまさに朝夕の御膳に盛る清器スエキ(須恵器)を献上させる。
これにおいて、土師連の祖・吾笥アケは、ただちに、摂津国来佐々村(大阪府豊能郡能勢町宿野・式内久佐々神社)、山背国内村(京都府宇治市)、俯見村(京都市伏見)、伊勢国藤形村(三重県津市)および丹波(京都府福知山市土師)・但馬・因幡の私民部を献上する。

但馬国出石郡埴野ハニノ村・養父郡土田ハンダ村・美含ミクミ阿故谷アコダニ村(今の豊岡市竹野町阿金谷)を贄土師部ニエハジベというのはこれによる。

18年(474年)春4月 気多郡陶谷スダニ村(今の豊岡市日高町奈佐路)の人、陶谷甕主スダニノカメヌシと出雲国阿故谷の人、阿故氏人、小碗氏人らは、美含郡に入り、阿故谷・陶谷(今の〃須谷)・埴生(今の〃羽入)・小碗(今の〃小丸)にて、陶器・清(須恵)器の類を作り、部落をなす。

陶谷甕主はその祖、野見宿禰ノミノスクネ命を陶谷丘に祀り、陶谷神社と申し祀る。(八幡神社:豊岡市竹野町鬼神谷)

阿故氏人は、その祖土師連の祖・阿居命(一に吾笥)を阿故谷丘に祀る。(森神社・式内阿古谷神社:豊岡市竹野町轟)

小埦甕人はその祖、建小埦根命を小埦丘に祀り、小埦神社と申しまつる。(八坂神社:豊岡市竹野町小丸)
土師臣手抓は、その祖土師部連命を埴生の丘に祀る。

第25代武烈天皇3年(501年)夏六月 大鹿連オオカノムラジは、その祖アメノコヤネ(天児屋根命)・黒田大連命を大鹿山(大岡山)に祀る。

(大鹿連の子大鹿首は伊勢国造と為り、伊勢に遷る。子孫は世々大鹿に住むという)

4年(502年)春4月 大鹿連玉祖宿祢タマソノスクネを召し、五百個の御統玉ミスマリタマを作らせ、大鹿神の御首に掲げまつる。日置部首玉磨ヒオキノオビトタマスリに、 かつら・手まとい・足まといの玉を作らせて着ける。
伊多首真澄に、胸乳の鏡を作らせ、胸乳に掲げる。

5年(503年)夏5月 玉祖宿祢は、その祖・玉荒木命を伊爪の丘に祀り、玉荒木神社と称えまつる。(式内玉良木神社 (多摩良木・多麻良岐・玉荒木)神社:豊岡市日高町猪爪字玉谷367)

第28代宣化天皇の3年(538年)夏6月 能登臣気多命を多遅麻国造とする。
能登臣命は、その祖、大入杵命オオイリキを気多神社に合わせ祀る。
大入杵命は、崇神天皇尾張連の祖、武刀米命の娘、大海部姫命を妻にし、生まれた。能登臣の祖である。

第30代敏達天皇13年(584年)春3月 止美連吉雄トベノムラジヨシオをもって、多遅麻国造とする。
吉雄は、その祖 大荒田別命の子 多奇波世君の弟・田道公を多他タダ村に祀り、止美トベ神社と称えまつる。(式内名神大 ヘ・との神社:豊岡市日高町十戸18-1)
また多他毘売命を多他丘に祀り、太多神社と称えまつる。(国主神社?:豊岡市日高町太田1)
田道公の子孫は田道村にあり、田道公を斎き祀る。これ田道にある一宮神社はこれなり。(威徳神社:豊岡市日高町栃本301)

第34代舒明ジョメイ天皇の3年(631年)秋8月 垂仁天皇の皇子 五十日帯彦命イカタラシヒコの裔 山公峯男ヤマノキミミネオを多遅麻国造とする。
山部を司る山公峯男は、その祖 五十日帯彦イカタラシヒコ命を太多村に祀り、山宮ヤマノミヤと称えまつる。(式内名神大 山神社:豊岡市日高町山宮409-3)

第36代孝徳天皇の大化3年(647年) 多遅麻国気多郡高田ムラ兵庫ヤグラ(*9)を造り、郡国の甲冑カッチュウ・弓矢を収集し、軍団を置き、出石・気多・城崎・美含をツカサどらせる。 (高田村は今の久斗)
ウマシマジ(宇麻志摩遅命)の六世孫・イカシコオ(伊香色男命)の末裔、矢集連高負ヤヅメノムラジタカフ(矢集はのち夏栗)を、大穀ダイキ(*10)為し、
大売布命の末裔・楯石連大禰布を以って少穀ショウキ(*10)とする。
景行天皇の皇子・稲瀬入彦命の四世孫・阿良都命の末裔、佐伯直・猪熊および波佐麻を校尉コウイ(*10)とし、
道臣命の末裔、大伴宿禰神矢および的羽イクハの武矢・勇矢を以って旅師ロソチ(*10)とし、
伊多(井田・伊福、今の鶴岡)首の末裔・貴志麻侶、葦田首の末裔・千足、石作部の末裔・石井、日置部の末裔・多麻雄、楯縫部(今の鶴岡多田谷)の末裔・鉾多知ホコタチ美努ミヌ・ミノ(三野・今の野々庄)連の末裔・嘉津男らを隊正タイショウ(*10)とする。

およそ軍事においては、
弓一張、征箭ソヤ(*11) 50隻、太刀タチ一口、一火、駄馬6頭、一隊の駄馬50頭、一旅の駄馬80頭、一軍団の駄馬600頭(5人を伍と為し、10人を火と為し、50人を隊と為し、100人を旅と為し、千人を一軍団と為す)
革鼓2面 軍穀これを掌り、大角2口 校尉これを掌り、
小角4口 旅師これを掌り、努弓(いしゆみ)2張 隊正これを掌り、
兵庫は主帳これを掌る。
能登臣命の末裔、広麿を主帳に任じ、兵器の出納および調達を掌らせ、兵卒を招集し、非常を警備し、駅鈴(*12)を鳴らす。
駅鈴は鈴蔵に蔵し、国司がこれを掌り、典鑰テンヤク(*13)これを出納し、健児コンデイ(*14)は、これを守衛する。

美含の郡司桑原臣多奇市の4世孫、吉井麿は鈴蔵の典鑰となる。
葦田氏はツルギホコカブラヤジリを鍛え、
矢作氏は弓矢を作り、
楯縫氏は革楯・木楯を作る。
箭竹ヤダケは竹貫氏が調達し、
矢羽は鳥取部氏が調達し、
矢作のマユミは真弓氏が調達し、
鞘柄サヤエ栗栖クリス氏が調達し、
石矛・石鎚は石作氏が調達し、
すべての鋳物は伊多氏が調達する。
矢作氏はフツヌシ(経津主命)の末裔である。大毅の矢集連高負は、これを大和国に報告し、多田村に置く。
真弓氏は二方国造真弓射早彦の子である。壇を二方国真弓岡で徴収し、作る。壇岡は山公峯男の領める所である。(壇岡は今の美方郡香美町村岡区柤岡ケビオカ
竹貫氏はいわゆる武貫彦命の末裔である。篠竹を篠丘に徴収し、作る。篠民部シノカキベ村(今の豊岡市日高町篠垣)である。
鳥取部はいわゆる美努連の末裔である。
栗栖氏はウマシマジの末裔である。

大化4年(648年)秋8月 矢作連は、その祖フツヌシを矢作丘に祀る。栗栖連はウマシマジを栗栖邑に祀る。矢作神社・栗栖神社これなり。(豊岡市日高町栗栖野)(村社三柱神社:豊岡市日高町栗栖野184、八重垣神社:豊岡市日高町神鍋字長者ヶ森851)


[註]
*1 神功皇后は、第14代仲哀天皇の大后。仲哀天皇崩御の後、摂政となられたので歴代天皇ではないが、『国司文書 但馬故事記』では人皇十五代としている。
*2 射楯(イダテ) 石立村 明治に今の国分寺と合併
*3 天明命 石作神社(岐阜県羽島郡岐南町三宅)に、「建眞利根命は、天照大神の御孫天火明命の6世の子孫である。石作氏一族は石作りを業とし、各地で活動する大氏族となり、祖先をお祀りする石作神社を創建した。式内社が尾張地方に4社もあることは石作氏一族の繁栄を示している。」とあるので、天火明命のようだ。
*4 秀罇 ホダリ 酒を入れる、銚子(ちょうし)・瓶子(へいし)の類
*5 御統玉(ミスマルノタマ) 御統は、多くの玉を糸に通して輪とし、首にかけたり腕に巻いたりして飾りとした古代の装身具。その玉は丸い石やガラスであったり、勾玉を用いた。
*6 髻(もとどり) 髪の毛を頭の上に束ねた所。たぶさ。
*7 御統五十連(ミスマルノイツラ) 人間の視(みる)・聴(きく)・嗅(かぐ)・味(あじ)・触(ふれる)の「五器官」は、霊界にも、幽界にも感知する超五官器官、
即ち時間空間のない無限世界を知ることの出来る魂を持っていると思われていたのだろうか。
*8 朝貢 朝貢とは、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。しかし倭国が神功皇后の頃、大和地方を中心に国家が統一され中央集権化されていたかははっきりしない。
*9 兵庫 櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。 木材などを高く積み上げた仮設や常設の建築物や構造物。
*10 大穀(だいき)・他
軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
軍団の規模によって
千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。
六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。
五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。
*11 征箭 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう。
*12 駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴である。646年(大化2年)1月1日、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度の設置に伴って造られたと考えられており、官吏は駅において、この鈴を鳴らして駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴発させた。駅では、官吏1人に対して駅馬1疋を給し駅子2人を従わせ、うち1人が駅鈴を持って馬を引き、もう1人は、官吏と駅馬の警護をした。
*13 典鑰(てんやく)とは、律令制において中務省に属した品官(ほんかん)である。和訓は「かぎのつかさ」。
*14 健児 奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。)


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1-1 第一巻上の1 気多郡故事記 現代語版

天照国照彦(櫛玉饒速日)天火明命[*1]は、オオナムチ(国造大己貴命)の命令によって、
ナミツキノアメノモノノベ(両槻天物部命)の子であるサクツヒコ(佐久津彦命)に佐々原を開かせた。

(これ以前にニギハヤヒ(天照国照彦天火明命)は、オオナムチ(国造大己貴命)の命令によって、まずタニワ(田庭・丹波)に降りて、但馬へは小田井に入って小田井を開き、次に佐々原を開かせている。)

サクツヒコは、篠生原に井戸を掘り、水をそそぎ、田を作った。
のちに、その地を名づけて、佐田稲生原サタイナイハラという。いま佐田伊原サタイハラと称する。
気多郡佐々前邑ササクマムラはこれである。

サクツヒコは、佐久宮におられる。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田)
ホアカリ(天火明命)のお供の神様、アメノイワフネ(天磐船長命)は、磐船宮におられる。(村社岩舩神社:豊岡市日高町道場山田10-2 白鳥上290)

アメノイワフネは、アメノイワクス(天磐樟船命)の子である。
サクツヒコは、ナルトノアメノモノノベ(鳴戸天物部命)の娘であるササウラヒメ(佐々宇良姫命)を妻にし、サキツヒコ(佐伎津彦命)とサクタヒコ(佐久田彦命)を生んだ。(佐久田は佐田・久田で現在の久田谷の語源か?)
サキツヒコは、佐々前県主アガタヌシである。

第1代神武ジンム天皇の9年(前652年)冬10月、サクツヒコの子 サクタヒコを佐々前県主とする。

サクタヒコは、オオナムチを気立ケダツ・ケタの丘にマツる。これを気立神社と称えしまつる。(郷社 気多神社:豊岡市日高町上郷)
また、サクツヒコ(佐久津彦命)を佐久宮に祀る。(式内佐久神社:豊岡市日高町佐田)
ミイヒメ(御井比咩命)を比遅井ヒジイ丘に斎き祀り(比遅井は霊異井の義で、今の土居。明治までヒジイといった。式内御井神社:豊岡市日高町土居)、水の湧き栄えを祈る。
ミイヒメの祖 イナバノヤガミヒメ(稲葉八上姫)は天珂森宮(天珂森神社:豊岡市日高町山本)にいます。サクタヒコは、ナミツキノアメノモノノベの娘、ツキモヒメ(槻萌姫命)を妻にし、サクタヤマヒコ(佐久山彦命)を生んだ。

第2代綏靖スイゼイ天皇の20年(前562年)秋7月 サクタヒコの子サクタヤマヒコを佐々前県主となす。
サクタヒコは、サタナカヒコ(佐田中彦命)の娘、サオリヒメ(佐折姫命)を妻にし、ササクマヒコ(佐々前彦命)を生んだ。

第4代懿徳イトク天皇の17年(前565年)春3月 サクタヒコの子ササクマヒコを佐々前県主となす。ササクマヒコは、イブノトミヒコ(伊布富彦命)の娘、イブノトミヒメ(伊布富姫)を妻にし、ウメサキヒコ(梅咲彦命)を生んだ。

第5代孝昭天皇の73年(前403年)4月 ササクマヒコの子ウメサキヒコを佐々前県主となす。ウメサキヒコは、大阪彦命の娘大阪姫命を妻にし、オオイワタツ(堅中大磐竜命)を生んだ。

第6代孝安天皇76年(前317年)春3月 ウメサキヒコの子オオイワタツを佐々前県主となす。オオイワタツは、ササズヒコ(佐々津彦命)の娘、若竜姫を妻にし、タケイワタツ(建磐竜命)を生んだ。

第7代孝霊天皇63年(前228年)春3月 オオイワタツの子タケイワタツを佐々前県主となす。タケイワタツは、アビラヒコ(阿毘良彦命)の娘アビラヒメ(阿毘良姫命)を妻にし、クシイワタツ(櫛磐竜命)を生んだ。

第8代孝元天皇の32年(前183年)秋7月 建磐竜命の子 クシイワタツ(櫛磐竜命)を佐々前県主となす。

当県の西北に、イブキドヌシ(気吹戸主命)の釜がある。常に物気(もののけ・物の怪)を噴く。したがって、その地を名づけて、気立原と云う。その釜はカムナベヤマ(神鍋山)をいうなり。
よって、佐々前県を改めて、気立県という。

『国司文書別記 気多郡郷名記抄』に、
気多は古くは気多津県(けたつあがた)1なり。
この郡の西北に気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)の釜あり。常に烟2(を噴く。この故に其の地を名付けて気立原と云う。その釜は『神鍋山』を云うなり。

「常に烟を噴く」とあるので、神鍋山はすでに死火山のはずなので、昔の伝承を書いているのか、どうなのかと思っていたところ、『国司文書 但馬故事記-気多郡故事記・下』には、それが地震であったことが記されている。

第10代崇神スジン天皇10年(前88年)秋9月 丹波青葉山の賊 クガミミノミカサ(陸耳の御笠)、ツチグモノヒキメ(土蜘蛛匹女)ら、群盗を集め、民の物品を略奪した。
タヂマノクルヒ(多遅麻狂・豊岡市来日)のツチグモがこれに応じて非常に悪事を極め、気立県主クシイワタツを殺し、瑞宝を奪った。

崇神天皇は、第9代開化天皇の皇子であるヒコイマス(彦坐命)に詔を出して、討つようにいわれた。ヒコイマスは、子の(四道)将軍 タンバノミチヌシ(丹波道主命)とともに、
多遅麻朝来直の上祖 アメノトメ(天刀米命)、
〃 若倭部連の上祖 タケヌカガ(武額明命)、
〃 竹野別の上祖 トゲリヒコ(当芸利彦命)、
丹波六人部連の上祖 タケノトメ(武刀米命)、
丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
大伴宿祢の上祖 アメノユゲノベ(天靭負部命)、
佐伯宿祢の上祖 クニノユゲノベ(国靭負部命)、
多遅麻黄沼前県主 アナメキ(穴目杵命)の子クルヒノスクネ(来日足尼命)、等
丹波に向かい、ツチグモノヒキメを蟻道川で殺し、クガミミを追い、白糸浜に至った。
クガミミは船に乗り、多遅麻の黄沼前の海に逃げた。

ヒコイマス(彦坐王)は、久里船(丸木舟)を取り寄せ、その一艘にヒモロギ(神籬)を立て、船魂神をまつり、水前(水先)主とした。タケヌカガ(武額明命)とクルヒノスクネ(来日足尼命)はお供して先に立って案内した。
ヒコイマス・タンバノミチヌシ・ヤマトノエタマは第二船に乗り、
アメノユゲノベ・クニノユゲノベらは第三船に乗り、
アメノトメ・タケノトメ・トゲリヒコは第四船に乗り、追撃した。

たまたま、強く激しい風が起こり、山のような大波で、三日三晩暗黒のようだった。それでこの海をクルヒウミ(久流比海)またはクラヒウミ(久良比海)という。

その時、狂のツチグモはクガミミに加わり、再び勢いをました。それでこの海をイブリウミ(威振海)という。

ヒコイマスの船が岩の角に衝突し、穴が空いてしまった。それで、この岩角を荒孔岩という。さすがに王軍は士気を失った。
ヒコイマスは、今度はアワナギ神・オモナギ神をまつる。その時、水前主大神が、
「天つ神・地祇(国つ神)の擁護があるので、すぐに美保大神と八千矛大神を祀りなさい」と教えた。
ヒコイマスは教えに従いこれをまつった。
その時、陸地に光明を発した。タケノヌカガは光を見つけ、上陸してこれを堀ると白石を得た。
これを船に迎えてまつった。
その白石は、今安木宮に坐(いま)す。八千矛神の御霊である。
また、沖の方に天浮橋に乗り、船に向かい天下る神様があった。その時、すぐに風が止み、波は静かになった。したがって、アメノトメの船に迎えて祀った。これは美保大神の御霊である。
それでこの地を安木浦という。美保大神を入来大神と称してまつった。また、そのかたわらを恵美海(いま美含という)という。この2神(大国主神・美保大神)を安来浦に斎きまつる。  (村社 国主神社:美方郡香美町香住区安木)

クガミミ(陸耳)・ツチグモ(土蜘蛛)らは、隙きに乗じて逃げ出そうとした。タケノトメとトゲリヒコは遮って止めた。クガミミらは死を覚悟して戦ってきた。
その時、突然大きな波の音がして、無数のアワビが浮かび出て、船の空いた孔をふさいだ。それでこの地を鯨波島(ときしま)今の刀加計)という。

そのアワビが浮き出た地を鮑島(のち青島)という。その舟が生まれた場所を舟生港という。(のち舟を丹になまって丹生港と書す)

その時、天より神剣がひらめいて、タケノヌカガの舟に降りた。タケノヌカガは、これをヒコイマスに献じた。この剣はタケミカヅチ(国鎮武甕布都)の剣である。

したがって、この地を神浦(神浦山)という。またその地を名づけて幸魂谷(佐古谷)といい、剣を献じた場所を剣崎という(いま都留辺の崎)。

ヒコイマスは大いに喜び、トゲリヒコに斎きさせた。その時、クガミミらの勢いは尽きて逃げ去った。それで勢尽イキツキ(伊都伎)という。

クガミミ・ツチグモらは島の影に潜んだ。その地を屈居浦という。
クルヒノスクネ(来日足尼命)はツチグモに迫り、これを刺し殺した。それでタワレノサキ(斃碕)という。

10月3日 王軍はクガミミを御碕で撃退した。その時、ヒコイマスのよろいかぶとが光り輝き、大きな音を立てて動いた。それで鎧浦(よろいうら)という。
トゲリヒコは進んでクガミミに迫り、刺し殺した。それで勢刺(いきさし)の御碕(みさき)といい、または勇割の御碕という。

これによってトゲリヒコ(当芸利彦命)と名づけ、またはタケヌキヒコ(武貫彦命)という。

クガミミ・ツチグモの2つの鬼は、誅伐され、余った衆はしばらくして降参した。

ヒコイマスは、賊が滅んだのをもって、美保大神・八千矛大神(大国主)の加護のおかげとし、戦功のお礼参りをしなければならないとし、出雲に至り、二つの神に詣でた。(美保神社出雲大社

帰るとき、伯耆を過ぎ、因幡の青屋(今の鳥取市青谷町)をまわり、加路カロ港(今の鳥取市賀露)に入り、順風を待って、田尻港(鳥取県岩美郡岩美町田後)を過ぎたときに、暴風に遭い船が大きく揺れた。それで振動フルイ浦という。

二方国の雪白浜に入り、将と兵を休養させたので、その地を諸寄モロヨセという。その後、多遅麻国美伊県の舟生(丹生)港に寄り、順風を待った。その時、磯辺からこの世に比類のなき大アワビがたくさん浮かび出た。

白石島をまわるとき、突然、大アワビたちが神船となり、嚮導(先に立って案内する)し、丹波国与佐郡浦嶋に到着した。

そして陸に上がり、その導いてくれた船を見ると、九穴の大アワビが一個、船の中にいた。

ヒコイマスはこれを拝み、神霊とし、ヒコイマス(彦坐王)の子のイリネ(伊理泥命)を奉じた。

11月3日 皇都に凱旋し、将と兵の戦功と戦(いくさ)の不思議な現象を申し上げた。天皇は喜び、丹波・多遅麻・二方の三国(*2)をヒコイマスに与えた。

12月7日 多遅麻の刀我禾鹿(東河粟鹿)に下り、宮を造営させ在した。のち諸将を率い、三国以外の諸国を視察した。
11年春4月 ヒコイマスは宮に帰り、諸将を各地に配置し鎮守(*3)とした。

丹波国造 ヤマトノエタマ(倭得玉命)、
多遅麻国造 アメノヒナラギ(天日楢杵命)、
二方国造 ウツノマワカ(宇都野真若命)、
その命令に従う。
この時に当り、
比地県主 美穂津彦命、 (のちの朝来郡)
夜父 〃 美津玉彦命、 (のちの養父郡)
黄沼前〃 穴目杵命、  (のちの城崎郡)
伊曾布〃 黒田大彦命  (のちの七美郡) あり
刀我禾鹿宮に朝して、その徳を分け与える。朝来アサコの名はここに始まる。
トゲリヒコ(当芸利彦命・またはタケヌキヒコ・武貫彦命)は鷹貫宮におられる。(豊岡市日高町竹貫)

第11代垂仁天皇の45年(西暦16年)冬10月 トゲリヒコ(当芸利彦命)の子クニシズメツルギヌシ(国鎮剣主命)を気多県主とする。母はイコハヤワケ(伊許波夜別命)の娘イソシヒメ(伊曾志姫命)である。
クニシズメツルギヌシは国鎮御剣クニシズメノミツルギを剣宮に奉安する。鷹貫タカヌキ氏がイツくところの太刀宮タチノミヤ甕布都ミカフツ神をまつる。(式内鷹貫神社:豊岡市日高町竹貫)

第12代景行天皇の32年(102年)夏6月 イカシコオ(伊香色男命)の子・物部大売布モノノベノオオメフ命は、ヤマトタケル(日本武尊)に従い、東夷アズマエビス(*4)を征伐したことを賞し、その功により摂津の川奈辺(川辺郡)(*5)・多遅麻の気多(*6)・黄沼前の三県を与える。

オオメフ(大売布命)は多遅麻に入り、気多の射楯イダテ(*7)宮に在した。多遅麻物部氏の祖である。

53年(123年) 景行天皇は、(奈良より)東のヤマトタケルが平定した国を歴訪された。
孝元天皇の皇子オオヒコ(大彦命)の孫、イワカムツカリ(磐鹿六獦命)・オオメフ(物部大売布命)らが行幸にお供し、伊勢国から東国に入り、上総カズサ安房アワ郡浮嶋宮に至った。
また、相武国(相模)に行幸し、オオメフを伴い、葛飾野クズシカノで狩りをされた。
大后のヤサカイリヒメ(八坂入姫命)は、イワカムツカリ(磐鹿六)を従えて行宮におられる。大后は、イワカムツカリを御前に呼んで問われた。

「この浦に怪鳥の声を聞きました。その鳴き声はカクカクというのでその姿を見てみたい」

イワカムツカリは、船に乗りその鳥のもとへ行くと、すぐ鳥が驚いて、他の浦へ飛び去った。さらに進んだが、ついに捕らえることができなかった。

イワカムツカリ「おお鳥よ。私はその声を慕い、その姿が見たい。ところが他の浦に飛び去り、その形を見せない。これより後、陸に止まることができない。もし大地に下りるなら、すぐに死ぬ。海中を棲家としなさい」といって帰った。

(この鳥は、今は香藻女カモメと名づく。また香許女カゴメという。香許女は香倶女の転訛)

この時、船の後をふり返ると、魚がたくさん集まってきた。イワカムツカリは弓で海面の魚を射った。矢が当りすぐにいっぱい獲れた。それで頑魚カタオ堅魚カツオ・鰹)という。

船は潮が引いて、渚のほとりにいたとき、掘っていると、八尺の白いハマグリがとれた。
イワカムツカリは、この二種類を捧げて大后に献上した。すると大后は誉め喜ばれ、
「たいへん美味しく、すべて食べました。御食をたてまつりなさい。わたしはこれを賞したいと思います」と。
その時イワカムツカリは、謹んで「ムツカリ 仰せの通りこれを献じます」と。
無邪志(武蔵)国造の上祖、オオクニタマ(大国魂命)の末裔 大田萌生メバエ?命、
知々夫(秩父)国造の上祖 八意思兼命の子天下春命の末裔 天上原・天下原命を召し、なます、煮物、焼き物などを作り盛り、河曲山のクチナシ葉でヒラツキ(枚次)(*8)8個を刺し作り、
日陰に並べ、蒲の葉で美津良ミヅラ(*9)に巻き、真竹・葛を採り、ケヤキに掛け、帯となし、緒は足をまとい、
いろいろな物を供え、結い、飾って、
天皇が狩りよりお帰りになられた時に献上した。

天皇「だれが作って献じたのか」
大后「これはイワカムツカリの献ずるものです」
天皇は大いに喜び、「大倭国(大和国)は、ますますその名にふさわしい国である。
イワカムツカリは、われの皇子ら及び、限りない御子が末永く続き、ときわ(永遠)まで天皇の大御食に使えまつれ」と。
すぐにオオメフに命じ、腰に下げる太刀をイワカムツカリに与えられた。

また、このあと、規則を作り、大伴部として、仕えて奉るべき者を設けられた。
東西南北・山陽・山陰の国々の人を割り移し、大伴部と名づけ、イワカムツカリに与えた。

また、諸氏、東国の国造十二氏の優子各ひとりを献じ、ヒラツキの鱗を与える。

『山野海河の物はガマの渡る極み、カエルの通る極み、ウロコの広い物、ウロコの狭い物、毛の荒い物、毛のなごやかな物、さまざまな物を供え、冨真根*取りもって、仕え奉れ』とおっしゃった。(*冨真根 検索してもヒット0。この意味が分からない)
この時、天皇は、上総国安房郡に坐(いま)す安房大神を崇め、御食津神(食物の神)とされ、オオメフの子トヨヒ(豊日連)に火をきらせ忌火イミビとなし、御食を斎き奉らせ(神饌)られた。

また大八州をかたどって八乙女(*10)を定め、神嘗カンナメ大嘗オオナメ(*11)において、初めてお供えを奉らされた。

オオメフ(物部連大売布命)は、長く天皇に仕えていたが、第13代成務天皇の60年(190年・天皇崩御)、多遅麻(気多)に帰る。

 


[註]

*1 天照国照彦櫛玉饒速日天火明命 天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は天照国照彦火明櫛玉饒速日命とも書く。瓊瓊杵尊 の 子・ニギハヤヒ(饒速日命)のことで、天火明命は瓊瓊杵尊の弟にあたる。天火明命とあるから尾張氏・海部氏の祖天火明命と混同するが、同一人物ではないないとする。『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒとアメノホアカリは同一神としている。

*2 丹波・多遅麻・二方の三国 ここで多遅麻(但馬)・二方と同時期に丹波とあり、丹後はないことから、但馬はすでに第6代孝安天皇朝に、天日槍が帰化し多遅麻国造となって丹波から分国しているので、まだ丹波は丹後と丹波に分国されていなかったようだ。
*3 鎮守 兵士を駐在させて、その地をしずめ守ること
*4 東夷(あずまえびす) 都からみて東国の人
*5 川奈辺県 のち摂津国川辺郡。古くは河辺郡とも書いた。現在は猪名川町1町のみだが、かつては、猪名川町全域・川西市全域・伊丹市と尼崎市と宝塚市の大部分・三田市の一部。大阪府豊能町の一部を含めた郡
*6  気多(けた) 県、のち郡 古くは佐々前県→気立県。かつての豊岡市日高町と養父郡・豊岡市・竹野町の一部
*7 射楯(いだて) のち石立村。国保村と合併し、豊岡市日高町国分寺
*8 ヒラツキ(枚次) 枚手ともいい、大嘗会 (だいじょうえ) などの際、菜菓などを盛って神に供えた器。数枚の柏 (かしわ) の葉を竹ひごなどで刺しとじて円く作ったもの。後世、この形の土器 (かわらけ) をもいう。
*9 角髪(みずら) 日本の上古における貴族男性の髪型。美豆良(みずら)、総角(あげまき)とも。
*10 神楽(かぐら)などを舞う八人の少女。転じて,神楽の舞姫の意にも
*11 神嘗・大嘗 神嘗祭・大嘗祭の略。宮中祭祀の大祭のひとつ。神嘗祭は五穀豊穣の感謝祭にあたり、宮中および神宮(伊勢神宮)で儀式が行われる。大嘗祭は天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭(収穫祭にあたる)。


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00 はじめに『但馬国司文書 但馬故事記』

「国司文書・但馬故事記・別記」の訳註書「古事大観録」「但馬神社系譜伝」「但馬郷名記抄」「世継記・秘鍵抄ほか」コピーを同じく但馬史や神社に興味を持たれている知人からいただいた。

郷土但馬の成り立ち、神社の由来・縁起を知る手がかりとして、桜井勉『校捕但馬考』などから拾っていたが、どうしても『但馬故事記-但馬国司文書』が読みたくなった。但馬文教府にあると聞いたので行ってみると、閉館していたので、豊岡市図書館にないものかと探しにいったら、コピーした写本があった。翌日また出かけて禁帯出ではないことが分かり、わかりやすい現代文に直された『平文 但馬故事記 全』長岡輝一著とともに借りてきた。

読んでみると、但馬の歴史・風土記・神社等が実に詳しく、但馬国府に任じられた歴代の国司・官人たちが数年の歳月をかけて編纂された公文書なのである。

天平に朝廷が各国のその地の風土・産物・伝説その他を、国ごとに記させた風土記は、わずかに写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残るのみである。『出雲国風土記』は天平5年(733年)に完成し奉呈されたが、但馬国風土記はそれよりも20年早く和銅5年(712年)に奉呈されている。しかし、第56代陽成天皇の在年に火災によって焼失した。この『国司文書 但馬故事記』は、それより260年後に作られたものである。それだけ資料も多く集めたもののようで、風土記としては『出雲国風土記』に勝るとも劣らない、全国でも類のない貴重な書である。

まずこの但馬内の神社に散逸していた巻を収集して注釈本にされた吾郷清彦氏が書中に書いているように、「この中でも神社系譜伝は、神社の由来・縁起をはじめ、祭神のことなど、こと祭祀に関する限り、延喜式の但馬版といってもよいであろう。」
長年捜していた貴重な書を見つけた喜びと同時に、なんとはるか1000年以上前に正確に記されていたのに感激してしまった。

誤っている桜井勉氏を中心においた但馬の郷土史一変道の固定概念

『アメノヒボコ』(瀬戸谷晧・石原由美子・宮本範熙共著)の中で、

『校補但馬考』の刊行は大正時代のことだが、まず出石藩主仙石実相の命を受けて、桜井舟山が宝暦元年(1751)にまとめた著書が『但馬考』。その後、出石藩には弘道館という藩学が設けられ、桜井一族がこの分野で活躍を続ける。子の石門が但馬関係資料を『但馬叢書』としてまとめ、さらにその子の勉(児山)が祖父の業績に大幅な増補を加えて刊行したものが大著『校補但馬考』であった。その引用文献の豊富さや徹底した質・資料批判という点において、但馬史研究の出発点の地位を失っていない。

桜井勉氏は自著『校補但馬考』の巻頭で、「但馬地誌に、但馬記、但馬誌、但馬發元記、但州一覧集の類ありといえども、その書誤り極めて多し。国司文書なるものあり。分けて故事記八巻、古事大観録三巻、神社系譜伝八巻となす。しかして、その書は誠にずさん妄作に属する。したがってこれを引用せず」と明記してその立場を明らかにした。いかがわしい文献は信じられないし、論評することすらしないというわけである。

このことは、梅谷光信氏が正当に評価したように、出石藩以外の藩学や私学では「但馬史の系統的な研究がなされなかったから」できたことではあろうが、その背景に但馬の雄を競う出石藩と豊岡藩の学問的闘争の継続といった側面があるいはあったかもしれない。

ここで桜井 勉氏について少し触れてみたい。

桜井 勉

明治時代の行政官。出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石郡出石町伊木(現兵庫県豊岡市)に生まれた。明治新政府では内務に携わった。内務省地理局長時代には全国の気象測候所の創設を働きかけ、気象観測網の基礎を築いた。その後、徳島県知事、山梨県知事、台湾新竹知事、内務省神社局長を歴任、1902年(明治35年)に退官した。

退官後は出石に戻り、『校補但馬考』を著して但馬の郷土史研究の基礎を築いたほか、教育振興などにつとめた。

「天気予報の生みの親」として知られ、今日の兵庫県・京都府の合併に寄与した。東京大学初代綜理のち東京帝国大学総長加藤 弘之氏、三代濱尾新とともに出石の偉大な郷土の偉人である。また晩年、弘道館藩学の一族として、郷土史『校補但馬考』をまとめた功績は大きい。もちろん、桜井勉氏は偉大な郷土の偉人であり、『校捕但馬考』は明治になってよく調べ上げた数少ない郷土史である。

しかし、学者に限らず国史であるから『記紀』は正しい、また偉い学者や先生、Aという大新聞、某公共放送だから間違っていないだろうと考えてしまう傾向が日本人には多い。実際にどこのどういう記述が嘘偽りなのかは触れず、考古学界でそう言われてきたからとか、全くもって真実、史実を求めるのではなく、また自虐史観による戦後教育の申し子のように日本はアジア周辺国に迷惑をかけたのだから(実際はその反対)、それ以外の答えを出すことがタブーであるかのように、定説、通説なるものにもたれ合い、本来の歴史学というアカデミックな探究心から逸脱してそれぞれの立場を守ることの方が大切であるようで愚かだ。

そのためか、桜井勉氏が『但馬故事記』を偽書としているからと、『但馬故事記』が軽んじられてきたようだ。しかし、『国司文書 但馬故事記』を熟読し、神社等を調べ上げた結果、桜井の『校補但馬考』の記述こそ、史実を操作した感があるように思えてならないところがある。

つまりは、桜井勉氏は『校捕但馬考』を編纂するにあたり、あらゆる但馬の歴史文献等を調べ上げことは同書に述べているのではあるが、『国司文書 但馬故事記』を引用するに値しない、「偽書だ、妄作だ」と言い切るならば、具体的にどこの何が異なるのかなど述べなければなるまい。桜井勉氏『校捕但馬考』は、何も理由を述べずに憎悪している。

おそらく出石藩学を担ってきた桜井家の子孫として、どうしても曲げられない桜井家の立場、アメノヒボコ・神社などの研究成果を覆す事が記されているものだったから、出石藩学の中心的立場では、但馬をアメノヒボコ一中心にしないといけないという考えが強かったのかも知れない。

われわれ現代人は、桜井や苦労して集めた資料に比べて、書物やインターネットのおかげで、かなり多くの世界的規模の文献を客観的にみることができる。まずは、「百聞は一見にしかず」というように『国史文書 但馬故事記』をまず読んでみてほしい。全くの想像で具体的な年代、人物、神社名や祭神などを膨大な歳月と人力をかけて集められるだろうか。もちろん神話的部分が事実ではなく想像である部分もあるだろうが、言い伝えや昔ばなしや伝承がまったくの作り話ではなく、事実が隠されていることも多い。

そう思っていたのは実は私だけではなかった。早くから吾郷清彦氏・長岡輝一氏ともに桜井勉やそうした学者を批判しているし、また、感動したのは、国司文書編纂者が、『但馬故事記序』として書いている言葉である。平安後期の役人・国学者は、我々が抱いていたよりはるかに客観的な視野と優れた日本人だったからである。

但馬故事記序

日本根子天高譲弥遠天皇(淳和天皇)の朝*1、但馬風土記を作り、国学寮これを管る。
その記、貞明天皇の朝、火災に遭い焼亡す。遺憾何ぞ堪えんや。

この書は弘仁五年春正月に稿を起し、天延二年冬十二月に至る。其ノ間、年を経ること158、月を積むこと、1,896、稿を替えること、79回の多に及ぶ。(中略)
然してれ、旧事記、古事記、日本書紀は、帝都の旧史なり。此の書は、但馬の旧史なり。
故に帝都の旧史に欠有れば、即ち此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。焉。
然りいえども此の書、神武帝以来、推古帝に至るの記事書く。年月実に怪詭を以って之を書かざれば、即ち窺うべからず。
(そうはいっても、この書は神武帝から推古帝の記事を書くのだから、年月は実に怪しさをもって書いていることを否定出来ない。)
故、暫く古伝旧記に依り之を填(うず)め補い、少しも私意を加えず。また故意に削らず。しかして、編集するのみ。

現代でも歴史を知る姿勢として十分通じるべき範として見習うべきことを、すでに平安時代に述べられていることに、日本の先人の偉大さを再認識するのである。

*1  朝 朝廷という名称は、公務を朝行ったことが起源である。

『但馬故事記』について

(原文コピー本)豊岡市図書館蔵

『竹内文書・但馬故事記』吾郷清彦
昭和59年11月16日 発行
定価 3万円 (株)新国民社

(筆者が、)『但馬故事記註解』を『自己維新』に連載した昭和47年10月号より翌48年12月号まで一年と三ヶ月。
ところが昭和54年に、兵庫県の田中成明氏より『古事大観録』・『但馬神社系譜伝』(原本コピー)の寄贈を受けた。
ここにおいて私は、『但馬国司文書』註解の衝動に駆られ、これを執筆、発表する決意を固めた。
そもそも『但馬国司文書』は、副題としてあげた如く、『出雲国風土記』に皮脂、勝るとも劣らない価値ある古文書だ。この文書は左記三種の古記録、計22巻より成る。

『但馬故事記』(但記)   八巻
『古事大観録』(大観録)  三巻
『但馬神社系譜伝』(系譜伝) 八巻

このほかに
『但馬国司文書別記・但馬郷名記』 八巻、
『但馬世継記』八巻、
『但馬秘鍵抄』などがある。

※()は筆者の略称

これらを本著に収録して、注釈を加えれば大冊となり、内容上重複する箇所がすこぶる多くなる。よって、『但記』・『大観録』・『系譜伝』を三本の柱となし、これに『郷名記』を加え、『世継記』と『秘鍵抄』とは概要にとどめ、必要に応じて引用することとした。

(省略)

この国司文書は、地方の上古代史書のうちで『甲斐古蹟考』とともに東西の横綱として高く評価されるべきものだ。

兵庫県(出石)の郷土史家桜井勉は、これらを深く調べもせず、枝葉末節にこだわり、但書を偽作視するが、情けない限りだ。概して学者なるものは、ひとたび自説を発表するや、自説を曲げず、他説をそしることに汲々とする傾向がある。
私は、これまでの狭量な学者的態度をとらず、また科学者が、専門外の史学に没入した際、数式や定説を作り上げて、一つの結論に単略しがちな弊にも陥りたくない。

 

本書の記録範囲と内容

時間的には、天火明命の天降りから人皇62代村上天皇の天暦五年(951)まで、地域上ではもちろん但馬国が主体をなすが、隣接する因幡・丹後・丹波・播磨その他の国々が登場する。

但馬故事記 これは但馬国八郡にわたる歴史編というべきもの
古事大観録 多分に風土記的色彩を帯びており、但馬国の文化編といえよう。
但馬神社系譜伝 これは、延長五年(927)12月に上程された延喜式を見習って作られたものであろうか。各部ごとに、かくも整然と詳しく神社の系譜が伝えられていること、まさに日本全国で唯一無双といってよいであろう。まったく壮観である。

本書の特徴と史的価値

但馬国司文書の特徴

本書を風土記として見る場合、その余りにも広大な構成に驚く。よって私は、本書を歴史篇と産業文化篇・神道篇とに分けて考える。

すなわち歴史編は、『但馬故事記』八巻であり、産業・文化編は、『大観録』『郷名記』、神道編は『系譜伝』に当たる。『郷名記』は、地理篇というほうが、より妥当であろう。それよりも、むしろ世継記・大観録・郷名記の三書は風土記篇と呼ぶのが適当かもしれない。
本書に共通する特徴を左のごとく列挙しよう。

1.但馬地方の諸伝承を忠実に記載する。
2.古典四書(1)などを充分に参照している。
3.神社の祭神をよく調べ、かつて上代(300-1000)に神社信仰時代があったことを、本書は明示する。
4.本書は、古墳時代に関する記録が多い。なかんずく古墳の副葬品の叙述に満ち溢れている。「国司文書 但馬神社系譜伝」の点で考古学・民俗学上見逃せない有力な資料である。
5.諸々の連(むらじ)・公・君(きみ)・臣(おみ)・首(おびと)など、各郡首長たちの系譜を詳細に伝える。
6.天孫-饒速日(天火明)尊-降臨の詳しい伝承を記載する。
7.陸耳(くがみみ)-御笠討伐の記録は、他所に全くない詳伝である。
8.神功皇后の但馬国における足跡を伝える。
9.天日槍一族の事蹟が、ことのほか詳しい。
10.兵庫(やぐら)の設定、軍団の構成、陣法による訓練の諸項に見るべきものが多い。

(1)古典四書…『古事記』・『日本書紀』・『旧事記』を古典三書。この三典に『古語拾遺』を加えて古典四書という。

本書の史的価値

但記序文における編纂方針と執筆者たちの良心的態度

夫(そ)れ旧事紀・古事記・日本書紀は帝都の旧史なり。この書は但馬の旧史なり。故に帝都の旧史に欠有れば、即ちこの書をもって補うべく、但馬の旧史の漏れ有れば、即ち帝都の正史といえども荒唐無稽の事無きにしも有らず。況んや私史家様に於いてをや。

この堂々たる一文、もって私たち古代研究家の大いに範とすべき大文章だ。今日の史家の百家争鳴、史実を曲げることの極端、白を黒に塗って、得意となっている徒輩の氾濫、嘆かわしい限りである。

かと思うと、古典に執着するあまり、地方に秘匿されていた古文献をやたらに偽書呼ばわりする狭量な史学者にも困ったものだ。

『天日槍』の著者、今井啓一郎は、出石の郷土史家桜井勉の偽書説など牙歯にもかけず、「人、あるいは荒誕・不稽の徒事なりと笑わば笑え」と、堂々の論調を張り、天日槍研究に自信のほどで示した。すなわち彼は、桜井とは見解を異にし、高い次元にたち、この但馬国司文書を大いに活用している。

(省略)

桜井勉の著述として採るべきものは多々ある。また神社信仰時代を示す資料としてみる場合、まさに但書は天下一品、とても但馬考などの追随を許さない。(省略)

総合して、但馬考と比較するとき、上古代から中世までに関する限り、但書は但馬考よりはるかに優れており、但馬考以上に高く評価すべきものである。

さて本著の副題に─出雲風土記にまさる古代史料─とつけたごとく、本書は、出雲風土記をはじめ、各国から上進された諸風土記に勝るとも劣らぬ内容を備えている。

この中でも神社系譜伝は、神社の由来・縁起をはじめ、祭神のことなど、こと祭祀に関する限り、延喜式の但馬版といってもよいであろう。

  • 『国司文書・但馬故事記』には、2つの貴重な事実が但記序文に載っている。
    一つは、但馬風土記が、人皇52代陽成天皇の御代火災にかかり焼失したことは、遺憾で堪えられないことだ
  • この書は平安初期、弘仁五年(814)に稿を起こし、天延2年(974)冬12月に至る。
    編纂に従事する者はいずれも中央から派遣された国学寮の学者である(今風に言えば国家公務員)
  • 『旧事記』・『古事記』・『日本書紀』は帝都の旧史なり。この書は但馬の旧史なり。
    ゆえに帝都の旧史に欠有れば、即ちこの書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。
    然りといえどもこの書は、神武帝以来推古帝に至るの記事を書す。年月日に怪訝に似たり。(中略)古伝旧記に依りこれを補填し、少しも私意を加えず。また故意に削らず、編を成すのみ。
  • 正史が国家権力によって記されているのと、地元に縁もゆかりもない派遣された国学者たちが客観的に編纂するこの書と、どちらが信憑性が高いだろう。国府に従事するならむしろ中央に有利に書くだろう。但馬の風土記を脚色しても何の利があるといえるのだろうか?むしろ、客観的に編纂されていると思えるのである。

『平文 但馬故事記 全』 長岡輝一著 発行 平成十年

『但馬故事記』は、我ら昭和3年蚕業学校(現県立八鹿高校)卒業29回生の級友、伊藤三武郎君が、苦心を重ねて再発掘した古書である。

大正時代の史家桜井勉氏は、自著『校捕但馬考』は、但馬史において重要な資料であるが、彼は、『但馬故事記』をその書の中で、後世の偽作と断定して、「附警」の一巻を設け、鋭く論断を加えている。

以後、但馬故事記は黙殺の厄に合い、但馬人はこの書を読まず、学者・史家は言及を避けている感が深い。

『校捕但馬考』の附警を繰り返し読んでみても、『但馬故事記』の「後世偽作」を証明する確証は一項も見当たらない。

また、反面には最近の史家によって、その編纂の頃までに、地元に残っていた伝承が書いてあり、また古事記や日本書紀に、作為的に記載を除外したかと思わせる部分もあり、極めて貴重な文献だとする見解もある。

[以上抜粋引用]
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01 但馬故事記序 現代語版

日本根子天高譲弥遠天皇(第53代淳和天皇)のとき、国司、解状を郡司に下して、その郡の旧記を進ぜさせる。

朝来あさこの小領(*1)  従八位下 和田山守部臣わだやまのもりべのおみ
養父やぶの大領(*1)  従八位上 荒島宿祢利実あらしまのすくねとしみ
出石いずしの大領   正八位上 小野朝臣吉麿おののあそんよしまろ
城崎きのさきの大領    〃   佐伯直弘麿さえきのあたえひろまろ
美含みくみの大領   正八位下 佐自努公近通さじのきみちかみち
七美しつみの大領   従八位上 兎束臣百足うづかのおみむかで
二方ふたかたの大領   正八位上 岸田臣公助きしだのおみきみすけ 等

互いに前後して、これを国衙に書き記して注進した。

その書は実に30余りの多さに至った。
したがって、多くの中から取り上げて正確と認められるもののみを選び編集した。

上は神代の時代から起こし、下は今の時代(天延三年・975)で終わる。
むかし、第17代履中天皇が、史官を諸国に遣わし、政事(まつりごと)の得失を記すように申された。

但馬は、その書が散逸するが、養父郡の兵庫やぐら(*2)にあった。その記録を取り寄せ閲覧した。
その中に但馬県記、国造記があった。記録の最後に大蔵宿祢おおくらのすくねと署名がある。思うに大蔵氏の蔵する書か。

多くの中から旧伝に関係あるものを要点を抜き出して記録した。そうはいっても、誤った言い伝えや違うことがその中に無いとも限らない。

第43代元明天皇のとき、「但馬風土記」を作り、国学寮(*3)が管理する。
その記が第57代陽成天皇のとき、火災に遭い焼失してしまった。何とも堪えられないほど遺憾だ。

本書(国史文書 但馬故事記)は、弘仁5年(814)春正月に書き始め(*4)、天延2年(974)冬12月に至る。
その間、年を経ること、158年、日を積むこと1,896日、稿を替えること79回の多さに及んだ。
(なんと約160年という全く気が遠くなるような長い年月。)

そしてこれに従事する者
国学のカミ(*3) 国博士 文部モンブ吉士キシ(*5)良道、
国学のスケ   菅野朝臣スガノノアソン(*6) 資道モトミチ
国学のジョウ   真神田首マカミダノオビト(*7) 尊良タカナガ
国学のサカン   陽候史ヤコノフビト(*8) 真佐伎マサキ

稿を続けてこれを編成する者
明法博士 得業生トクゴウショウ(*9) 但馬権博士ゴンノハクジ(*10) 讃岐朝臣 永直、
国学頭 国博士 膳臣カシワデ 法経ノリツネ、及び
国学頭 菅野朝臣 資倶モトトモ
国学助 真神田首 光尊ミツタカ
国学允 文部の吉士 経道ツネミチ
国学属 陽候史 真志珂マシカ 等

そしてそれは旧事記・古事記・日本書紀は帝都の旧史である。
この書は、但馬の旧史である。

したがって、帝都の旧史に欠けた箇所があれば、その都度この書をもって補うべく、但馬の旧史に漏れがあれば、その都度、帝都の正史をもって補う。

といっても、これらの書は、神武天皇以来推古天皇に至る記事である。年月は実に怪しい。しかしだからといって書かなければ、国の変遷をうかがえない。したがって、少しは古伝旧記に従い、補填し、少しも私意を加えない。

また、故意に削らず、編集するのみ。

もとより、大昔の記事は、帝都の正史といえども荒唐無稽な事がなきにしもあらず。私史家などはさらにそうである。

これからこの書を見る人は、その使えるところは使い、捨てるべきは捨てて、但馬の旧事を知られれば、言うまでもなく切に願う。この書もまた正史と同じく一覧の価値がある。編集に際し、前書きにて上述のとおり。

天延三年(975・平安時代後期)春正月

国司文書総目録

第 一巻 気多郡故事記
〃 二〃 朝来郡 〃
〃 三〃 養父郡 〃
〃 四〃 城崎郡 〃
〃 五〃 出石郡 〃
〃 六〃 美含郡 〃
〃 七〃 七美郡 〃
〃 八〃 二方郡 〃
〃 九〃 古事大観録上
〃 十〃  〃   中
〃十一〃  〃   下
〃十二〃 気多郡神社系譜伝
〃十三〃 朝来郡  〃
〃十四〃 養父郡  〃
〃十五〃 出石郡  〃
〃十六〃 城崎郡  〃
〃十七〃 美含郡  〃
〃十八〃 七美郡  〃
〃十九〃 二方郡  〃

以上


[註]
律令からの難解な人名漢字にある役職なども、その決まり事を知れば、さらに深まる。
*1 郡司 国司の下で郡を治めた地方官。大領・少領・主政・主帳の四等官からなり、主に国造(くにのみやつこ)などの地方豪族が世襲的に任ぜられた。また、特に長官の大領をいう。
*2 兵庫(やぐら) 軍団は7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織。国司のもとに最初は但馬の場合、北部の気多軍団・南部の朝来軍団の2つが置かれ、その後郡ごとに置かれるようになる。兵庫はその武器庫かつ軍団の集まる建物
*3 国学寮 寮(つかさ・りょう)は古代日本の令制時代では役所の種類 官人育成のために都に大学寮、各律令国の国府に1校の国学寮の併設が義務付けられた。但馬国の国学寮は、気多郡馬方原(今の豊岡市日高町三方地区、広井周辺)ではないかと思われる。
四等官・四等官制 カミ(長官)、スケ(次官)、ジョウ(判官)、サカン(主典)
*4 本書は、弘仁5年(814年)春正月に書き始め 第53代淳和天皇の在位は、弘仁14年4月27日(823年6月9日)から天長10年2月28日(833年3月22日))まで。淳和天皇の在位に国司の解状を郡司に下して、その郡の旧記を進ぜさせたとあり、そこに国府の気多郡が含まれていないので、気多郡については、淳和天皇在位以前の弘仁5年(814年)春正月から書き始めていたようだ。
*5 吉士(きし) 古代の姓(かばね)の一。朝鮮半島より渡来した官吏に与えられた。
*6 朝臣(あそん) 天武天皇が定めた八色の姓の制度で新たに作られた姓(かばね)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。
*7 首(おびと) 八色の姓にはないが、一つは地名を氏とする県主、稲置など領首的性格をもつもの。一つは職名,部曲名を氏とする長、首領
*8 陽候史(やこのふびと) 名の通り暦や気象をする官職だと思われる
*9 得業生(とくごうしょう) 学生から成績優秀のものを選んで与えた身分 今で言えば特待生
*10 権博士(ごんのはくじ) 博士を補佐する


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古事記 上巻「神話編」6 スサノオの追放

伊邪那岐神(いざなぎのかみ)に命じられ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は高天原を、月読命(つくよみのみこと)は夜の世界を治めておりました

しかし建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)だけが、命令を無視して海原を治めようとしませんでした。
顎に鬚が生えて、しかもそれがいくつも塊になって胸に至るまで伸びるくらい長い間、激しく泣いていました。

その激しさはすさまじく、青々と緑に満ちていた山が枯山になり、川や海の水がことごとく枯れてしまうほどでした。
しかも、建速須佐之男命の鳴き声に反応して悪神の騒ぐ声が、まるで田植えの頃の蠅のように辺り一面に満ち溢れ、様々な物の怪達による被害が相次ぎました。

伊邪那岐神は建速須佐之男命に
「どうして言われた通りに海原を治めず、泣いてばかりいるのか。」
と尋ねました。

建速須佐之男命は、
「僕は妣(はは)の国である根之堅洲国(ねのかたすくに)に行きたいと思っているのです。それで、泣いているのです。」
と答えました。

根之堅洲国は地底の片隅の国という意味ですが、これは黄泉の国を現しているという説がありますが、どこなのかは明確に分かってはいません。

建速須佐之男命の言葉を聞いて、伊邪那岐神は大変怒りました。

そして
「それならば、お前はこの国に住むな。」
と言って、建速須佐之男命を即刻追放致しました。

伊邪那岐神はその後、淡海(おうみ)の多賀(たが)に鎮座いたします。

淡海の多賀とは、一説には滋賀県犬上郡多賀町多賀の多賀大社のことだといわれています。
ですが日本書紀には「淡路の幽宮(かくれみや)」に鎮座したとあり、現在では淡海は淡路の誤記ではないかという説が有力です。

実際、兵庫県淡路市多賀には伊弉諾神宮があり、そこには伊邪那岐神の御陵(お墓)が現存しています。

国生み、神生みを終え、妻と別れ、沢山の神々と三柱の尊い神を出現させた後。
伊邪那岐神は最初に生んだ淡路島に鎮まり、そこで最期を迎えられたのだといわれています。

天地初発神々が出現し、沢山の神々が誕生した日本神話の草創期は、こうして終わります。

日本神話はこの後、天照大御神と建速須佐之男命を中心として展開されてゆきます。
建速須佐之男命の子孫にあたる大国主神(おおくにぬしのかみ)による、日本の国作りと国譲り。
そして、初代天皇誕生へと続いていくのです。