出雲神話2/5 オオクニヌシ物語 因幡の白うさぎ


出雲大社 大国様と白うさぎ像

ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになったスサノオノミコトの孫の孫の孫、つまりスサノオノミコトから数えて6代目にオオクニヌシノカミが誕生しました。

たくさんの兄弟の末っ子としてオオクニヌシノカミは出雲に生まれ、出雲に育ちましたが、何かにつけてお兄さんたちからいじわるな仕打ちを受けていました。 しかし、そんな兄たちのいじめにも負けず、オオクニヌシノカミは心やさしき神として成長していきました。

「因幡(いなば)の白ウサギ」で有名な大黒様は、このオオクニヌシノカミのことをいいます。

ある日のこと、オオクニヌシノカミの兄たちは、美しいことで評判のヤカミヒメにプロポーズしようと、出雲から現在の鳥取県である因幡(いなば)の国に向けて出かけました。 オオクニヌシノカミも兄たちの荷物持ちとして、大きな袋をかついで後ろからついて行きました。

出雲の国にだいこくさまという神様がいらっしゃいました。その神様はおおぜいの兄弟があり、その中でもいちばん心のやさしい神様でした。

オオクニヌシノカミが気多の岬(けたのみさき)という海岸を通りかかったときのことです。 全身の皮をむかれて真っ赤になった白ウサギが泣いているではありませんか。

おなじみの「大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると、そこに因幡(いなば)の白ウサギ、皮をむかれて赤裸」という童謡の場面です。 そして、その気多の岬(けたのみさき)が現在の鳥取県白兎海岸(はくととかいがん)だといわれています。

隠岐の島にいた白ウサギは、なんとかして向こう岸に渡りたいと思っていました。 しかし、船もありません。 そこでサメをだまして渡ることを思いついたのです。

海岸にいたサメに、自分の仲間とサメの仲間とどちらが多いか比べてみようと声をかけ、向こう岸までサメを並ばせました。 そして、サメの数を数えるふりをして背中を渡って行ったのです。あと少しで岸に着くというときになって、白ウサギも油断したのでしょう。 サメをだましたことをしゃべってしまいました。

さあ、大変!白ウサギは怒ったサメにつかまって、全身の皮をすっかりはがされてしまったのです。

兄弟たちが因幡の国の気多の岬を通りかかったとき、体の皮を剥かれて泣いている一匹のうさぎを見つけました。 兄弟たちはそのうさぎに意地悪をして、海水を浴びて風にあたるとよいと嘘をつきました。

そのうさぎはだまされていることも知らずに、言われるまま海に飛び込み、風当たりのよい丘の上で風に吹かれていました。  そうしていると海水が乾いて傷がもっとひどくヒリヒリ痛みだしました。

前よりも苦しくなって泣いているうさぎのところに、後からついてきただいこくさまが通りかかりました。

それから、私が痛くて泣いていると先ほどここを通られた神様たちが、 私に海に浸かって風で乾かすとよいとおっしゃったのでそうしたら前よ りもっと痛くなったのです。

だいこくさまはそのうさぎを見てどうして泣いているのかわけを聞きました。 そのうさぎは言いました。

わたしは隠岐の島に住んでいたのですが、一度この国に渡ってみたいと 思って泳がないでわたる方法を考えていました。するとそこにワニ(サメ)がきたので、わたしは彼らを利用しようと考えました。

わたしはワニに自分の仲間とどっちが多いかくらべっこしようと話をも ちかけました。

ワニたちは私の言うとおりに背中を並べはじめて、私は数を数えるふり をしながら、向こうの岸まで渡っていきました。

しかし、もう少しというところで私はうまくだませたことが嬉しくなっ て、つい、だましたことをいってしまいワニを怒らせてしまいました。そのしかえしに私はワニに皮を剥かれてしまったのです。

だいこくさまはそれを聞いてそのうさぎに言いました。 かわいそうに、すぐに真水で体を洗い、それから蒲(かま)の花を摘ん できて、その上に寝転ぶといいと教えてやりました。

そういわれたうさぎは今度は川に浸かり、集めた蒲の花のうえに、静かに寝転びました。 そうするとうさぎのからだから毛が生えはじめ、すっかり元のしろうさぎに戻りました。

そのあと、ずい分遅れてだいこくさまは因幡の国につかれましたが、八上比売(やかみひめ)が求められたのは、だいこくさまでした。

オオクニヌシノカミに言われた通りにした白ウサギは、やがて元に戻り、親切なオオクニヌシノカミに心から感謝しました。 「大黒様の言う通り、きれいな水に身を洗い、ガマの穂わたにくるまれば、ウサギは元の白ウサギ」という
このあと、大国命は出雲にやってきた八上比売(やかみひめ)と結ばれたのでした。

有名な童謡のシーンです。
2009/09/06
引用:社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課

因幡の白うさぎの意味は?

ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになったスサノオノミコトの孫の孫、つまりスサノオノミコトから数えて6代目にオオクニヌシノカミが誕生しました。

たくさんの兄弟の末っ子としてオオクニヌシは出雲に生まれ、出雲に育ちましたが、何かにつけてお兄さんたちからいじわるな仕打ちを受けていました。 しかし、そんな兄たちのいじめにも負けず、オオクニヌシは心やさしき神として成長していきました。-隠岐の島にいた白ウサギは、なんとかして向こう岸に渡りたいと思って、海岸にいたサメに、自分の仲間とサメの仲間とどちらが多いか比べてみようと声をかけ、向こう岸までサメを並ばせました。そして、サメの数を数えるふりをして背中を渡って行ったのです。あと少しで岸に着くというときになって、白ウサギも油断したのでしょう。 サメをだましたことをしゃべってしまいサメにつかまって、全身の皮をすっかりはがされてしまいます。

これは、隠岐の島を治めていた白兎に例えられる豪族が、因幡を攻めようとして失敗し、オオクニヌシが助けて隠岐の島を穏やかに平定したのち、プロポーズした兄たちには見向きもせず、オオクニヌシノカミを夫に選んだ因幡の八上比売(やかみひめ)はウサギが予言したとおりオオクニヌシはヤガミヒメを得ます。これは隠岐の豪族が穏やかに因幡にオオクニヌシと協力せよと伝え、隠岐・因幡を平定したということではないでしょうか。

【日本神話】 第3巻「出雲編」 第5章 オオクニヌシ(大国主)の国譲り

■オオクニヌシ(大国主)の国譲り(葦原中国平定)

高天原(たかまがはら)では、地上の豊かな出雲の国はアマテラスオオミカミ(天照大神)の子孫が治めるべきだという相談がなされていました。そこでアマテラスオオミカミは国譲りの交渉のために、3度も使いを送ったのですが、使いは出雲の住み心地の良さに帰って来なかったりして、なかなか交渉は成立しませんでした。

そこで切り札として、タケミカツチノカミ(建御雷之男神・建御雷神)とアメノトリフネノカミ(天鳥船神・天鳥之石楠船神)が出雲にやって来ました。 タケミカツチノカミとアメノトリフネノカミは稲佐の浜に降り立ち、剣を抜いて波頭に逆さまに立て、その上にあぐらをかいてオオクニヌシ(大国主)ノカミ(大国主神)に国譲りを要求しました。オオクニヌシ(大国主)ノカミは自分の息子であるコトシロヌシノカミから考えを聞くように二神に言いました。

タケミカツチは、再びオオクニヌシ(大国主)のところへ戻って来て言いました。

「そなたの子どものコトシロヌシ(事代主神)とタケミナカタ(建御名方神)は、アマテラスオオミカミのお子さまの命令には逆らわないと答えた。そなたの心はどうだ。」

これに対して、オオクニヌシ(大国主)は、こう答えました。

「わたしの子どもたちがお答えしたとおり、わたしも同じ気持ちです。この葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)は、ご命令どおりに、すべて差し上げます。ただし、わたしの住む場所をアマテラスオオミカミのお子さまが、天の神の「あとつぎ」となってお住まいになられる御殿のように、地面の底深くに石で基礎(きそ)を作り、その上に太い柱を立て、高天原にとどくほどに高く千木(ちぎ)を上げて造っていただければ、わたしは、その暗いところに隠れております。また、わたしの百八十もいる子どもの神たちは、コトシロヌシを先頭にお仕えいたしますので、天の神のお子様に逆らうものはいないでしょう。」

鳥や魚を捕るために美保の碕に出かけていたコトシロヌシノカミは呼び戻され、アマテラスオオミカミの考えに従うと言って、乗ってきた船を踏み傾け、柏手を打って青い柴垣に変えて、その中に隠れてしまいました。

この様子を伝えているのが、美保神社の諸手船神事(もろたぶねしんじ)と青柴垣神事(あおふしがきしんじ)です。

また、もう一人の息子のタケミナカタノカミはタケミカツチノカミと力くらべで決めようと、タケミカツチノカミの腕をつかんだところ、たちまち腕はツララに変わり、次いで剣に変わってしまいました。 今度はタケミカツチノカミがタケミナカタノカミの腕をつかみ、握りつぶしてしまったので、タケミナカタノカミは青くなって、諏訪湖まで逃げてしまいました。

オオクニヌシ(大国主)ノカミもアマテラスオオミカミの申し出を受け入れることにしました。 その代わり、自分の住まいをアマテラスオオミカミの子孫と同じように、千木(ちぎ)が大空にそびえるような立派な宮殿を建ててほしいと願い出ました。

そこでアマテラスオオミカミは、オオクニヌシ(大国主)ノカミのために多芸志(たぎし)の浜に大宮殿を建てました。

それが出雲大社のはじまりだといわれています。

大国主と出雲神話


八重垣神社 松江市

高天原を追放されたスサノヲは流浪の果てに、出雲において大蛇を退治し、須賀の宮におさまって妻を求める歌をうたいます。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」

出雲地方の伝承的な歌謡であったこの歌が、『古事記』の中で最初に掲げられた歌です。

『古事記』上巻には、このスサノヲの物語に続いてオオクニヌシ(大国主)(大国主神)神話が続きます。オオクニヌシ(大国主)の事跡の出雲との関係や出雲大社との関連から、出雲系神話といわれ、また登場する神々を出雲系の神々とよびます。

この部分は、すでにオオクニヌシ(大国主)の支配していたこの国土が、天下ってきた高天原の神の支配に交替するという劇的な構成から、大和朝廷に拮抗ないし対立する出雲での権力の存在を示す物語であるというような歴史的事実と結びつけた見解などさまざまに論じられる物語となっています。上巻特有のごつごつした違和感に満ちた世界が展開すると同時に、他方で人間の「情」のありように通じるもの、たとえば後世なら「仁」や「愛」あるいは「やさしさ」といったことばで本来表現されるべき事柄が描かれてもいます。

オオクニヌシ(大国主)の物語は、前半と後半では趣が異なります。前半は美しい因幡のヤガミヒメを獲得しようと旅立つ兄たちのあとに荷を背負って追うさえない神でした。白ウサギにやさしさを施すとウサギの予言通り姫を得ることになります。しかし、兄弟神の怒りを買い、試練にたたされ死に追いやられます。そのたびに彼は母神やカミムスビや貝の女神たちなどの力で復活しますが、最後には迫害を避けるため、母神の配慮で根の国のスサノヲのもとにおくられます。そこでもスサノヲに試練を与えられますが、恋仲となったスサノヲの娘スセリビメの助けを得て脱出し、スベリビメと手を携え呪術能力を得てこの世に帰還します。迫害した兄弟神たちを退治し、支配者となります。

支配者としてのオオクニヌシ(大国主)は、国作りを単独では行えず、スクナビコナ(小彦名神)という海の向こうから渡ってきた小身の神の協力を得て、支配します。後にスクナビコナは海の向こうに去り、、オオクニヌシ(大国主)は国土の未完であることを嘆きます。

さて、このオオクニヌシ(大国主)は多くの神話的神の重ね絵とされます。事実、物語の展開のなかでその呼称を何度か変えます。『日本書紀』では、人々に「恩頼(みたまのふゆ)」を与えたと簡潔に書かれています。他方『古事記』では、複雑ですが民衆的なレベルでの神、あるいは支配者の理想像という古層をとくによく伝えているといえるでしょう。

しかし、オオクニヌシ(大国主)神話は国土の完成のあとは一転して、色好みのこの神の女性遍歴と、妻であるスセリビメの嫉妬と、二人の和解の物語となります。

このように、出雲系の神話は、その政治性とは別に、その叙情性において、『風土記』にも登場するオオクニヌシ(大国主)の姿には、民衆に「恩頼(みたまのふゆ)」をほどこした神として、支配ないし支配者によせる集団的な願望のようなものが込められているともいえます。出雲系とくに、オオクニヌシ(大国主)神話は、その後高天原の神に国の支配を譲るという形で書かれ、天皇の物語のなかで、重要な位置を占めます。政治神話と異なる側面をみせるのが、この神話の後半の愛の遍歴の部分です。そこでは濃厚に歌謡が情の世界と関わり、神の世界から、人間の情の描写へとの橋渡しの意味を持った部分を形成しています。

「大国主」となった「大己貴命」

『出雲国風土記』では、国引き神話のヤツカミズオミツヌこそ、出雲国の名付け神になっている。それは、ヤツカミズオミツヌが、この地を「八雲立つ出雲」と呼んだから、というものであるが、和歌こそ詠んでないものの『古事記』に記されたスサノオのそれと、まったく同じ内容である。

ヤツカミズオミツヌは『古事記』こそ、スサノオの四世孫としているが、案外、スサノオの別名ではなかろうか。

それはスサノオの「出雲」における呼称なのかも知れない。

『古事記』によれば、オオナムチはスサノオから、生大刀、生弓矢、玉飾りのついた琴を奪って逃げ、スサノオは、それを許している。これは、オオナムチを、軍師に命じたことに他ならない。この時スサノオは、50歳にさしかかってしたと思う。オオナムチが軍師になれたのは、スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)が、オオナムチに惚れてしまったという、『古事記』の記述を信用するしかないが、以外にも、本当なのかも知れない。いずれにしても、スサノオの後押しがなければ、不可能な話であろう。

軍師であるからには、スサノオの率いて来た、「物部」の大軍を自由に使ってもいいわけだ。オオナムチは、「越」の八口を討ったと、『出雲国風土記』は記している。この記述が、「越」の高句麗族の最後の時だ。

これにより「出雲」・「越」とも平定され、スサノオは、その後、南朝鮮に渡り、先に述べたとおり、南朝鮮を含めた日本海文化圏を、形成していくのである。

この文化圏は、鉄資源を元手にした通商連合であった。貿易を生業としていたのである。

通商を生業とした、早い話が商売人は、江戸時代の堺衆がそうであったように、何者にも屈しない、強い結束力を備えていたのであるが、一度、メリットが無くなれば簡単に崩壊してしまう。

オオナムチは、スサノオの後押しもあって、最大の貿易相手である「少彦名命」(すくなひこなのみこと、おそらく朝鮮半島の「昔」《すく》姓の一族。以下、スクナヒコナ)と、共同して貿易に携わり、国土経営をしていたのであるが、そのスクナヒコナは、常世の国に行ってしまう。すなわち、死んだのである。

この結果、オオナムチは、スポンサーを失ってしまうこととなった。

オオナムチは、『古事記』によれば様々な地方の女性を妻にしている。

スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)を始め、「因幡」の「八上姫」(やがみひめ)、「越」の「沼川姫」(ぬまかわひめ)、「宗像」の「多紀理姫」(たぎりひめ)、「鳥取」の「鳥取神」(ととりかみ)、「神屋楯姫」(かむやたてひめ)がそうである。

これらの女性出身地からみても、海を通じた交流の様子が窺い知れる。

「神屋楯姫」の出身地は明記されていないが、オオナムチの地元、「意宇国」であろうか。

この頃の、オオナムチの勢力範囲は、「大和」までに拡大していたらしい。

『古事記』には、「出雲」から「大和」(倭国)にオオクニヌシ(大国主)が、出張していく様子が記されている。このことは、「須勢理姫」との歌のやりとりとともに記されているのだが、「須整理姫」が、オオクニヌシ(大国主)に対して「八千矛神」と呼びかけているので、「大和」を勢力範囲にしたのは、スサノオだったのかも知れない。「八千矛神」とは、神社伝承学によれば、スサノオのことであった。

「昔」姓の「少彦名命」が亡くなることにより、スポンサーを失ってしまったオオナムチは、南朝鮮の資金源(鉄資源)を、絶たれてしまう可能性があった。もともと、南朝鮮の鉄資源は、スサノオ族が押さえていたのだが、その後、高句麗族に奪われた。スサノオは、「統一奴国」を成し遂げ、高句麗族を追放することにより、再び南朝鮮の鉄資源を奪取した、と推測している。その地盤をオオナムチが受け継いでいたのであるが、「昔」族は、スサノオ族と同郷であろう。「昔」族もスサノオ族もともに、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと、以下、タカミムスビ)を、崇める一族であったのである。

2009/09/06

【日本神話】 第3巻「出雲編」 第4章 オオクニヌシ(大国主)の国づくり

オオクニヌシ(大国主)が出雲の美保岬にいたとき、海の彼方からアメノカガミノフネ(天羅摩船)に乗って、鵝(ガチョウ・蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎに剥いで衣服として、やって来る神がいました。大国主がその小さな神に名を尋ねたが答えなかった。従えている者も皆知らなかった。そこにヒキガエルが現れて、「これは久延毘古(クエビコ)ならきっと知っているでしょう」と言った。久延毘古に尋ねると、「その神は神産巣日神の御子の少名毘古那神である」と答えた。久延毘古は山田のかかしであり、歩くことはできないが、天下のことは何でも知っている神である。

神産巣日神は少名毘古那が自分の子であることを認め、少名毘古那に大国主と一緒になって国づくりをするように言った。大国主と少名毘古那は協力して葦原中国の国づくりを行った。その後、少名毘古那は常世に渡って行った。
大国主は、「これから私一人でどうやって国を作れば良いのだろうか」と言った。その時、海を照らしてやって来る神がいた。その神は、「我は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である。丁重に私を祀れば、国作りに協力しよう」と言った。どう祀ればよいかと問うと、大和国の東の山の上に祀るよう答えた。この神は現在御諸山(三輪山)に鎮座している神(大物主)である。

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出雲神話1/5 「スサノオとヤマタノオロチ」

乱暴な所業で高天原を追われたスサノオノ命は、鳥髪(とりかみ)といわれる出雲の船通山(せんつうざん)に降り立ちました。

すると上流から箸が流れて来るではありませんか。川上に人が住んでいるのだろうと、スサノオノミコトは川沿いに上っていきました。

(川上に人が住んでいる)

そこには、クシナダヒメという美しい娘をはさんでアシナヅチとテナヅチという年老いた両親が泣いていたのです。

わけを尋ねると、その両親には8人の娘がいたのですが、毎年ヤマタノオロチに1人ずつ食べられて、いよいよ最後の1人が食べられる時期になったというのです。  そう思ったスサノオが、どんどん上っていくと、老夫婦が若い女を中において泣いていました。

「なせ泣いているのです?」

「私たちはもともと8人の娘がおりましたが、毎年恐ろしいオロチがやってきて1人ずつ食べてしまい、今ではこのクシナダヒメだけになりました。今年もそろそろオロチがやって来る頃となりましたので、それが悲しくて泣いているのです」
とアシナヅチは答えた。

「して、そのオロチとはどんなもの」

「はい、ヤマタノオロチは、目はホオズキのように赤く、からだ一つに八つの頭と八つの尾を持ち、その長さは八つの谷と八つの尾根を越える恐ろしい姿をしている。」というのです。

スサノオはしばらく考えてから言いました。

「よし、私がオロチを退治してあげよう。その代わり、クシナダヒメを私の妻にくださらぬか」 心ひかれた美しいクシナダヒメとの結婚の約束をとりつけ、オロチ退治を決心したのでした。

そこでスサノオは、クシナダヒメを小さな櫛に変えて自分の髪に差しこみました。
アシナヅチとテナヅチに頼んで、垣根で八つの門を作らせ、門ごとに八つの樽に強い酒を用意させました。

「そなたたちはすぐに強い酒を造ってください。そして、オロチの来そうなところへ柵を廻らせ、8つの入り口と8つの柵を作り、くだんの酒を満たした桶を置いておきなさい」  老夫婦は早速準備をしました。

やがてオロチが物凄い地響きを立てながらやってきて、好物の酒をガブガブ飲み、酔いつぶれて眠ってしまいました。

スサノオはここぞと剣を取り出し、今がチャンスと酔っぱらったオロチに向かっていきました。

とうとうスサノオノミコトはオロチの息の根を止めたのです。その後オロチをずたずたに切り刻んだところ、尾から立派な剣が出てきました。

スサノオノミコトが取り出した剣は、アメノムラクモの剣といい、スサノオノミコトは見たことのないこの剣は、自分が持っているより姉のアマテラスオオミカミにこそふさわしい剣だろうと、アマテラスオオミカミに献上しました。

この剣は、後に草薙の剣(くさなぎのつるぎ)といわれ、今も伝えられる三種の神器の一つといわれています。

激しい闘いが終わったとき、スサノオは約束どおりクシナダヒメと結婚し、新居の地を探し歩きました。

そして、最適の地を見つけ、
「わが心清々し」
と叫んだので、その地は須賀と呼ばれるようになりました。

新居が出来あがると、あたりから美しい雲が湧き上がってきました。喜んだスサノオは思わず歌を詠みました。

日本で最初といわれる「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という和歌を詠み、幸せに暮らしました。

やがて子孫に、オオクニヌシノカミが誕生するのです。
神楽でおなじみの、あの壮絶な死闘のシーンは、『古事記』にも、『日本書紀』にも書かれていない。だが、名だたる怪獣オロチが、寝込みを襲われて、易やすと殺されることはなかったろう)

スサノオの力強さ、優しさ、そして善神ぶりが、生きいきと描かれています。出雲では、スサノオはオオクニヌシと並んで人気絶大です。

クシナダヒメ…稲田の神として信仰されており、廣峯神社(兵庫県姫路市)、氷川神社(さいたま市大宮区)、須佐神社(島根県出雲市)、八重垣神社(島根県松江市)、須我神社(島根県雲南市)、八坂神社(京都市東山区)、櫛田神社(富山県射水市)、櫛田宮(佐賀県神埼市)のほか、各地の氷川神社で祀られている。多くの神社では、夫のスサノオや子孫(又は子)の大国主などと共に祀られている。

引用:社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課
2009/09/06
ヤマタノオロチの解明

オロチ[*8]は水を支配する竜神を、クシナダヒメは稲田を表しているとみられています。すなわち、毎年娘をさらうのは河川の氾濫の象徴であり、それが退治されたことは、治水を表しているとする。また大蛇が毎年娘をさらって行ったということは、神に対して一人の処女が生贄としてささげられていたということであり、その野蛮な風習を廃しえたことも表しています。

あるいはこの当時、出雲国は実際に越国(高志・北陸地方)[*7]との交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の地名説話において「越の八口」を平定したと記されており、これがこの神話の原型ではないかという説もある。高志=越とみる向きには、福井県に『高志(こし)』『九頭竜(くずりゅう)』という名称や地名が残っていることが挙げられる(例:高志高校、九頭竜川など)。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)[*10]は、出雲国の古代製鉄文化を象徴するとされています。してみると天叢雲剣は鉄製であり、十拳剣(とつかのつるぎ)が天叢雲剣に当たって欠けたということは、対する十拳剣は青銅製であったことを類推させる。十束剣は日本神話に登場する剣。「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記されます。

様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされます。当時としては最先端の技術であった製鉄、またはその結晶である鉄剣を「アマテラスに献上した」というのは、その頃の出雲と大和の関係を推し量る上で興味深いエピソードであると言える。

また、オロチの腹が血でただれているのは、砂鉄(あるいは鉱毒)で川が濁った様子を表しているとする説もある。また、たたら吹きには大量の木炭を必要とするため、川の上流の木が伐採しつくされた結果洪水が起きたことを象徴しているともされます。

古志が出雲国古志郷(島根県出雲市古志町)とする説でみると、オロチ河川群(船通(鳥髪、鳥上)山系を出発点とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川等の川およびそのその支流)の治水工事が進み、稲作や小国家が発展していった。
古志が越国(北陸地方)であるとする説は、この当時、出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、越国を平定しています。

『出雲風土記』の大原郡神原郷に、「神原郷 郡家正北九里。古老傳云「所造天下大神之 御財 積置給 處」。則、可レ謂「神財郷」。而、今人 猶 誤 云「神原郷」耳」とあります。

これを、「神原の郷は、郡家の正北九里。古老の伝えに云うには、天の下 造らしし大神(スサノオ)の御財を積置き給いし処なり。即ち神財郷(かむたからのさと)と云うべし。今の人は誤って聞き神原郷(かむはらのさと)と云う」と。本来は神財郷(かむたからのさと)と呼んでいたことになります。

長男・八島野尊や部下の豪族らは、スサノオの遺骸を熊野山に埋葬し、建国の偉業を偲んで祭祀を始めた(須我神社・雲南市大東町須賀)とみられ、近くの加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町)や荒神谷遺跡(島根県簸川郡斐川町)から出土した紀元前2世紀初頭のものとされている銅鐸や銅剣・銅矛は、まさにスサノオ祭祀の遺物とも考えられます。荒神谷遺跡の小字名は神庭(カンバ)。荒神谷とは荒ぶる神、すなわちスサノオのことで、字神庭というのもスサノオを祭祀する場所をさしているものではないでしょうか。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られています。神のなかの祖神(おやがみ)である。出雲大社が出来るまでは、出雲地方最大・最高の神社だったのです。
天平五(733)年に撰録された出雲風土記は、すでに荒神谷遺跡の存在を正確に示唆していたことになります。

「日本」を探す 著者: 産経新聞文化部に

「ヤマタノオロチ」な、たたら(ふいご)を吹いて製鉄している様子を描いたもの。われわれにはすぐわかります」というのは、刀の原料の鋼(はがね)を作っている島根県仁多郡出雲町の「日本美術刀剣保存会(日刀保)たたら」村下(技師長)の木原明さんだ。

良質の砂鉄に恵まれた中国地方では古来、土で作った炉に木炭と砂鉄を入れ、たたらで風を送り込み、木炭を燃焼させて砂鉄を溶かして鉄にする「たたら製鉄」が行われてきた。奈良時代の「出雲風土記」には「仁多郡の鉄は良質で、さまざまな道具を作るのに適している」という意味の記述があり、製鉄の歴史の古さがうかがえる。
ヤマトノオロチ伝説の舞台は奥出雲町、船通山のふもとのあたりで、日刀保たたらもここにある。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)剣には製剣説と銅剣説がある。ヤマトノオロチ伝説は、ヤマト朝廷が出雲に進出する過程で製鉄集団を征服、武器を含む鉄器をこの地で供給するようになった史実を反映しているとう説がある。それが正しいとしたら、製剣説に軍配が上がりそうだ。

ヤマトノオロチ=製鉄集団説では、古事記に描かれたオロチの赤いホオズキのような目は真っ赤に燃えるたたらの炉を、一つの胴体に八つの頭と八本の尾が生えているのは砂鉄を採取する川が多くの支流に分かれる様子を、腹が血でただれているのは鉄分で赤く染まった川をそれぞれ描写している-とする。

奥出雲町の中心を流れる斐伊川は古事記の「肥の河」とされる川だが、そのほとりを歩くと、酸化した鉄分で川のあちこちが赤く染まっている。古代人が製鉄集団をオロチにたとえた理由が分かるような気がした。

奥出雲町では、いまも毎年1~2月に伝統的なたたら製鉄が行われ、全国の刀匠に刀の素材になる玉鋼を供給している。それが日刀保だ。玉鋼はここでしか作られない。

たたらは、古代は炉に風を送るふいごを指す言葉だったが、時代が下がるにつれて砂鉄と木炭を使った「和鉄」と呼ばれる日本独自の製鉄法を指すようになった。宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」にたたら製鉄の様子が描写されていたのをご記憶の方も多いだろう。

(中略)

鉄の品質を左右するのが、火力と砂鉄を入れるタイミングだ。火力を調整し、投入のタイミングを計るのが村下と呼ばれる技師長の仕事。木原さんは「溶鉱炉を使って鉄鉱石から作る洋鉄(二千度)に比べ、低温(千五百度)で精錬する玉鋼(和鉄)は不純物が混じりにくい。日本刀の特徴である地金の美しさは、低温精錬のたたらでないとできない」と話す。

(中略)

刀が、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた(銅剣のような)「直刀」から、反りのある日本刀になったのは、平安時代の中期以降といわれる。東京国立博物館の元刀剣室長、小笠原信夫さんは「(切るという)実用目的以上に刀身を美しく研ぎ上げ、鑑賞する習慣は外国では聞いたことがない」という。

鉄は空気に触れると錆びる。遺跡から鉄器があまり出土しないのはこのためだ。しかし、博物館で見る刀は千年の時を経ても輝きを失わない。

(中略)

一つ不思議に思うことがあった。鉄は弥生時代に中国大陸から朝鮮半島を経て日本にもたらされ、それとともに製鉄技術を持つ集団が渡来してきて日本で製鉄を始めたという説が有力だ。

製鉄集団の存在を示唆するといわれる「古事記」のヤマタノオロチ伝説が島根県奥出雲地方にあるのも、地理的に近い大陸から製鉄集団がやってきて、砂鉄に恵まれたこの地に定着したと考えれば分かりやすい。

それならば、なぜ“本家”である大陸には砂鉄を使った製鉄法が残らず、日本列島でたたら製鉄が発達したのだろう。

木原さんによると。1トンの炭を焼くのに700平方メートルの山林が必要だという。日刀保たたらでは、炉に火を入れてから玉鋼を含む鉄の塊であるを取り出すまで三昼夜の工程を「一代(ひとよ)」と呼ぶが、一代には十トンの砂鉄、十二トンの木炭が使われる。「二千ヘクタールの山林がないとたたらは途絶えてしまう・と木原さんが言うのはそのためだ。

たたらに使う木炭はナラ、クリ、クヌギなどの雑木を使うが、大量の木を切っても、「根(切り株)が残っていれば、四十年たったらまた戻る」のだそうだ。

面白い発見として大量の銅剣と銅鐸が同じ場所で見つかった荒神谷遺跡と日本最多の銅鐸が見つかった加茂岩倉遺跡の中間に斐伊川の源流がある船通山系は位置するのだ。これまで「なぜ製鉄集団なのに銅製品ばかりなのだろう」と思っていたが、鉄器と銅製品が同時に製造されて鉄器は錆びてしまい銅製品のみが残ったと考えれば納得できるのではないだろうか。

[註] [*6]…スサノオ – イザナギの鼻から生まれたとされる男神。海原の神。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。

[*7]…「古志」 『古事記』では高志と表記。越国とも出雲国古志郷とも考えられます。高志=越とみる向きには、この当時、出雲国は実際に越国(北陸地方)との交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の地名説話において「越の八口」を平定したと記されており、これがこの神話の原型ではないかという説もある。福井県に『高志(こし)』『九頭竜(くずりゅう)』という名称や地名が残っていることが挙げられる(例:高志高校、九頭竜川など)。あるいはその時代製鉄の先進地帯で、出雲側から山越しするので吉備地方を古志としていたとも考えられます。

[*8]…ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知)は、日本神話に登場する伝説の生物。8つの頭と8本の尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤で、背中には苔や木が生え、腹は血でただれ、8つの谷、8つの峰にまたがるほど巨大とされています。島根県の斐伊川には、出水後に「鱗状砂洲」と呼ばれる、蛇の鱗を思わせる砂洲が幾条も構成されます。これが大蛇のイメージを作り上げたとの説がある。また、島根・鳥取県境にある船通(鳥髪、鳥上)山系を出発点とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川等の川およびそのその支流を頭が八つある大蛇に見立てたとする説もあり、これらの河川をオロチ河川群と呼ぶ。

[*9]…様々な場面で登場していることや、「10束(束は長さの単位で、拳1つ分の幅)の長さの剣」という意味の名前であることから、一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされます。

[*10]…三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)・八重垣剣(やえがきのつるぎ)とも称されます。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされます。

[*11]…日本神話ではスサノオが詠った「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を」が最初の和歌とされることから、その初めの語句を取って八雲(やくも)ともいう。「八雲の道」といえば「歌道」のことである。

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高天原神話2/2 天の岩戸(岩屋)

天の岩戸(岩屋)

アマテラスオオミカミも最初はスサノオノミコトを寛容な気持ちで受け入れていたのですが、スサノオノミコトがあまりにも好き勝手なふるまいをするので、怒ってしまいとうとう天の岩戸(あまのいわと)に隠れてしまいました。 高天原(たかまがはら)はすっかり暗くなり、地上にも日が照らなくなってしまいました。 これは今でいう日食の現象だともいわれています。 高天原(たかまがはら)では何とか元の明るさを取り戻すために、アマテラスオオミカミの気を引こうと、岩戸(いわと)の前で飲めや歌えの大宴会を開きました。アマテラスオオミカミは外があまりにもにぎやかで楽しそうなので、岩戸(いわと)の隙間からそっと外をうかがったところ、力のある神様が思いっ切り岩戸(いわと)を開け放しました。 このときに岩戸(いわと)の前で、アメノウヅメノミコトが踊ったのが神楽(かぐら)のはじまりという説もあります。 こうして高天原(たかまがはら)と地上は元の明るさを取り戻したのですが、スサノオノミコトはとうとう高天原(たかまがはら)を追い出されてしまいました。

伊勢神宮(いせじんぐう) 皇大神宮(こうたいじんぐう)

三重県伊勢市五十鈴川上
式内社
主祭神 天照坐皇大御神

神社本庁の本宗(ほんそう)とされ、正式名称は神宮。ほかの神宮と区別する場合には伊勢の神宮と呼ぶ。神階が無く、また明治時代から戦前までの国家神道における近代社格制度で別格とされたため、格付けはされない。

月讀宮(つきよみのみや)
内宮(皇大神宮)別宮
三重県伊勢市中村町
式内社(大)
主祭神 月讀尊(ツクヨミノミコト)

廣峯神社(ひろみねじんじゃ)
兵庫県姫路市広嶺山52
県社・別表神社 主祭神 素戔嗚尊 五十猛命
全国にある牛頭天王の総本宮 須佐神社(すさじんじゃ)
島根県出雲市佐田町須佐730
式内社 旧社格は国幣小社。出雲國神仏霊場第十八番。
須佐之男命を主祭神とし、妻の稲田比売命、稲田比売命の両親の足摩槌命・手摩槌命を配祀

『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。

須佐之男命を主祭神とするその他の旧官国幣社および別表神社

八坂神社(京都府京都市東山区)
津島神社(愛知県津島市)
氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)
八重垣神社(島根県松江市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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高天原神話1/2 アマテラスとスサノオ

乱暴なスサノオノミコト

イザナギ・イザナミはさまざまな神々を生み出していったが、火の神カグツチを出産した際にイザナミは火傷で死ぬ。愛する妻を失ったイザナギはその怒りから迦具土(加具土)神を十拳剣で切り殺した(この剣に付着し、したたり落ちた血からまた神々が生まれる)。イザナギはイザナミをさがしに黄泉の国へと赴くが、黄泉の国のイザナミは既に変わり果てた姿になっていた。これにおののいたイザナギは逃げた。イザナギは黄泉のケガレを清めるために禊ぎをした。

黄泉の国(よみのくに)から戻ったイザナギノミコトはこのときもさまざまな神々が生まれました。最後に左の目からアマテラスオオミカミ(日の神、高天原を支配)を、右の目からツクヨミノミコト(月の神、夜を支配)を、そして鼻からスサノオノミコト海を支配)を産みました。

神様だから男でも、どこからでも、子どもを産めるんですね。 スサノオノミコトは海を守る神様なのに泣いてばかりいたので、怒ったイザナギノミコトはスサノオノミコトを海から追い出しました。 そこで人恋しくなったスサノオノミコトは、高天原(たかまがはら)に住む姉のアマテラスオオミカミを訪ねたのですが、ここでもせっかく耕した田を荒らしたり、機織り小屋(はたおりごや)に馬を投げ込んだりして、高天原(たかまがはら)では彼の乱暴ぶりにことごとく手を焼いていました。

最後に生まれたアマテラス・ツクヨミ・スサノオは三貴子(三貴神)と呼ばれ、イザナギによって世界の支配を命じられました。

『古事記』

『古事記』では、父イザナギが海原を支配するようにスサノオに命じたところ、スサノオは母イザナミがいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」としてスサノオを追放した。

スサノオは、姉のアマテラスにいってから根の国へ行こうと思って、アマテラスが治める高天原へと登っていく。アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たのだと思い、弓矢を携えてスサノオを迎えた。

スサノオはアマテラスの疑いを解くために、2人でウケヒ(宇気比、誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の3柱の女神(宗像三女神)が生まれた。この女神は宗像の民が信仰しており、宗像大社にまつられている。

多紀理毘売命(タキリビメ) – 別名:奥津島比売命(オキツシマヒメ)。沖つ宮にまつられる。
市寸島比売命(イチキシマヒメ) – 別名:狭依毘売命(サヨリビメ)。中つ宮にまつられる。
多岐都比売命(タキツヒメ) – 辺つ宮にまつられる。

次に、スサノオが、アマテラスが持っていた「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の5柱の男神が生まれた。

左のみづらに巻いている玉から 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)
右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命(アメノホヒ)
かづらに巻いている玉から天津日子根命(アマツヒコネ)
左手に巻いている玉から活津日子根命(イクツヒコネ)
右手に巻いている玉から熊野久須毘命(クマノクスビ)

アマテラスは、後に生まれた男神は自分の物から生まれたから自分の子として引き取って養い、先に生まれた女神はスサノオの物から生まれたからスサノオの子だと宣言した。スサノオは自分の心が潔白だから私の子は優しい女神だったといい、アマテラスはスサノオを許した。

『日本書紀』

『日本書紀』の本文では、スサノオは五人の男神を産み、彼の心が清いことを証明している。

第一と第三の一書では男神なら勝ちとし、物実を交換せずに子を生んでいる。すなわち、アマテラスは十拳剣から女神を生み、スサノオは自分の勾玉から男神を生んでスサノオが勝ったとする(第三の一書ではスサノオは6柱の男神を生んでいる)。

第二の一書では、男神なら勝ちとしている他は『古事記』と同じだが、どちらをどちらの子としたかについては書かれていない。『古事記』と同じ(物実の持ち主の子とする)ならばアマテラスの勝ちとなる。

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=YU6BDHadXQU&hl=ja_JP&fs=1&] 3/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた!』 「古事記」神話は何を伝える? 2008年

『古事記』と『日本書紀』を併せて『記紀』といいますが、風土記は記紀神話とは違い、その土地ならではの神話を伝えています。 『出雲国風土記』でも、大和の史官たちの手の入らない古代出雲人が伝承してきた純粋なものとして、出雲地方の言い伝えを正確に残しています。

たとえば、記紀神話で描かれるスサノオノミコトの「ヤマタノオロチ退治」やオオクニヌシノカミの「国譲り」は、『出雲国風土記』には記載されず、逆に「国引き神話」は、『出雲国風土記』だけに記された神話なのです。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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【日本神話】 第3巻「出雲編」 第3章 兄神たちの迫害

(この記事では、大国主についての日本神話の中で、因幡の白兎の説話の後のものを記す。)

大国主神は多くの別名を持つ。これは元々別の神であった神々を統合したためともされる。
*神(カミ)・命(ミコト)は省略

オオクニヌシ(大国主)ノカミ(大国主神)
オオナムヂ(大穴牟遅神)・オオアナモチ(大穴持命)・オオナムチ(大巳貴命)…大国主の若い頃の名前
ヤチホコ(八千矛神)…矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す。
アシハラシコヲ(葦原醜男・葦原色許男神)…「しこを」は強い男の意で、武神としての性格を表す。
他にも多々ある。

ここからは、大黒様ではなく、オオクニヌシ(大国主)ノカミ(オオナムチ)として書き進める。

■八十神の迫害(兄神たちの迫害)

オオクニヌシ(大国主)(オオナムヂ)の兄弟である八十神(ヤソガミ)たちは因幡のヤガミヒメに求婚しますが、ヤカミヒメはプロポーズした兄たちには見向きもせず、オオクニヌシ(大国主)ノカミを夫に選びました。

おもしろくない兄たちは、いっそのことオオクニヌシ(大国主)ノカミを殺してしまおうと計画を立てたのです。

オオクニヌシ(大国主)を伯岐国の手前の山麓につれて来て、オオクニヌシ(大国主)ノをイノシシ狩りに連れ出し、山の上から追い出した赤イノシシを、下で待ちかまえて捕まえるように命じました。ところが、その赤イノシシは、兄たちがイノシシに似た大きな石を火で真っ赤に焼いたものだったのです。

素直なオオクニヌシ(大国主)は、言われた通り、山の上から落ちてきた大きな赤イノシシを体で受け止めたため、全身に大やけどをおい、とうとう亡くなってしまったのです。

■母神による再生

オクニヌシノカミの母は、息子の死を嘆き悲しみました。

なんとかして生き返らせたいと高天原(たかまがはら)へ上り、オオクニヌシ(大国主)ノカミの命を助けてほしいと頼みました。 すぐに貝の神様であるキサガイヒメとウムギヒメがかけつけ、秘薬をつくって、母とともに大やけどをしたオオクニヌシ(大国主)ノカミの全身に塗りつけました。 そのおかげでオオクニヌシ(大国主)ノカミは息を吹き返し、元気な姿を取り戻したのです。

■スサノオノミコトによる試練

オオクニヌシ(大国主)ノカミの母は、兄たちの仕打ちからオオクニヌシ(大国主)ノカミを守るため、祖先のスサノオノミコトが住む根の国へオオクニヌシ(大国主)ノカミを行かせました。 そこでスサノオノミコトはオオクニヌシ(大国主)ノカミを鍛えるため、ヘビの部屋やハチとムカデの部屋に寝泊まりさせましたが、スサノオノミコトの娘であるスセリヒメの手助けによって、無事にやり過ごすことができました。

スサノオノミコトはほかにも数々の試練をオオクニヌシ(大国主)ノカミに与えましたが、オオクニヌシ(大国主)ノカミはそれらをすべてくぐり抜け、より強くなって、スセリヒメと結婚して出雲へ帰り、国づくりを始めたのです。

オオクニヌシ(大国主)ノカミは、 ヤカミヒメやスセリヒメだけでなく、何人ものヒメとも結婚し、たくさんの子どもたちをもうけました。

引用:社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課

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1.天地開闢(てんちかびゃく)3/5 国の誕生・神々の誕生

イザナギノミコトとイザナミノミコト

はるかな昔のことです。どろどろした固まりだった宇宙は、天と地に分かれ、神様たちが住んでいる天を、「高天原(たかまがはら)」といいました。

あるとき、神様たちが高天原から見下ろしてみますと、下界はまだ生まれたばかりで、ぜんぜん固まっていません。海の上を、何かどろどろ、ふわふわとした、くらげのようなものがただよっているというありさまでした。
「このままではいけない」

国産み

そう話し合った高天原のえらい神様たちは、イザナギノミコトとイザナミノミコトという男女の神様に、天沼矛(あめのぬぼこ)という大きな槍(やり)をあたえ、下界をしっかりと固めて、国造りをするようにと命じました。そこで二人は、高天原から地上へとつながる天浮橋(あめのうきはし)の上に立って、槍の先で、どろどろとした下界をかきまぜました。

「こおろ、こおろ、こおろ」

したたりおちた塩からできたおのころ島におりました。イザナギノミコトとイザナミノミコトはそこで結婚し、イザナギノミコトとイザナミノミコトという男女の神様を生みました。

これが国のはじまりです。

かきまぜるたびに、大きな音がひびいてきます。二人が天沼矛(あめのぬぼこ)をすうっと引き上げると、槍の先からぽたぽたと落ちたしずくは、みるみるうちに固まってひとつの島ができあがりました。ひとりでに固まってできあがったので、この島のことを「おのころ島」といいます。

イザナギとイザナミは、さっそくおのころ島へとおりてゆきました。
二人の神様は、おのころ島の上にりっぱな御殿(ごてん)を建てて、そこで結婚(けっこん)の儀式(ぎしき)をしました。こうして、最初に生まれたのが淡路島(あわじしま)で、その後、四国や、九州や、本州や、そのほかのたくさんの島々が生まれました。

「大八洲(おほやしまぐに)」

淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
愛比売(えひめ):伊予国
飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
大宣都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)
建依別(たけよりわけ):土佐国
隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
別名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
筑紫島(つくしのしま):九州
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国
伊伎島(いきのしま):壱岐島
別名は天比登都柱(あめひとつばしら)
津島(つしま):対馬島
別名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
佐度島(さどのしま):佐渡島
大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州
別名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
島産み

二神は続けて6島を産む。

吉備児島(きびのこじま):児島半島 別名は建日方別(たけひかたわけ)
小豆島(あづきじま):小豆島 別名は大野手比売(おほのでひめ)
大島(おほしま):周防大島 別名は大多麻流別(おほたまるわけ)
女島(ひめじま):姫島 別名は天一根(あめひとつね)
知訶島(ちかのしま):五島列島 別名は天之忍男(あめのおしを)
両児島(ふたごのしま):男女群島 別名は天両屋(あめふたや)

神々の誕生

イザナギノミコトとイザナミノミコトはさらに、海や川、山、雨、風、田などの神々を産みました。 ところが、最後に火の神を産んだイザナミノミコトは、わが子の火でからだを焼かれ、黄泉の国(よみのくに)へ行ってしまったのです。 これが生者と死者のはじまりです。

イザナギノミコトはイザナミノミコトを黄泉の国(よみのくに)へ迎えに行ったのですが、死者となったイザナミノミコトを連れ戻すことはできませんでした。 別れ際にイザナミノミコトは1日に1,000人を殺すと言い、イザナギノミコトはそれならば1日に1,500人産もうと言いました。 その時から日本の人口は増えていったのです。

島ができあがると、妻のイザナミは、それぞれの島を治める神様を生みました。それに続いて、石や土の神様、家の神様、風の神様、川や海の神様、山の神様と、たくさんの神様が生まれてきましたが、火の神様を生んだとき、イザナミは大やけどをしてしまいました。

大やけどに苦しみながら、イザナミはなおも、粘土(ねんど)の神様や、水の神様、鉱山の神様などを生みました。無理を重ねたイザナミの体は、みるみるうちに弱ってゆきます。イザナギはけんめいに看病(かんびょう)をしましたが、そのかいもなく、イザナミはとうとう亡くなってしまいました。

「愛するおまえの命を、一人の子の命とひきかえにしてしまった」

イザナギは、イザナミのなきがらにとりすがって、ぽろぽろとなみだを流して泣きました。そしてイザナミを、出雲(いずも)の国と伯耆(ほうき)の国の境にある比婆山(ひばやま)にほうむりました。イザナギは、妻に大やけどをおわせた火の神のことを、どうしても許すことができず、とうとう、剣で切り殺してしまいました。

イザナミが亡くなってからしばらくの間、イザナギは一人で悲しんでいましたが、どうしてもがまんすることができなくなりました。そこで、死者の国まで妻をむかえに行こうと思いたちました。死者の国は、黄泉(よみ)の国といって、深い地の底にあるのです。
イザナギは、地の底へと続く長い暗い道を下りて行きました。ようやく黄泉の国に着くと、イザナギはとびらの前に立ち、イザナミに、自分といっしょに地上へ帰ってくれるよう、優しく呼びかけました。

「ああ、愛する妻よ、私とおまえの国造りは、まだ終わっていないのだよ。どうかいっしょに帰っておくれ」

ところが中からは、イザナミの悲しそうな声が帰ってきました。

「どうしてもっと早く来てくれなかったの。私は、もう黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。ですから、地上へはもどれないのです。けれども愛するあなたのためですから、地上へ帰ってもよいかどうか、黄泉の国の神様にたずねてみましょう。それまで、私の姿を決してのぞかないでくださいね」

そう言われて、イナザギはじっと待っていましたが、いつまでたっても妻からは返事がありません。とうとう待ちくたびれたイザナギは、小さな火をともして、妻を探すために黄泉の国へと入っていったのです。

黄泉の国は、どこまでも真っ暗なやみが続いています。うす暗い灯りをもって、目をこらしていたイザナギは、思わず「あっ」とさけんで立ちつくしました。何とそこには、くさりかけてうじ虫がいっぱいたかっている、イザナミの体が横たわっていたのです。おまけにその体には、おそろしい雷神(らいじん)たちがとりついています。

「あれほどのぞかないでと言ったのに、あなたは私にはじをかかせましたね」

自分のみにくい姿をのぞかれてしまったイザナミは、かみの毛を逆立ててすさまじくおこりました。

「イザナギをつかまえて、殺しておしまい」

イザナミがそう命令するや、黄泉醜女(よもつしこめ)という悪霊(あくりょう)たちが、イザナギをつかまえようと、あちらからもこちらからもわき出るように現れました。

イザナギは地上へ続く黄泉平坂(よもつひらさか)に向かって、必死に逃げました。イザナミと黄泉醜女たちは、すさまじい勢いでせまってきます。イザナギはけんめいに走りながら、かみに結んでいたかざりを放り投げました。するとかみかざりからはたちまち野ブドウの木が育って、たくさんの実がなりました。それを見た黄泉醜女たちは立ち止まって、実を食べ始めましたので、そのすきに、イザナギはどんどん走りました。けれどもしばらくすると、また悪霊たちが追いついてきます。イザナギは、こんどはかみにさしていたくしを放り投げました。すると、そこからはたけのこが次々に生え、黄泉醜女たちはまた立ち止まって、食べ始めました。

こうしてけんめいに逃げるイザナギの行く手に、ようやく地上の世界が見えてきました。しかし黄泉醜女たちは群れをなして追いついてきます。イザナギは片手に持った剣を後手にふり回して防ぎながら、ようやく坂のふもとまでたどり着くと、そこに生えていた桃(もも)の木になっていた実を三つもぎとって、黄泉醜女たちに投げつけました。すると、桃の実がもっている不思議な霊力(れいりょく)におそれをなした黄泉醜女たちは、みんな逃げ散ってしまいました。

けれどもイザナミは、まだ恐ろしい顔でせまってきます。ついにイザナギは、黄泉平坂に、千人がかりでないと動かせないような大岩を引っ張ってきて、それで黄泉の国と地上の世界の間をふさいでしまったのです。

こうして二人は別れ別れになり、地上の世界と黄泉の国とは、永久に行き来できない石のとびらでふさがれてしまったのです。けれどそれからというもの、亡くなる人よりも生まれる人の方が多くなり、地上の人は次第に増えるようになったのだそうです。

伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)

兵庫県淡路市(旧津名郡一宮町)多賀
式内社(名神大)、淡路国一宮で、旧社格は官幣大社
日本神話の国産みに登場する伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀る。

社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課
引用:兵庫県立歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」

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【日本神話】 第2巻「高天原編」 第2章 天の岩戸

 誓約で身の潔白を証明したスサノオは、高天原(たかまがはら)に居座ってしまいました。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働きました。他の神はアマテラスに苦情をいいますが、アマテラスは「考えがあってのことなのだ」とスサノオをかばいばいました。

 しかし、アマテラスが機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、スサノオが機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまいました。

 アマテラスも最初は、スサノオノを寛容な気持ちで受け入れていたのですが、スサノオがあまりにも好き勝手なふるまいをするので怒ってしまい、とうとう天の岩戸(あまのいわと)に隠れてしまいました。

 高天原はすっかり暗くなり、地上にも日が照らなくなってしまいました。(これは今でいう日食の現象だともいわれています。)

 高天原では、神々は大いに困り、何とか元の明るさを取り戻すために天の安河に集まって会議をしました。オモイカネ(思兼神)の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行うことにしました。アマテラスの気を引こうと、岩戸(いわと)の前で飲めや歌えの大宴会を開きました。アマテラスは外があまりにもにぎやかで楽しそうなので、岩戸の隙間からそっと外をうかがったところ、力のある神様が思いっ切り岩戸を開け放しました。このときに岩戸の前で、アメノウヅメ(『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命)が踊ったのが神楽(かぐら)のはじまりという説もあります。

 こうして高天原(たかまがはら)と地上は元の明るさを取り戻したのですが、スサノオノミコトはとうとう高天原を追い出されてしまいました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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