日本三大義挙 生野義挙

[wc_button type=”primary” url=”http://webplantmedia.com” title=”Visit Site” target=”self” position=”float”]生野義挙(生野の変)[/wc_button]

江戸時代後期の文久3年(1863年)10月、但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きた。「生野の乱」、「生野義挙」とも言う。
この静かな農村地帯であった但馬で、幕末にそのような大事件があったことは、くわしくは知らなかったので、調べてみることにした。


生野代官所跡

《概 要》

生野義挙(生野の変)は、平野国臣、長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、公卿沢宣嘉を主将に迎える生野での挙兵を計画した。あっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である大和義挙(天誅組の変)、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター回天義挙(功山寺挙兵)とともに日本三大義挙といわれる。

王政復古と鳥羽・伏見の戦い 学校で教えてくれなかった近現代史(21)

王政復古の大号令

徳川家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続しましたが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいました。5か月後の12月5日ついに将軍宣下を受けます。しかし、同月天然痘に罹っていた孝明天皇が突然崩御。睦仁親王(後の明治天皇)が即位しました。

翌慶応3年(1867年)薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促して、兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させましたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化しました。5月には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつありました。

こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図ります。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を山内容堂に進言し、周旋を試みていました。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の外祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって10月14日に討幕の密勅が出されるにいたります。ところが同日、徳川慶喜は山内容堂の進言を受け入れ、在京諸藩士の前で大政奉還を宣言したため、討幕派は大義名分を失うこととなってしまいました。ここに江戸幕府による政権は名目上終了します。

しかし、慶喜は将軍職も辞任せず、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わりませんでした。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画します。12月9日、王政復古の大号令が下され、第一回の新政府会議が開かれました。従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与からなる新政府の樹立が宣言されました。このことは「徳川家へ実質的な権力は帰ってくる」と考えていた徳川慶喜と親幕府派の諸大名や公卿らにしてみれば、まさにクーデターでした。

同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜は将軍辞職および領地返上を要請されたのです。(大政奉還)会議に参加した山内容堂は猛反対しましたが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定されました。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去しましたが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまいます。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、幕府側を挑発しました。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちしました。

なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られました。

鳥羽・伏見の戦い

12月25日、江戸薩摩藩邸を拠点としての治安攪乱や挑発行為の横行にたまりかねた幕閣は、幕臣・諸藩の兵を発して、江戸の薩摩・佐土原両藩邸を急襲し不穏分子の一婦をはかりました。この急報が二十八日、大坂城の徳川慶喜の許に届けられると、在坂の幕臣・会津兵・桑名兵から「薩摩討つべし」の声が上がり、ついに慶喜の挙兵上京が決定しました。

慶応四年(1868)一月三日正午過ぎ、薩摩藩討伐を掲げて、幕軍先鋒隊は淀城下を発し、鳥羽街道を北上しました。幕軍北上の動きを察知した薩長勢は、鳥羽小枝橋付近に布陣しました。

狭い鳥羽街道を縦隊で北上して来た幕軍が、小枝橋付近に到着したのは、すでに夕方近くでした。そこで「朝命により上京するので通せ」という幕軍と「何も聞いていないので通すわけにいかない」とする薩摩兵との間でにらみ合いとなりました。

薩摩の回答がない事にしびれを切らした幕軍は、再度交渉に向かいましたが、物別れに終わり双方が自陣に戻りました。その直後、鳥羽街道正面の薩摩砲が幕軍に向けて放たれました。こうして戦いの幕は切って落とされました。幕軍を待たせている間に臨戦態勢を整えていた薩軍は、この直後小銃の一斉射撃を行いました。西欧式装備の薩軍に対し、幕軍先鋒隊の見廻組五百余名は旧態依然の槍・刀を振りかざして肉弾戦を挑みました。銃弾の雨の中、多くの隊士が倒れていきましたが、これで時を稼いだ幕軍も銃を準備し、やがて壮絶な銃撃戦が開始されました。

それから約一時間ほどの激戦の末、日没とともに戦闘は終了しました。陣地とするべき場所を失った幕軍は下鳥羽まで撤退しましたが、薩軍は追撃しませんでした。

四日未明、松平豊前守以下約一千名の幕軍後続の中軍が合流した幕軍は、再び鳥羽街道を北上し、烈しく薩軍を攻めました。数時間の激闘の後、薩軍が後退もやむなしと思われたとき、新政府軍の援軍が到着し再び激戦となりました。薩摩を主力とする新政府軍は、御香宮神社を拠点として幕軍が陣した伏見奉行所とほとんど接していました。幕軍・新選組合わせて千五百名と、人数において勝っていた幕軍でしたが、火力に勝る新政府軍の攻撃を受けた幕軍は、午前十時頃、ついに横大路方面へ敗走しました。幕軍の拠点伏見奉行所は火を発し、日没頃には幕軍は敗走を余儀なくされました。前日、局長の近藤が狙撃され、傷の手当てのため大坂にいたため、土方歳三が隊士を指揮していました。土方は、得意の白兵戦で戦況を打開しようと、永倉新八の二番隊に塀を乗り越えて斬り込むように指示をしました。御香宮の西の京町通を通り、敵の背後を突くという作戦でした。しかし、途中で薩軍と衝突し小銃による銃撃を浴び、それ以上進むことができなくなり、永倉らはやむなく撤退しました。

戊辰戦争

江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、ついに翌慶応4年(1868年。9月に明治と改元)正月「討薩表」を掲げ、京へ進軍を開始しました。1月3日鳥羽街道・伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始されました(鳥羽伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩・津藩などの寝返りが相次ぎ、5日には幕府軍の敗北が決定的となります。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。これによって旧幕軍は瓦解しました。以後、翌年までおこなわれた一連の内戦を1868年の干支である戊辰をとって「戊辰戦争」と呼びます。

東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道・中山道・北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣されました。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布しました。

江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となりました。

しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けました。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もりましたが、5月15日長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧されます(→上野戦争)。

そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は武装恭順の意志を示したものの、新政府の意志は変わらず、周辺諸藩は新政府に会津出兵を迫られる事態に至りました。この圧力に対抗するため、陸奥、出羽及び越後の諸藩により奥羽越列藩同盟(北部政府)が結成され、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立されました(東武皇帝)。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれましたが、いずれも新政府軍の勝利に終わりました。

旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館の五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索し蝦夷共和国の樹立を宣言しますが箱館戦争で、翌明治2年(1869年)5月新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結しました。

その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離されました。明治4年(1871年)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉しました(→明治維新)。

「幕末のジャンヌ・ダルク」新島八重と川﨑尚之助

川﨑尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。

『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。

兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。

安政四年(一八五七)、川﨑尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。

戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。

兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い明治8年(1875年)には女紅場を退職して準備を始め、翌明治9年(1876年)1月3日に結婚。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、キリスト教主義の学校同志社(同士社大学の前身)の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。

明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。

日清戦争、日露戦争で篤志看護婦となった功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を授与される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。
墓所は襄の隣、京都市左京区若王子の京都市営墓地内同志社墓地。

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小五郎但馬に潜む 学校で教えてくれなかった近現代史(17)

開国攘夷に傾く

蛤御門の変(禁門の変)が起きる2年前の文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、これまで通り練兵館塾頭をこなしつつも、常に時代の最先端を吸収していくことを心掛ける。

兵学家で幕府代官江川太郎左衛門から西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学ぶ
浦賀奉行支配組与力の中島三郎助から造船術を学ぶ
江戸幕府海防掛本多越中守の家来高崎伝蔵からスクネール式洋式帆船造船術を学ぶ
長州藩士手塚律蔵から英語を学ぶ
文久2年(1862年)、藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞(義助)たちと共に、吉田松陰の航海雄略論を採用し、長州藩大目付長井雅楽の幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退ける。このため、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられる。同時に、異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられる。

欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において文久2年から文久3年の春にかけて定着し、文久3年(1863年)5月8日、長州藩から英国への秘密留学生五名が横浜から出帆する(日付は、山尾庸三の日記による)。

この長州五傑と呼ばれる秘密留学生5名、すなわち、井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)。山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の留学が藩の公費で可能となったのは、周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、開明派で藩中枢が形成されていたことによる。この時点で小五郎は、長州藩急進派の尊皇攘夷派とは一線をかして西洋に学び開国しても同時に富国しなければならないと思っていたところが、龍馬などと世界観が合致していたのだろう。

八月十八日の政変

江戸時代末期の文久3年八月十八日(1863年9月30日)に中川宮朝彦親王や薩摩藩・会津藩などの公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都における政治の中枢から追放した政変である。

尊攘派の長州藩と公家は、大和行幸の機会に攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策しようとした。徳川幕府がこれに従わなければ長州藩は錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬ることも視野に入れたものだった。しかし、事前に薩摩藩(当時は長州藩と対立)に察知され、薩摩藩や藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩、尊攘派の振る舞いを快く思っていなかった孝明天皇や公武合体派の公家は連帯してこの計画を潰し、朝廷における尊攘派一掃を画策した。

文久3(1863)年8月18日、会津・薩摩などの藩兵が御所九門の警護を行う中、公武合体派の中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らを参内させ、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議。長州藩兵は、堺町御門の警備を免ぜられ京都を追われた。またこの時、朝廷を追放された攘夷派の三条実美・沢宣嘉ら公家7人も長州藩兵と共に落ち延びた(七卿落ち)。

これによってこれまで京都政界を掌握してきた長州などの尊攘派が京都政界から追放された。後に池田屋事件や禁門の変が起こるきっかけにもなった出来事であった。
蛤御門の変(禁門の変)


光村推古書院

八月十八日の政変の不当性が認められない上、池田屋事件まで起こされた長州藩は、小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約300名が率兵上洛し、蛤御門の変(禁門の変)を敢行するが、結局失敗に終わる。

このとき小五郎は、幕府寄りの因州藩を説得し長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護に当たっていた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、同藩の尊攘派有力者である河田景与と談判する。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待った。

しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、但馬出石に潜伏する。

桂小五郎、最大の危機 久畑関所

元治元(1864)年八月二十日の蛤御門の変(禁門の変)で危険を感じた小五郎は、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入る。しかし、会津藩など幕府方による長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくるから逃れるため、桂小五郎(木戸孝允)が懇意にしていた対馬藩邸出入りで知っていた但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出した。

京街道(山陰道)の諸藩の関所をくくり抜けながら、福知山から出石に抜ける京街道(現在の国道426号線)を通り、もう少しで但馬出石城下に入る高橋村(但東町)久畑にある出石藩久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けた。小五郎、最大の危機である。

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変でも出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していた。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りった。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできた。広戸甚助である。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えた。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放したのである。
後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だった。もし甚助の助けがなかったら…。ここで維新の歴史が“変わった”かもしれない。

但馬潜伏期間

  
桂小五郎潜居跡(豊岡市出石町魚屋)

桂は但馬出石(兵庫県)に潜伏していた。しかし、長州討つべしとの命が下り、幕府寄りの出石藩・豊岡藩は、長州人逮捕の警戒を強めていたので出石の城下に滞在するには危険な場所でした。潜伏を始めて2ヵ月後、とうとう会津藩の追っ手が出石にやって来たのです。「さあ、逃げろ!」と出石より北にある広戸家の菩提寺でもある兵庫県養父郡の西念寺という寺に潜伏場所を移した。城崎温泉の旅館にも住み込みで働いたり場所を幾度も変更したそうである。

更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」 ということで、一般の町家に潜伏先を移しました。そのひとつが豊岡藩の城崎温泉(きのさきおんせん)でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『松本屋』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。

小五郎は城崎温泉に入って心身を休めましたが、当時の城崎には各旅館に内湯はなく、「御所の湯」「まんだら湯」「一の湯」の3つの外湯があるに過ぎませんでした。城崎最古の源泉地「鴻の湯」は当時浴場としては使用されていなかったといいますうから、小五郎が入ったのも3つのうちのどれかでしょう。ちなみに、現在は全部で7つの外湯がありますが、温泉街全体で源泉を集中管理し供給しているため、泉質はすべて同じものだそうです。

10月、小五郎は一旦出石に戻り、荒物商(雑貨屋)になりすまして再起の時を待ったといいます。明けて慶応元年(1865)3月、再び城崎を訪れました。泊まったのはやはり『松本屋』で、長州再興し幕府と戦うに当り、桂を探し長州藩の大勢を告げ帰藩を望みました。愛人幾松も長州より城崎湯島の里へ尋ねて来ました。共に泊って入浴し1ヶ月ほど滞在したのちに大坂へ出て海路長州へ戻りました。長州に帰り木戸孝允と改名します。当時桂は33才でした。一人娘“たき”は小五郎の身のまわりの世話をしているうちに身重となったが、流産したといいます。その心境はいかばかりであったでしょうか。

小五郎が滞在した部屋には「朝霧の 晴れ間はさらに 富士の山」と墨で落書きされた板戸が残されていましたが、大正14年の北但大震災で温泉街もろとも焼失してしまいました。現在、館内に展示されている掛け軸や書状は広戸氏の関係者等から譲り受けたものといわれています。建物は震災で焼けた後の昭和初期に再建されたものですが、小五郎が使った2階の部屋は「桂の間」として再現されています。昭和41年春、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』の取材と執筆のために訪れ、この部屋に泊まっています。

温泉街の西側、外湯のひとつ御所の湯の向かいに「維新史跡・木戸松菊公遺蹟」と刻まれた1本の碑が立っています。“木戸松菊”とは桂小五郎の変名です。
ここが幕末に桂小五郎が身を隠していた宿『松本屋』で、現在は『つたや』兵庫県豊岡市城崎町湯島485と名を変えて営業されいます。

城崎での潜伏は短く、再び出石に戻ってきます。しかし、出石藩は禁門の変で兵を出したとおり幕府方で長州人逮捕の命令が出ていたほどで、出石の城下に滞在するには危険な場所でした。幕吏の追手が出石にまで伸びてきたため何度か潜伏場所を変えました。まずは広戸の両親の家に世話になり、次に番頭も丁稚もいない荒物屋を開業しました。 つまり商人に成りすまして潜伏したわけです。

出石潜伏期間の約10ヶ月の間に出石だけで7箇所以上潜伏先を移り変わりました。荒物屋にはひとりの女性がおり、前述の出石藩広戸甚助の妹で“八重”と言いました。桂は商売が出来るわけでなく、商売自身は八重が行いました。当然、桂の身の回りの世話もです。こういった、広戸一家の献身的な世話で、毎日を過ごしたようです。潜伏の毎日で、桂はやりきれない思いだったのかというと、案外そうではなかったようです。潜伏中の桂は、子供の手習いや、好きな碁を打ったり、また賭博にもはまり、結構借金を作ったとも言われています。

慶応元年(1865年)2月、広戸が京都から幾松を連れて出石へ帰ってきました。幾松からエネルギーをもらい、またそのころ長州藩でも奇兵隊が立ち上がって尊王攘夷派が盛り返すというニュースも入ってきたため、再び気合が入った桂は、幾松を連れて出石を離れ長州へ帰っていったのです。

広戸の妹八重は、桂の帰郷をさぞ悲しく思ったことでしょう。小五郎が京都から逃れ潜んでいたといわれる出石の住居跡に現在は記念碑が残されています。

しかし、どこにいても女性の話がついてまわります。かなりの男前でモテ男だったようだ。
その後、小五郎は薩摩の西郷隆盛と薩長同盟を結び倒幕へと奔走します。

維新後は木戸孝允と名を改め、五箇条の誓文の原案を作成。版籍奉還、廃藩置県など、明治の時代の基礎を固め新しい時代をつくっていきました。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。

戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰しました。

なぜ但馬に逃れたのか

しかし、ここで不思議に思うことは、小五郎はなぜ但馬に逃れようと思ったのかである。出石藩・豊岡藩は幕府寄りの藩であり、丹波も幕府よりの藩ばかりで禁門の変では幕府方で禁裏警護の配備図を見ても、長州藩邸の周囲には東海道入口に篠山藩、大原口に出石藩、鞍馬口に因州(因幡)藩、鳥羽伏見には園部藩が山崎には宮津藩、丹波街道には亀山(亀岡)藩が配備についている。丹波や但馬・因幡の諸国を通過するのは火の中に飛び込むようなものだ。というか朝敵とみなされた長州以外はすべて敵で長州人逮捕の命令が出ていたからである。当然小五郎が幕府寄りの出石へ逃亡するなどわざわざ捕まりにいくようなものだ。

小五郎はひとまず、長州へ帰り藩の意志を固めようとしたのではないだろうか。往来が盛んで取締りが厳しい瀬戸内海や山陽道を避けて、山陰道を選んだのではないか。そこで知り合いの但馬出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ逃れ、時の到るのを待って長州へ帰ろうと考えたのではないか。

但東町の京街道

武知憲男氏が『但東町の京街道』と題して『但馬史研究 第24号』に投稿されているので参考にする。

兵庫県豊岡市但東町は、兵庫県は地図でタコのように見えますが、ちょうど口の様に見える場所が但東町です。出石川の上流に位置し、下流以外は山に囲まれ、西以外の三方は京都府と接している。従って、丹波街道・成相道(巡礼道)・丹後道などと呼んでいる峠道が幾つもあり、その一つが出石より福知山・京都へ通じる京街道である。また明石の真北に位置するため東経135度の子午線(日本標準時)が通過している。

江戸時代、出石藩参勤交代の重要な街道であり、現在も国道426号線として、但馬の経済・文化の交流に大きな役割を果たしている。

京街道は、江戸時代では最も新しい文化十二年(1815)以降のことが記されている『出石藩御用部屋日記』によると京街道は、福知山(上川口)から登尾峠-久畑関所-小谷-出合-矢根-寺坂-鯵山峠(県道253)-谷山-(出石高校)-出石城下への旧道だろうと思われる。久畑関所跡横には村の鎮守一宮神社がある。但馬一宮は出石神社で一宮ではないのになぜ一宮神社なのか不思議に思っていたが、登尾峠の反対側の京都府佐々木の次に一の宮集落があるので久畑の村人が分社されたのではないだろうか。

武知憲男氏によると京街道を記す道標が残っているそうだ。小谷には「左たんご、くみはま道」と石仏の道標があり、右は判別できないが「右京道」であろう。小谷も「茶屋地」の小字名が残り、矢根や南尾、久畑同様に宿屋・茶屋の屋号が残る。登尾橋の手前に「右京都。左志ゅん連い道(巡礼道・宮津成相山)」の道標が立つ。左は薬王寺で大生部兵主神社があり、交通の要所であっただろうが、かつては旧道で難所だったに違いない。また機会があったら探してみたい。

参考:神戸新聞・城崎温泉観光協会・松本屋
参考資料:『京都時代MAP 幕末・維新編』 光村推古書院

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【但馬の歴史】 幕末の但馬(2) 生野の変

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江戸時代後期の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きました。「生野の乱」、「生野義挙」とも言います。
1716年(享保元)、生野奉行を生野代官と改称します。但馬は石見・佐渡と並ぶ幕府の三大鉱山として栄えた生野銀山を筆頭に、明延、神子畑、中瀬、阿瀬等の金・銀などを産出する鉱山が各所にあったことからも幕府直轄領(天領)が多くありました。

1735年(享保20)、久美浜に代官所が置かれ、丹後西部(京都府北部)・但馬(兵庫県北部)の大半は久美浜代官所の管轄で幕府直轄領(天領)でした。久美浜湾は、船見番所が置かれ諸国の廻船や御城米入津のときの改めなどを行っていました。享保16年(1731)より、湊宮陣屋での仕事が始まり、さらに京や大坂への陸上輸送に便利なところが必要となり、海を生かしながら陸上輸送に便利な久美浜に代官所が移されました。(久美浜小学校付近)。福岡脱藩士 平野国臣は、攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や久留米の勤王志士真木和泉、清河八郎(将軍家茂警護役・浪士隊(のちの新選組)の進言者)ら志士と親交をもち、討幕論を広めました。

文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄されます。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と天皇の大和行幸を画策します。大和国での天誅組の制止を命じられますが、その前日、天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵。さらに八月十八日の政変で会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのです。

平野は急ぎ京へ戻りますが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっていました。国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎この時点で天誅組は壊滅しており、国臣は挙兵の中止を主張すますが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切りました。

文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めました(天誅組の変)。

天誅組の過激な行動を危惧した公卿三条実美は暴発を制止するべく、学習院出仕の平野国臣(福岡脱藩)を五条へ送りました。その直後の8月18日、政局は一変します。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまいます(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放されました(七卿落ち)。

変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合しますが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知り、平野は巻き返しを図るべく大和国を去りました。天誅組は十津川郷士を募兵して1000人余の兵力になりますが、装備は貧弱なものだった。高取城攻略を図るが失敗し、9月に入って周辺諸藩からの討伐を受け、多勢に無勢で各地で敗退し、9月27日に壊滅しました。

攘夷派による天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生しました。これらの事件は倒幕を目的とした最初の軍事的行動として、後世から見た歴史的な意味は大きいものの、この時点では無残な結末となりました。天誅組の挙兵は失敗しましたが、この事件は明治維新の導火線になったと評価されています。

但馬の国は、小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていました。同国の生野銀山は佐渡、石見とともに当時三大鉱山として有名でした。

しかし、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していました。このように全国各地で260年間続いた藩幕体制は崩壊に向かっていきました。明治維新期の日本の人口は、3330万人。

生野天領では豪農の北垣晋太郎(のちの国道)が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていました。

平野国臣は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。  28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入りました。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めますが、藩首脳部は消極的でした。

10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(元奇兵隊総管)ら尊攘浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かいました。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置きました。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張しますが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになりました。播磨口の番所は彼らを穏便に通し、12日未明に生野に入りました。生野代官所は彼らの動きを当然察知していましたが、代官の川上猪太郎が出張中なこともあり、代官所を無抵抗で平野らへ明け渡しました。藩と違い、天領の代官所は広い地域を支配している割には軍備が手薄であり、天誅組の挙兵の際も五条代官所は40人程の浪士に占領されています。

平野、北垣らは「当役所」の名で沢宣嘉の告諭文を発して、天領一帯に募兵を呼びかけ、かねてより北垣が「農兵論」を唱えていたこともあり、その日正午には2000人もの農民が生野の町に群集しました。しかし、天誅組の変の直後とあって、幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動しています。諸藩の素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散説が持ち上がりました。強硬論の平野、河上らに圧されて解散は思いとどまりますが、13日夜に肝心の主将の沢宣嘉が解散派とともに本陣から脱走してしまいました。集まった農民たちは動揺します。<

妙見山(養父市)に布陣していた河上は生野の町で闘死しようとしますますが、騙されたと怒った農民たちが「偽浪士」と罵って彼らに襲いかかりました。河上ら13人の浪士は妙見山に戻って自刃して果ています。美玉三平と中島太郎兵衛は農民に襲撃され射殺されました。平野は兵を解散させると鳥取へ向かったが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られます。その他の浪士たちも戦死、逃亡、捕縛されました。

生野での挙兵はあっけなく失敗しましたが、この挙兵は天誅組の挙兵(天誅組の変)とともに明治維新の導火線となったと評価されています。

10月12日に生野代官所は無抵抗で降服。農民に募兵を呼びかけて2000人が集まり意気を挙げました。しかし、幕府の対応は早く、翌日には豊岡藩・姫路藩など周辺諸藩が兵を出動させました。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日の夜に主将の沢が逃げ出してしまいました。農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図りますが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎に預けられていましたが、禁門の変の際に生じた火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。獄舎に火が及び、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。他の30名以上の囚人とともに斬首されました。享年37。

平野国臣は明治24年(1891年)、正四位を贈られています。福岡市中央区の西公園に銅像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。同じく、京都霊山護国神社にも墓碑および石碑が建立されています<

北垣は、青谿書院で同期の原六郎(初名は進藤俊三郎。但馬国佐曩村(現・兵庫県朝来市)出身)とともに生野の変に参戦するが長州へ亡命。進藤は鳥取に逃れ、名を原六郎と改める。1863年、時代は明治へ入る。

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【但馬の歴史】 幕末の但馬(1) 池田草庵と青谿書院(せいけいしょいん)

池田草庵と青谿書院(せいけいしょいん)


文化10年7月23日、兵庫県養父市八鹿町宿南に生まれる。青谿書院を開き、子弟教育に励む。但馬聖人と呼ばれた。

●生い立ち

但馬の生んだ偉大な儒学者(中国の古典を研究する人)であり、教育者の池田草庵は養父市八鹿町宿南に文化10年(1813)7月23日に生まれました。池田家はもともと旧家で、村三役(庄屋・組頭・百姓代)の組頭の孫左衛門の三男として生まれ、名を禎蔵といいました。
草庵10歳の時、母が亡くなり、兵庫県養父郡広谷十二所の満福寺にあずけ、僧侶としての修行を積ませることにしました。翌年には父も亡くなりました。住職の不虚上人(ふきょしょうにん)の熱心な指導により、草庵は寺一番の高弟と認められるようになりました。  しかし、天保2年草庵19歳の時、たまたま養父町を訪れた儒学者・相馬九方(そうまきゅうほう)の教えを受け、儒学を志す決心をし、不虚上人の許しのないまま寺を出てしまいました。のちにこの不義理な行動を深く反省し、絵師に「満福寺出奔図」を描かせ、掛け軸として生涯部屋にかけて自らの戒めとしたといいます。

京都へ行った草庵は相馬九方に入門。儒学の他、朱子学、陽明学の哲学を勉強し続けました。自信を得た草庵は、京都一条坊に塾を開きました。草庵の学問や人格の立派なことが故郷の人たちにも知られるようになり、そんな立派な先生ならはやく故郷に帰って、但馬の弟子を教育してもらいたいと願う人が多くなってきました。

但馬でも学習熱が高まり、但馬全体でも40くらいの寺子屋があったといわれます。草庵はこわれるままに故郷に帰ってきました。天保14年(1843)、満福寺を逃げ出して以来13年ぶり、草庵は31歳になっていました。

●青谿書院


故郷に帰った草庵は、八鹿町の「立誠舎」(りっせいしゃ)という建物を借り受け、弟子の教育を開始しました。最初の門人たちの中には、北垣国道、原六郎、安積理一郎など、のちに大成する人物がたくさんいました。

弘化4年(1847)、草庵35歳の時、自分の生まれた宿南村に念願の学舎を建て、「青谿書院」(せいけいしょいん)と名づけました。この年、草庵は八鹿町の医師・国屋松軒(くにやしょうけん)の妹・久子と結婚しました。


草庵の門人たちは子弟共々共同生活をし、知識を与えるより人間の生き方、人格の完成をめざすもので、知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心を砕きました。門人たちは士族に限らず、農家の後継者としての働き手も多く、農繁期は帰宅して働くなど悪条件での勉学でした。のべ700人に達する但馬内外の子弟を教育しました。  草庵の名声は次第に広がり、遠い宇都宮藩の幼君の教育係としての要請もありましたが、動かず但馬の人材の育成につくしました。


「子は親の鏡という。親を見んとすれば先ずその子弟を見よ」  草庵の門下生からは近代化をめざす明治・大正の日本のリーダーとしての人材を多数輩出しました。まさに草庵は但馬聖人でした。

主な門下生

北垣国道 生野の変、京都府知事、北海道庁長官
原六郎 銀行家、第百国立銀行・東京貯蓄銀行を設立、頭取、横浜正金銀行各頭取、日本、台湾勧業興業各銀行の創立委員を務め、富士製紙・横浜船渠各会社長、山陽・北越両鉄道、東洋汽船、帝国ホテル、汽車製造、猪苗代水田などの各重役を歴任、東武鉄道創立発起人・取締役。往時は渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古河市兵衛とともに五人男と並び称されるほどの経済界の大物であった。
森周一郎 浜坂に私塾「味道館」設立者
北村 寛 八鹿に私塾「山陰義塾」を開く。
久保田精一 豊岡に私塾「宝林義塾」を開く。
安積楽之助 和田山に私塾「自成軒」を開く。
藤本市兵衛 生野に私塾「明徳館」を開く。
河本重次郎 日本近代眼科の父
浜尾新 豊岡藩士 文部大臣、東大総長
久保田 譲 広島大初代校長、文部大臣
吉村寅太郎 東北大初代校長

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【たじまる】 桂小五郎潜居跡


「八・十八の政変」で京都を追われた桂小五郎は、但馬に潜伏します。

小五郎は対馬藩邸出入りの商人・広戸甚助の手引きで京を脱出、幕府方から逃れるために但馬の出石(兵庫県)や養父の昌念寺、城崎温泉の旅館にも住み込みで働いていたそうです。現在の国道426号線の但東町久畑にある京街道の久畑関所で、船頭を名乗る男が厳しい取り調べを受けていました。

調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変の知らせを受け、都からの脱出者を警戒していました。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りました。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできました。出石出身の商人、広戸甚助でした。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えました。顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放しました。

しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だったのです。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。
後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生の最大の危機だったのです。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。

更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」

ということで、一般の町家に潜伏先を移したそうです。そのひとつが城崎温泉でした。大勢の湯治客の中に紛れ込めるので安全と考えたのでしょう。小五郎はその年の9月に城崎を訪れ、広戸甚助の顔がきく『つたや』に逗留しました。ここには当時“たき”という一人娘がおり、桂の境遇を憐れんで親身に世話をしたといいます。

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