戦国-11 イエズス会と宣教活動

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概 要

目次

  1. イエズス会と宣教活動
  2. フランシスコ・ザビエル
    1. 東洋への出発
    2. 日本へ
    3. 京都から山口へ
    4. ザビエルの最期
    5. ザビエルと日本人
  3. ルイス・フロイス
  4. オルガンティノ
  5. キリシタン大名
    1. 高山右近
    2. 京極高吉
    3. 朱印船
    4. 亀井 茲矩

1.イエズス会と宣教活動

 イエズス会(ラテン語:Societas Iesu)はキリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれました。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。現代では六大陸の112カ国で活動する2万人の会員がいます。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものである。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっています。

イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「路傍の聖母」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアドルフォ・ニコラス師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会(Chiesa del Gesu`)は歴史的建築物となっています。略称はS.J. 中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶?であることから耶?会(やそかい)とも呼ばれました。
イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。もっとも有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事した。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去しました。

日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展しました。日本人初のイエズス会士は鹿児島出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となりました。1561年には琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノでした。

1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす利益を独占しようとした大村純忠と、とにかく戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものでしたが、スペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目をむけた豊臣秀吉は1587年にこれを取り上げて直轄領としました。日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に徳川幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、イエズス会は日本からの撤退を余儀なくされました。

琉球国でのキリスト教の伝来は、尚豊王の治世の1622年、八重山に南蛮船が渡航して布教を行ったのが始まりです。日本ではキリスト教はすでに禁止されていましたが、ジャワやルソンから往来する南蛮船が琉球諸島にたびたび寄港していた関係から、布教活動が行われました。しかし、この頃から琉球でもキリスト教は公には禁止されており、また薩摩藩からも度々禁令が発せられて琉球側に伝達されていたので、キリシタンは摘発されると罰せられました。

1846年、イギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムが来琉して、王府の手配した波之上の護国寺に住みながら布教活動を行いました。しかし来琉時に、王府からの丁重な退去要請を無視しての強引な上陸であったため、布教活動は様々妨害を受け困難を極めました。ベッテルハイムは滞在中琉球語を修得し、新約聖書の福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成し、後に香港で出版しました。
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2.フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifier または Francisco de Gassu y Jahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifier)は、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名です。また、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれています。
彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共に1541年にリスボンを出発しました。ザビエルはアフリカのモザンビークで秋と冬を過して1542年5月6日ゴアに到着。同地に3年滞在し、そこを拠点にインド各地やマラッカなどに赴いて宣教活動を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させました。
東洋への出発当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになりました。ザビエルはインドからマラッカに渡り、同地で宣教を行いながら、信徒たちの世話を行っていた。ここで1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人でした。ヤジロウの話を聞いたザビエルの心の中で、まだキリスト教の伝わっていない日本に赴いて宣教したいという気持ちが強くなりました。
日本へ

ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指しました。

中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸しました。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだ。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。1568年、尾張国の織田信長が足利義昭を奉じて上洛し室町時代の終焉を迎える20年前ころでしました。

1550年になると、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指しました。
山口から京都へ

1550年11月、山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになりました。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着しました。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を借りて行われました。その場所が現在では「ザビエル公園」(大阪府堺市)として市民に開放されており、彼の宣教活動を顕彰する碑が建てられています。なお、ザビエル公園より南側に位置する大小路筋は、堺が自治都市として栄えた時代のメインストリートで、近くには小西隆佐・小西行長の生家跡、千利休の屋敷跡、武野紹鴎の邸宅跡と伝えられる場所が存在する(石碑のみ)。

ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が居住する御所も荒れ放題でした。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶されました。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになりました。

1551年3 月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々を持って山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁しました。それまでの経験で、貴人と会見する時はどこでも外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上しました。義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意しました。山口で布教していますとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎です。

ザビエルの最期

1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かいました。同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、トーレスらを残して出発、中国の上川島を経てインドに向かいました。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人です。

1552年2月 インドのゴアに到着。司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させました。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となりました。

1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して8月に上川島に到着しました(ここはポルトガル船の停泊地であった)。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月2日(12月3日説あり)に上川島でこの世を去りました。46歳でした。

遺骸は石灰をつめて納棺し海岸に埋葬した。その後、マラッカに移送され棺を開いたところ、死後4ヶ月近くを経てなお、腐敗した様子がなかったといいます。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許されました。そのとき参観者の1人の貴婦人が右足の指2個を噛み切って逃走しました。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移されました。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されていますが、右腕は1614年ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断され、ローマ・ジェズ教会に移されています。なお、この右腕は1949年ザビエル来朝400年記念のおり、腕型の箱に入れられたまま、日本で展示されました。

ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖されました。ザビエルはカトリック教会によってオーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドの守護聖人とされています。

ザビエルと日本人

ザビエルは日本人を、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であるとみた。特に名誉心、貧困を恥としないことをほめ、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々であるとみていた。これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価です。同時にザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことでした。

布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともありました。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになりました。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになります。
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3.ルイス・フロイス

ルイス・フロイス(Luis Frois, 1532年 – 1597年7月8日)は、リスボン生まれのポルトガル人。イエズス会員でカトリック教会の司祭、宣教師。『日本史』を執筆。
1548年、16歳でイエズス会に入会しました。同年、当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになります。1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事しました。1563年、31歳で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。日本語を学んだ後、1564年に平戸から京都に向かいました。1565年1月31日に京都入りを果たしたが、保護者と頼んだ将軍足利義輝と幕府権力の脆弱性に失望。三好党らによる戦乱などで困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘しました。

1569年、入京した新しい中原の覇者織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得ました。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれています(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、日本史における重要な資料の一つになっています)。

その後は九州において活躍していましたが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁しています。1583年、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めました。この記録が後に『日本史』とよばれることになります。

当初、豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年6月19日には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着きました。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見しました。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年に長崎に戻り、1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日没しました。65歳。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになりました。
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4.オルガンティノ

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ。(Gnecchi‐Soldo Organtino, 1533年 – 1609年4月22日)は戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「うるがんばてれん」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となりました。
1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後で日本に派遣されました。来日は1570年6月18日で、天草志岐にその第一歩をしるした。オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事した。1577年から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気がありました。
オルガンティノは1576年に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。1578年、荒木村重の叛乱時には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。1580年には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨ(初等教育機関(小神学校))を建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちでした。第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしこのセミナリヨは信長が本能寺の変で横死した後で安土城が焼かれた時に放棄されました。1583年には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、右近の支配する高槻に設置されました。1587年に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、右近が加賀に招かれると、オルガンティノは九州に向かいました。

1591年、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされました。1597年には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っています。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたといいます。

半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年、76歳で没した。
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5.キリシタン大名

フランシスコ・ザビエルは戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っています。その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。しかしキリスト教が広まると、キリスト教の教義や、キリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、宣教師たちの意見を聞き入れ領地内の寺や神社を破壊したり焼き払うなどの行動を取った者もいた。仏教や神道を奉ずる大名の中にも、僧侶たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教を『邪教』として弾圧する者もおり、キリスト教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくことになった。また、豊臣秀吉によりバテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易、もしくは仏教か神道への改宗を余儀なくされ(強制改宗)、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていった。
江戸時代に入り、1613年(慶長18年)には禁教令も出されたため、最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラに追放され、有馬晴信は刑死し、以後キリシタン大名は存在しませんでした。

彼らの領内にいた多数のキリシタンは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるか、劇的な例では旧有馬晴信領で起こった島原の乱という大規模な一揆の際に殺害され、表から消えていった。

高山右近
洗礼名はユスト。茶道を究めた右近は「南坊」と号し、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られます。この項目での呼称は右近で統一します。

高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、長慶の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原区)を居城としました。
高山右近は、そうした中、天文21年に右近は友照の嫡男として生まれました。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けています。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。父の洗礼名はダリヨ、右近はポルトガル語で「正義の人」を意味するユスト(ジュストとも)。
しかし、三好氏は当主長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつありました。そうした中、永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下足利義昭が将軍となると状況は一変します。義昭は土着の領主の一つである入江氏を滅ぼすと直臣である和田惟政を高槻城に置き、さらに彼に伊丹親興・池田勝正を加えた三人を摂津の守護に任命した。高山親子は和田惟政に仕えることとなったが、領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱します。まず元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重の軍に敗れて討死(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとります。荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、荒木村重の領有となりました。

こうした状況下で、高山親子はうまく立ち回る。和田惟政の死後、高槻城はその子惟長が城主となっていたが、まだ幼かいました。そこで高山親子は元亀4年(1573年)4月、高槻城を乗っ取り、自ら城主となりました。惟長が暗愚であったためともいわれるが、高山親子が荒木村重と示し合わせた上での下剋上ともいわれ、荒木の重臣であった中川清秀が高山氏にごく近い親族であったことからも、後者の可能性は高い。高山親子は荒木村重の支配下に入り、村重がすでに信長から摂津一円の支配権を得ていたことからこの事件は黙認され、高山親子は晴れて高槻城主となることができた。まもなく高槻城の修築工事を行い、石垣が塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。右近は高槻城を乗っ取る際、惟長と切り合って瀕死の重傷を負うが、奇跡とも言える回復を遂げた。右近はこの機を境にキリスト教へ傾倒するようになった。このときまでは、父・友照ほど熱心ではなかったというが、生死の境を彷徨ったことで何か悟るものがあったのだろう。
この天正11年から13年頃に、御着城主・姫路城代黒田孝高は高山右近らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。しかし、天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出すと高山右近らがこれに反抗して追放される中、孝高は率先して令に従った。

ただし、こうした戦国乱世を地でいくようなことをしつつも、高山親子はいっそうキリシタンに傾倒していく。特に父友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を息子の右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は当然息子の右近に大きな影響を与えました。
京極高吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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戦国-10 大航海時代と世界経済

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

 

概 要

目次

  1. 大航海時代の開幕
  2. 帝国を求めて
  3. ポルトガルとスペイン
  4. オランダの役割
 近世ヨーロッパは、その内部に新しい政治・社会の秩序を造り出すとともに、外の世界に向かっても大きく飛躍していきました。とくに16世紀は「地理上の発見」とか「大航海」の時代と呼ばれ、ヨーロッパ人がアジアと新大陸に進出した時期にあたっています。
問題は、これを契機にヨーロッパが徐々に他の文明世界を圧迫し、政治的にも経済的にも支配するようになったことで、そうした状況を個々の事情の認識ではなく、グローバルな視点から総合的に捉えることが重要な課題となっています。とかく日本史では国内の政治・社会を中心に、そうしたヨーロッパの動きを軽視して捉えがちです。江戸時代の閉鎖的な鎖国時代を除けば、古代より東アジアと絶えず人々や文明が交流しながら発達してきたのであり、16世紀以降、その規模は地球規模に広がることになります。
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大航海時代と世界経済


1.大航海時代の開幕

ポルトガルは、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出しました。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功しました。

オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれました。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していました。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行みました。20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われましたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っています。

ロシア帝国は15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げました。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧しました。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げました。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国(モンゴル帝国)を侵略、植民地化しました。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めましたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化しました。

東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突しました(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅びましだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となりました。1941年にはバルト三国を、武力併合しました。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義諸国も、名目上独立国とはいえ、ソ連の植民地同然でした。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われています。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになりました。

ドイツ帝国の前身であるプロイセン公国は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わりました。ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていましたが第一次世界大戦敗北により喪失しました(ドイツ植民地帝国)。

イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持しましたが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失しました。。
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2.帝国を求めて

 近世ヨーロッパの政治史の流れは、大きく三つに区分できます。第一期は、フランスとドイツがヨーロッパの派遣を競った時期で、イタリア戦争(1521年から1544年または1494~1559年)の時期に相当します。イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争です。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執がありましたが、1519年にカール5世が神聖ローマ皇帝に即位し、またスペイン王を兼ねていたため、重大な脅威を受けることになったフランスは、戦略上イタリアを確保することが必要になりました。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもありますが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになります。
第二期は、新大陸の富を背景にスペインが派遣を握った時期。第三期は、スペインの衰退のあと、フランスとイギリスが大陸の派遣と海外植民地をセットで争い、初期的な世界戦争に突入した時期です。
第一期のイタリア戦争は、イタリアの領有権を主張するフランス国王シャルル八世がイタリアに出兵したことから始まりますが、16世紀前半では、ハプスブルク家の膨大な家産を相続したドイツ皇帝カール五世(在位1519~6年)と、中世のシャルルマーニュ大帝がつくりあげたカロリング帝国の再現を目論むフランス国王フランソワ一世(在位1515~47年)が、何度も戦争を交えました。しかし、戦争は決着がつかず、ドイツの内乱に疲れたカール五世は、ドイツヲを弟のフェルディナント一世に、スペインとネーデルランドを息子のフェリペ二世に譲って、スペインの修道院に隠棲しました。ハプスブルク家の東西分裂です。フランス側でも、フランソワ一世を継承したアンリ二世は、1557年にサン=カンタンの戦いで大敗を喫し、帝国の野望を達成できませんでしました。1559年、イタリア戦争はカトー=カンブレジの和約で終結しました。
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3.ポルトガルとスペイン

覇権争いの常連だったフランスとドイツが後退したあと、地位を受け継いだのはスペインです。コロンブスの新大陸への到達以後、次々と植民地化し、大西洋貿易を独占的に支配したスペインは、フェリペ二世の時に黄金期を迎えました。新しい通商路の成立はヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。第一に、ヨーロッパ人の海外進出です。ただし、アジアではインドのムガール帝国、中国の明・清帝国、日本の織豊政権などがあって、ポルトガル人の活動は限定され、中継貿易に留まりました。アジアとヨーロッパを往復するには約二年かかり、商館と寄港地を維持するコストの高さが最大のネックとなったのです。この点では、17世紀にアジア貿易の主役を担ったオランダも同様で、東インド会社は、アジア間の中継貿易に力点を置き、しばしば本国と対立しました。
第二に、ヨーロッパの諸地域の役割変化です。アジアや新大陸の物産が北辺にあるオランダに直接運び込まれるようになると、ヨーロッパの重心がオランダに傾き、地中海のイタリアと内陸部の意味が大幅に後退せざるを得なくなりました。「地理上の発見」は、ヨーロッパの人や物の流れを変えただけでなく、伝統的な地理観それ自体に大きな変化をもたらしたのです。ヨーロッパが世界に進出するきっかけをつくったのは、イベリア半島のポルトガルとスペインという「国土回復運動」を終えたばかりの新興国でしました。
15世紀中葉以降、ポルトガルはインドへの通商路を求めてアフリカ大陸を南下していましたが、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる船隊は、アフリカ南端の喜望峰を通過し、インドの西海岸カルカッタに到着し、大量の香辛料を買い付けてリスボンに戻りました。このあと、インドのゴア、マラッカ、マカオ、平戸(長崎)に商館を作り、アジアの商業ネットワークを築き上げました。1500年インドに向かったカブラルの船隊は、途中で嵐にあってブラジルに漂着し、この地の領有を宣言しました。ポルトガルから近いブラジルでは、蘇芳(紅色染料)、タバコ、砂糖の生産が始まりました。
一方、スペイン国王の後援を受けて西方からインドをめざしたコロンブスは、1492年、アメリカに第一歩を記しました。翌年、再びこの地にやってきたコロンブスは、早くも千人ほどの移民を伴っていました。これが植民地化の始まりです。次いで、マゼランはポルトガルが支配するマラッカ海峡に西回りで到達しようと1519年に船出し、初めて世界周航を果たしました。このあと、新大陸では貴金属を求めた「征服者」が暗躍し、1520年代にはコルテスがメキシコのアステカ王国を、1530年代にはピサロがペルーのインカ帝国を滅ぼしました。ほどなくペルーのポトシで産出された銀がセヴィリア経由でイタリアのジェノヴァやネーデルランドのアントウェルベンにもたらされ、ヨーロッパ通過の基礎となっています。1580年にはポルトガルの王家断絶を利用してポルトガル国王を兼ね、まさに「太陽の沈まない王国」を実現しました。新大陸では国王直轄のもとに、採掘から輸送に至るルートが整備されました。ヨーロッパ各地にもたらされた銀は、通貨量を増大させ、価格革命をもたらしたといわれますが、16世紀ヨーロッパの経済発展を根底で支えました。しかし、フェリペ二世の没後、スペインは衰退に向かい、スペインが持っていた権益をイギリスとオランダが分け合うようになりました。イギリスは、フランスとドイツが争いに熱中しています隙に乗じてスコットランドやアイルランドに遠征し、スペインの無敵艦隊を撃破し、新大陸にも進出しました。ヨーロッパ大陸の問題に深入りしないで、島国としての立地を生かし、海洋国家に転身したところからイギリスの未来が開けたのです。オランダは、もともと北海・バルト海と大西洋をつなぐ商取引の結節点に位置し、自由主義的な貿易立国をめざしました。オランダは王権が弱体であり、貴族や商人の勢力を背景に、アムステルダムやロッテルダムなどの都市が主力となって「連邦共和国」を成立させます。
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4.アジアの通商

 一方、アジアにおいては、16世紀は活発な通商がおこなわれ、東アジアからインド洋にかけてさかんに人びとが交流していました。特に琉球王国は、日本、朝鮮、中国、東南アジアを結ぶ中継貿易で繁栄の時代をむかえ、日本の堺や博多は自治都市として栄えました。そうしたなか、ヨーロッパからはるばるインド洋に達したポルトガル人は、東南アジアや東アジアの通商に参入し、戦国時代の日本や琉球にも渡来しました。

ポルトガル人はインドのゴア、マレー半島のマラッカ、中国のマカオ、広州、日本の平戸などの港に商館をおいて通商し、またイエズス会などカトリックの修道会が中国や日本で布教をはじめました。少し遅れてスペイン人やオランダ人も通商に加わった。しかし、この時期のヨーロッパ人は、アジアにおける政治秩序や文化を侵すことはできなかいました。すでにアジア人相互の通商がさかんで、それぞれの国では統治制度もきわめて高度に整備されていたからでした。

豊かなアジアの国々は、鉄砲に強い関心をもった日本をのぞくと、ヨーロッパ産品を特に必要としませんでした。なお、鉄砲は、1543年に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたとされています。しかし、軍事史家の宇田川武久は、それが倭寇が用いたアジア製の模造品である可能性が高いことを指摘しています。

明やオスマン帝国などのアジアの大国の軍隊では大砲を中心に火器もかなり普及していましたが、火薬の原料として必要な硝石は日本と異なり家畜の飼育が盛んだったため、十分自給できていました。逆に、ヨーロッパの人びとは香辛料、陶磁器、絹織物、茶などアジアの物産を大いに求めました。結果的に、これら産品を購入するための対価としては、メキシコやペルー、ボリビアなどで産出された銀が充当されました。アメリカ大陸や日本の石見銀山・生野銀山からの銀が大量にアジアに流れることによって、16世紀後半のアジア経済はさらに活況を呈することとなりました。
そして、明王朝では1565年に銀を用いた納税方法である一条鞭法が採用され、1570年代以降には全国に波及して税制が簡素化されていきました。
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5.オランダの役割

ヨーロッパ世界経済が勃興したのは、16世紀のヴェネティア(イタリア)でした。しかし、その時点で、地中海世界はすでに反映のピークは過ぎていたとみられています。16世紀後半から17世紀前半にかけて、ヨーロッパ各地が凶作、伝染病の流行、人口減少などの深刻な危機に見舞われるなか、唯一明るい兆しが見られたのは大西洋や北海に面した海港都市、そしてネーデルランドでしました。ネーデルランド北部(オランダ)の独立派は、宗主国スペイン側にあった海港都市アントウェルベンの機能を16世紀末に破壊し、アムステルダムに新たな経済活動の拠点を築きました。
人口150万人と小さな国家に過ぎないオランダが、17世紀後半まで主導権を堅持できたのです。それは、オランダは工芸技術に優れ、毛織物業、製糖業、製紙業、醸造業などが興隆しました。ニシン・タラの遠洋漁業や、集約型の農業もよく知られています。金融の面では、1609年にアムステルダム銀行が設立され、為替手形による国際的な決済、資本の外国投資が可能となりました。最も注目すべきことは、オランダが培った海洋的な側面です。
そのひとつは、オランダがバルト海方面の貿易と密接に結びついていたことです。輸入された商品は、エルベ川以東のプロイセン、ポーランド、ロシアなど東ヨーロッパで生産された穀物(小麦とライ麦)、スカンジナヴィア参の銅、鉄、硝石、船材、タール、ピッチなどでしました。前者は工業国に転じたオランダの食生活を賄う必需品でしました。東ヨーロッパでは領主制が強化され、「再販農奴制」と呼ばれる農民の隷属化が広がりました。後者は船舶や武器の製造用で、海洋に乗り出すには不可欠な物資です。
もうひとつは、オランダの植民地経営の手法です。第一に、オランダは会社制度を導入し、喜望峰を境に東インド会社(1602年設立)と西インド会社(1621年設立)に分け、外交権、自衛権、貨幣鋳造権などを含む当事者能力を与えました。第二に、オランダはポルトガルのアジア戦略の方法を取り入れました。ポルトガルが始めたアフリカの奴隷貿易に参加し、スペインとエージェント契約を交わしたことや、ブラジルに侵入し、タバコ、砂糖、コーヒーなどの大規模農園の技術をカリブ海方面に伝えたことは、のちに「三角貿易」の原点となりました。また、インドネシアで香辛料貿易が低迷すると、コーヒー栽培への転換を試みるなど、オランダは植民地の有効利用に熱心で、本格的な植民地の領有化を促進しました。
最もオランダが世界の物産の集散地として成功した最大の秘密は、造船業と海運業の発展であり、何よりも優秀な船員の養成にありました。新鋭のフライト船は、容積が大きく、操船が簡単で、少人数で大量の積荷を輸送する能力を持ち、中継貿易には最適でしました。人口の少ないオランダは、その弱点を船舶の保有数と操船の技術力でカバーし
、ヴェネティアを上回る規模の世界システムを機動させたのです。
相前後して1600年にはイングランドがイギリス東インド会社を設立しました。これはエリザベス女王より貿易独占権を付与された会社でしたが、ここでは、17世紀半ばまでは一航海ごとに出資者に利益を分配するしくみをとっっていました。
江戸幕府は、当初は朱印船貿易によって東南アジアに進出して各地に「日本町」を建設しましたが、1630年代には鎖国政策に転じ、オランダ船と中国船による貿易だけに制限して国内発展をめざしました。
中国大陸では、1616年にヌルハチによって統一された女真族が満州の地に後金王朝(後の清朝)を建国、つづくホンタイジが内モンゴルを併合して、順治帝の1644年には李自成を追って呉三桂を先導に北京に入城し、明にかわって中国支配を開始しました。続く康煕帝は中国史上最高の名君とされています。彼は文化の振興を図り、三藩の乱を鎮め、鄭氏政権を滅ぼし台湾を支配し、漢民族を支配下におきました。また康熙帝は1697年にジュンガルのガルダン・ハーンを滅ぼし、モンゴル高原を支配下に治め、さらにロシアとの間に中国史上初めての対等条約であるネルチンスク条約(1689年)を結ぶなどの対外活動も充実させて、安定した治世を実現しました。ロシアとの交渉はイエズス会宣教師が行い、交渉用語にはラテン語が用いられました。清朝は、公式条文中の「両国は―」ではじまる文言をことごとく「中国は―」とする一方的な命令口調に改竄し、対内的には朝貢関係としてこれを理解させました。朝鮮王国は、1636年に清に攻撃されてその服属国となり、その後厳しい鎖国政策を採用しました。琉球王国も1609年に薩摩藩に服属しましたが、中国との朝貢貿易は続きました。ロシアでは、内乱や農民反乱、ポーランド王国の侵入などの動乱を経て、ミハイル・ロマノフが1613年にロマノフ王朝を建て、正教を奉じる北方の専制国家として領主制支配を強めて、シベリアに領土を広げていきました。当初は西欧と深いかかわりを持たなかったロシアでしたが、17世紀末ころにピョートル1世があらわれると、西欧化政策を推進する一方、康煕帝治下の清朝との間に上述のネルチンスク条約を結んで国境を画定しました。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温

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たじまる 戦国9 明智光秀と細川ガラシャ

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

明智光秀と細川ガラシャ

1.丹後平定と細川藤孝(幽斎)

田辺城城門

丹後国は元々一色氏が守護を務める国でしたが、天正7年(1579年)、細川藤孝(幽斎)は明智光秀とともに反信長連合の一角だった一色氏らを滅ぼし、丹後国・丹波国を制圧し功績を挙げました。藤孝は恩賞とし丹後一国を与えられ田辺城を築き、田辺(舞鶴)を拠点に丹後一国を治めました。

その後、天正10年(1582年)6月2日に、嫡男の忠興が明智光秀の娘玉(のちガラシャ)を迎え親戚関係にあった明智光秀が本能寺の変を起こし、光秀から藤孝(幽斎)自身も加担するよう誘われますが、反光秀の立場を貫き、羽柴秀吉から丹後の本領を安堵されています。しかし藤孝(幽斎)は、光秀の裏切りの責任をとる形で嫡男の忠興に家督を譲って隠居しました。その際、隠居城として宮津城を築き、丹後舞鶴から移りました。


天守閣跡

慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こりました。細川忠興は家康に従っており、幽斎は僅かな兵とともに田辺城の留守を守っていました。そこへ、大坂方の大軍が攻め寄せたが、幽斎は屈することなく六十日間にわたって城を死守しました。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていました。藤孝の死によって歌道秘訣の絶えるのを恐れた後陽成天皇によって、包囲軍は田辺城から撤退となったのです。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられています。

しかし、関ヶ原の戦い時には、ふたたび舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めました。
戦後、細川忠興は関ヶ原の合戦の功により、慶長5年(1600年)、細川氏は豊前国中津藩(福岡県東部)へ転封されました。かわって信濃国飯田より、京極高知(きょうごくたかとも)が田辺城に入城しました。

一躍、豊前一国と豊後の内速水・国東両郡併せて三十九万九千石を拝領しました。幽斎も田辺城における功を賞され、別に隠居料として六千石を与えられました。こうして、細川幽斎は、慶長十五年、七十七歳を一期として世を去りました。文字通り、激動の時代を生き抜いた幽斎は、人生の達人といえる人物であったといえるでしょうか。幽斎のあとを継ぎ、豊前の大大名となった忠興は三斎と号し、『細川三斎茶書』といった著書もあり、利久七哲の一人に数えられるほどの文化人でもありました。忠興も逸話の多い人物だが、ガラシャとの関係は世に有名なところです。忠興のあとはガラシャとの間に生まれた忠利が継ぎ、寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後国(熊本県)に転封されました。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至りました。

細川幽斎(藤孝)

細川幽斎は、天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となりました。初め幕臣として13代将軍将軍義輝に仕えますが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されると、幽閉された義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を兄・三淵藤英らとともに救出し、近江の六角義賢、若狭の武田義統、越前の朝倉義景らを頼って義昭の将軍擁立に尽力しますが、その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張の織田信長に従うこととなります。天正6年(1578年)、信長のすすめによって嫡男・細川忠興と光秀の娘・玉(細川ガラシャ)を娶ります。

天正8年(1580年)に単独で丹後に進攻するも守護一色氏に反撃され失敗、光秀の加勢によってようやく平定に成功し、信長から丹後11万石を与えられ宮津城を居城とし丹後宮津11万石の大名となります。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は織田の山陰道平定軍の上司であり親戚でもある明智光秀の再三の要請を断り、剃髪し幽斎玄旨と号して隠居、細川忠興に領土を譲りました。

後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世細川氏の祖となりました。また、幽斎は千利休らとともに秀吉側近の文化人として寵遇され、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学を大成させた文化人としても知られています。
嫡男の忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方、徳川家康とも親交があり、
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近しました。
細川忠興は、天正10年(1582年)6月、義父・明智光秀が本能寺の変を起こし藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、織田信澄とは異なり父子は誘いを拒否したうえ、玉子を丹後の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれている。忠興はこのとき、父が隠居したので領国を譲られて丹後宮津城主となりました。

慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津(上杉景勝)征伐に軍勢を引きつれて参加し、7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興夫人・ガラシャは包囲された屋敷に火を放って家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて亡くなりました。
幽斎は500に満たない手勢で丹後田辺(舞鶴)城を守りました。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されましたが、幽斎が指揮する籠城軍の抵抗は激しく、また攻囲軍の中に幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲が乏しかったこともあり長期戦となりました。ようやく、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入りました。

関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の有力大名であるうえ、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われていわれています。

前線で石田三成の軍と戦い、戦後の慶長7年(1602年)、家康から豊前中津藩39万9000石に加増移封し、その後豊前40万石の小倉藩に移り、小倉城を築城しました。かわりに京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ仮に田辺城に入城したが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移しました。

幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれています。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、徳川方として参戦する。ただし、大坂冬の陣には参戦していない。元和6年(1620年)、三男の細川忠利に家督を譲って隠居する。この頃、出家して三斎宗立と号した。
寛永9年(1632年)、忠利が肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に移封されると熊本の南の八代城に入り北の丸を隠居所としました。

細川ガラシャ夫人隠棲地

細川ガラシャ(俄羅奢)、永禄6年(1563年) – 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、明智光秀の三女で織田信澄室、細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。子に、於長(おちょう:1579年生、前野景定室)、忠隆(1580年生)、興秋(1584年生)、忠利(1586年生)、多羅(たら:1588年生稲葉一通室)などがいます。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも「細川ガラシャ」と呼ばれる場合が多いですが、前近代の日本は夫婦別姓であり、北条政子・赤橋登子・日野富子などの例に照らせば、本名は「明智 珠」が正しいようです。 永禄6年(1563年)、明智光秀と妻煕子(ひろこ)の間に三女(四女説もあります。ただしこの場合、長女と次女は養女であり、実質は次女となる)として越前国で生まれましました。

天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君、織田信長のすすめによって坂本城より、勝(青)龍寺(京都府長岡京市)城主細川藤孝(幽斎)の息子忠興に嫁ぎました。珠(たま)は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれましました。

しかし天正10年(1582年)、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となります。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉します。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達でしました。

珠の幽閉先とされる場所ですが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実です。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」があります。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられます。

細い山道を苦労して標高400mの地にたどりつくと、すっかり日が暮れて記念碑は見ることができませんでした。女城跡に建てられている弥栄町の案内板によると、「味土野は、御殿と書かれていた時期もあり、現在の記念碑が建立してある平坦面にガラシャの居城があったといわれています。谷の周囲には、現在でも矢に使う矢竹が確認でき、また樹の下にある観音堂の台石はガラシャが信仰した場所と伝えられています。この他にも古井戸、蓮池跡などガラシャの足跡を現在に伝える伝承や遺跡が多く残っています。

山深い味土野の里にある細川ガラシャ夫人の隠棲地(女城跡)(いんせいち)は、ガラシャ夫人の父・明智光秀が本能寺の変を起こした天正十年から十二年(1582~1584)までの二年間、ガラシャ夫人が幽閉されていた場所である。また、谷を挟んだ向かいの丘陵は「男城跡」(おじろあと)で、ガラシャ夫人に付き従った家来達の居城の跡と言われている。

調査者 上智大学文学部教授 ヘルマン・ホイヴェルス東京女子高等師範学校長 下村 壽一女城跡 御殿屋敷ともいわれ、細川ガラシャ夫人の城跡男城跡 女城と谷を隔てた向かい側の尾根にあり、当時細川ガラシャを警護するために作られた城」

キリスト教徒へ

天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻しました。この年に興秋が生まれています。これらの人生の変転の中で、珠はカトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていきましました。天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれましましたが、病弱のため、珠は日頃から心配していましました。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣し、彼女は意を決してカトリックの教えを聞きに行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は修道士にいろいろな質問をしました。そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。

教会から戻った珠は大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けましました。しかし、後に秀吉はバテレン追放令を出し、大名が許可無くキリスト教を信仰することを禁じた。忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女の鼻を削ぎ、追い出しましました。

幸いにもガラシャは発覚を免れましましたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったといいます。

壮絶な最期

関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、石田三成は、徳川家康が上杉討伐に兵を起こした際に、これに従った細川忠興を始めとする大坂城下に屋敷を構える家康方の大名から、人質を取ることを企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向け、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を人質に取ろうとしましましたが、ガラシャはそれを拒絶しましました。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ(偕成社刊『偉人の話』では“首を打たせた”の記述あり。キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないため)。38歳。辞世の句として、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠みましました。こののち、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しましました。ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬りましました。細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬しました。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがあります。

なお細川屋敷を三成の兵に囲まれた際に、ガラシャは世子細川忠隆の正室で前田利家娘の千世に逃げるように勧め、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れましました。しかし、これに激怒した忠興は忠隆に千世との離婚を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡してした(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。
細川ガラシャ夫人は、日本の歴史の大きなうねりの中に、その名を残す数少ない女性の一人で、大変な美人であったと言われています。苦難の生活を送りながらも自己の尊厳と人間愛を貫き通し、女性であることの誇りを守り、常に世の中の平和を祈り続け、波乱に富んだ生涯を送った人でありました。

戯曲「気丈な貴婦人」

ガラシャをモデルにした戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)の初演は神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にイエスズ会の劇場でオペラとして発表されましました。ガラシャの死はヨーロッパでは殉教死と考えられました(「武士道」と言う観念、武家社会の礼法が理解されない為)。その戯曲の中でのガラシャは、夫である野蛮な君主の非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心さるという解釈になっています。この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたとされ、彼女達は政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分達の身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと言う。エレオノーレ・マグダレーナ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベトなどの生き方にも尊敬と感銘を受け深く影響を与えたと言われています。

カトリック宮津教会


洗者聖ヨハネ天主堂ともいわれ、フランス人のルイ・ルラーブ神父が1896(明治29)年に造った木造の教会で、毎週ミサの捧げられる現役の聖堂としては、日本で最も古いものとされています。

内部の床は畳敷きという和洋折衷のロマネスク風様式の教会、堂内を明るく照らすステンドグラスはフランスから輸入したもので、1280枚あります。 この教会は観光施設ではなく多くの方が礼拝に訪れる宗教施設です。。
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戦国8 丹波・播磨平定

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

丹波・播磨平定

丹波国(たんばのくに)は、大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てています。このため、丹波国は甲斐や尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。地域性として亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬、篠山・氷上の兵庫丹波は但馬・摂津・播磨に密接に係わっています。

丹波や畿内では国人の独立志向が非常に高く、山城や丹波などでは、守護(細川氏)が数十年をかけても国人層の被官化を達成できない事例も見られました。丹波国は古くより山陰道からの京都の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの支配を受けました。ただそれだけにひとたび都で戦乱が起こった時は戦乱にすぐ巻き込まれました。そして篠村(亀岡市篠町)では、鎌倉時代末期には足利尊氏が挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変へと向う際にそれに倣ったとされるなど、時代変革の舞台ともなりました。

明智光秀(あけち みつひで)

明智光秀は、戦国時代、安土桃山時代の武将。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。正室は妻木勘解由左衛門範煕(のりひろ)の娘煕子(ひろこ)。間には、織田信澄室、細川忠興室珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男光慶(十五郎)がいます。

明智氏は『明智系図』によれば、清和源氏の一流摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族。美濃国明智庄(現在の岐阜県可児市または恵那市)より発祥。

源頼光-源頼国-源国房-(6代略)-土岐頼貞-土岐頼基-明智頼重-(7代略)-明智光継-明智光綱-明智光秀-明智光慶

(生年日は不明()、岐阜・可児(かに)市出身、明智城主の子とされるが不明(美濃国説が有力)。明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家。はじめ斎藤道三に仕えた。1556年、道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、明智城を義竜に攻撃されて一族の多くが討死しました。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたといいます。

※煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとしました。しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたといいます。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に(、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。

やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられ10年間仕えたとも言われる。156http://kojiyama.net/history/?p=119525年(http://kojiyama.net/history/?p=1195255歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。1566年(http://kojiyama.net/history/?p=1195258歳)、1http://kojiyama.net/history/?p=119525代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(http://kojiyama.net/history/?p=1195259歳)が朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝(※要記憶)と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなります。
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謎の多い明智光秀

『勧善懲悪』、時代劇や多くのハリウッド映画、ヒーロー戦隊番組に於けるシナリオにおける典型的パターンです。これは善玉(正義若しくは善人)と、悪玉(悪役・悪党・搾取する権力者など)が明確に分かれており、最後には悪玉が善玉に打ち倒され、滅ぼされたり悔恨するという形で終結します。一般にはハッピーエンドとされる形で物語は終幕を迎えるパターンです。
信長、秀吉、家康などは英雄視され、光秀については、歴史物では、本能寺の変で主君信長を討った「主殺し」、「謀反者」、「三日天下」など悪いイメージで知られています。しかし、本当にそうであったのかという素朴な疑問がありましました。光秀ほど謎に満ち、歴史的興味をかりたててくれる人物も、そう多くはありません。

怨恨説は元になったエピソードが主として江戸時代中期以降に書かれた書物が出典であること(すなわち、後世の憶測による後付である。例えば、波多野秀治の件は現在では城内の内紛による落城と考えられており、光秀の母を人質とする必要性は考えられないとされている)、織田信長・豊臣秀吉を英雄とした明治以来の政治動向に配慮し、学問的な論理展開を放棄してきたことが挙げられる(ただし、ルイス・フロイスの足蹴の記述など、明らかに同時代の資料も存在する)。

ひょうきん者の藤吉郎(秀吉)、カリスマ的な信長。光秀は生真面目な努力の人であり秀才型といえます。『勧善懲悪』な時代劇にするには、なんとも光秀は面白くはないでしょう。戦国期の武将の中で光秀が特異な存在で一人浮いて見えてしまうのはどうしてなのでしょうか。私の感覚ではありますが、信長・秀吉・家康に代表される戦国武将は歴史上の勝者敗者を問わず、現実世界からかけ離れた人物であるのに対し、光秀については、その栄光も苦悩も挫折も現代に通じるドキュメンタリーとしてとらえることができる人間らしい人物としても興味があるところです。

「勤勉で、学問好きで、まじめに生きようとしています。むろん武士として名誉欲も、政治的野心もありますが、歌人であり、ものの哀れを知る男だ。」(明智光秀 物語と史蹟をたずねて 早乙女貢著より抜粋)という現代人的感覚に近い人間だからだ英雄的ではないと思われます。

逆に言えば戦国期においては、生きていけない人間ということになってしまうのかもしれませんが、明智一族の結束の強さに光秀の人情に厚い人間らしさを感じるのです。光秀の才能や人間性が、どのようにして培われたものか大変興味がありますが、残念ながら光秀が歴史の表舞台に登場してくるのは朝倉義景に仕官した時からで、その前半生を語る信憑性のある資料はほとんどなく、謎に包まれています。
しかしながら、歴史を大きく転回させたキーマンであることは疑うべくもありません。

1571年7月、光秀は信長から近江国滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始します(信長は築城費に黄金千両を与える)。これは織田家にとって大事件でした。光秀は初めて自分の城を持っただけではありません。織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのです。

天正5年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは、光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。このことから、この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったと見てよいと思われます。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さが窺えます。

天正10年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525年)6月http://kojiyama.net/history/?p=119525日(西暦6月http://kojiyama.net/history/?p=1195251日)早朝、光秀が羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途上、亀山城から桂川を渡って京へ入る段階になって、光秀は「敵は本能寺にあり」と発言し、主君信長討伐の意を告げたといわれる「本能寺の変」が起こります(しかし、光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城よりhttp://kojiyama.net/history/?p=119525000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。光秀は、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼしたために、謀反人として歴史に名を残すことになってしましましました。一方で光秀の心情を斟酌する人間も少なくなく、変の背景が未だに曖昧なこともあって、良くも悪くも光秀に焦点をあてた作品が後に数多く作られることとなりましました。

本能寺の変

天正10年6月。ここで本能寺の変について、おさらいしてみましょう。

5月15日&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀は、武田攻めから帰還したのち、長年武田氏と戦って労あった徳川家康の接待役をより務めた。
15日羽柴秀吉から応援の要請が届く。
17日光秀は接待役を途中解任されて居城坂本城に帰され、中国攻めの秀吉援護の出陣を命ぜられた。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
http://kojiyama.net/history/?p=1195256日
いまひとつの居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕大権現に参篭。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
http://kojiyama.net/history/?p=1195258日・http://kojiyama.net/history/?p=1195259日
「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催しました。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが、句の解釈は種々ある。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
http://kojiyama.net/history/?p=1195259日
信長は秀吉の応援に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った[*1]。同時に、信長の嫡男・信忠は妙覚寺に入った。
翌6月1日信長は本能寺で茶会を開いています。
6月1日夕光秀は1万http://kojiyama.net/history/?p=119525000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった(光秀は丹波亀山城には事件前にも後にも死ぬまで立ち寄っておらず、坂本城よりhttp://kojiyama.net/history/?p=119525000の兵で本能寺に向かい、到着したのは本能寺が焼け落ちた午前7時半より数時間後の9時頃だったとする説もある)。
http://kojiyama.net/history/?p=119525日未明桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言[*http://kojiyama.net/history/?p=119525]して、襲撃を明らかにしました。
6月http://kojiyama.net/history/?p=119525日『本能寺の変』。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、ただちに「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
6月http://kojiyama.net/history/?p=119525日
、遠方の武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としています。夜になって、毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。5日、光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。後継者争いの最初の被害者だ。午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる(秀吉は“変”から10日で全軍を京都に戻した)。
6月9日信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、一向に援軍が現れず光秀は焦り始める。どの武将も秀吉や勝家と戦いたくなかったし、信長が魔王でも「主君殺し」を認めれば、自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。細川家存続を選んで親友光秀を裏切った自分に「武士の資格はない」と、頭を剃って出家したのだ(以後、幽斎を名乗る)。忠興はガラシアを辺境に幽閉しました。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた「貴殿が髪を切ったことは理解できる…。この上はせめて家臣だけでも協力してほしい。50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだ」。引退。光秀は人々の上に君臨する野望や征服欲の為に信長を討ったのではありません。ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、癒されぬ深い悲しみがあった。
6月10日光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、彼は完全に孤立しました。11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。1http://kojiyama.net/history/?p=119525日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山[*http://kojiyama.net/history/?p=119525]に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に占領されていた。
6月1http://kojiyama.net/history/?p=119525日『山崎の戦い』。秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、4万に膨れ上がった。一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの 1万6千。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。戦闘開始から3時間後の午後7時。圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅しました。「我が隊は本当によくやってくれた」光秀は撤退命令を出し、再起を図るべく坂本城、そして安土城を目指す。堅牢な安土城にさえたどり着ければ、勝機は残されていた。“あの城で籠城戦に持ち込み戦が長期化すれば、犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、さらには上杉や毛利の援軍もやって来るだろう…大丈夫!まだまだ戦える!”。
同日深夜大雨。しかし、天は光秀を見放しました。小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを1http://kojiyama.net/history/?p=119525騎で敗走中だった光秀は、落武者狩りをしていた土民(百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。長兵衛はそのまま逃げた。光秀は致命傷を負っており、家臣に介錯を頼んで自害しました。その場で2名が後を追って殉死。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋(桔梗、ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したといいます。安土城を預かっていた明智左馬助(http://kojiyama.net/history/?p=1195255歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形。
6月15日坂本城は秀吉の大軍に包囲されます。「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は“国行の名刀”“吉光の脇差”“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である!燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う!」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」左馬助は光秀の妻煕子、娘倫子を先に逝かせ、城に火を放ち自刃しました。&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
&#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
光秀の首はこの翌々日(17日)に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。
[脚注]

[*1]…本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年http://kojiyama.net/history/?p=119525月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた信長宿舎としての改造を施されていた。http://kojiyama.net/history/?p=119525007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっています。

[*http://kojiyama.net/history/?p=119525]…「敵は本能寺にあり」と言ったのは光秀ではなく、江戸時代初期の『川角太閤記』が初出-『検証本能寺の変』谷口克広著。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、当時、重職以外の足軽や統率の下級武士は京都本能寺にいる徳川家康を討つものと信じていた、とされています。

天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。

本能寺の変の原因

中国(出雲国・石見国)は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は滋賀郡(近江坂本)・丹波国は召し上げにする、と伝えられたこと。など諸説あげられています。信憑性はともかく、信長の革新的な様々な政策は、光秀の家臣団に受け入れがたい点もあったと考えられています。信長の軍団・柴田勝家の北陸統治に見られるように、武士団にとって簡単に国替えを行うことは大きな負担と不安を与える事が考えられます。しかし、この国替えは信長自身も数度行っており、信長はそれらを解決するために家族そのものの移住等を行い、その度にその国を発展させてきましたが、信長にとっては大したことでなくとも家臣にとっては難しい問題であって摩擦の原因となった可能性はあります。明智氏やその家臣、従者に関わる口伝などはいくつか伝わっており、資料の少ない考証については、従来日の目をみることがなかったこうした信憑性を確定できない資料の分析を行っていく必要があるようです。

光秀は信長から浪人とは思えないほど取り立てられただけではなく、石山合戦では1万5千の兵に光秀が取り囲まれていたところを、信長はわずかhttp://kojiyama.net/history/?p=119525千ほどの兵で自ら前線に立って傷を負いながら救出しています。このことからも光秀は信長からかなり眼をかけられていたようです。本能寺の変当時の光秀の領地は、信長の本拠安土と京都の周辺でhttp://kojiyama.net/history/?p=1195250万石とも50万石とも言われていますが、史上権力者が本拠地周辺にこれだけの領土を与えた事例は秀吉が弟秀長に大阪の隣地である大和に100万石を与えたくらいしかありません。この配置を見ても、信長が相当の信頼を置いていたことが窺えます(結果として、これが裏目に出てしまった)。また、『明智家法』には「自分は石ころ同然の身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という文も残っています。このことを根拠に「光秀は恩を仇で返した愚か者」と酷評する歴史研究家も存在します。

ルイス・フロイスの『日本史』に、「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評があります。秀吉については好色・女好きで知られ、多くの側室をおいていた(ルイス・フロイスは「日本史」において「http://kojiyama.net/history/?p=11952500名の側室を抱えていた」と記録している)。

高柳光寿は、著書『明智光秀』の中で、合理主義者同士、光秀と信長は気が合っただろうと述べています。光秀が信長とウマがあったのは事実で、光秀が信長を信奉していたという史料上の記述も多いようです。また、信長の方も、例えば天正七年の丹波国平定について、「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候…」と讃えています。『信長公記』には他にも似たような記述が少なくありません。

光秀は努力の人であり秀才型といえます。明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたといいます。戦国武将の多くが側室を持つ中で、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。何度も主君を変わり、領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み茶の湯を愛する風流人であり、また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、文武両道の名将だった。側室もなく妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する、心優しき男。織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。物静かで教養人の光秀は、エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、退屈で面白くない男であったハズ。それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑だったのです。

一方、秀吉は、ドラマなどでは人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀5年に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』や『信長公記』より)、天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供500人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する(同年1月 5日の羽柴秀吉書状より)等、晩年だけでなく信長の家臣時代でも、少なくとも他の武将並みの残酷な一面があったようです。

母親の大政所への忠孝で知られています。小牧・長久手の戦いの後、必要に迫られて一時徳川方に母と妹を人質に差し出しましたが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させています。天下人としての多忙な日々の中でも、妻の北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存しています。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京しましたが、結局臨終には間に合わなかった。秀吉が親孝行であったことは明治時代の国定教科書でも好意的に記述されました。

江戸時代を通じて、信長からの度重なるイジメが原因とする「怨恨説」が根拠のない創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはありませんでした。

こうした理解は、映画やドラマなどでも多く取り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していました。しかし、戦後は実証史学に基づく研究がすすんできました。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせました。

現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていありません。また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(仏教弾圧など)への反動(反革命)とする説も多いのです。

本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、これによれば信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。また変三ヶ月前の茶会で宝をおく床の間に信長の書を架けるなど心服している様子がある。このため怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われています。しかし、それらの黒幕に関する主張は、光秀とその敵対者の双方においてなされたことはありません。

ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。従来はドラマや旧領丹波など一部の地域では遺徳を偲んでいる事などの影響か誠実なイメージがある。しかし、教養の高い文化人で線が細いといわれる光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀を上げたように、したたかな戦国武将としての姿が見えます。

織田方面軍団

  • 北陸方面:柴田勝家を方面軍総司令官として、与力に前田利家や佐々成政らを配属。
  • 中国方面:羽柴秀吉を方面軍総司令官として、与力に黒田官兵衛や蜂須賀正勝らを配属。
  • 畿内方面:明智光秀を方面軍総司令官として、与力に細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を配属。
  • 関東方面:滝川一益を方面軍総司令官として、与力に森長可や川尻秀隆を配属。
  • 四国方面:信長の三男・信孝を方面軍総司令官として、与力に丹羽長秀や蜂屋頼隆らを配属。一方、織田政権崩壊の原因は、政権の構造的な問題より、むしろ織田信忠の自害(享年http://kojiyama.net/history/?p=1195256)が大きいとする意見もあります。すなわち、信長は本能寺の変以前に、大名としての織田家の家督は信忠に譲っており、自らは、織田・柴田・明智・羽柴・神戸(信孝)・北畠(信雄)などの「大名(信長の取立による大名)」の上に君臨する存在となっていた。そのため、配下の柴田や明智などの大名が、毛利や上杉などの信長に臣従していない大名より大きな兵力をもっていても組織としては問題がなく、むしろ合理的であったと言える。つまり織田家はすでに信長の直接指揮から外れているため、信長自らが巨大な兵力をもつことは組織としての弊害が大きいといえる(信忠が大兵力をもつのであれば問題ない)。そのため、仮に信長配下の大名の謀反により信長が倒されても、信長傘下でもっとも大勢力をもつ織田家の当主が生き残っていれば、政権が維持できる構造になっていた。従って政権崩壊の主要因は後継者の死亡との説である。いずれにせよこの時信忠が脱出できていれば、織田政権は存続した可能性が高かったという意見もあり、少なくとも個人の武名としてはともかく、織田政権の後継者としては重大な判断ミスであった。ただ、信忠が生き残れば政権が存続することを理解できたならば、信忠が脱出すれば光秀の謀反が失敗になることも同時に理解できたはずである。そのため、光秀が見逃すはずがないとの判断に至ることはむしろ自然なことといえる。結局、信忠の行動を読んで謀反を起こした光秀が上手だったのでありこの判断ミスをもって信忠の能力を判断することは難しい。鳴かないホトトギスを三人の天下人がどうするのかで性格を後世の人が言い表している(それぞれ本人が実際に詠んだ句ではない)。これらの川柳は江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』に見える。
    • 織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
    • 豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」
    • 徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」

    光秀ならこう詠んだかも・・・。

    • 明智光秀「鳴かぬなら 私が鳴こう ホトトギス」
    • 石田三成「鳴かぬなら 死なせてくれよ ホトトギス」

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    明智光秀と北近畿の足取り

    明智光秀は、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を秀吉とともに領地として与えられたことからも、但馬・丹後・丹波に関わりがあります。

    • 信頼できる史料によると、永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務に当たったとされます。
    • 但馬は山名氏、丹波は細川氏、丹後は一色氏。
    • 朝倉義景は但馬養父郡、古族日下部氏の出自。朝倉義景の母は若狭武田氏の出、光秀の母は武田義統の姉妹と伝えられています。光秀は最初、斎藤道三に仕えるも、のち越前国の朝倉氏に仕えた。
    • 足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭国に、さらに越前国の朝倉氏に逃れる。
      義昭は朝倉に上洛を期待していたが義景は動かなかった。そこで義昭は光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上って自分を征夷大将軍につけるように要請しました。
    • 最初に光秀が但馬と関わりのあるとされる事件は、永禄二年(1559)、丹波福知山城主の光秀が、出石の此隅山(このすみやま)城が虚城であることを聞いて、有子山(出石)城を攻撃しようと考え、陣代として大野内膳統康・伊藤七之助次織・伊藤加助の三名をあて、進美寺(しんめいじ)に「掻上の城」を築いて、水生城(みずのうじょう)を攻撃しましたが落とせませんでしました。
    • 丹波は明智光秀によって治められ、丹後の細川氏には光秀の娘・細川忠興の室珠(洗礼名:ガラシャ)がいましました。
    • 但馬国主でのちに隠居した山名祐豊と城主となった氏政が出石城(有子山城)が築城間もない天正三年(1575)十月、となりの丹波国黒井城主荻野直正が軍を率いて但馬に侵入し、朝来の竹田城と出石の有子城を攻めたとき、信長に助けを求めて部下の光秀を派遣して、奪われていた竹田城を取り戻し黒井城に入った直正を攻めています。
    • 天正7年(1579年)、光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しで丹波国の攻略(黒井城の戦い)を担当し、ついに波多野秀治を下して畿内を平定しました。
    • この功績によって近江滋賀郡および丹波一国を与えられ、丹波亀山城・横山城・周山城を築城しました。京に繋がる街道の内、東海道と山陰道の付け根に当たる場所を領地として与えられたことからも、光秀が織田家にあって最重要ポストにあったことが伺えます。
    • 丹波一国拝領と同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられた。近年の歴史家には、この地位を関東管領になぞらえて「山陰・畿内管領」と呼ぶ者もいます。天正9年(1581年)には、京都で行われた信長の「閲兵式」である「京都御馬揃え」の運営を任された。
    • 現代に至る亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる。亀岡では、光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われています。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっています。
      そして、秀吉の但馬征伐が二回(1577、1580)にわたって行われます。
    • 秀吉→山陽方面・山陰方面
    • 光秀→丹波・山陰方面

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    丹波平定と黒井城の戦い

    さほど有名ではありませんが、戦国時代に八上城の波多野氏は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともあります。

    丹波国では、元亀元年(1570年)、上洛していた織田信長に赤井直正(荻野直正)と赤井忠家は拝謁し織田方につくことを約束しました。織田信長はこれに対して氷上郡(ひかみぐん・兵庫県丹波市)、天田郡(あまたぐん・福知山市)、何鹿郡(いかるがぐん・福知山市/綾部市)の丹波奥三郡を安堵しました。
    これで丹波国は安定するかに思えたのですが、翌元亀(1571年)11月、此隅山城(出石町)城主・山名祐豊(すけとよ)が家来、夜久野城(山東町)城主・磯部豊直らと、氷上郡にあった足立氏の山垣城(青垣町)を攻めました。黒井城の赤井直正と赤井忠家はこの動きに即応し、山垣城に救援に向かい、山名祐豊、磯部豊直両軍を撃退しました。その後、勢いにのって、但馬国の竹田城を攻城し手中に収めると、次は山名祐豊の本拠地である此隅山城に迫りました。

    このような状況になり、山名祐豊は織田信長に援軍を要請しました。織田信長は当時信長包囲網にあい、援軍を出せる余裕はなかったのですが、越前一向一揆が一段落した天正年(1575年)、明智光秀を総大将に丹波国征討戦に乗り出すことになります。織田信長としてみれば、毛利元春を討つ前に京に近い丹波国を平定し、背後の憂いを削ぐのが目的だったと推察されています。
    明智光秀は越前国より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて同年10月初旬に出陣したと思われています。この時赤井直正は竹田城にいましたが、明智光秀の動きを察知し黒井城(兵庫県丹波市春日町黒井)に帰城、戦闘態勢を整えました。織田信長は、同年10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいきました。

    明智光秀は圧倒的兵力で黒井城を包囲しました。この時の状況を『八木豊信書状』によると「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と観測を述べ、スムーズに戦がすすんでいました。戦況は明智光秀に有利であり、攻城戦はhttp://kojiyama.net/history/?p=119525ヵ月以上となった翌天正4年(1576年)1月15日、波多野三兄弟による裏切で方向から攻め立て明智光秀軍は総退却してしまいました。

    『甲陽軍鑑』によると「名高キ武士」として、

    • 徳川家康&
    • 長宗我部元親
    • 赤井直正

    と並び紹介されているほどの武将でした。

    大敗した明智光秀軍は京に逃げ込み、その後坂本城に帰城しました。先の戦いから1ヶ月後、再び戦の準備を整え、同年http://kojiyama.net/history/?p=119525月18日に坂本城を出陣し丹波国に入国しましたが、この時はほとんど戦わず短期間で引き揚げてしまいました。その後、一方、この戦いで織田信長軍に土をつけたことで赤井直正は「丹波の赤鬼」という名を広め、全国の武将から一目おかれる存在となっていきます。

    再び明智光秀が黒井城を攻城するまで約1年半の月日が流れ、この間明智光秀は畿内を転戦します。石山本願寺攻め、加賀攻め、信貴山城の戦いなど明智光秀軍は「遊撃軍団」だったと思われます。
    その間、赤井直正は下館中心に信長包囲網の一翼を担っていました。足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者、跡部大炊助や長坂長閑斎、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っています。

    天正5年(1577年)10月、第二次丹波国征討戦を開始します。まず明智光秀軍は、多紀郡にある籾井城、桑田郡にある亀山城 (丹波国)を落城させました。この二城を丹波国征討戦の本拠地としました。第一次丹波国征討戦と違い、明智光秀軍は一挙に黒井城を攻めようとせず、慎重に周りの城から攻城していく個別撃破戦略をとりました。織田信長は細川藤孝、細川忠興親子の援軍を送り、翌天正6年(1578年)に八上城と氷上城の包囲を完成させます。

    一旦は明智光秀を裏切った丹波国の国人衆は、二城が陥落し、赤井直正が死去、八上城を攻囲するのを見ると再び明智光秀に降っていきました。赤井家では赤井直正の弟の赤井幸家が後見となり統率することになります。
    さらに織田信長は同年4月に羽柴秀長軍と明智秀満軍の増援を送り込み、八上城、黒井城の支城を次々と落城していきました。明智光秀は攻囲中に、軍勢を八上城に置きながら別所長治や荒木村重の謀反にも対処しています。
    明智光秀、細川藤孝らは同年10月http://kojiyama.net/history/?p=1195254日安土城に凱旋し、織田信長に拝謁し丹波国が平定できたことを報告します。その翌天正7年(1579年)織田信長は丹波国を明智光秀に、丹後国を細川藤孝に与えることになりました。

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    3.波多野氏(はたのし)

    波多野氏は、波多野秀長の代に応仁の乱で細川勝元方に属し、その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に勢力を扶植した始まりで、政元にも仕えて以後、波多野一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばしました。
    秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正1http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1515年)、朝治山に八上城[*1](兵庫県篠山市)を築城し、ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たしました。

    稙通の孫で波多野秀治は三好氏の勢力が衰えると再び独立を果たし、永禄9年(1566年)には八上城を奪回しました。永禄11年(1568年)に織田信長の上洛の際、赤井直正とともに信長に1度は降伏します。天正http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1575年)からは反織田勢力である丹波の諸豪族を討伐するために信長が派遣してきた明智光秀の軍に加わって織田家のために働きますが、天正4年(1576年)1月に突如として足利義昭の信長包囲網に参加して光秀を攻撃し、撃退してしまいました。このため、秀治は信長と敵対します。

    一時は織田軍を撃退したものの、天正7年(1579年)、遂に秀治は降伏しました。その後、秀治は弟の波多野秀尚とともに信長によって処刑され、戦国大名としての波多野氏は滅び去りました。


    [*1]…この合戦で、明智光秀の母(伯母とも)が磔(はりつけ)になった城としても知られる(後世の創作という説もある)。
    4.赤松氏

    嘉吉元年(1441年)、赤松満祐・赤松教康父子が結城合戦の祝勝会で、第6代将軍・足利義教を謀殺するという嘉吉の乱が起こし、それにより赤松氏は山名持豊(山名宗全)を中心とした幕府軍の追討を受け、満祐と教康は殺され、赤松氏本流は没落しました。領地は功により山名氏に引き継がれました。しかし、赤松政則のときに再興を果たし、応仁の乱では細川勝元に与し、その功により播磨・備前・美作のhttp://kojiyama.net/history/?p=119525ヶ国を領する大大名にまで返り咲き、長享http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1488年)には山名氏の勢力を播磨から駆逐しました。

    戦国時代に入ると、政則の子・赤松義村が家臣の浦上村宗に殺され、さらにその子・赤松晴政は村宗に傀儡(かいらい)として擁立されるなどして赤松氏は内紛により衰退していきます。さらに一族であり家臣でもあった別所氏に独立されたり、尼子氏の侵攻を受けるなどして悪条件が重なってさらに衰退が促進されました。
    このため、本拠を置塩城(おきしおじょう)に移し、晴政の子・赤松義祐は当時の天下人である織田信長と同盟を結ぶなどして勢力回復を図りますが、浦上宗景との戦いに敗れて結局は没落しました。義祐の子・赤松則房の時代には豊臣秀吉の家臣となり、天正11年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525年)にわずか1万石を安堵されるにすぎない小大名にまで没落してしまいました。

    秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍に与したため、自害を余儀なくされてしまいました。同じく赤松一族で但馬竹田城城主・斎村政広も西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払ったために、徳川家康から戦後、これを理由に自害(この件に関しては寝返りを促した亀井茲矩に責任転嫁された冤罪説が強い)を命じられてしまい、これにより大名としての赤松氏は滅亡したのです。
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    5.三木合戦と別所長治

    室町時代中期以降、嘉吉の乱により主家の赤松氏と共に別所氏も一時衰退しましたが、応仁の乱により赤松氏が勢力を回復すると別所則治は三木城を築き初代城主となりました。そのため則治は別所氏中興の祖と言われています。
    則治の孫・別所就治の時代に主家の赤松氏とその守護代である浦上氏が対立して赤松氏の勢力が衰退の一途をたどり始めると、就治は東播三郡を支配下に置いていたことを背景に赤松氏から独立し、戦国大名として名乗りを上げます。
    就治は武勇に秀でたことから、その後は三好氏や尼子氏の侵攻を次々と撃退して勢力を拡大し、東播八郡(美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡 、神東郡)を支配する別所氏の最盛期を築き上げました。

    別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も天正http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1575年)10月に信長に謁見、翌年も年頭の挨拶に訪れています。しかし、就治の孫・別所長治のときに信長が中国の毛利氏を制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしましたが、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、妻の実家である丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆しました。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となります。

    長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の有名な「三木の干し殺し」戦法に遭い、この三木合戦の際には神吉城(かんきじょう・印南郡・加古川市)、志方城(印南郡)、淡河城(美嚢郡)、高砂城(加古郡)、端谷城(明石郡)など東播磨各地の城は支城として別所方に従いましたが、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから二年後の天正8年(1580年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害して果てたといいます。享年、。但し「信長公記」ではhttp://kojiyama.net/history/?p=1195256とされています。

    別所重宗(重棟)は、甥の別所長治に信長に降伏するように進言しましたが容れられなかったため、甥のもとから去って秀吉の家臣となった人物で、天正13年(1585年)8月に八木城主(養父市八鹿町八木)に任命されました。しかし後に長男の別所吉治(ただし長治の子という説がある)に家督を譲って隠居した重棟は、天正19年6月に死去しました。

    後を継いだ吉治は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては西軍に味方して細川幽斎が守る丹後田辺城(舞鶴市)を攻めたため、戦後に改易され、大坂を流浪しました。しかし吉治の伯母が徳川秀忠の乳母であったことから、後に罪を許されて藩主として再起することを許されたのです。

    吉治は大坂の陣で徳川方として武功を挙げたことから、丹波国内に5000石を加増されてhttp://kojiyama.net/history/?p=119525万石の大名となりました。しかし寛永5年(1628年)5月 日、吉治は病を理由に参勤交代を行なわず、その実は病ではなく狩猟して遊んでいたことが露見して、幕命により改易されてしまい、大名家としての別所氏は滅亡しました。

    慶安元年(1648年)、息子の別所守治は赦免され、のち1000俵を与えられ、子孫は700石の旗本として存続しました。吉治は息子の下で余生を過ごしました。
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    6.荒木村重

    明智光秀より4年前に織田信長に反逆を起こした武将として有名です。
    天文4年(15http://kojiyama.net/history/?p=1195255年)、摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え池田長正の娘を娶り一族衆となります。しかし三好三人衆の調略にのり池田知正とともに三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握します。
    その後織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(157http://kojiyama.net/history/?p=119525年)、茨木城主となりました。同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げました。天正http://kojiyama.net/history/?p=119525年(1574年)、伊丹城主となり、摂津一国を任されました。その後も信長に従って、石山本願寺攻め、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げました。

    天正6年(1578年)10月、村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻しました。一度は翻意し釈明のため安土に向かいましたが、途中寄った高槻城で家臣の高山右近から

    「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻りました。織田軍羽柴秀吉は、村重と旧知の仲でもある黒田孝高(官兵衛)を使者として有岡城に派遣し翻意を促しましたが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁してしまいました。その後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦しましたが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となりました。

    天正7年(1579年)9月http://kojiyama.net/history/?p=119525日、村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、次いで花隈城(神戸市)に移り(花熊城の戦い)最後は毛利氏に亡命します。

    落城した有岡城の女房衆1http://kojiyama.net/history/?p=119525http://kojiyama.net/history/?p=119525人が尼崎近くの七松において惨殺され、

    「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」

    と記されるほどの残虐な様子だったといいます(信長公記)。

    1http://kojiyama.net/history/?p=119525月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族のhttp://kojiyama.net/history/?p=1195256人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。立入宗継はその様子を「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」と記しています(立入左京亮宗継入道隆佐記)。その後も信長は、避難していた領民を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追求していきました。天正9年(1581年)8月17日には、村重の家臣を匿いそれを追求していた信長の家臣を殺害したとして、高野山金剛峯寺の僧数百人が虐殺されました。

    &#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
    &#1http://kojiyama.net/history/?p=119525;
    天正10年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住します。そして豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂で茶人・荒木道薫として復帰を果たし、千利休らと親交をもちました。はじめは妻子を見捨てて逃亡した自分を嘲って「道糞」と名乗っていましたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われています。銘器「荒木高麗」を所有していました。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年5http://kojiyama.net/history/?p=119525。
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    7.黒田官兵衛

    天正八年(1580年)正月、三木城(兵庫県三木市)を落した秀吉が三木城に移ろうとした時、黒田孝高(官兵衛・如水)は姫路城を秀吉に譲り、代わり宍粟郡を与えられ篠の丸城に入りました。このころ、主家の小寺氏は没落しており、官兵衛は信長の命で小寺姓を棄て、黒田の名乗りに戻っています。

    以後、官兵衛は秀吉の幕下にあって、天正九年六月に因幡国鳥取城を包囲し、同年七月に淡路・阿波(徳島県)を攻略、十一月には淡路由良城主安宅河内守を攻略し、淡路を平定しました。翌天正十年(158http://kojiyama.net/history/?p=119525)、毛利氏と雌雄を決せんとする秀吉に従って備中国に出陣しました。四月、清水宗治が守る備中高松城を包囲しました。ここで、官兵衛が秀吉に水攻めの策を献じたことから、史上有名な「備中の水攻め」となりました。

    ところが水攻めも大詰めとなった六月、本能寺の変で信長が光秀に殺害されてしまいました。この知らせを聞いた秀吉は放心の体でしたが、官兵衛は秀吉にそっと「上手になされませ」と囁きました。それを聞いた秀吉は、何もいわず官兵衛を見返したといいます。そのとき官兵衛は、さかしらな(利口ぶった)失言をなしたことを思い知ったのでした。

    ともあれ、毛利氏との和議が進められ、城将清水宗治が切腹することで高松城の戦いは終わりました。かくして、史上に残る秀吉の大返しが行われ、山崎の合戦で光秀を討った秀吉が天下取りに躍り出たのでした。その後も孝高は秀吉の帷幕にあって、賤ケ岳(しずがだけ)の合戦、小牧の戦いなど、秀吉の天下取りの合戦において多くの軍功をがげました。そして、天正十五年(1587)九州征伐の先陣をつとめ、戦後の行賞において豊前国内(福岡県東部)のうち六郡十二万石を与えられました。有名な「黒田節」
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戦国6 織田信長の躍進

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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織田信長の躍進

概 要

目 次
  1. 家督争いから尾張統一
  2. 桶狭間の戦いから清洲同盟へ
  3. 第一次信長包囲網
  4. 第二次信長包囲網

織田信長は、尾張統一を果たし、また徳川家康が独立して戦国大名となります。越前攻め、武田が滅び、安土城を築城。上洛を開始しました。織田軍団が全国制覇に動き出します。
但馬国では永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長の羽柴秀吉軍が羽柴秀長を指揮官に派遣。与力に藤堂高虎や宮部善祥房らを配属し、二回但馬攻めを行いました。

1.家督争いから尾張統一

 当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡の守護代であった「織田大和守家」当主にして清洲城主・織田信友が実権を掌握していました。
しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その秀でた智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していました。信秀の死後、信長が後を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により傀儡(かいらい)にされていた尾張国守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告しました。これに激怒した信友は、義統の嫡男・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。
このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君・義統を殺した謀反人として殺害します。
こうして尾張下四郡の守護代「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めました。織田氏の庶家であった信長が名実ともに織田氏の頭領となりました。叔父の信光も死亡しているが、死因は不明です。弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死しました。信長も道三へ援軍を出したが、間に合わなかったと言われています。こうしたなか、信長の当主としての器量を疑問視した織田氏重臣の林秀貞、林通具、柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた信長の同母弟・信勝を擁立しようとしました。これに対して信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、両派は対立します。

道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免しました。しかし、弘治3年(1557年)、信勝は再び謀反を企てます。このとき、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病いと称して信勝を清洲城に誘い出し殺害しました。

こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立しました。

2.桶狭間の戦いから清洲同盟へ

 織田信長は、尾張統一を果たした翌年・永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いののち今川氏を破り、今川氏の支配から三河国の徳川家康が独立して戦国大名となります。永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化していました。その際、信長は妹・市を輿入れさせました。永禄9年(1566年)には美濃の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳でした。このとき、井ノ口を岐阜と改称しています。また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになりました。

このころ中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立します(永禄の変)。久秀らはさらに義輝の弟・足利義昭の暗殺も謀ったが、義昭は細川藤孝、和田惟政ら幕臣の支援を受けて京都から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていました。

永禄11年(1568年)9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始しました。こうして、三好長慶以来中央政治を牛耳っていた三好・松永政権は、信長の電撃的な上洛によってわずか半月で崩壊し、代わって足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生しました。

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになっていくことになります。元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井長政に背後を突かれるかたちとなってしまいます。突然の窮地に追い込まれた信長であったが、殿(しんがり)を務めた池田勝正・明智光秀・木下(藤吉郎改め)秀吉・徳川家康らの働き(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れた。信長が京に帰還したとき、従う者はわずか10名ほどであったといわれています。

これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化しました。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成しました。対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川家康軍とともに浅井・朝倉連合軍と合戦する(姉川の戦い)。進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、帝の命をもって浅井・朝倉軍との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったといいます。

元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた延暦寺を焼き討ちにした。これは、浅井・朝倉連合軍に協力したことに対する報復であったとされている。
元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(のちの織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していました。しかし戦況は信長有利に展開し、8月には朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に降伏したという。
10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江、三河に侵攻(西上作戦)を開始する。これに対して織田・徳川軍も抵抗した。元亀4年(1573年)4月5日、正親町天皇から勅命を出させることによって義昭と和睦しました。4月12日、武田信玄が病死。これにより武田方は軍を返し、甲斐へ帰国しました。
信玄の死去によって勢いを得た信長は態勢を立て直した。そうして7月、叛旗を翻して、二条城や槇島城に立て籠もっていた足利義昭を破り、京の都から追放。これをもって室町時代に終止符を打った。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させました。
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3.第一次信長包囲網

尾張国を平定し、美濃国、伊勢国、近江国へと進出した織田信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、三河国の徳川家康と同盟(清洲同盟)し、畿内の平定や本願寺攻め(野田城・福島城の戦い)を進めていました。信長と義昭の関係は当初は良好でしたがしだいに険悪化し、元亀元年(1570年)に義昭は独自の外交を志向しはじめます。義昭は反織田勢力に呼びかけ、自身を盟主に織田家に反発する近畿地方の諸勢力を団結させ、包囲網が結成されました。同時期に、甲斐国の武田信玄は信濃を平定して領国を拡大し、信玄後期には外交方針が転換し駿河侵攻が行われていました。信長は美濃平定で武田領国と接していたため武田と誼を通じ、駿河侵攻に際しては将軍義昭に周旋して甲越和睦の調停を試みており友好路線をとっていましたが、駿河を平定した武田は甲相同盟を回復すると、元亀2年(1571年)10月には大規模な遠江・三河侵攻を行い織田・徳川連合との対立が決定的となります。

信玄には織田・徳川連合を駆逐して上洛意図のあったことが指摘されており、元亀3年(1572年)には西上作戦が開始されます。同年10月には三方ヶ原の戦いで家康を撃破し、さらに西上しました。同年12月に浅井長政の援軍として近江において織田軍と対峙中の朝倉義景が、突然本国への撤退を始めた。この撤退によって信玄がもくろんでいた織田軍分散計画は破綻。武田軍の進軍速度は極端に鈍りました。翌年3月には京都で将軍義昭が挙兵するものの信長に制圧され、4月には信玄が死去し、西上作戦は中止されました。

最大の脅威であった信玄が死去したことを知った信長は、一気に攻勢に出ました。信玄なき今、もはや信長と立ち向かえるほどの余力が残された勢力はなく、なすすべもなく各個撃破されていきました。こうして信玄の死から一年足らずで浅井・朝倉・三好といった勢力は信長に滅ぼされ、将軍足利義昭も京から追放されました。

4.第二次信長包囲網

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で攻め殺され、3月、信長は上洛して従三位参議に叙任されました。9月29日、兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出て、これを信長も了承しました。しかし、信興や信広という信頼する兄弟を殺された信長は、一揆衆の退去する動きが遅いこともあり、船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせることで攻略しました。しかし一揆側も激怒した一部が織田軍に襲いかかり、信長の弟・織田秀成らを討ち取りました。

さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒に対しては、城の周囲から包囲して討ち取りました。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって討ち取られたといわれています。この戦によって信長は長島門徒の反乱を治めることに成功しました。

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任します。

同11月28日、信長は嫡男・織田信忠に 織田家の家督ならびに美濃・尾張などの領地を譲って建前上隠居しました。しかし、信長は引き続き織田家の政治・軍事を執行する立場にありました。

天正4年(1576年)1月、信長は琵琶湖湖岸に安土城の築城を信長自身が指揮を執り開始します。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成しました。天主内部は吹き抜けとなっていたといわれています。イエスズ会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っています。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住みました。信長はここを拠点に天下一統(近年、俗に天下統一とも言う)に邁進することとなります。

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田家に具わっていました。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせました。これら信長配下の新設大名を「軍団」とか「方面軍」などと呼称する研究者もおり、今日では一般書でもかなり見かける記述となっています。もちろん当時はそのような名称はありませんでした。

織田方面軍団

  • 北陸方面:柴田勝家を方面軍総司令官として、与力に前田利家や佐々成政らを配属。
  • 中国方面:羽柴秀吉を方面軍総司令官として、指令官に弟羽柴秀長・藤堂孝虎、黒田官兵衛や蜂須賀正勝らを配属。
  • 畿内方面:明智光秀を方面軍総司令官として、与力に細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を配属。
  • 関東方面:滝川一益を方面軍総司令官として、与力に森長可や川尻秀隆を配属。
  • 四国方面:信長の三男・信孝を方面軍総司令官として、与力に丹羽長秀や蜂屋頼隆らを配属(天正10年結成)。
  • 対本願寺方面・佐久間信盛軍団
  • 東海道の抑えは徳川家康謙信の死後、御家騒動を経て後を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・織田信忠、滝川一益、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを(黒井城の戦い)、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備しました。
    織田軍は謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登・加賀を奪い、越中にも侵攻する勢いを見せました。天正6年(1578年)3月播磨の別所長治の謀反(三木合戦)が起こり、また、毛利は激しい抵抗を行い、同年7月、上月城は毛利の手に落ちて山中鹿之介ら尼子再興軍という味方を失います(上月城の戦い)。10月には摂津の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し、本願寺と手を結んで信長に抵抗します。一方、村重の与力であり東摂津を領する中川清秀、高山重友は信長に降伏しました。

    同年11月6日、第二次木津川口の戦いで毛利水軍が信長考案の鉄甲船6隻に大敗を喫し、孤立した石山本願寺と荒木村重は毛利の援助を受けることができなくなりました。このころから信長方は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、村重が妻子を置き去りにして有岡城から逃亡すると城は落城し、荒木一族の大半が処刑されました。次いで10月、それまで毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。翌・天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。同年4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田有利の条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨、但馬、天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めに追い込み因幡、さらには岩屋城を落として淡路を攻略しました。

    天正7年(1579年)、伊勢の出城構築を伊賀の国人に妨害されて立腹した織田信雄は独断で伊賀国に侵攻し、大敗を喫しました。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせました(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を再び総大将とし、6万の軍勢で伊賀を攻略。伊賀は織田家の領地となりました(第二次天正伊賀の乱)。

    天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の生母の築山殿に対し切腹を命じました。理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田勝頼への内通などです。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げましたが、最終的に家康は2人を自害させました(これに関しては異説もある)。

    天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦さに係る不手際を理由に追放処分としました。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放しました。

    出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
    「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
    「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
    武家家伝

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たじまる 戦国5 山名氏の内乱と家臣の台頭

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

山名氏の内乱と家臣の台頭

1.山名家の内訂

赤松勢に大敗北した蔭木合戦ののち、赤松政則と浦上則宗との間に妥協が成立、一枚岩となった赤松軍は勢力を増大、それまでの守勢から攻勢に転じるようになりました。そして、文明十八年正月、山名勢は英賀の合戦に敗北、垣屋遠続らが戦死しました。さらに同年四月、坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められた。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。窮地に陥った山名政豊は、但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の山名俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた山名政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となったのです。

この衰運を予言するかのように、文明十五年(1483)八月に播磨に勢力を回復した赤松政則を討つために此隅城(このすみじょう)から出兵しましたが、「出兵の翌日出石神社の大鳥居の横木が落ちて、前途の不安を皆の者が思いやりました。」と記録され、まさに山名氏の運命を暗示するような不吉な出来事でした。

但馬に逃げ帰った山名政豊に対して、但馬国衆はもとより、山名俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代を任されていた垣屋氏と、政豊の間の対立は深刻さを増していました。さらに、備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞ったようです。
明応の政変によって将軍足利義材が失脚。義材に従って河内に出陣していた山名俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが今度は政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となってしましました。

しかし、この山名政豊と山名俊豊父子の内乱は、確実に山名氏の勢力失墜を招く結果となりました。乱において政豊・俊豊らは、垣屋氏・大田垣氏ら被官衆への反銭知行権の恩給を濫発、みずから守護権力を無実化し、結果として垣屋氏・大田垣氏らの台頭が促したのです。とくに垣屋続成は俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として領国の経営を担うようになりました。

明応二年(1493)、山名俊豊は山名政豊の拠る九日市城を攻撃、どうにか俊豊の攻撃をしのいだ政豊は、逆に俊豊方の塩冶・村上氏を打ち取る勝利をえました。以後、政豊と俊豊父子の間で抗争が繰り返されました。

情勢は次第に政豊方の優勢へと動き、ついに山内氏の進言をいれた俊豊は備後に落去していきました。明応四年(1495)、政豊は九日市城から此隅山城に移り、翌年には俊豊を廃すると次男致豊(むねとよ)に家督を譲り、備後守護も譲ったことで山名氏の内訌は一応の終熄をみせました。

2.有力国人衆の離反

戦乱が続く中で、室町幕府は次第に衰退していき、将軍・守護らは徐々に力を失い、遂に家臣団・国人らが実力を持つ下克上の時代となりました。但馬国も例外ではなく、守護山名氏は実力が伴わない象徴的な存在となっていきました。その後、永正元年(1504)には、此隅城の山名致豊(むねとよ)と重臣田結庄方に対抗して重臣の垣屋氏が反旗をひるがえし、八月から九月中旬にかけて戦いが続き、出石神社のあたりまで戦場となり、社殿や寺まで戦火にあって焼けてしまうという事件が起こり、永正三年(1506)六月になって将軍足利義澄(よしずみ)の仲介で和解しました。

永正九年(1512)には致豊(むねとよ)は出家して宗伝と号し、誠豊(のぶとよ)を惣領として、十八年間国中の政治を任せ、致豊の次男祐豊(すけとよ)を但馬守護にしましたが、この頃はかつての山名氏の威勢は全くなく、わずかに但馬一国を守るのがやっとのありさまでした。

垣屋続成の台頭は致豊との対立を誘発、やがて両者は対立関係となりました。永正元年(1504)、出石郡坪井の山名氏を垣屋氏が襲いました。この時、出石神社が兵火のために火災に遭っています。垣屋続成に此隅山を攻められましたが、和議が成立して最悪の事態は回避されたものの山名氏の衰退は決定的でした。さきの蔭木合戦の敗退、政豊と俊豊父子の内訌、有力家臣の自立によって、山名氏は戦国守護大名の地位が閉ざされたといえるでしょう。

政豊の子、致豊(やまな おきとよ)が継ぎますが、1512(永正八)年、「山名四天王」と呼ばれる太田垣氏・八木氏・田公氏・田結庄氏ら有力国人衆に離反を起こされてしまいます。山名四天王は致豊の弟山名誠豊を擁し、但馬国において強い影響力を及ぼすようになりました。山名氏の衰退とともに独立色を強め、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。。

3.但馬山名氏と因幡山名氏の対立

永正九年(1513)、致豊(おきとよ)は弟の誠豊(のぶとよ)に但馬守護の家督を譲りましたが、これは垣屋・太田垣氏らの策謀によるもので、致豊にとっては不本意な引退でした。家督となった誠豊(のぶとよ)は、権力基盤を強固にするため、因幡山名氏の内政に介入しました。そして、因幡国守護山名豊重の排除を策し、豊重の弟豊頼を援助して豊重を布施天神城に討ち取りました。誠豊をうしろ楯てとして因幡山名氏の家督となった豊頼でしたが、こんどは豊重の子豊治の攻勢を受け、永正十二年(1515)には豊治が因幡守護となっています。豊治は妹を将軍足利義材の側室に送り込むなど、守護権力の強化を図り誠豊と対立しました。両者の抗争は繰り返され、誠豊は豊頼の子誠通(のぶみち)を応援して豊治と対抗させました。

大永二年(1522)、播磨国守護赤松氏と重臣浦上氏の擾乱で揺れる播磨に侵攻しました。ところが、赤松政村と浦上村宗が和睦して山名勢に対したため、敗れた誠豊は翌年に播磨から撤退せざるをえませんでした。この播磨出兵の失敗は、誠豊の権力後退につながり、「山名四天王」の垣屋氏をはじめ太田垣・八木・田結庄氏らの台頭がますます促されました。一方で因幡において誠豊と対立していた豊治がにわかに急死したことで、誠通が因幡守護に収まりました。なんとか因但を支配下においたかに見えた誠豊(のぶとよ)でしたが、大永八年(享禄元年=1528)、死去しました。誠豊のあとは、致豊の長男祐豊(すけとよ)が継ぎ、但馬守護に任じました。
祐豊(すけとよ)は、山名致豊(おきとよ)の次男として生まれ、致豊の弟で但馬の守護を務めていた山名誠豊(のぶとよ)の養子として入り但馬守護を継ぎます。

天文11年(1542)、「銀山旧記」によると、山名祐豊(すけとよ)が生野銀山を支配し生野平城を築き盛んに操業しました。生野鉱山が発見されたのは807年(大同2年)と伝えられていますが、詳しい文献資料がなく、正確な時期は不明です。

祐豊は、此隅山城(このすみじょう・豊岡市出石町)を本拠にすると因幡進出を企図しました。しかし、祐豊(すけとよ)にしてみれば誠豊が擁立した誠通は、父致豊を引退に追い込んだ誠豊派であり許し難き存在でした。後楯を失った誠通は、祐豊に対抗するため出雲の尼子晴久と結ぶと、名を久通と改めました。因幡国衆もまた誠豊の死によって但馬からの自立を願い、これを糾合した久通が天神山城(鳥取県)で兵をあげました。以後、但馬山名氏と因幡山名氏の間で戦いが繰り返され、天文十五年(1546)、久通は多治見峠において討死しました。

久通を討ち取ったのち、祐豊は因幡の残敵勢力の掃討戦を行いました。そして、弟豊定を因幡に派遣、豊定は天神山城に入ると因幡の支配にあたりました。その後、豊定の子豊数は武田氏の攻撃を受けて敗北、天神山城から退転、中務太夫豊国が因幡守護となりました。

生野銀山と太田垣氏

戦国末期に至り、ついに太田垣輝延、垣屋・八木・田結庄ら山名の四天王は但馬の有力国人衆とはかって守護山名致豊(いたとよ)に離反し、誠豊(まさとよ)を擁立して但馬の領国経営の実権を握りました。以後、垣谷光成・八木豊信・田結庄是義ら四頭が割拠し但馬を四分割しました。
天正三年(1575)、信長の指令を受けた羽柴秀吉が中国征伐を進めると、太田垣輝延は八木豊信・垣屋豊続を擁立して毛利氏の吉川元春と「芸但和睦」を結び、秀吉に対抗しました。しかし、結局は秀吉によって没落の憂き目となりました。輝延以降の系図は残っていないようです。

生野銀山は、山名氏支配の時代が約十五年の間続いたのですが、弘治二年(1556)、朝来郡を任された家臣である太田垣朝延の反逆によってこの城塞を占領され、銀山の経営を奪われることになって、祐豊は本城である有子山城(出石城)に追われてしまったのです。それ以後朝延は、自分の家臣を代官としてこの城に駐在させて銀山経営にあたり、秀吉の但馬征伐までの永禄・元亀時代の約二十年の間を自分のものとして続けてきました。
それからは実権が徳川幕府に移り、滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、鉱政庁として利用されていました、そして明治維新の改革で明治二年(1869)に生野県がおかれた時、その役所としてこれまでの代官所に使用されていた館などがそれにあてられました。

しかし、同四年廃県となった時に、この由緒ある建物は払い下げて売られ、取り壊して何一つなくなり、ただ石垣と外堀だけが昔を偲ぶ城跡として残っていました。しかしながら、史跡を守り文化財を重要視する現代と違った大正時代に、この生野の歴史的価値のある平城を惜しげもなく取り崩し、埋め立てて宅地に造成するなどによって、その存在した事実さえ知らないというのが、この城にまつわる物語であります。

4.但馬争乱と八木氏

因幡と但馬のあいだを結ぶ山陰道が通じる養父郡は、重要な要衝です。その養父郡を統治していた八木宗頼には長男遠秀を頭に四人の男子がありました。遠秀は山名持豊に仕え、「忠にして孝、武にして文、修斎治平の才」に恵まれた武士でしたが、文明元年(1469)六月、二十七歳で早世しました。そして、宗頼のあと八木氏を継いだのは豊賀でした。延徳三年(1491)八月、山名俊豊が上洛したとき、従した武士に八木氏が見られますが、豊賀であったと思わされています。豊賀も早世したようで、その弟で三男貞直が家督を継ぎました。貞直は、兄豊賀の生存中は僧門にあったようで、その卒去により還俗して、八木氏の家督を継いだようです。明応六年(1497)に小佐郷内の田一反を妙見日光院へ寄進していることが史料に残されています。

四男が宗世で、一説によれば、この宗世が宗頼の家督を継いだともいい、惣領が名乗る受領名但馬守を称しています。しかし、その息子誠頼は八木氏の家督を継ぐことはかなわなかったらしく、八木氏の家督は誠頼の従兄弟にあたる直宗(直信?)が継いだようで、直宗が但馬守を称しています。

戦国時代の永正九年(1512)、八木豊信は垣屋・太田垣・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁しました。以後、八木豊信と垣屋光成・太田垣輝延・田結庄是義らが但馬を四分割するようになりました。

国道9号線但馬トンネルを出て左に、頂上が平らになった山が見えます。大谷川と大野川に挟まれたこの山に中山城の跡があります。本丸、二の丸、三の丸を堀割で区切り、石垣を積み、規模は小さいですが整った城で、堀切も十㍍に及ぶものが数カ所も残っています。
鎌倉時代には菟束(うづか)氏が、南北朝のころは上野氏の城となり、のち八木氏の支城となり天正五年(1577)秀吉の山陰攻めによって落城し、因幡の国に逃げたのですが、用瀬(もちがせ)の戦いで滅んだそうです。立派な城にしては残っている話が少ない城のひとつです。

5.明智光秀と水生(みずのお)城

『但馬の城ものがたり』という書物によれば、昭和50年現在において確認されている但馬の城の数は、215だそうです。この中には徳川時代の陣屋も加えられていますが、まだ未確認の山城もまだあるだろうといわれています。日高町内では20で、但馬の中では数は少ないというものの、但馬史に関係する重要な城がいくつか含まれています。

水生(みずのお)城


豊岡市日高町上石字水生

散り椿で有名な水生山長楽寺の裏から山頂に至る間に、数カ所の平坦地があり、頂上近くや頂上に伸びる尾根に堀割があります。南北朝のころ、長左右衛門尉が居城したと伝え、戦国期には初め榊原式部大輔政忠が居し、ついで西村丹後守の居城となったらしい。天正八年(1580)、秀吉の武将、宮部善祥房らの強襲を受けて廃城となります。

水生城の攻防戦は、毛利党の轟城主、垣屋豊続が打った一大決戦でした。秀吉の勢力が延びると共にいくつかの小競り合いが行われました。天正八年(1580)4月18日には、秀吉勢と竹野衆とが水生城で交戦し、この時竹野衆が勝ったといいます。

水生城は、標高百六十メートルの山頂に至る間に構築された城で、東は険しく、北は切り立つ岩、西の尾根づたいには深い堀割が作られていて、まさに要害の地でした。眼下には広々とした高生平野(たこうへいや)が広がり、その昔、政治の中心地として、但馬一円の政務を執り行った国府の庁や国分寺の当たりもここから一望できます。

円山川の本流は、当時は土居の付近から水生山麓にかけて一直線に北流していた時期があったらしく、北へ流れる円山川のはるか彼方には、山名の本城出石の有子山の城を見ることができ、当時の戦争の仕方から考えて、たいへん大事な城であったことがうかがわれます。
この城は、遠く南北朝のころ造られたもので、南朝に味方した長左衛門尉がいた城として知られています。

その後約二百年あまりは、残念ながら誰の居城であったのか明らかではありません。
ところが、大永年中、丹波福知山の城主、明智日向守光成(後の光秀)が、出石の此隅山(こぬすみやま)の城が虚城であることを聞いて登尾峠(丹波・但馬境)を経て、有子城(出石城)を攻撃しようと考えました。そこで陣代として大野統康・伊藤次織・伊藤加助の三名を軍勢を添えて出石表へ差し出しました。やがて但馬に進入した彼らは、進美寺山(しんめいじざん)に「掻上の城(かきあのげじろ)」を築いて居城し陣を布きました。

その頃の出石の山名氏の勢力は日に日に衰えていく有様でした。しかも中央では、織田信長が天下の実権を握り、その上家来の羽柴秀吉が近々に但馬にせめて来るという噂も高くなったので、山名氏の四天王といわれた垣屋等の武将も、さすがに気が気でありませんでした。

一方、進美山掻上の城に陣取った大野・伊藤の両勢は、軍を揃え、出石・気多の郷士たちを競い合わせ準備を整えました。そして、永禄二年(1559)八月二十四日、西村丹後守の居城水生城を攻撃してきました。この城には前後に沼(円山川から満潮時には潮が差す)があって、自然の楯となり、左側は通れないほど険しい天然の構えとなり、攻め落とせそうにもないので、ひとまず善応寺野に陣取って遠攻めの策をとりました。この時伊藤勢の中に河本新八郎正俊(気多郡伊福(鶴岡)の郷士であり、この家は今も続いている)という豪傑がいました。陣頭に出て大声で敵の大将をさそったので、城中からもこれに応え、服部助右衛門という武者が名乗りを上げて出てきました。ふたりは違いに槍を交えてしばらく争っていましたが、新八郎の方が強く、ついに服部を倒し首級(しるし)をあげました。

明けて二十五日、伊藤勢はふたたび城近く攻め寄せていきました。城中にあった兄の服部左右衛門は、弟を無念に思い、攻めてくる敵軍を後目に城中から躍り出て大音声に、「新八郎出てこい。きょうは助右衛門の兄左近右衛門が相手になってやる、ひるむか新八郎!」とののしりました。新八郎は「心得たり。」と、これに応じて出てきました。ふたりは間合いを見計らって、ともに弓に矢をつがえました。新八郎はもともと弓の名人でもあったので、ねらいを定めて「ヒョー」と放つ矢は見事に左近右衛門を射止めました。この三度の戦いの活躍に対して新八郎は明智光成から感状(感謝状)をもらいました。この感状は今も河本家に残っています。

八月二十八日には、丹波勢が攻め寄せましたが、城の正面大手門の方には大きな沼になっていてなかなかの難攻でした。城中はしーんと静まりかえり、沼を渡って攻めてきたならと待ちかまえています。攻めての大野勢の中で伊藤七之助という者は搦め手から攻めようとして竹貫から尾根づたいにわざと小勢を引き連れ迂回作戦に出ました。

ところが城内の武将「宿院・田中」という家来で、竹貫・藤井などから来ている兵士の中に、中野清助という人がいました。清助は伊藤七之助を遠矢で見事に射ました。この怪力に恐れをなした丹波勢は慌てふためき、この日の城攻めは中止にしました。
大野統康・伊藤加助は無念の歯ぎしりをし、城攻めにあせりを見せ総攻撃をはかり、竹や木を切らせ、沼に投げ入れて沼を渡ろうとしました。しかし、城内から見すましていた城兵は「すは、この時ぞ。」とばかりに、木戸を開けて討って出ました。大沼を渡ろうとしている大野・伊藤勢をここぞとばかりに射かけたので進退きわまり、たまたま沼を渡りきった者たちは山が険しくて登ることができず、逆に退こうとしても沼が深くて思うに任せず、城内からはさらに新手を繰り出し寄手をしゃにむに攻め、櫓からは鏑(かぶら)を構えて、射たてているところに「ころはよし。」と、大将西村丹後守みずから討って出たので、寄せ手は這々(ほうほう)の体で敗走してしまいました。

掻き揚げ城(かきあのげじろ)…掻上げ城とも書く。堀を掘ったとき、その土を盛りあげて土居を築いた堀と土居だけで成る臨時の小規模な城郭。
出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

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たじまる 戦国1 応仁の乱以後の但馬

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

応仁の乱以後の但馬

戦国時代(1467~1568)、但馬の守護大名である山名氏の中でも、親と子、主君と家来同士の間で、血なまぐさい合戦があちこちで行われています。
応仁の乱ののち山名の勢力は急速に衰え、国内にも分裂が起こり、文明十三年(1481)九月にはいったん但馬に引き上げます。また但馬のほか備後・美作・播磨・因幡の守護を兼ねておりましたが、しだいに備後・美作・播磨から撤退していきました。

戦国時代はとても貧しい時代でした。天災による被害で飢饉もあちらこちらで見られました。当然、合戦(乱取り)による飢餓と餓死、それによる疫病も蔓延していました。そのため領主が領主でいるためには、自国領内の庶民をある程度満足(満腹といってもいいかも)させる必要があったのです。それが出来ないと一揆が起きたり、または隣国の比較的条件のいい領主に鞍替え(離散)をされてしまうからです。
それを防ぐ手立ての一つが”戦”だったのです。戦に勝てる強い領主は庶民の信頼得ることができたのです。
戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かったのです。税として兵役を課したのですが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになったようです。 しかし、信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思われますが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようです。また、専属の兵隊も組織したようです(兵農分離)。京も堺も商人の町で当時の大都会ですから、そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのでしょう。

応仁の乱と太田垣氏

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太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、但馬国の播磨・丹波からの入口に位置する竹田城が太田垣氏代々の居城となりました。

応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊(宗全)に従って太田垣氏も出陣しました。応仁二年三月、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、太田垣宗朝(むねとも)の弟新兵衛(宗近?)を留守将として竹田城を守らせていましたが、その守備は手薄でした。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、山名の領地である但馬国は、東軍の丹波守護細川氏や播磨の赤松氏にとって、侵攻するのに好都合な状態でした。
そして、長九郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入したのです。かくして、細川方は、一品・粟鹿・磯部(いずれも朝来市山東町)へ攻め入りました。この時、竹田城留守将太田垣新兵衛は、楽音寺に陣を取っていましたが、一品に攻め入った敵は葉武者と見抜いて、これにかまわず磯部へ兵を進めました。細川方の内藤軍は東河(朝来市和田山町)を進発し、かれらが民家を焼き払った煙が山の峰から尾に立ちのぼっていました。それを見た太田垣軍は夜久野の小倉の氏神賀茂宮の山に立って眺めると、内藤軍が魚鱗の陣形に布陣しているのが見えました。

その大軍に対して、小勢の太田垣新兵衛を大将とする山名方の諸将は、一瞬、攻めかかることを躊躇しました。しかし、大将太田垣新兵衛・行木山城守らは陣頭に立って、鉾先をそろえて打ってかかりました。その勇猛果敢な突撃に内藤軍が陣を乱したところを、太田垣軍はさらに襲いかかりました。

敵将内藤孫四郎・長九郎左衛門らも踏み止まって奮戦しましたが、討死してしまいました。大将が討死したことで、夜久野の細川方の軍勢は散り散りになり、東河へ攻め入っていた者らも、我先にと敗走しました。さらに、粟鹿・一品に攻め入った者達もこれを見てたまらず逃げ失せてしまいました。山名方の大勝利でした。これを世に「夜久野の合戦」と呼ばれています。

合戦に勝利を得た太田垣新兵衛は、勝報を京都西陣の山名宗全へ注進したところ、宗全は大変感激して、身に着けていた具足に御賀丸という太刀を添えて太田垣新兵衛に与えました。この太刀は宗全が足利義満より下賜された宝刀であり、新兵衛は大いに面目をほどこしたのでした。応仁の乱以後も、太田垣氏は山名氏に仕え、垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名四天王と呼ばれる存在となり、但馬の勢力を培っていきました。

竹田城(たけだじょう)


兵庫県朝来市竹田

  • JR播但線竹田駅からタクシーで約10分または徒歩で約50分
  • JR山陰本線和田山駅からタクシーで約20分
    道路
  • 播但連絡道路・北近畿豊岡自動車道和田山ICより約10分

中世山城。縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっています。東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭があります。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流石積みの技法(野面積み技法)が用いられています。廃城から約400年を経ていますが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として全国屈指の規模となっています。

竹田城は、但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設されました。築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441~43年)と伝えられています。当初は土塁造りの城郭でしが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となりました。修復には13年の年月を要し、竹田城は標高353.7mもある山上に、今のように機械があっても大抵のことではないのに、人の肩と手と足で五百年も昔では、考えることもできない大工事だったのでしょう。

山名氏のもとでは明徳の乱・応永の乱に活躍して、山名四天王のひとりとして台頭してきた太田垣氏が配されました。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けますが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に細川方を撃退しました。

「竹田城跡」周辺

寺町通り

古城山のふもと、4カ寺と表米神社が並ぶ約600メートルの区間は「寺町通り」と呼ばれ、歴史散策路として親しまれています。白壁の塀や錦鯉が泳ぐ小川、松並木、小川沿いと虎臥城公園に植栽された約3000株の花しょうぶなどが目を楽しませてくれます。

表米神社(ひょうまいじんじゃ)

祭神は格技を好んだという表米宿弥命。表米は日下部氏族太田垣氏の祖。参道横の広場に相撲桟敷が設けられています。これは全国でも珍しい半円形石積段型桟敷で、正面には舞台もあり、歌舞伎なども上演されたのではと考えれられています。
法樹寺

竹田城最後の城主赤松広秀の菩提寺です。赤松公は文人としても優れ、領民から慕われる武将でしたが、関ヶ原の合戦で西軍に属し敗北。その後、鳥取城攻めで城下に火を放ったとされ、自刃しました。境内の裏手に墓碑が祀られています。

常光寺

山名宗全の四天王の一人であり、竹田城の初代城主、太田垣光景の菩提寺。光景公の墓碑とされる石塔が残っています。
「竹田城跡」周辺については朝来市ページより

(余談ながら拙者の母方は、赤松と共に宍粟郡三日月村中島より移った竹田赤松氏家老で、養父郡大塚庄を領し後に帰農した中島重右衛門と伝わっています。)

生野城

生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられています。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。

この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれています。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。

この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていました。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

赤松氏との抗争

宗全の死後、家督は山名政豊が継いだものの、宗全死去や応仁の乱などによって一族の勢力は急速に衰退していきました。戦後の山名氏は存続こそ許されたものの、時義の子・山名時熙の但馬守護職、同じく時義の子・氏幸の伯耆守護職のみとなります。

領内では毛利次郎の乱をはじめとする国人による反乱が相次ぎ、家督をめぐる一族内部での争いが始まりました。さらに出雲の尼子経久、周防の大内義興、備前の浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に領土を奪われて、政豊の子・山名誠豊の時代には、誠豊が但馬、山名豊時の孫・山名誠通が因幡をかろうじて支配するという状態に陥りました。しかも、これを契機に山名家は但馬守護家と因幡守護家に分裂し、互いが宗家の家督をめぐって争う有様でした。

文明十一年(1471年)、赤松政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出しました。政則は山名氏の分国因幡の有力国衆毛利次郎を援助して、山名氏の後方攪乱をはかりました。毛利次郎は因幡一国を席巻し、山名氏にとって看過できない勢力となっていました。

赤松政則は、山名氏の分国である因幡・伯耆の有力国衆を抱き込んで山名氏への反乱を起させました。因幡では私部城に拠る毛利次郎が赤松氏に通じ、他の国衆も毛利次郎に加わって反乱は内乱の状況を呈しました。因幡の状況を重くみた政豊は但馬に帰国すると、ただちに因幡に出撃し、守護山名豊氏とともに毛利次郎を因幡から追放しました。ところが翌年、伯耆国で南条下総入道らが政則に通じて伯耆守護山名政之から離反、一族の山名元之とその子小太郎を擁して兵を挙げました。政豊は政之を応援して出兵、反乱は文明十三年に及びましたが、元之らを追放して内乱を鎮圧しました。

赤松政則の策謀による因幡・伯耆の反乱に手を焼いた政豊は、政則の介入を斥け、播磨の奪還を目指して出兵の準備を進めました。一方、政豊の嫡男で備後守護の俊豊は、父に呼応して備前から播磨への進攻を狙いました。俊豊は備前の有力国衆松田氏元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城(備前)を攻撃しました。松田一族は一敗地にまみれたものの、俊豊は太田垣氏らの兵を率いて備前に進撃しました。かくして、但馬の政豊は俊豊の動きに合わせて、播磨へ向けて出陣すると、国境の生野に布陣しました。

ときに京にいた赤松政則は、ただちに播磨に下向しましたが、生野方面と福岡城方面との両面作戦を迫られました。重臣の浦上則宗は備前福岡の救援を説きましたが、政則は生野方面を重視し、主力を率いて生野へと出陣しました。両軍は真弓峠で激突、結果は山名方の大勝利で、敗走する赤松軍を追って播磨に雪崩れ込みました。政則の敗報に接した福岡城救援軍も播磨に引き返したため、福岡城の守備兵は四散しました。戦後、赤松政則は播磨を出奔、浦上氏ら重臣は政則を見限って赤松一族の有馬氏から家督を迎えました。ここに、山名氏は播磨・備前を支配下に置き、垣屋氏、太田垣氏らを代官に任じて播磨の支配に乗り出しました。

政則が出奔したあとの赤松軍は浦上則宗が中心となり、備前方面で山名軍と泥沼の戦いを展開しました。山名氏が備前方面に注力している隙を狙って、文明十七年(1485)、細川氏の支援を得た政則は播磨に帰国すると旧臣を糾合、垣屋一族が守る蔭木城を急襲しました。不意を討たれた垣屋勢は 越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った一族が討死する大敗北を喫し、辛うじて城を脱出した田公肥後守が書写坂本城の政豊に急を報じました。蔭木城の陥落は、赤松政則の動きにまったく気付いていなかった政豊の油断であったのです。

出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

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