丹後の古墳 竹野川流域の古墳群

丹後半島最北端経ヶ岬

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後国旧中郡(大宮町、峰山町)と、旧竹野郡(弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、丹国(古丹波)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

竹野川流域の古墳群

丹後町平海岸にある平遺跡(へいいせき)は、縄文時代前期から中期・後期・晩期にわたるものと判明し、深さ約4mにもおよぶ砂丘の包含層から多量の土器や石器が出土しました。一説では丹波という国名の由来ではないかいわれている峰山町丹波の湧田山(わきたやま)古墳群は、丹波と矢田の字界の丘陵上に立地し、大型前方後円墳を盟主とし、大小の円墳を主体として構成される総数約42基からなる丹後地方屈指の古墳群です。当古墳群は、発掘調査が実施されないため、内容については不明ですが、同志社大学考古学研究会の行った地形測量調査によると、一号墳は、全長100メートルに及ぶ帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました。

竹野川流域では、弥栄町の黒部銚子山古墳とともに、丹後町神明山(しんめいやま)古墳に次ぐものであり、丹後の古代豪族の勢力等を知る上で重要です。5世紀の初めころに築造された古墳とされ、ただし、墳形からもう少し古い古墳ではないかという説もあるようです。 むしろ日本海側竹野川流域の地域で栄えていたのが丹波の中心地であったのかも知れません。

丹後半島の最東北部に位置する丹後町では、神明山古墳(丹後町宮小字家の上)、産土山古墳、横穴式石室を内部主体とする片山古墳、大成古墳群、金銅装双龍環頭太刀柄頭が出土した高山古墳群などがあります。

大宮町は、丹後大宮のひとつ大宮売(おおみやめ)神社と周辺からは古代弥生時代の頃からの遺跡が多数見つかり、女王墓と確認された大谷古墳、丹後では最大規模の石棚を持つ横穴式石室の新戸古墳、弥生時代からの方形台状墓を持つ小池・帯城の古墳群などが残されています。

丹後最大級の円墳であるカジヤ古墳(峰山町大字杉谷小字カジヤ)は、長径約73メートル、短径約55メートル、高さ約9メートルの楕円形の墳丘を持つ円墳でした。昭和47年2月に土木工事に伴って峰山町教育委員会によって発掘調査が行われた結果、竪穴式石室一、木棺直葬三の合計四つの主体部と多くの副葬品が発見されました。副葬品は第一、三、四主体部から検出され、特に第一主体部の副葬品は質量ともに群を抜いており、この古墳を築く上での中心的人物と思われています。

副葬品は銅鏡・鉄器類・玉類・石製腕飾類等からなりますが、特に注目されるのは鍬形 石、車輪石、石釧等の石製腕飾類が一括して出土したことは、丹後地方では初めての例です。畿内との交流を深めつつあった古墳時代前期における当地方の有力者の遺品としてその資料的価値はきわめて高い。
また京丹後市峰山町赤坂の赤坂今井墳丘墓は、弥生時代後期としては国内最大級の墳墓であり、世界で2例目となる中国の顔料「漢青」(ハンブルー)が含まれたガラス管玉が出土するなど古代中国との交流をうかがわせる内容で、鉄(銅)製武器や工具類、玉類が同時期の他地域の墳墓に比べ非常に多く副葬されていることも注目されます。

赤坂今井墳丘墓は、ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」や垂下式の豪華な「耳飾り」が発見されました。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた人物の頭を取り巻くように並んでうことから、頭を飾る宝冠のようなものと推測されています。このような玉類を使った頭飾りの出土は、国内や中国・朝鮮半島でも例がありません。また、この古墳の被葬者が埋葬された時期は、邪馬台国の卑弥呼の時代と重なります。

他にも、両袖式横穴式石室の桃谷古墳(峰山町)、弥栄町では、府内では例をみなかった装飾付水さしと角杯形土器が出土した大耳尾古墳群、ニゴレ古墳、さらに1994年、日本最古の魏鏡と一躍全国に名をはせた弥栄町と峰山町にまたがる太田南古墳など、有名・無名を問わず数え切れない多くの古墳が存在しています。

神明山古墳(しんめいやまこふん)

【国指定史跡】 京都府京丹後市丹後町大字宮

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています。

かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。

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【丹国の歴史】(24) 丹国と鉄資源

丹波と鉄資源

大和(奈良)に中央王権を開始した祭祀王国のヤマト王権がどこと手を握ったかといえば、まず丹国です。
昔の丹波(丹国)には但馬と丹後が含まれていたのですが、“鉄の国”にふさわしいのは丹後です。ヤマト王権にすれば、丹波と握手したのは鉄製の農具や武器を手に入れるのがねらいでしょう。門脇禎二氏は、丹波王国は大和の勢力とは対等の力関係にあったと説いています。

ヤマト王権は婚姻によってじわじわと丹波へ触手を伸ばしていきます。くわしくは下記の垂仁天皇で触れますが、その一例が垂仁の妻となった日葉酢媛命(ひばすひめのみこ)です。彼女の父は、崇神に任命された四道将軍の一人、丹波道主命(たにわのちぬしのおおきみ)でした。
それは卑弥呼の流れを汲む祭祀中心の王権であるということです。

丹波国は、ヤマト王朝の畿内に接する山陰道最初の国で、朝鮮半島に最短距離で往来でき、早くから開化天皇の妃・竹野媛(たかのひめ)の出身地としてすでに記紀に名が見えています。

鉱山としての大江山(大江山ニッケル鉱山と河守鉱山)

大江山の位置する丹波・丹後地方は古くから大陸との交流が深く、渡来人は高度な金属精錬技術により大江山で金工に従事、多くの富を蓄積していた、これに目を付けたヤマト王権の勢力は兵を派遣、富を収奪し支配下に置きました。多分このような出来事が元になり自分達を正当化、美化しようとの思いから土蜘蛛退治や鬼退治伝説が生まれたのではないかとする説と同時に 、渡来人が寄り集まって山賊化して非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もあります。

小倉百人一首には「大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」(小式部内侍)という歌があります。ここでの大江山は京都市西京区の大枝山をかけているとの説もあります(生野は丹波路でみると福知山市生野で、まだ生野には遠いと歌っているので)。

大江山は、地質学的には地球の深部から隆起した地層で超塩基性の岩盤。金属鉱脈が豊富で周辺には金屋など金属にまつわる地名が多く見られました。1917年に鉱床が発見され、1933年から太平洋戦争末期にかけて兵器に不可欠なニッケルを確保するため大江山から採鉱されました。日本海に面した岩滝町の精錬場まで専用鉄道(加悦鉄道)で輸送し、精製しました。

『日本書紀』において鬼の烙印を押された物部、蘇我、伽耶、新羅を結ぶ共通点、鬼退治伝説が残る丹後と桃太郎伝説が残る吉備はどちらも伽耶色が強い。与謝野町加悦、豊岡市加陽

3つの鬼退治伝説

大江山(おおえやま)は京都府丹後半島の付け根に位置し与謝野町、福知山市、宮津市にまたがる連山。標高833m。別称、大枝山・与謝大山・千丈ヶ嶽といいます。酒呑童子伝説で知られています。また、雲海の名所としても知られています。これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃坑となった銅鉱山跡に1993年大江町(現在は福知山市の一部)によって日本の鬼の交流博物館が作られました。2007年(平成19年)8月3日には丹後天橋立大江山国定公園として国定公園にも指定されています。
大江山には3つの鬼退治伝説が残されています。

一つは、古事記に記された崇神天皇の弟 日子坐王(ひこいますのみこ)が土蜘蛛 陸耳御笠(くぐみみのみかさ)を退治したという話
二つめは聖徳太子の弟 麻呂子親王が英胡、軽足、土熊を討ったという話
三つめが有名な酒呑童子伝説です。
そして鬼退治伝説の立岩があります。
なお、酒呑童子の本拠とした「大江山」は、この丹後の大江山であったという説のほかに、京都市西京区にある山城国と丹波国の境、山陰道に面した大枝山(おおえやま)という説もあります。
丹波と丹後・但馬がまだ分立せず「大丹波(丹国)時代」といわれた古代、この地方は大陸の文化をうけ入れ、独自のすぐれた古代文化をもっていました。
しかし、平安京が政治の中心となってから、この地方は、都に近い山国として、日本の歴史の中で、王城の影の地域としての性格を色濃くにじませるようになります。
隠田集落であると伝承する山里が散在することは、そのことを如実に物語っているといいます。また、王朝時代、大きな役割を果たした陰陽道(おんみょうどう)で、乾(北西)は忌むべき方角とされましたが、当地は都の乾の方角に当たっていたのです。

酒呑童子や羅生門の鬼に代表されるように、京の都に出没する鬼は、王権を脅かす政治的な色合いの強い鬼であります。天皇が勅命を下し、武将に鬼を退治させる物語―それは、王権が自らの権力を誇示し、その物語を通して王権を称掲する手段にしようとして、つくり出したものではなかったのでしょうか。あるいは、中世に入り、地に堕ちた王権を支えようとした人々の願望としての王権神話ではなかったのでしょうか。大江山―ここに鬼退治伝説が三つ残されていることは偶然ではないのかもしれない。丹後の海を見ているとそんなロマンが感じられてきます。  これは能の演目、大江山(五番目物の鬼退治物)にもなっています。これらの伝説にちなみ、大江山の山麓にあった廃坑となった銅鉱山跡に1993年日本の鬼の交流博物館が作られました。

1.大江山の鬼伝説(その一)

「陸耳御笠(くがみみのみかさ)-日子坐王(ひこいますのみこ)」
大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠(たんごふどきざんけつ)」[*1]に記された陸耳御笠[*2]の伝説です。
青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王(ひこいますのみこ)[*3]の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものです。
崇神(すじん)天皇の時、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)・匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛(つちぐも)[*4]がいて人民を苦しめていました。

日子坐王(ひこいますのみこ)が勅命を受けて討ったというもので、その戦いとかかわり、鳴生(舞鶴市成生・ナリウ)、爾保崎(匂ヶ崎)、志託(舞鶴市志高・シダカ)、血原(福知山市大江町千原・センバラ)、楯原(福知山市大江町蓼原・タデワラ)、川守(福知山市大江町河守・コウモリ)などの地名縁起が語られています。

このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいです。
これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路・アリジ)の血原(千原)にきてここで匹女を殺した。

この戦いであたり一面が血の原となったので、ここを血原と呼ぶようになりました。
陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げてしまいました。そこで日子坐王の軍勢は楯(たて)をならべ川を守りました。これが楯原(蓼原)・川守(河守)の地名の起こりです。

陸耳御笠は由良川を下流へ敗走しました。このとき一艘の舟が川を下ってきたので、その船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へ来ましたが、ここで見失ってしましました。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占(石浦)といい、この舟は楯原(蓼原)に祀りました。これが船戸神(ふなどのかみ)[*5]です。

[考察] 陸耳御笠(くがみみのみかさ)は、何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。
陸耳御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、福井県から兵庫県・鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されています。
一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としているといわれます。
「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。
[*1]…「丹後風土記残欠」とは、奈良時代に国別に編纂された地誌である 8世紀に、国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
[*2]…陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
[*3]…日子坐王とは崇神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたる。
[*4]…土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、大和国家の側が、征服した人々を異族視してつけた賎称である。
[*5]…衝立船戸(ツキタツフナト)神。境界の神。民間信仰における道祖神に相当する。「フナト」は「クナト」を古名とする記述から、「来(く)な」の意。「ツキタツ」は、杖を突き立てて「ここから来るな」と告げた意。

2.大江山の鬼伝説(その二)

麻呂子親王(まろこしんのう)の鬼退治
用明天皇の時、河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま)という三鬼を首領とする悪鬼が集まり庶民を苦しめたので、天皇は麻呂子親王(まろこしんのう) に征伐を命じた。
命をうけた親王は、七仏薬師の法を修め、兵をひきいて征伐にむかった。その途中、篠村のあたりで商人が死んだ馬を土中に埋めようとしているのを見て、親王が「この征伐利あらば馬必ず蘇るべし」と誓をたて祈ると、たちまちこの馬は地中でいななき蘇った。掘り出してみると俊足の竜馬であった。(ここを名づけて馬堀という。)親王はこの馬に乗り、生野の里を通りすぎようとしたとき、老翁があらわれ、白い犬を献上した。この犬は頭に明鏡をつけていた。
親王はこの犬を道案内として雲原村に至り、ここで自ら薬師像七躰を彫刻した。この地を仏谷という。 そして親王は鬼賊を征伐することができればこの国に七寺を建立し、この七仏を安置すると祈誓した。それから河守荘三上ヶ嶽の鬼の岩窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足の二鬼を討ちとったが、土熊を見失ってしまった。そこで、さきの鏡で照らしたところ、土熊の姿がその鏡にうつり、これも退治することができた。末世の証にと土 熊を岩窟に封じこめた。これが今の鬼が窟である。(土熊は逃れて竹野郡に至りここで討たれたというものもある。)鬼退治を終えた親王は、神徳の加護に感謝して天照大神の神殿を営み、そのかたわらに親王の宮殿を造営した。鏡は三上ヶ嶽の麓に納めて犬鏡大明神と号した。(かつて大虫神社の境内にあったという。)また、仏徳の加護 に報いるため、宿願のとおり丹後国に七か寺を造立し七仏薬師を安置した。この七か寺については、享保二年(1717)の「多禰寺縁起」によれば加悦荘施薬寺・河守荘清園寺・竹野郡元興寺・竹野郡神宮寺・溝谷荘等楽寺・宿野荘成願寺・白久荘多禰寺の諸寺とされるが諸説のあるところである。
麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたり、この伝説を書きとめた最古のものと考えられている「清園寺古縁起」には麻呂子親王は17 歳のとき、二丹の大王の嗣子となったとある。この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似性も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立にかなりの影響を与えていることがうかがえる。
この伝説について、麻呂子親王は、「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ヶ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原因となった怨霊=三上ヶ嶽の鬼神の崇りを鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。  この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。

3.大江山の鬼伝説(その三) 

「酒呑童子(しゅてんどうじ)」―源頼光の鬼退治―
時は平安朝、一条天皇の頃である。西暦1000年前後、京の都は栄えていたが、それはほんの一握りの摂関貴族たちの繁栄であり、世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていた。そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から、姫君たちを次々にさらったのである。
姫君たちを奪い返し、酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが 源頼光(みなもとのらいこう)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに天王の面々坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名である。 頼光ら一行は山伏姿に身をやつし、道中、翁に化けた住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を与えられて道案内をしてもらい、途中、川のほとりで血のついた着物を洗う姫君に出会う。一行は、姫君より鬼の住処を詳しく聞き、酒呑童子の屋敷にたどり着く。
酒呑童子は頼光一行を血の酒と人肉で手厚く歓待するが、頼光たちは例の酒を童子と手下の鬼たちに飲ませて酔い潰し、童子を討ち、手下の鬼共も討ち果たす。捕らわれている姫君たちを救い出し、頼光たち一行は都へ上がるのである。討ち取られた酒呑童子の首は、王権に叛いたものの見せしめとして川原にさらすめ、持ち帰られるが、途中、丹波・山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたのである。
酒呑童子は、日本の妖怪変化史のうえで最強の妖怪=鬼として、今日までその名をとどろかせている。  平安京の繁栄―それはひとにぎりの摂関貴族たちの繁栄であり、その影に非常に多くの人々の暗黒の生活があった。そのくらしに耐え、生きぬき抵抗した人々の象徴が鬼=酒呑童子であった。
酒呑童子という人物は史実に登場しないから、この話はフィクションの世界のできごとである。 酒呑童子物語の成立は、南北朝時代(14世紀)ごろまでに、一つの定型化されたものがあったと考えられており、のち、これをもとにして、いろいろな物語がつくられ、絵巻にかかれ、あるいは能の素材となり、歌舞伎や人形浄瑠璃にもとり入れられ、民衆に語り伝えられていった。
酒呑童子は、フィクションの中の妖怪=鬼ではあるけれども、日本の文化史の中で果たした役割は、きわめて大きいものがある。
そしてその物語の背景となった、破滅しながら、しぶとくあくどく生きた、底辺の人々の怨念が見えかくれする。  酒呑童子という名が出る最古のものは、重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)であるが、この内容は現在私たちが考えている酒呑童子のイメージとはかなりちがっている。
まず「酒天童子」であり、童子は明らかに「鬼王」であり「鬼神」である。 また大江山は「鬼かくしの里」であり、「鬼王の城」がある。 あるいは、「唐人たちが捕らえられている風景」、「鬼たちが田楽おどりを披露する」など興味深い内容がある。 そして頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とある。
また「仁明天皇の嘉祥2年(849)から大江山にすみつき、王威も民力も神仏の加護もうすれる時代の来るのを待っていた」とあるから、神仙思想の影響もうかがえる。
ところで、童子といえば童形の稚児のことで、神の化身でもある。したがって、酒呑童子は、山の神の化身とも考えられるわけだが、酒呑童子は仏教によって、もとすんでいた山を追われる。
それは山の神が仏教に制圧されていく過程であり、酒呑童子を迎えてくれる山は、仏教化されていない山―もっと古い時代から鬼のすんだ山―土着の神々が支配する山である大江山しかなかったのである。
酒呑童子は、中世に入り、能の発達と共に謡曲「大江山」の主人公として、あるいは日本最初の庶民むけ説話集である「御伽草子」の出現により、広く民衆の心の中に入り込んでいった。
中世的怪物退治物語の代表作としての酒呑童子物語には、源氏を標榜した足利将軍家の意向をうけた「頼光=源氏の功名譚」としての要素、地におちた王権を支えようとする人々の願望としての「王権説話」、あるいは「神仏の加護」など多様な内容をもりこんでいるがもう一つ、この大江山に伝わっていた「大江山の鬼伝説」が大きな要因となっていることを見落としてはならない。  酒呑童子は頼光に欺し殺される。頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺したのだ。 このとき酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。
酒呑童子は都の人々にとっては悪者であり、仏教や陰陽道などの信仰にとっても敵であり、妖怪であったが、退治される側の酒呑童子にとってみれば、自分たちが昔からすんでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが極悪人であった。
「鬼に横道はない」酒呑童子の最後の叫びは、土着の神や人々の、更には自然そのものが征服されていくことへの哀しい叫び声であったのかもしれない。
小倉百人一首には「大江山いく野の道の遠ければ、まだふみも見ず天の橋立」(小式部内侍)という歌があります。いく野は行く野と福知山市生野の地名をかけたものだと思われます。ここでの大江山は本項でのものと京都市西京区の大枝山をかけているとの説もあります。
引用:福知山市オフィシャルホームページ「日本の鬼の交流博物館」
福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹
2009/08/29
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【たんごる】 丹後田辺城(舞鶴城)

丹後田辺城(舞鶴城)

田辺城門
京都府舞鶴市

  

室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり舞鶴を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれた。以後、丹後国は一色家が守護を努める領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において但馬他守護山名氏が率いる西軍に属した一色氏は没落し、丹波の細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱する。

戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落した。信長の命により丹波国は明智光秀、丹後国は細川藤孝の領地となり、田辺(舞鶴)が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治した。

1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与した。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていました。西軍の派遣部隊と対戦したが、藤孝の死によって歌道秘訣が絶えるのを恐れた後陽成天皇の勅命により、包囲軍は田辺城から撤退しました。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられています。

しかし、関ヶ原の戦い時には、ふたたび舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めました。戦後細川家は、九州の豊前中津藩(福岡県東部)に転封され、かわって信濃国飯田より、京極高知(きょうごくたかとも)が田辺城に入城しました。

さらに寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後熊本藩の大藩に転封される。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至りました。細川護煕元首相が有名です。


内部 天守閣跡


丹後田辺藩(舞鶴藩)藩祖・京極高三

京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功により、丹後一国を与えられ宮津藩(丹後藩)を立藩しました。加佐郡(舞鶴)も当初は宮津藩の一部でした。後に京極高知の子らにより丹後は三分割され、京極高三が加佐郡に田辺藩(舞鶴藩)3万5,000石を立藩しました。これが、一般には舞鶴市の始まりとされています。

京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた田辺城(舞鶴城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きました。のちに京極氏は但馬豊岡藩へ移封となりましたが、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野氏3万5,000石の城下町として幕末まで栄え続けました。

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静神社(しずかじんじゃ)・子午線塔


日本標準時 最北端の塔

静神社に向かう途中、最北に子午線塔が建てられています。東経135度 北緯35度41分


京丹後市網野町磯
御祭神 静御前

当地で禅師の娘として生まれたとされる静御前は、父の死後、母とともに京都へ上り白拍子となりました。その後、舞を源義経に見そめられ、側室となりました。しかし義経は兄・頼朝に追われ、子どもも殺されてしまいます。

悲しみにくれ故郷の磯に戻った静御前は、二十余歳の若さでこの世を去りました。義経への愛を貫いた静の気丈さ。それをはぐくんだ故郷・磯には、静御前をまつる静神社が悲恋の面影を残すかのようにひっそりとたたずんでいます。また、周辺には静の庵跡に建つ静御前生誕の地の碑、義経が船を着けたといわれている入艘の浜と沖の飛び岩があります。

[googlemaps http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&gl=jp&ie=UTF8&oe=UTF8&msa=0&msid=201168065864897767226.0004a89f7ae05c06a274e&brcurrent=3,0x5fffbaa7cabd0503:0xb9417724454eab50,0&ll=35.685954,134.991331&spn=0.0244,0.036478&z=14&iwloc=0004a8b3d9adb0ecba6dd&output=embed&w=425&h=350]

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【たんごる】 丹後半島最北端 経ヶ岬


経ヶ岬

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後四町(大宮町、峰山町、弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、古丹波(丹後)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

航空自衛隊第35警戒隊
航空自衛隊入間基地の分屯基地。
分屯基地司令は、第35警戒隊長が兼務。
部隊は、庁舎地区とレーダー地区に分かれ、レーダー地区は庁舎地区から約5.5キロ離れた岳山(標高451m)の頂上に位置しています。 隣接サイトとの密接な連携のもと、日本海正面の空の防衛。監視業務では、暗い室内の中で、隊員が24時間体制で、レーダースコープの画面に映しだされた航跡を追い続けている。
ミサイル防衛に関連して、経ヶ岬を含め全国で同じ型のレーダーサイト7箇所が、探知・追跡、通信機能が改修される計画となっている。

沿革

1942(昭和17)年 旧海軍監視所設置
1948(昭和23)年06月 米軍レーダー基地開設
1957(昭和32)年12月 東部訓練航空警戒隊 第9083部隊展開
1958(昭和33)年12月 航空自衛隊へ移管
1961(昭和36)年07月 第35警戒群へ改編
1967(昭和42)年12月 岳山にレーダー及び運用室移設
1992(平成04)年04月 庁舎地区へ運用室移設
1994(平成06)年04月 基地体育館完成
2000(平成12)年03月 場外離着陸場完成 第35警戒隊に改編
資料:京都平和委員会

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丹後三大前方後円墳蛭子山古墳と古墳公園


京都府与謝郡与謝野町明石

加悦谷(かやだに)平野の南部、野田川上流のこの地域は、全長145mを測る丹後三大前方後円墳【国指定史跡】「蛭子山(えびすやま)古墳群」と【国指定史跡】「作山(つくりやま)古墳」、を復元整備した「古墳公園・はにわ資料館」をはじめ、「明石大師山古墳群」や旧加悦町内に存在する古墳数は630基といわれ、8つの古墳グル-プに分けられていますが、そのうちの6グル-プ80%が野田川東岸に位置しています。


丹後三大前方後円墳 蛭子山古墳

子山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長145mの大型前方後円墳で、丹後地方最大の大首長墓です。その蛭子山古墳と谷一つ隔てた作山古墳は5基の中型古墳で構成され、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀から5世紀前半)にかけて築造されたものです。5基の古墳は、その墳形が、円墳、方墳、前方後円墳というように、古墳の代表的な形がそろっています。銚子山古墳、神明山古墳は古墳時代中期(5世紀)。一番大きいのは網野町の銚子山、次が丹後町の神明山。蛭子山は三番めの大きさですが、時期はこれが一番古く4世紀の後半です。

「中国の古墳文化は圧倒的に方形墳が多い。ただし、円墳もある。高句麗の古墳は圧倒的に方墳が多い。円墳は非常に少ない。百済の場合は円墳が非常に多い。方墳は少ない。」-京都大学名誉教授  上田 正昭氏


作山古墳

蛭子山古墳のすぐ隣りに円墳の作山古墳が数基造られているので、本家はそのまま加耶明石を拠点としていたのでしょうが、漢民族である秦の集団のあと、加耶諸国からの渡来人が代わっていった?あるいは同化していき丹後王国といった巨大な勢力をもつ国が誕生したようです。稲作が得意な江南人にとって加悦谷平野はうってつけで手放せないでしょう。太田南古墳と黒部銚子山古墳は前期~中期とされます。網野銚子山と神明山古墳は古墳時代中期であり、ほぼ同時期に造られたのは、加悦谷から竹野川に移り、さらにより大陸や日本海沿岸諸国との交易に便利な丹後半島の海沿いに拠点を移し、丹後国各郡を同族で統治していたのではないでしょうか。戦国時代には、同族や家臣に領地を分け与えるのは普通ですので、江戸時代には京極家が丹後を三藩に分けて統治していた例もあります。

000年10月、蛭子山古墳の北側で「日吉ケ丘・明石墳墓群」が発見されました。国史跡に指定され同町にある墳墓・古墳の指定は4件目で、府内では京都市と並び最多です。弥生中期(紀元前1世紀)に造られた同時期の墳墓としては吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳墓に次ぎ2番目に大きい方形貼石墓(はりいしぼ)で、670個以上の管玉が出土しました。しかしこの墳墓は出雲・吉備から北陸にかけて見つかっている特有の四隅突出貼石墓ではなく四隅が突出せず、丹後特有の墓の形であることも独立国家が栄えていたとも考えられています。

明石墳墓群は、弥生後期-古墳前期(2-3世紀)の築造で、同王国を支えた地元の有力者が被葬者とされる丹後特有の台上墓として貴重な遺跡です。

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網野銚子山古墳 (京丹後市網野町)

日本海沿岸部では最大規模の前方後円墳 網野銚子山古墳

網野町では、網野銚子山古墳があります。日本海に注ぐ二級河川福田川の下流右岸の丘陵にも連なる台地上に築かれています。築造時期は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)と推定され、日本海沿岸部の前方後円墳で最大の規模を誇ります。隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長100m) という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれることが多いです。

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【たんごる】 久美浜県舎

京都府京丹後市久美浜町小谷


久美浜県舎

神社の隣にはかつての久美浜県庁舎の一部が保存されています。


県庁門は豊岡県となった際に豊岡市へ移築

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黒部銚子山古墳 (京丹後市弥栄町)


京丹後市弥栄町黒部

竹野川右岸の丘陵端部に立地する大型前方後円墳。葺石・円筒埴輪の存在が知られている。規模は全長105m、後円部径70m、高15m、前方部幅50m、高さ11m。二段構成 前方部は東南を向く。丹後町にも同名の銚子山古墳があり、こちらは黒部銚子山古墳と呼ばれています。

墳丘は丘尾を切断して構築され、墳丘斜面にテラスを設ける二段築成で、円筒形の埴輪片が採取されていることから、テラスには円筒埴輪が据えられていたと推定されています。また、斜面には葺き石が施されていたことが伺えます。

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