古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は

古丹波(丹後・但馬)が大和政権に組み入れられた時代は


※この地図は地図作成ソフトを元に古墳を方向を調べて私が作成したものです。上の地図は、前方後円墳は、それぞれのクニのどこに、どの方向に向いているのかを分かる範囲で地図上に記してみたものである。方向はGoogleマップにも組み込まれているので、現在の地図上で古墳の位置を確認することができる。

前方後円墳の方向は朝廷のある大和に関係しているのか、それぞれのクニに自主性を持って決められたのか、分からないが関心があるテーマである。

『前方後円墳』というサイトによくまとめられているので引用させていただくと、

弥生時代は、魏志倭人伝が伝えるように日本列島各地で多くの勢力が「国」として、たがいに対峙していた。卑弥呼の時代(3世紀前半頃)には,邪馬台国を含めておよそ30「国」の存在が魏側で知られていたようである。

前方後円墳の出現の背景には、統合への流れが進行して他とは比肩できないほどの大きな勢力の出現があったと考えられる。この勢力とは大和を本拠とする大和政権(大和朝廷)である.巨大な前方後円墳の築造は、大和朝廷の権威を他の地域へ誇示するねらいがあったとみてよいだろう。奈良県や大阪府に多数遺存する4世紀末以降の巨大前方後円墳が天皇や皇后など皇統に属する人々、もしくは朝廷において有力な地位にあった人々の墳墓であることを考えると、時代をぐんとさかのぼる古い箸墓古墳(奈良県桜井市)も巨大前方後円墳である以上、当然大和朝廷に属する高貴な人の墳墓でなければならない。

邪馬台国が北部九州にあったのか、畿内かはさておき、少なくとも崇神天皇(第10代天皇)以降の大和朝廷が奈良を本拠としてきたことは歴史上明白である。

前方後円墳の各部位の呼称は決まっている.丸い部分を「後円部」、矩形部分を「前方部」,後円部と前方部の接続部を「くびれ部」とよぶ.被葬者が葬られている場所は後円部であって、前期古墳にあっては、前方部上で葬送の祭祀が執り行われたと考えられている。前方後円墳の築造企画は、前期から中期へ、さらに後期へと時間が進行するにしたがって変化するが、とくに前方部が大きく発達していくという明瞭な変化が認められる。くびれ部付近に「造出(つくりだし)」とよばれる小さな突起部をもつ古墳が中期頃から現れる。左右両側,または片側だけにつくられる.造出は祭祀用の施設とみられるが、前方部の巨大化にともなって、前方部上でくり返される祭祀の執行に不便をきたすようになったことが造出出現の理由とも考えられる。

丹後・但馬は大宝律令以前に分国するまでは丹波内であったが、律令以後に3つの国に分国された。中央集権化が強固になるにつれて、大和から遠い丹後にあった丹波の政治の中心は大和に近い現在の亀岡市に移り、丹波・但馬・丹後と3つに分けられる。

これは地形的に比較的に高い山で遮られる丹波・但馬・丹後の特性もあったかも知れない。しかしそれだけで、3つに分けた理由にはならない。分けるにはそれぞれ国府建設や国司など莫大な費用が生じるからである。

何かの理由が生じたと考えるのが普通だろう。

朝鮮半島への最短ルートとしてこの地が大和政権にとって重要だったことで、大和政権に組み入れる必然性があったからだと考えるのである。

日本海側最大の前方後円墳は、丹後の網野銚子山古墳(京都府京丹後市網野町網野)で、墳丘長は201m。それに次ぐ規模が神明山古墳(京都府京丹後市丹後町宮、墳丘長190m)、蛭子山えびすやま1号古墳(京都府与謝郡与謝野町加悦、墳丘長145m)の3つの前方後円墳が、日本海側および京都府では最大規模の古墳で、「日本海三大古墳」と総称される。

「日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中している

なぜ丹後に日本海側で最大の前方後円墳が丹後に集中しているかである。

それでは、大和政権に組み入れられた時代はいつ頃だろうか?少なくとも崇神天皇が四道将軍を派遣し本州を平定していった時期からだろうと思われる。

丹後三大古墳は4世紀末-5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。網野銚子山古墳は、墳丘3段築成、築造された順番は、蛭子山1号墳が4世紀中葉、網野銚子山古墳がそれに次いで古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭、神明山古墳が4世紀末-5世紀初頭とされる。

網野銚子山古墳と神明山古墳は、日本海に突き出た丹後半島の北、網野銚子山古墳は浅茂川の河口にできた浅茂川湖、神明山古墳は竹野川の河口の竹野湖という古代の潟湖(ラグーン)に対して墳丘の横面を見せる形式をとっており、前方部を北北東に向けている。当時の丹後地方がこれら潟湖を港として日本海交易を展開した様子が指摘される。それに対して蛭子山古墳は、丹後半島反対側の付け根で、日本三景天橋立を形成した野田川に北北西に開けた加悦谷の東縁部にあり、前方部を北西に向ける。

但馬地方では最大、兵庫県では第4位の規模の前方後円墳は池田古墳(兵庫県朝来市和田山町平野)で、5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定される。

ヤマト王権の宮が置かれた大和と大和川が注ぎ込む大阪湾の摂津・河内・和泉の機内には、大王(天皇)墓である大型の前方後円墳がいくつも造営されている。前方後円墳の最古とされる箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)は、3世紀後半以降とされている。

大和政権と大丹波(今の丹後。但馬。丹波)との結びつきが記紀に登場するのは、第11代垂仁天皇の最初の皇后、狭穂姫命である。父は四道将軍のひとりである彦坐王(日子坐王)ひこいますのみこ、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王たにはのみちぬしのみこの女であり、狭穂姫命の姪に当たる。第12代景行天皇を生む。日本海三大古墳と総称される蛭子山1号墳、網野銚子山古墳、神明山古墳と、それ以降の池田古墳、船宮古墳が築造された年代は垂仁天皇期であると思われる。


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■はじめに
8世紀になると、偶然に発見された遺跡や遺物が注目されるようになり、また、ギリシャ・ローマへの関心が高まるなかで、ローマ時代遺跡の発掘が始まりました。火山噴火で埋没したポンペイが偶然発見されたのを契機に、大規模な発掘が行われるようになりましたが、当初は、領主による美術品の蒐集が目的の略奪でした。18世紀末から19世紀初めになると、いわゆる未開地への探検が流行し、そこから収集された考古学的遺物や民族資料が公開されて注目を浴びるようになりました。19世紀半ばになると、科学的発掘調査が成立してきました。まず、地質学の分野で、地層の順番を決め、出土する化石の年代順序を明らかにして、地球の歴史を明らかにする層位学的研究法が確立しました。
方、聖書の故郷として注目を集めていたメソポタミアでは、発掘競争を続け、今でもルーブル美術館や大英博物館の主要な展示物である膨大な石彫類を発掘しました。1871年、シュリーマンがホメロスの詩に書かれていたトロイと信じ、トルコのトロイの遺跡を発掘しました。現在では、この遺跡をトロイと断定することは出来ないというのが定説となっていますが、このように最初の発掘は聖書や神話をもとに行われていました。日本でも江戸時代にはすでに記紀や風土記による発掘が行われていたことはヨーロッパと大差はありません。
かし、明治以降は、皇国史観によって日本神話の記述が神聖視され、神話研究はそれ以前よりも後退することとなりました。大正時代に津田左右吉が『神代史の新しい研究』ほかを発表し、日本神話に科学的な観点から批評を行い、神代記は政治的な意図で作られた創作であると結論づけました。戦後になってもしばらくの間、津田の説が日本神話研究の中心となりました。
現在では津田説が細部まで正しいとは必ずしも考えられてはいませんが、日本神話を考古学などの証拠なく、弥生・古墳時代の史的事実の反映と考える説は基本的に退けられています。

だし、より正確であるといわれている中国など外国の史料や遺跡・遺物は、断片的であるために、全体の流れをつかむことができにくく、複数の解釈を生じます。信憑性に疑問があるとしても、最も詳しいのは古史・神社由来・民話などの国内資料であり、そうした国内資料を無視した状態では、複数の解釈が可能となり、正解を得ることはまず不可能と考えられます。全体の流れをつかむには、残された日本国内の資料に頼るしかないと判断し、正確である可能性の高いものを基に、その内容を、外国史料や遺跡遺物と照合することによって確認し、矛盾を生じるものはその伝承が正しくないと判断するという方法で論を進めたいと思います。

今日では、意図的な改変や創作がかなり加えられてはいるものの、そのようなものの見方をする古代の人たちがいたことに注目する文化的背景を考察する考え方が主流となっています。
まグローバル社会といわれています。しかし、あえていうまでもないことですが、かつて地球上に人類が誕生したころは国境などありませんでした。人々は自由に獲物を求めて移動をくりかえしていたのです。

■歴史の時代区分

日本の歴史における時代区分には様々なものがあります。しかしながら、一応のところ、文字の発生と記録を残すことが行われる以前を先史、それ以降を古代・中世・近世・近代・現代とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられています。この場合でも、各時代の画期をいつにおくかは論者によって大きく異なっていますが、単純に分かりやすくするためにこの時代区分によっています。
さらに、それぞれは次の通りとします。

一般に学校で習うようなよく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分です

単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分であるといえますが、文献史料がなく発掘による考古史料のみが残る先史時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分します。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と区分していますが、これだけでは必ずしも十分でないため、鎌倉時代と室町時代の間に南北朝時代、1467年の応仁の乱頃から1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの時代を戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用です。

江戸時代の次は政治センターの所在地に従うなら、「東京時代」と呼称すべきでしょうが、明治以降から天皇の在位に従って明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と呼ばれています。
また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、統治範囲が時代によって上記区分に及ばないため、これらとは異なる時代区分が用いられています。

また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化?などとする区分もあります。

■記載について
あくまでも、自分が生まれた地域に関心がわいたのがきっかけで郷土を中心に展開しています。「すべての歴史は現代史である」という偉大な歴史哲学者(ベネデット・クローチェ)。過去の史料を評価・検証する過程を通して新しい歴史的事実、及びそれらの関連を探り、異なった見方や意見も併記するようにしました。絶えず更新しております。ご助言がございましたらこちらまでお寄せ下さい。

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