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4 第四巻・城崎郡故事記 現代語

2018/09/29
 
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ニギハヤヒ?アメノホアカリ?(天照国照彦饒速日天火明命)は、
アマテラス(天照大神)の命によって、外祖・タカミムスビ(高皇産霊神)より十種瑞宝(奥津鏡1・辺津鏡1・八握剣1・生玉1・死去玉1・足玉1・道反玉1・蛇比札1・蜂比札1・品物比札1)を授かり、后のアメノミチヒメ(天道姫命)といっしょに、

サカヘノアマツモノノベ(坂戸天物部命)・フタタノ 〃 (二田天物部命)・シマヘノ 〃 (嶋戸天物部命)・ナミツキノ 〃 (両槻天物部命)・タルヒノ 〃 (垂樋天物部命)・アメノイワフネ(天磐船命)・アメノフナヤマ(天船山命)・アメノカジトリ(天揖取部命)・イキシニギホ(稲年饒穂命)・タケニギホ(長饒穂命)・サクツヒコ(佐久津彦命)・ササウラビメ(佐々宇良毘売命)・ササウラビコ(佐々宇良毘古命)・サキツヒコ(佐伎津彦命)らを率いて、天の磐船に乗り、タニワ(田庭)の真名井原に降り、

トヨウケ(豊受姫命)に従い、五穀蚕桑ゴコクサンソウの種子を得て、射狭那子嶽イサナゴダケに行き、真名井を掘り、水稲や麦・いも・アワの陸種をつくるために、大小の田に植え、昼夜生井・栄井イクイ・サクイの水を引く。その秋には垂穂の長い穂が所狭しく一帯に広がった。

豊受姫命は、これを見て大いに喜び、「大変良い。これを田庭に植えなさい」と皆にいった。

そして豊受姫命はアメノクマビト(天熊人命)に、アメノホアカリに従って田作りの事業を補佐をさせて、そしてのち、高天原に上って(帰って)いった。

したがって、この地を田庭タニワという。丹波タンバの名はこれに始まる。

そのあと、アメノホアカリは五穀蚕桑の事業を国中に起こし、大いにおおみたから(蒼生)を幸福にした。

この時、オオナムチ(国作大巳貴命)・スクナビコナ(少彦名命)・ウカノミタマ(蒼魂命)は、諸国を巡って見て高志国(越の国)にとどまり、アメノホアカリを呼んで言った。
「あなたは、この国を治めるのがよい。」
アメノホアカリは、大いに喜び言った。
「永世です。青雲の志楽国」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる)
それでこの地を志楽国という。(京都府舞鶴市志楽あり)

アメノホアカリは、これより西に向かい、タニマ(谿間)に来た。清明宮スアカリノミヤに駐まり、豊岡原に降り、御田を開き、垂樋天物部命に真名井を掘らせ、御田に灌水する。

するとその秋、垂穂の長い穂が一帯に広がった。
それでその地を豊岡原といい、真名井を名づけて御田井という。のち小田井に改める。

アメノホアカリは、また南に向かい、佐々前原に至り、磐船イワフネ宮に止まる。
サクツヒコ(佐久津彦命)を、篠生原シノイクハラに就かせ、御田を開き、御井を掘り、水を引く。

後世、その地を真田サナダ稲飯原イナイハラという。(いま佐田伊原サタイハラという。現在の豊岡市日高町佐田・道場稲葉川南岸)これが気多ケタ佐々前ササノクマ村である。

サクツヒコは佐久宮に坐し、アメノイワフネ(天磐船命)は磐船宮に坐す。
アメノホアカリは、またアメノクマビト(天熊人命)を夜夫ヤブに遣わし、蚕桑の地を探させる。アメノクマビトは夜父の谿間タニマに就き、桑を植え、蚕を屋岡ヤオカう。それで谿間の屋岡原と云う。谿間の名はこれに始まる。(谿間は但馬の古名)

アメノホアカリはこの時、浅間の西奇霊クシヒ宮に坐し(式内浅間神社)、アメノイワフネの子、船山命を供にまつる。

サクツヒコは、ニギハヤヒの妃、アメノミチヒメ(天道姫命)の侍婢、シマヘノアマモノノベの娘、佐々守良姫命を妻にし、サキツヒコ(佐伎津彦命)を生む。

アメノホアカリは、サキツヒコに命じて、浅間原を開かせる。サキツヒコは小田井をたえ、これを御田にそぐ。

それで稲栄大生原イナサノオオイハラという。(今の伊佐・大江)

サキツヒコは、タルヒノアマモノノベの娘、ミイツヒメ(美井津比売命)を妻にし、アルチ(阿流知命)を生む。

サキツヒコとアルチは花岡宮に鎮まり坐す。この地の開発祖神である。

アメノフナヤマ(天船山命)は、船山宮に坐(いま)す。
アメノミチヒメ(天道姫命)は、浅間の東奇霊クシヒ宮に、アメノホアカリ(天火明命)は、西奇霊宮に鎮まり坐す。
ミイツヒメ(美井津姫命)は、深谷の宮に鎮まり坐す。

その時、オオナムチ・スクナビコナ・ウカノミタマは、高志国(越の国:福井・石川・富山・新潟)より帰り、御出石県ミズシアガタに入り、その地を開いて、この地に至り、アメノホアカリを招集して、

「なんじは、この国を治めなさい」といった。

アメノホアカリは大いに喜び、

「あな美し永世です。青雲弥生国(*1)なり」(栄誉です。気高い希望あふれる国と訳してみる)と。

オオナムチはウカノミタマに、「アメノクマビトとともに心を合わせ、力をともにし、国作りの事業を助けなさい。」と教えられた。

2人の神は、アメノホアカリに、比地の原を開かせ、
タルヒノアマモノノベに、比地に行き、真名井を掘り、御田を開き、水を引く。すぐに垂穂が秋の野一帯に充ちた。
それでこの地を比地の真名井原という。(比地は霊異の意味。比地県はのち朝来郡)
アメノホアカリは、
イキシニギホ(稲年饒穂命)を小田井県主とし、(小田井県は、のち黄沼前県、その後、城崎郡)
イキシニギホの子、タケニギホ(武饒穂命)を美伊県主とし、(美伊県は、のち美含郡)
サクツヒコを佐々前県主とし、(佐々前県は、のち気多郡)
サクツヒコの子、サキツヒコを屋岡県主とし、(屋岡県は、のち養父郡)
イサフタマ(伊佐布魂命)の子、イサミタマ(伊佐御魂命)を比地ヒジの県主とする。(のち朝来郡)

アメノホアカリは、それぞれの役目の神を率いて、天の磐船に乗り、美伊県に至る。その時、狭津サヅ川(のち佐津川)より黄色の泥水が流れ出て、船を黄色にした。それでこの川を黃船川という。
御船はイカリ山に泊まり、川の瀬戸を切り開き、瀬崎を築いた。その水嶋山のうしろに漂う。せれで水ヶ浦という。
アメノホアカリは黄船宮に鎮まり坐す。

タケニギホは、オオナムチの娘、ミイヒメ(美伊比咩命)(またの名は、または木俣命・白山比咩命)を妻にし、タケシマ(長志麻命)を生み、狭津の美伊宮に鎮まり坐す。(式内美伊神社:兵庫県美方郡香美町香住区三川87-1)

アメノホアカリの神としてのしごとは終わり、徳は大いにあり。美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡回し、田庭国(丹波)を経て、河内に入り、哮峰イカルガミネに止まり、大和白庭山に至る。跡見アトミノ酋長跡見長髄彦ナガスネヒコの妹、ミカシキヤヒメ(御炊屋姫命)を妻にし、ウマシマジ(宇麻志麻遅命)を生む。

アメノホアカリは高天原におられる時、アメノミチヒメ(天道姫命)を妻にし、アメノカグヤマ(天香久山命)を生む。
アメノカグヤマは、アメノムラクモ(天村雲命)を生み、
アメノムラクモは、アメノオシオ(天忍男命)を生み、
アメノオシオは、アメノトメ(天砺目命)・タケノヌカアカ(武額明命)を生み、
アメノトメは、タケノトメ(武砺目命)を生み、
タケノトメは、タケダセ(武田折命)・タケノワネ(武碗根命)を生み、
タケノヌカアカは、武筒草命・武波麻命を生み、
武波麻命は、大佐古命を生み、
大佐古命は、吉備津彦命を生み、
武筒草命は、武田背命を生み、
武田背命は、建諸隅命・建田姫命・建日方命を生み、
建日方命は海部直命を生む。

アメノホアカリは、天熊人命の娘・熊若姫命を妻にし、イキシニギホ(稲年饒穂命)を生む。また、瞻杵磯丹穂命。稲年は瞻杵磯と訓むべき、稲年の古語は瞻杵磯または瞻杵都御年また意杵都御年なる。
稲年饒穂命は、ナミツキノアメノモノノベの娘・映愛姫命を妻にし、タケニギホ(長饒穂命)を生む。
サカヘノアメノモノノベは、イツオハシリノカミ(稜威雄走神、別命:天之尾羽張神)の御子であり、豊御食トヨミケを司る。したがって、コウジノアメモノノベ(香餌天物部命)という。香餌宮に坐す。香餌大前神はこれである。
フタタノアメノモノノベは、天鳥姫命の子にして御船の楫をとる。それでカジヘノアメノモノノベ(楫戸天物部命)という。楫戸宮に坐す。楫戸大前神である。
シマヘノアメノモノノベは、アメノハヅチ(天葉槌男命)の御子で御帆前に坐す。それで帆前ホマエ天物部命という。帆前宮に坐す。帆前大前神である。
ナミツキノアメノモノノベは、シマヘノアメノモノノベの御子にして御苑を司どる。それで御苑天物部命という。高屋宮に坐す。御苑大前神である。それで両槻天物部命という。
タルヒノアメノモノノベは、フタタノアメノモノノベの御子で真名井を司る。それで真名井天物部命という。垂樋宮に坐す。真名井大前神である。
アメノイワフネノオサ(天磐船長命)は、アメノイワクスフネ(天磐楠船命)の御子で御船を司る。それで船長天物部命という。磐船宮に坐す。御船大前神である。
アメノフナヤマ(天船山命)は、天磐船長命の御子で船山宮に坐す。
アメノカジトリ(天楫取部命)は、カジヘノアメノモノノベ(楫戸天物部命)の御子である。

サクツヒコ(佐久津彦命)はナミツキノアメノモノノベの御子である。佐久宮に坐し、シマヘノアメノモノノベの娘・佐々宇良毘売命を妻にし、佐伎津彦命・佐々宇良毘古命を生む。(註 娘は孫娘の誤伝または誤写と思う)
サキツヒコ(佐伎津彦命)は、花岡宮に坐し、佐々宇良毘古命・佐々宇良毘売命は三島宮に坐す。(佐々宇良は豊岡市楽々浦であろう)

以上諸神は、みな国作りの事業に参与したという。

第1代神武ジンム天皇3年(BC658年)秋8月 ニギハヤヒの子・イキシニギホ(瞻杵磯丹穂命)を谿間小田井県主とする。

瞻杵磯丹穂命は、父の旨を奉じ、オオナムチを豊岡原に斎きまつり、小田井県神社と称えまつり、帆前大前神の子、帆前斎主命を使わして、御食の大前に使えまつる。(式内小田井県神社:豊岡市小田井町15-6)
またニギハヤヒを州上スアガリ原に斎まつり、清明スガ宮と申しまつる。
瞻杵磯丹穂命は、のち山跡国(大和国)に帰る。

第2代綏靖スイゼイ天皇23年(前559年) ウマシマテ(甘美真手命)の子、ウマシニギタ(味饒田命)を小田井県主とする。亀谷宮にあり、これもまた山跡国に帰る。

第4代懿徳イトク天皇33年(前478年)夏6月 味饒田命の子・佐努命を小田井県主とする。佐努命は味饒田命を亀谷宮に祀る。

第5代孝昭コウショウ天皇80年(前396年)夏4月 佐努命の子・与佐伎命を小田井県主とする。与佐伎命は佐努命を佐努丘に葬る。

第6代孝安コウアン天皇67年(前326年)秋9月 与佐伎命の子・布久比命を小田井県主とする。布久比命は与佐伎命を都留居丘に葬る。布久比命は奈佐を開く。(式内与佐伎神社:豊岡市下鶴井字上ノ山2456)

第7代孝霊コウレイ天皇62年(前229年)秋7月 布久比命の子・美々井命を小田井県主とする。美々井命は布久比命を登地江に葬る。美々井命は父の後を受けて奈佐を開く。

第8代孝元コウゲン天皇56年(前159年)夏6月 美々井命の子・小江命を小田井県主とする。
小江命は大浜を開き、オオナムチを小江丘に祀る(式内小江神社:豊岡市江野1452)。小江命は美々井命を宮江(今の豊岡市宮井)に葬る。(式内耳井神社:豊岡市宮井字大門215)

第10代崇神スジン天皇9年(前89年)秋7月 小江命の子、穴目杵命を(小田井県改め)黄沼前県主とする。
10年(前88年)丹波国青葉山の賊、陸耳の御笠は、群盗を集め、民の物を略奪する。その党の狂の土蜘蛛は久流山(来日岳)にいて、所々に出没し、良民を損なう。その勢いは大変さを極める。

(以下は、第一巻・気多郡故事記に重複するので割愛)

11年(前87年) アナメキ(穴目杵命)は新田を開く。これを新墾田という(新田村、今の豊岡市新田)。

第11代垂仁スイニン天皇45年(西暦16年)夏6月 穴目杵命の子・来日足尼命を黄沼前県主とする。来日足尼命は穴目杵命を篠丘に葬る(式内穴目杵神社:豊岡市大篠岡377-1)。

第12代景行ケイコウ天皇32年(102年)秋7月 伊香色男命の子・大売布命を黄沼前県主(気多県主兼務)とする。
大売布命は気多の射楯宮にありて、この地を領知する。来日足尼命はその久流比宮に鎮まり坐す(式内久流比神社:豊岡市城崎町来日ロ587-2)

第13代成務セイム天皇46年(176年)冬10月 丹波六人部連の祖、武砺目命の子、多遅麻海部直の祖、武田背命を黄沼前県主とする。

第14代仲哀チュウアイ天皇2年(193年) 天皇は皇后の息長帯姫オキナガタラシヒメ命(神功皇后)と百人の群臣とともに越前笥飯ケイ宮(気比神宮)に行幸される。そして、皇后を笥飯宮に置き、さらに南を巡行し紀伊に至られる。

この時、たまたま熊襲クマソがそむいた。(九州南部)
天皇は使いを越前笥飯宮に遣わし、皇后と穴門国(長門国、今の山口県)で会うことを教え、自らは海から穴門国に至られる。

皇后は越前角鹿(今の敦賀)より御船で北海キタノウミ(日本海の当時の名)に取り、若狭(丹波の誤り)の加佐・与佐・竹野タカノ海(今の京丹後市丹後町竹野)を経て、多遅麻タヂマ国の三嶋水門ミシマミナト(*2)に入り、内川(今の円山川)を遡り、伊豆志大神(出石神社)に詣でられる。
伊豆志県主の須賀諸男命は、子の須義芳男命を皇后に従わせる。
須義芳男命は、豪勇にして力があり、射狭浅太刀を脇に差し随身する。これを荒木帯刀部命という。

皇后は下って、小田井県大神(神社)に詣で、水門ミナトに帰り泊まられる。
ある夜、越前笥飯宮の五十狭沙別大神が夢に現れ、皇后に教えて曰く、
「船で海を渡るには、当然住吉大神を御船に奉れ」と。

皇后は謹んで教えにしたがい、
底筒男神・中筒男神・表筒男命を御船に祀られた。船魂大神である。
いま住吉大神を神倉山に祀るのは、これがもとである。
また御食を五十狭沙別大神に奉る。それでこの地を気比浦という。のちに香飯大前神13世の孫、香飯毘古命は五十狭沙別大神・仲哀天皇・神功皇后をこの地に斎きまつるという。(式内気比神社:豊岡市気比字宮代286)

皇后の御船がまさに水門を出ようとする時、黄沼前県主の賀都日方武田背命は、子の武身主命を皇后に従い、嚮導キョウドウ(*3)をする。それで武身主命のまたの名を水先主命という。

御船が美伊(のち美含)の伊佐々の御碕に至り日が暮れる。五十狭沙別大神は御火を御碕に現し、これによって海面が明るくなる。それで伊佐々の御碕という。
御火は御船を導き、二方の浦曲に至り止まる。それでその地を御火浦という。
五十狭沙別大神を御碕に祀るのはこれに依る。(式内伊伎佐神社:兵庫県美方郡香美町香住区余部字宮内2746-2)

皇后はついに穴門国に達しられる。水先主命は征韓に随身し、帰国のあと海童神を黄沼前山に祀り、海上鎮護の神とする。水先主命は水先宮に坐す。水先主命の子を海部直とするのはこれに依る。

神功皇后は、新羅親征の元年(201年)春3月 武田背命を奉幣使とし、新羅降伏を粟鹿神に祈り、幣帛を納める。

(この頃より耐えず歯向かう韓国について詳細は気多郡故事記)

3年(203年)春3月 粟鹿神の神徳が顕れたので、社殿を造営し、勅使門を建てる。
また武身主命に潮涸る珠(*4)を相殿に納め、祀らせる。これを沫和神といい、また住吉大神を合わせ祀る。(粟鹿丘に祀り、また気比の神倉山に祀るのを船玉神という)
また武田背命に小田井県神に幣帛を納め、新羅の降伏を祈らせる。

3年春2日 神徳が顕れるのをもって、社殿を造営し、幣帛を納める。武身主命を黄沼前県主とし、幣帛を納め、祭祀を行わせる。武身主命を水主臣という名を賜る。水主直の祖である。
オオナムチ・アメノホアカリは上座にあり、
水先主命斎く所の表津海童神・底津海童神は下座にあり。
すなわち小田井県神を海神とするのはこれに依る。

第15代応神オウジン天皇3年(272年)夏4月 大山守命に山海のマツリゴトを統治させる。大山守命は、多遅麻国黄沼前県主、水主命の子、海部直命を、当国の海政を行わせ、当国の海部を司る。

第16代仁徳ニントク天皇10年(322年)秋8月 水先主命の子、海部直命を(黄沼前県主改め)城崎郡司(*5)、兼海部直とする。
海部直命は諸田の水害を憂い、子の西刀宿祢命に命じて、西戸水門を浚渫(*6)させる。
それによって、御田はたわわに生るという。海部直命は水先主命を深坂ミサカの丘に葬る(式内深坂神社:豊岡市三坂字見手山76-1)

第17代履中リチュウ天皇 海部直命の子、西刀宿祢命を城崎郡司とする。西刀宿祢命は海部直命を気比の丘に葬る。
海部直命は、在世中は仁政多くあり。故に農民・漁民など父母を亡くしたように哀悼し泣く。そのあと相談して国司に請い、祠を建て祀る。海神社はこれである。
この由緒により、天災風害があれば必ず祓い、不漁のときは必ず祈る。
ある日、御霊が信者に告げた。
「海を守るは黄沼前宮に坐す海童神にあり。
船を守るは神倉宮に坐す船魂神にあり。
この海童神をこの地に勧請し、歳時にこれを斎き祀れ。
われ風災のたびにこの神などに供しまつり、難船を救わん。もし社頭に不時の神火が顕れれば、すなわち災いが起きるものと思え」と。
地元の民は、これを城崎郡司、西刀宿祢命に申し上げた。

西刀宿祢命は国司に請うて海童神・船魂神を遷し祀り、神人を置き、気比義麿をもって奉仕させる。

第21代雄略ユウリャク天皇2年(458年)秋8月 西刀宿祢の子、桃嶋宿祢を城崎郡司とする。桃嶋宿祢は西刀宿祢を瀬戸の丘に葬る。西刀宿祢はまたの名を阿刀宿祢という。(式内西刀神社:豊岡市瀬戸字岡746)

第25代武烈ブレツ天皇7年(504年)夏5月 味饒田命の末裔・熊野連を城崎郡司とする。
熊野連は味饒田神を氏神となし、改めてこれを斎きまつり、久麻神社と申しまつる(式内久麻神社:)。
また両槻天物部命の末裔・波多宿祢に桃嶋宿祢命を桃島の丘に祀らせる(式内桃島神社:豊岡市城崎町桃島字宮脇1339-1)

第30代欽明キンメイ天皇25年(564年)冬10月 大売布命の末裔・物部韓国連モノノベノカラクニノムラジ榛麿ハイマロを城崎郡司とする。
物部韓国連は、武烈天皇の勅により韓国に遣わされ、そのご報告の日、姓の物部韓国連を賜う。榛麿はその子である。

韓国連榛麿は、針谷を開き住処とする。それで榛谷という。父の物部韓国連命を榛谷の丘に祀り、物部モノノベ神社という。また韓国カラクニ神社という。(式内韓国神社:豊岡市城崎町飯谷250)

第33代推古スイコ天皇35年(627年)冬12月 物部韓国連榛麿の子、神津主を城崎郡司とする。神津主は物部韓国連榛麿を榛谷の丘に葬る。

第40代天武テンム天皇の白凰3年(674年)夏6月 物部韓国連神津主の子、久々比命を城崎郡司とする。久々比命は神津主命を敷浪の丘に葬る(式内重浪神社:豊岡市畑上字宮843)
この時、大干ばつにより、雨を小田井県宮に祈り、戎器(*7)を神庫に納め、初めて矛立神事を行う。また水戸上神事を行う。後世これを矛立神事・河内神事と称し、歳時にこれを行う。
また、祖先累代の御廟を作り、幣帛を奉り、豊年を祈り、御贄田(*8)・神酒所(*9)を定め、歳時にこれを奉る。
また、海魚の豊獲を海神に祈る。これによって民の食糧不足を免れる。
よって、酒解子サカトケコ神・大解子オオトケコ神・小解子オトケコ神を神酒所ミキトに、保食ウケモチ神を御贄ミニエ村(のち三江村)に斎きまつる。(神酒所は式内酒垂神社:豊岡市法花寺字長楽寺725-1)

白凰12年(683年)夏閏4月 物部韓国連久々比は勅を受け、兵馬・器械を備え、陣法博士大生部了(*10)を招き、子弟豪族を集め、武事を講習する。また兵庫を赤石原に設け、兵器を収める。(元田鶴野村、現在豊岡市赤石)
楯縫連須賀雄を召し、奈佐村に置き、部族を率いて、楯・甲冑を作らせる。
葦田首金児を召し、三江村に置き、矛および刀剣を作らせる。
矢作連諸鷹を召し、永井村に置き、弓矢を作らせ、これを兵庫に納める。

物部韓国連久々比は、兵主神を赤石の丘に祀り、兵庫の守護神とする。祭神は武素盞嗚神。(式内兵主神社:豊岡市赤石字下谷1861)
楯縫連須賀雄は、その祖、彦狭知ヒコサシリ命を藤森に祀り、楯縫神社と称す。また藤森神社という。(村社赤藤神社:豊岡市庄字谷口390)
葦田首金児は、その祖、天目一箇命を金岡森に祀り、葦田神社と称す。また金岡神社という。(村社金岡神社:豊岡市金剛寺356-1)
矢作連諸鷹は、その祖、経津主神を鳥迷羅の丘に祀り、矢作神社と称す。また鳥迷羅神社という。(村社戸牧神社:豊岡市戸牧字福井1393)

第41代持統ジトウ天皇3年(689年)秋7月 本郡の壮丁(*11)および美含郡の壮丁らは気多郡馬方原(現在の豊岡市日高町三方)に至り、当国の大毅(*12)・忍海部広足に就いて、兵士の調練を受け、帰って楯野調練所に集まり練習する。

物部韓国連榛麿の子、当国の校尉、物部韓国連格麿は奉行であり、よってこの地を物部村という。

第42代文武モンム天皇の大宝元年(701年)秋10月 物部韓国連久々比が没す。三江村に葬り、その霊を三江村に祀り、久々比神社と称しまつる。(式内久々比神社:豊岡市下宮318-2)(久々比は鵠の倭名)

物部韓国連格麿の子を城崎郡の大領とし、正八位下セイハチイゲを授ける。
佐伯直赤石麿を主政とし、大初位上ダイショイジョウを授く。
大蔵宿祢味散鳥を主帳とし、少初位上を授く。

佐伯直赤石麿はその祖、阿良都(またの名は伊自別命)を三江村に祀り、佐伯神社と申しまつる。(また荒都神社という)(村社八幡神社?;豊岡市梶原613)
大蔵宿祢味散鳥はその祖、阿智王を吉井に祀り、大蔵神社と申しまつる。(村社大歳神社:豊岡市吉井434-3)

第45代聖武ショウム天皇は、金銅の盧遮那仏ルシャナブツ(東大寺大仏)を鋳造するために、金工・泥工・石工を諸国に募り、かつ大力の者を集め、その工事を助けさせる。
当国の校尉・物部韓国連格麿もまた募集に応じ、皇都に上り、よく大石を運び、工事は速やかに完成する。
天皇はこれを喜ばれ、天平17年(745年)春正月 物部韓国連格麿に姓大石宿祢を与える。

天平18年(746年)冬12月 本郡の兵庫を山本村に遷し、城崎・美含2郡の壮丁を招集し、兵士に充て武事を調練する。
佐伯直岸麿を判官とし、火撫直ヒナドノアタエ浅茅を主典とする。
判官・佐伯直岸麿は兵主神(素盞嗚神・武甕槌神)を山本村に祀り、主典・火撫直浅茅はその祖、阿智王を火撫の丘に祀る。(村社八坂神社:豊岡市日撫字谷口456-1)

第46代孝謙コウケン天皇の宝亀勝宝元年(749年)冬11月 物部韓国連三原麿は、姓を大石宿祢と称す。

第49代光仁コウニン天皇の宝亀10年(779年)春3月 大石宿祢三原麿の子、正躬を城崎郡司とし、正八位上を授く。
佐伯直弘世を主政とし、従八位下を授く。
大蔵宿祢味須鳥を主帳に任じ、大初位下を授く。
大石宿祢正躬マサミは、三原麿を葬り、祠をその傍らに建て、これを三原神社と申しまつる。(村社鏡神社:豊岡市三原730)

また主帳に命じ、神社の格例を定め、式典を挙げ、左社をもって式典の例に入る。

(神社10社記載省略)

第50代桓武カンム天皇の延暦3年(784年) ご遷都の時、但馬国城崎郡の佐伯直弘世は藻壁門ソウヘキモン(*14)を造る。よって正六位下を授けられる。

第53代淳和ジュンナ天皇の天長9年(832年)冬11月 従八位上 佐伯直弘主を城崎郡大領に任じ、道守部ミチモリベ貞躬サダミを主政に任じ、大家首手束オオヤノオビトテヅカを主帳に任じ、道守・大家ともに大初位下を授けられる。

道守部臣貞躬はその祖、建豊葉頬別タケトヨダノホオワケ命を智坂の丘に祀り、道守神社と申しまつる。(村社智坂神社:豊岡市福成寺209-1)
大家首手束はその祖、彦真倭命を結の丘に祀り、大家神社と申しまつる。(村社大家神社:豊岡市城崎町ゆい148)

第54代仁明ニンミョウ天皇の承和12年(845年)秋7月初め 但馬国城崎郡の無位絹巻キヌマキ神に正六位上を授けまつる。国司らの解状ゲジョウ(*15)に依る。

第57代陽成天皇の元慶2年(948年)春正月 佐伯直弘貞を城崎郡少領に任じ、従八位下を授く。
道守部臣貞世を主政に任じ、大初位上を授く。
大家首束雄を主帳に任じ、大初位下をを授く。

右(以上) 国司の解状により、これを進上する。

城崎大領正八位上 佐伯直弘麿
天暦5年(951年)辛亥3月21日


[註]

*1 天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は天照国照彦火明櫛玉饒速日命とも書く。瓊瓊杵尊 の 子・ニギハヤヒ(饒速日命)のことで、天火明命は瓊瓊杵尊の兄にあたる。天火明命とあるから尾張氏・海部氏の祖天火明命と混同するが、同一人物ではないとする。『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒとアメノホアカリは同一神としている。

*2 青雲弥生国 弥生は「ヤフ」と訓むべきであろう。このヤフにのち夜父と漢字を充て、さらに養父と好字に改めた。
*3 三嶋水門(みなと) 津居山港。当時はそれより上流の楽々浦であったかもしれない。
*4 嚮導 先だちをして案内すること。
*5 潮涸る珠 しおふるたま・しおひるたま 潮を引かせる霊力があるという玉。潮干珠・干珠ともいう。
*6 郡司 律令制下において、国造が国司に、県が郡になり、県主に替わり、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官で、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備される。
*7 浚渫(しゅんせつ) 水底をさらって土砂などを取り除くこと。
*8 戎器 戦争に用いる器具。武器。兵器。戎具。
*9 御贄田 神に供える米(稲)を作るための神社所領田。御神田。
*10 神酒所 神に供える酒を造る所。朝廷における酒造所は酒殿という。
*11 陣法博士大生部了 『日本書紀』に「陣法博士を遣わして、諸国に教え習わしむ」とあり、大生部了は城崎郡および養父郡において、大いに武事を教えた。しかしその素性は明らかでない。
*12 壮丁 成年に達した男。一人前の働き盛りの男子。労役や軍役に服せられる者。
*13 大毅 軍団の長
*14 藻壁門 平安京大内裏の外郭十二門のひとつで西面4つの門の北から3番目。
*15 解状 国司より郡司に令達する公文書のことだろう。


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