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第4章 2.一地方の国造ならば天日槍の「天」はあり得ない

2018/09/23
 
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「天」は、皇族以外でも考えられないのに、まして渡来人だとしたら天の神号を付与されることはありえない

アメノヒボコは新羅の王子で、帰化し出石に住み着いて初代多遅麻国造に就いた。

多くの人々は、ここの多くの疑問や矛盾があることに気づいていない。記紀でも百済国と友好関係にあり、その敵国であるはずの新羅国の王子であると淡々と記されている。

『記紀』の『古事記』『日本書紀』は、ヒボコについて詳しくは記していない。 しかし、なぜ、天日槍は、新羅の王子としながら、例外的に天皇家を表す天津神である「天」の日槍とし、皇統である神の名を与えているのだ。突如但馬に住み着いて、初代多遅麻国造に就く。ヤマトの政権のために何か役に立つことをしたとは記録されていない。これはあまりにも不自然で人為的にみえることが最大の疑問なのだ。

たとえば、天日槍を一字ずつに分けて、天は「海、海部のあま」と解釈する例がある。海を「あま」とも読み、漁業をもって仕えた朝廷や神社に御食として海産物を供進する部民を海部といった。京都府宮津市の日本三景天橋立の付け根にある丹後国一宮籠神社のご祭神は彦火明命ヒコホアカリノミコト(「天火明命アメノホアカリノミコト」、「天照御魂神アマテルミタマノカミ」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命ニギハヤヒノミコト」ともいうとする)で、代々海部家が神職を務められる。また素潜りでサザエやアワビなどを獲る女性を海女(あま)さんというのも海を“あま”と読ませている。

しかし、だからといって神号では天は天皇家の祖神「天津神」を表す神号で、。空(天)を海部に当てるのは無理があると思う。なぜかというと、神号の天津神の天の○○は高天原(宇宙)におられる神であって、海にまつわる神は国津神となるはずだ。仮名としての漢字である万葉仮名は言葉の意味は無いのでともかくとして、神社の御祭神である神号に限れば分かることだが、天が附されている祭神は、あくまでも天皇や皇室の神(天津神)の中でも中心に位置するさらに特別な天津神のみがつけることが許される神号である。また、神号の天は“アマ”とは読まず“アメノ”◯◯命と読むので海(アマ)とは読めない。

例外的に天照大神・天照大御神はアマテラスだが、この場合、続けて読んで意味を持つので、天御中主命のように「アメノ…」は、天津神である天の◯◯命とは異なる。天満宮=天神、天神社とも呼ぶ例はあるが、菅原道真の祭神名である天満大自在天神の略称で、そもそも「天の○○」という神号は、五柱の別天津神の天之御中主神や天照大御神からはじまる高天原の神で天津神という。ましてや高天原から天降った三貴子である太陽神アマテラス、弟神で月神のツクヨミ(月読命)、下の弟神で海原の神スサノオや、その子孫である大国主などでさえも地上に降りたら国津神とされて、天が冠されていないのに、渡来人であるならば日槍に天と与えることなどあり得ないと考える。皇室以外の豪族や地方の神は「国津神」とされ、天津神と区別される。

天が海や海部であれば、天日槍も「出石(の)命、海の日槍命、海部直日槍命などとなるはずである。神号の「天」が冠される神は、皇統である天津神のなかでも、とくに中心に位置する天之御中主命や天照大神(天照大御神)などごく一部に限られる。ヒボコが新羅国の王子であっても、軽々に渡来人で皇統でもない人物に「天」ろ許したり、海を天にしたりすること、国史である『記紀』が許すはずはないのだ。

皇室は同じ倭人でさえ、妃を娶ることはあっても、皇室以外から男子を入れることは拒絶し、男子一系を守るゆえに皇統が守られてきた。渡来人の東漢氏や西文氏が帰化して漢字伝授などで文官に招かれることはあったが、決して朝廷内では高い身分は与えられていなかった。高天原から天降ったスサノオや、その子孫である出雲大社の大国主などでさえ国津神と扱われているのに、まして但馬国という一地方の国造などに、新羅の渡来人であろうとなかろうと、皇統以外から養子に入るなど長い皇族の系譜からあり得ないのである。

何んで?よそから来ていきなり国造ってなれたりするの?

あまりにも突然に、しかもヤマト朝廷以外の但馬に帰化した渡来人が、初代の多遅麻(但馬)国造となる。作為的不自然である。

『国司文書 但馬故事記』は郡ごとに八巻あるが第五巻・出石郡故事記は、他の郡と異なり、全く不自然な出来事が記述される。

それまでの出雲系国造大己貴命が多遅麻(但馬)に入り、伊曾布・黄沼前・気多・津・薮・水石の県を開く。県主(のち国造)は代々世襲制であった。それまで出雲系の世襲制であった出石県主が、なぜか突如、アメノヒボコがやってきて初代の多遅麻(但馬)国造となるのだ。しかも、その時期が県を廃して国・郡と改め、中央集権を強化したタイミングが合致しているのだ。

渡来人が朝廷内の要職に就いたりできない

まずヒボコが新羅の王子であっても、渡来人であれば、どんなに優秀で倭国に忠誠を誓って帰化しようとも、中央の要職や国造に就けたりはしなかった。何世代もたって、すっかり日本人として認知されたのならまだ理解できるが、まして、渡来人であればなおさらのことだ。

渡来人として朝廷に宗教や文化を伝え帰化した氏族には、はた氏、東漢氏 (東文氏)やまとのあやうじ西文氏かわちのふみうじなどがある。朝廷は彼らを重用はしただろうが、王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である部民(制)である職人部としての待遇で低い身分であるといえる。まして、皇統では天皇家以外から女性を妃に迎えることはあっても、男系の天皇家が、皇統以外の血筋の違う男子に「天」の称号を与えられたりはしない。

それは丹波から切り離して但馬国を置き、中央の直轄力を高めねばなければならない止むに止まれぬ緊急の事情があったのではないだろうか。

少し長くなるが、ここはポイントなので暫く『国司文書 但馬故事記』を読んでみよう。

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡故事記

年代

クニツクリオオナムチ(国作大巳貴命)は、出雲国より伯耆・稲葉(因幡)・二県国(二方)を開き、多遅麻(但馬)に入り、伊曾布・黄沼前(城崎)・気多・津(朝来)・藪(養父)・水石(出石)の県を開いた。

オオナムチは、この郡(出石郡)のおられた時、地上に数夜光るものが見えた。その光は地をいくつも切り裂いて、白石があらわれた。その白石は突然に女神となった。

オオナムチは女神にあなたは誰だと訪ねた。すると女神は「私は因幡のヤガミヒメ(八上姫)と申します。夫との間に御子が生まれたのですが、夫は木の間に置いて去っていきました。ですが夫をずっと愛しているのでここで夫が帰るのを待っております。子は大屋の御井のもとに置いています。」と答えた。(式内御井神社 養父市大屋町宮本)

オオナムチはそれを聞いて、「おお、なんと愛しき少女であろうか。わたしはあなたを愛しく思います。」

二人の間にミズシノクシタマ(御出石櫛玉命)が生まれました。ミズシノクシタマは、アメノホアカリ(天火明命)の娘アメノカグヤマトメ(天香山刀売命)を妻にし、アメノクニトモヒコ(天国知彦命)を生みました。

第1代神武天皇は、アメノクニトモヒコを(初代)御出石県主に命じました。

6年春3月 アメノクニトモヒコは、オオナムチとミズシノクシタマを水石の丘にまつり、御出石神社と名付けました。(式内(名神大)御出石神社の古社地は水石とされる)

アメノクニトモヒコは、小田井県主(城崎郡の古名)イキシニギホ(生石饒穂命)の娘ニギシミミ(饒石耳命)を妻にしアメノタダトモ(天多他知命)を生みました。

第2代綏靖天皇6年、アメノタダトモは、御出石県主となりました。アメノタダトモは、美伊県主(のち美含郡)の娘フクイヒメ(福井毘売命)を妻にし、アメノハガマ(天波賀麻命)を生みました。

第4代懿徳天皇7年 アメノハガマは、御出石県主となりました。アメノハガマは丹波国造の祖フトダマ(太玉命)の娘・サチヨヒメまたはユキヨヒメ(幸世毘売命)を妻にし、アメノフトミミ(天太耳命)を生みました。

第5代孝昭天皇40年 アメノフトミミは、御出石県主となりました。アメノフトミミは、小田井県主サノ(佐努命)の娘サイヒメ(佐依毘売命)を妻にし、マタオ(麻多烏命)を生みました。

(ここから何故か突然、文脈が繋がらず…)

第六代孝安天皇の53年(孝安天皇の在位期間は算定で:BC392-291年、実年:西暦60~110年)、
新羅の王子・天日槍命が帰化しました。
天日槍命は、ウガヤフキアエズ(鵜草葺不合命・神武天皇の父)の御子・稲飯命イナイノミコトの五世孫です。

(このあとは他に書いているので省略。かなりくわしくヒボコのいきさつを詳細に記述している。いかにもこの不自然な流れを説明する必要があったのか)

61年春2月 天皇は、アメノヒノコを多遅麻国造としました。ヒボコは、御出石県主天太耳命の娘マタオ(麻多烏命)を妻にし、アメノモロスギ(天諸杉命)を生みました。

第7代孝霊天皇38年 ヒボコの子アメノモロスギを多遅麻国造としました。モロスギは、丹波国造フトウマシマ(真太味間命)の娘マエツミ(前津見命)を妻にし、アメノヒネ(天日根命)を生みました。

40年秋9月 モロスギは、アメノヒボコを出石の丘にまつり、そしてヤグサノカンダカラ(八種神宝)を納めました。(式内(名神大)出石神社 豊岡市出石町宮内)

(中略)

このあと、アメノヒネ(天日根命)が多遅麻国造となり、モロスギを出石丘にまつりました。(式内諸杉神社 豊岡市出石町内町)

ヒボコは中央から派遣された?!

作為的で極めて強い権力が働いたからだと考える。それはのちに律令時代から、国造にかわり、朝廷(中央)から各国へ国司が派遣された(但馬であれば但馬守タヂマノカミ)。しかしそれも平安期には国司に任命されても、実際は京の都に住み赴任しなくなっている。それは中世以降武士が台頭し、朝廷の実権が薄れてからも守護大名に但馬守などと称号を与えて、形式的に守という称号だけは残った。

近代になって、明治新政府によって中央集権が強化され、廃藩置県を行い、県令(いまの知事)としてそのまま藩主が就いたりしたが、とくに幕府寄りだった藩や兵庫県など重要な港だった県へは、中央から旧薩長などの旧藩士を赴任させたことを照らせば、ヒボこの時代と変わっていない。

ヒボコは倭国にタニハ(丹波国・のち分国する但馬・丹後を含む。分国で丹波を残し、中心だった日本海側を丹後と改め、国府を都に近い今の亀岡市に遷した)を組み入れるために派遣された中央の臣で、しかも天皇の皇統ではないかと考えれば「天」は腑に落ちる。

ここで改めて忘れてはならないのは、日本列島と大陸を結ぶ表玄関は、つい200年前の幕末の開国まで日本海側であったことを念頭に置いてみなかえればならない。西日本から列島を統一していった倭(ヤマト=大和)にとって、朝鮮半島に九州北部や出雲の方が近いが、陸路が整備されていなかった頃には交通手段は海路から発達していた。皇都から最も近い地方国では、近江(琵琶湖)から若狭国(現在の敦賀までを含む福井県西部)・丹波(丹後)であろう。もっと早いルートとして大和川から大阪湾に出て、加古川・由良川ルート(名付ければ丹後ルート)か、市川・円山川ルート(但馬ルート)であろう。

『日本書紀』でヒボコが辿ったルートは、瀬戸内海・淀川・琵琶湖・敦賀・但馬出石(日本海ルート)

『播磨国風土記』では、瀬戸内海・揖保川・円山川・但馬出石…市川・円山川(但馬ルート)

 

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