/ 12月 15, 2015/ ■作品集, アメノヒボコは日本人?!/ 0 comments

『但馬故事記』(第一巻・気多郡故事記)は、天火明命あめのほあかりのみことから始まる。天火明命は、ここでは天照国照彦天火明命あまてるくにてるひこあめのほあかりのみことと書かれ、(田庭(丹波)を国作大巳貴命くにつくりおおなむちのみことから授かり田を実らせ、)、国作大巳貴命の勅により但馬に入り、両槻天物部命なみつきのあめのもののべのみことの子・佐久津彦命に佐々原を開かせた。(中略)気多郡佐々前ささくま村これなり。(気多郡楽々前郷=現在の佐田・知見・篠垣・伊府・道場の稲葉川南岸)

(中略)

人皇1代神武天皇9年冬10月、佐久津彦命の子・佐久田彦命を(初代)佐々前県主となす。佐久田彦命は国作大巳貴命を気立丘に斎き祀る。

これを気立神社と称す(郷社 気多神社:兵庫県豊岡市日高町上郷)。
また佐久津彦命を佐久宮に斎き祀る。(式内 佐久神社:兵庫県豊岡市日高町佐田)
御井比咩命を比遅井丘に斎き祀り(式内御井神社:兵庫県豊岡市日高町土居、古くはヒジイと読む)

ヒボコの出石神社が大己貴命の気多神社や気多郡を睨んで建てられているかのようだ。

式内 気多(氣多)神社


兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227
式内社 但馬國総社[*1] 気多大明神
御祭神 「大己貴命(オオナムチノミコト)」

境内社には、八坂神社、須知神社、八幡神社、愛宕神社等が祭られている。

伝承や神話は、現実離れした話しが多いですが、しかしまったくでたらめなら意味もなく何代にも渡って語り継がれたものではないでしょう。
太古山陰地方は「大国主命」の支配地で、命は但馬や播磨では「葦原志許男命アシハラシコノオノミコト」と称させていた。

新羅国の王子「天日槍」が宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、「葦原志許男命」と支配地争いになったが、和解の結果、志爾蒿(シニダケ)山頂から両者三本の矢を射て支配地を決めることになった。

天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許男命の放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡にもう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条ミカタと云う。(式内御形神社 宍粟市一宮町森添)

つまり、「葦原志許男命」=オオナムチ=伊和大神とする。播磨国一宮伊和神社 主祭神大己貴神

と当社は、同じヒボコと葦原志許男命の国争いで葦原志許男命が放った矢のうち但馬に落ちた2本の矢で気多郡に落ちたその神社である。

そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許男命は新たに建立された「養父神社」と「気多神社」に「大己貴命」(おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(『播磨風土記』)

「国司文書」によれば気多神社は神武天皇九年(前651)に気立(気多)の丘に創建された。大化改新後は国府地区に但馬国府が設立され、気多神社は「但馬国総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郷一社の「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂、鐘楼、朱塗り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻により灰燼に帰した。

因みに『但馬故事記別記』(但馬郷名記抄)には、こう記されている。

気多は気多都ケタツ県なり。(故事記には気立県と書くものもある)この郡の西北に気吹戸主神の釜(神鍋山噴火口跡のことだろう)あり。常にケムリを噴く。この故に気多郡と名付け、郡名となす。今その山を名づけて「神鍋山」という。
気多神この地に鎮座す。祭神は国作大巳貴命・物部多遅麻連命(公武)・大入杵命三座。(郷社 気多神社のこと)
(現在のご祭神は 大巳貴命のみ)

大己貴命と葦原志許男命、大国主(オオクニヌシ)は同一神とされ、全国の出雲神社で祀られている。

気多神社がある上ノ郷の隣に中ノ郷がある。古くは気多郡葦田村で、『但馬故事記』に、鉄の鍛冶と関係する記載がある。

人皇神功皇后の2年5月21日、気多の大県主・物部連大売布命が薨ず。射楯丘(国分寺字石立)にもがりす。(式内売布神社 豊岡市日高町国分寺)

(中略)

子・多遅麻国造・物部多遅麻連公武は、
天目一筒命の末裔、葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、(今の中郷)
彦狭知命の末裔、楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(今の鶴岡多田谷)
石凝姥命の末裔、伊多首を召し、鏡を作らせ、(今の鶴岡)
天櫛玉命の末裔、日置部首を召し、曲玉(マガタマ)を作らせ、
天明命六世の孫、武碗根命の末裔、石作部連を召し、石棺を作らせ、(石作部の末裔に気多軍団の隊正に石井がいる。今の石井か?)
野見宿祢命の末裔、土師臣陶人を召し、埴輪・甕・ホタリ・陶壺を作らせ、(陶谷=式内須谷神社のある奈佐路)
大売布命の遺骸につけ…

(中略)

人皇16代仁徳天皇2年春3月 物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武の霊を気多神社に合祀す。

すでに述べたように、葦田は葦が生い茂り、そこからは褐鉄鉱が生み出されるから、製鉄、鍛冶作りの邑であったことが記されている。矛・楯を作る楯縫首の村とは、多田谷でタタノヤ=タタラの屋か谷であろう。ここも製鉄が行われていたことを思わせる。(朝来市にも多々良木がある)


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