/ 9月 28, 2018/ ■歴史考, タニハ/ 0 comments

『日本書紀』の崇神天皇の条に、四道将軍が各地に派遣されたとある。いずれも皇族(王族)の将軍で、大彦命おおびこのみこと武渟川別命たけぬなかわわけのみこと吉備津彦命きびつひこのみこと丹波道主命たんばみちぬしのみことの4人を指す。『古事記』では彦坐王が丹波に派遣されたとあるが、丹波道主命は彦坐王ひこいますのみこ・-おう(『日本書紀』では「彦坐王」、『古事記』では「日子坐王」)の子で、実際に遣わされたのが丹波道主命とも読めるし、一緒に派遣されたとも読める。

『日本書紀』によると、崇神天皇10年(西暦217年)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。四道とはこの四つの地方で、なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。

北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽道)は吉備津彦命、そして丹波には、丹波道主命が派遣されたのであるが、『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。
『地形で読み解く古代史』関 裕二 氏は、
垂仁天皇の最初の皇后は、彦坐王の娘、狭穂姫命で、垂仁4年の秋9月、狭穂姫の兄・狭穂彦王が謀反を企て、妹を誘い込もうとした。
「兄と夫のどっちが大切なのだ」
という狭穂彦王の言葉に躊躇する狭穂姫であったが、翌5年冬10月、眠っている天皇の前で、迷いに迷い、つい涙をこぼし涙が天皇の顔にしたたり、天皇は目を覚ました。狭穂姫が白状し、ことの経緯は発覚してしまった。
天皇は狭穂姫のせいではないと許すが、兵を挙げて狭穂彦王を征伐した。
応戦する狭穂彦王は、防御が固くなかなか破ることができなかった。
狭穂姫はこの様子を見て、
「私は皇后であるけれども、このような形で兄を失っては面目が立ちません」
そういって、皇子・誉津別命を抱いて、稲城に飛び込んでしまったのだ。
天皇は城の中に向かって説得するが、二人は出てこなかった。そこで火をかけると、狭穂姫が出てきて、
「この城に逃げ込んだのは、皇子と私がここにいれば、兄は許されると思ったからです。しかし、願いは叶わぬこと、私に罪があることを知りました。ですから、ここで死ぬだけです。けれども帝の恩は忘れません」
そう言い残し、炎の中に帰っていった。城は崩れ兵士たちは逃げまどい、狭穂彦王と狭穂姫は滅亡した。

問題はこのあとだ。
『日本書紀』に狭穂姫がなくなったあとの垂仁天皇の后妃の記述が残り、垂仁15年春2月10日の条に、「丹波の五人の女性を召し入れた」とあり、その中から日葉酢媛命がのちの皇后に立てられたとある。さらに垂仁34年春3月の条には、垂仁天皇が山背(山城)に行幸し、評判の美女を娶ったとある。
(中略)
なぜタニハの謀反のあと、垂仁天皇はタニハ系の女人ばかりを選んだのだろう。
これには伏線があったと『日本書紀』はいう。狭穂姫が天皇に別れを告げたとき、後添えのことに言及していた。
「私の後宮は、よき女性たちに授けてください。丹波国に五人の貞潔な女性がおります。彼女たちは、丹波道主命(日子坐王の子)の娘です。」
この最後の要望を、垂仁天皇は聞き入れたのである。

どうにもよくわからない。タニハ系の彦坐王の人脈が謀反を起こし、その上で、次の后妃もタニハからとっている。こうしてタニハの女人で埋まっていく。ヤマト黎明期のヤマトで、いったいなにが起きていたのだろう。タニハ(+山背)が、なぜ後宮を席巻できたのか。

(中略)

やはり、地形と地政学で、この謎は解けるのではないかと思えてくる。たしかにヤマトは国の中心にふさわしい土地だったが、日本全土を視野に入れて流通を考える場合、河内、山城、近江のラインが最も大切で、そこを支配する「タニハ連合」と手を組まなければ、政局運営はままならなかったからだろう。

東に向かった二人の将軍は、太平洋側と日本海側から東北南部に進み、福島県南部(二人が会ったから、「相津」(会津)の地名ができたという)で落ちあったという。早い段階の前方後円墳の北限は、ほぼこのあたりで、ヤマト建国時の様子を『日本書紀』編者がよく承知していて、その上で、「各地から多くの首長がヤマトを建国したのに、『日本書紀』の文面では、ヤマトから将軍が四方に散らばり、和平したことにしてしまった」のだ。
たとえば、ヤマト建国の中心に立っていたのは吉備だが、吉備にも吉備津彦命が派遣され、その末裔が吉備を支配するようになったとあるが、これは全く逆で、吉備がヤマトに進出しヤマト建国の中心に立ったのだ。『日本書紀』はこの事実を裏返して示している。

そこで日子坐王を考えれば、『日本書紀』は逆のことをいっていることに気付かされる。ヤマト建国の直前から新たな潮流を「タニハ」が起こし、「タニハ」のプロデュースによってヤマトは立ち上がったのだとすれば、『日本書紀』や『古事記』のいうように、「ヤマトからタニハに将軍・日子坐王が派遣された」という話は全く逆で、タニハからヤマトにやってきたとみなすべきだ。

10代崇神天皇は、四道将軍を派遣して支配領域を広げ、課税を始めてヤマト政権の国家体制を整えたことから、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。もしそれがタニハ連合(のち分国した但馬・丹後を含む丹波、若狭)+山城、近江、尾張が手を組み、ヤマトに進出し、あわてた吉備と出雲がヤマト建国の流れに乗ったのだ。

としている。

たしかに、ヤマト建国は、タニハなどの連合だったならば、ヤマト建国の主役はヤマトではなくなってしまう。これでは国家の史書として都合が悪い。『日本書紀』編者らは、その経過を知っていたので、四道将軍を創作し、朝廷が平定したのだと都合のいいように史実をひっくりかえして朝廷主導に書いたという氏の考察も、あながちそうではないと言い切れない。

しかし、『日本書紀』に「四道将軍はいずれも皇族(王族)」という記述は嘘だということになる。そして、「彦坐王はタニハからヤマトにやってきたとみなすべきだ。」とはどういう根拠なのかである。彦坐王の子・狭穂彦王と狭穂姫がヤマトにやってきたし、その後も彦坐王の子丹波道主命の娘5人が后・妃になっているが、彦坐王・丹波道主命がタニハからヤマトにやってきた形跡はないし、『日本書紀』に皇族(王族)で開化天皇の皇子としているが、地方豪族出身ということになる。編者らが朝廷に都合が悪い出来事は朝廷優位に改変することがあったろうとは思えるにしても、開花天皇の皇子などと捏造したとしたら、皇族にあまりにも不敬であろう。

丹波・但馬・二方の大国主 彦坐王

 

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