飛鳥-5 文字(漢字)の導入

文字(漢字)の導入

3.秦氏(はたうじ)

4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく、集団名・一族名を指している)です。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち、日本の国づくりを根底で支えたと言えます。

日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代にテイ族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。

山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。よって、河内国太秦は古くから本拠地として重視していたが、6世紀ごろには山背国太秦に移ったと考えられる。

桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっています。弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来しました。「秦」と書くように、弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもありますがその根拠はありません。土木技術や農業技術などに長けていた秦(はた)氏は、灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行いましました。また、養蚕、機織、酒造、金工などももたらしました。ヤマト王権(ヤマト朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていましました。

本拠地は京都山背太秦(うずまさ)がに分かっていますが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名があり、これを検討すると、河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5~6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)しています。

後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住みましました。中央での活躍と共に、秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで、全国規模で勢力を伸ばしていきましました。

しかし、秦氏の朝鮮半島の新羅から来たのも、元はといえば中国の秦から朝鮮半島沿いに日本列島にたどりついた過程でしょう。弓月君の祖先も秦からやってきたと考えます。畑という地名
畑(はたけ)だから畑と名付けたとするのが自然ですが、どこかしこにもある畑をわざわざ畑と名づけては区別がつきません。「徐」姓は名乗ってはいけない秦(シン)氏は、日本語読みに改めハタと名乗り畑と字を替えた。秦庄(ハタノショウ)などはそのまま畑ではなく秦氏の庄。
蛭子(エビス)

波多野氏

波多野氏(はたのし)は丹波の戦国大名です。

波多野氏と秦氏が関係あるかどうかは分かりません。しかし、出身地が秦氏の中心地太秦(うずまさ)に近い丹波であること、但馬に深い日下部氏を祖としている説があることで、気になるところです。

波多野氏出自については諸説あります。一説に相模波多野庄(神奈川県秦野市)に住んだ藤原秀郷の後裔の波多野義通を祖とする。また一説には因幡国八上郡田公氏の族とする。義通の妹は河内源氏の源義朝の妻となり、次男の朝長(源頼朝の兄)をもうけたとされています。さらに一説には桓武平氏系の三浦氏の出自とも、丹波の豪族・日下部氏の庶流ともいわれますが、前歴にはかなり不明な点が多いようです。

波多野秀長の代に応仁の乱で細川勝元方に属し、その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に勢力を扶植した始まりで、政元にも仕えて以後、波多野一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばしました。

秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正12年(1515年)、朝治山に八上城を築城し、ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たしました。

日下部(くさかべ)氏は、日本の古代から続く氏族。

日下部氏の後裔に、但馬・養父郡から分かれた戦国大名の越前朝倉氏がいます。
起源にはいくつかの説があります。

  • 開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
  • 孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)松尾大社京都府京都市西京区嵐山宮町秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を御神体として、701年(大宝元年)に創建したいわれています。社の由緒書によれば、「太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇した」とあるので、松尾大社の前身となる場がこの地域にあったと言えます。朝鮮半島より渡来してこの地に居住した秦氏は松尾山の山霊を現在の社地に遷し、これを総氏神として仰いだ。そして、新しい文化・技術をつかってこの地方一帯を開拓していきましました。平安京に遷都した後は都城を鎮護する神として崇められましました。松尾大社はお酒の神様として全国に知られています。また、中津島姫命は市杵島姫命(いつきしまひめのみこと:伊都岐島神)の別名で、市杵島姫命は厳島神社の祭神でもあります。(厳島神社の祭神は市杵島姫命、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神)。木島神社
    京都市太秦森ケ東町

    太秦周辺には蛇塚古墳や天塚古墳など秦氏と関係がある古墳があります。

    京都太秦地区を拠点としていた秦氏に関係のある神社として、「天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)」ほか3神を祀った木島(このしま)神社があります。正しくは木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社ですが、境内地にある摂社養蚕(こがい)神社から通称蚕の社(かいこのやしろ)と呼ばれています。秦氏が養蚕や機織りの技術を広めたことからここに祀られています。

    ここには日本で唯一の三柱の鳥居があります。どのような意味を持つのかは不明だが、キリスト教との関わりがあるという説もあります。

    4.東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)
    東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は、応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して、ヤマト王権(大和朝廷)のもとで文書記録、外交、財政などを担当しました。また、製鉄、機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらしました。初め直(あたえ)姓、のちに連(むらじ)姓・忌寸(いみき)姓を賜り、六~七世紀には政治・軍事面でも活躍しました。坂上田村麻呂らはこの一族。漢部(綾部)や錦部や統率しましました。「機織部=はとりべ」は機織(はたお)りの転で服部は同じ。雄略天皇の時、漢部は呉織(くれはとり)とともに中国から渡来したとされる機織りの職人。

    平安時代になると、東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではありません。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので、互いに対抗意識をもっていたのかもしれません。

    明日香 稲淵地区に龍福寺があります。ここにある石塔は、原形を止めてはいませんが、もとは朝鮮式の五重の石塔(日本最古の銘文入り層塔)と思われています。台の部分には「天平勝宝三年(751年)」「竹野王」の文字が彫られています。この地域が渡来人と深く関わっていたことがわかります。

    5世紀後半頃、今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述があります。東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)、鞍作(くらつくり)、金作(かなつくり)の諸氏を配下にし、製鉄、武器生産、機織りなどを行いましました。蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていきましました。

    西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で、古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え、日本に文字をもたらしたとされます。西文氏は河内を本拠地として、文筆や出納などで朝廷に仕えていましました。

    参照:飛鳥の扉 asuka-tobira.com/奈良文化財研究所

    5.葛城氏(かつらぎうじ)

    葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ)4世紀後半~5世紀前半頃?)は、武内宿禰の子の一人で、大和葛城地方の古代豪族葛城氏の祖として『記紀』に記されている。編年がほぼ正しく同時代史料が元となったと考えられる百済三書のひとつ、百済記にその名が見えるので、実在の可能性が高い。

    しかし、葛城氏が6世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」が本来的なウヂ名として存在したかについては疑問があり、ここでは従来の「葛城氏」の呼称を用いて便宜を図ることとする。

    始祖・襲津彦の伝承

    『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。

    襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも特に留意されるのは、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。本文はわずかだが、その分注には『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた。

    しかし「沙至比跪」の逸話が史実と見なせるかには疑問の余地があり、これを考慮すると、『書紀』の襲津彦像は総じて没個性的で、各々の記事間にも脈絡がほとんどない。このことから、襲津彦は特定の実在人物ではなく、4・5世紀に対朝鮮外交や軍事に携わった葛城地方の豪族たちの姿が象徴・伝説化された英雄であったと見る説もある。

    大王と葛城氏の両頭政権

    葛城氏の特徴として、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である?媛(はえひめ、?は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を設けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。このような婚姻関係の形成は、葛城氏と大王家の政治的連携が、婚姻策によって保たれていたことを意味しよう。
    しかも葛城氏は、大王家の支配から相対的に自立しうる私的な軍事的・経済的基盤を維持していた。先の襲津彦伝承に見たような対朝鮮外交を通して、葛城地方に定住することになった多くの渡来系集団が、葛城氏の配下で鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとみられる。渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、大王家のそれと肩を並べるほどであり、両者の微妙なバランスの上に、当時のヤマト政権が成立していたのであろう。 当時の王権基盤は未熟な段階にあり、大王の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったことを考慮すれば、直木孝次郎の説くように、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと表現出来る。

    衰退と滅亡

    だがこのような両頭政権には、一度両者間の協調関係に亀裂が生じると、次第に崩壊してしまうという脆弱性を内在していた。『書紀』によれば、允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓(御所市宮山古墳か)に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したとみられる。同時にヤマト政権の朝鮮における軍事的影響力は衰え、対朝鮮政策は苦境に陥った。

    高尾張邑に土蜘蛛がいて、身の丈が短く、手足が長かった。侏儒に似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆いとらえてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。

    要するに、高木と葛のつるで覆い尽くされたような原野が広がっていたのであろう。

    神と人の間の葛城

    『神武紀』

    磯城邑に磯城の八十梟師がいます。葛城邑に赤銅の八十梟師がいます。
    『神武紀』の言葉の対応から見ると、葛城=赤銅と。それほどの銅を産出したのだろうか。

    『神武紀』

    椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。

    『神武紀』から見える事は、葛城は銅が産出する地であること。銅鐸の製造の痕跡は出ていないが、銅鐸祭祀の氏族が住んでいたのかも知れない。銅鐸は長柄から出土している。銅鐸祭祀氏族を鴨氏の源流と云ってもいいのかも知れない。朝町の大穴持神社の鎮座する山から五百家付近には銅を採取した痕跡が残っていると云う。幕府直轄領であった。現在、山は堺屋太一氏の実家の所有と云う。

    剣根を葛城国造とした記事があるが、国造の制度はもっと後世のものであり、要は葛城のボスを追認したと云う意味であって、記紀を作成した王権の見栄だろう。
    以下、剣根について若干。

    葛木出石姫と伊加里姫

    天村雲命に娶られた伊加里姫は井氷鹿の名で『神武記』に登場します。
    「吉野河の河尻・・より幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」とあります。吉野には井光神社(イカリ)が鎮座しています。

    では何故、この神が當麻(タギマ)の長尾神社の祭神になっているのでしょうか。長尾街道は吉野・壺坂から当地をで竹内街道と交差、更に北上してから西に折れ、堺につながる街道です。このことから吉野への関心からの勧請と云う説があります。ここでは違う説を建てます。イカリの神は丹後ににに鎮座していました。これは、大三元さんのサイトで分析されている『丹後風土記残欠』に紹介されていました。「伊加里姫社」の祭神だそうです。  現在は舞鶴市公文名の笠水神社となっているようです。

    天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。この姫の名は日本海から葛城への流れを現す神と思われます。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。出石神社の神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。

    ここに葛城の勢力と丹後、但馬の勢力との連携の姿が見えるようです。系譜の中に倭宿禰命の名も見えます。椎根津彦のこと。長尾市は倭直の祖でもあり、伊加里姫の子に倭宿禰命がいるのもそう云うこと。

    神々のこと 難波の比売碁曾神社

    珂是古とは物部阿遅古のことで、宗像神を祭った水沼君の祖のこと。先の小郡市の媛社神社には棚機神社、磐船神社の扁額がかかっており、媛社神を棚機神と見ていることになります。

    タナバタ、日本の棚機、大陸の七夕、本来違うものだったものが習合したものであるとか諸説あるようです。伝承の発生や伝達の時が早いのか遅いのかの程度の差で、タナバタの言葉から見て元々は同じものだったのでしょう。
    タナバタ伝承、これは織布技術が織姫(織工女)とともに渡来してきたということ。
    もう一つの磐船神社の名、これは物部阿遅古が祖神を祭ったのでしょう。祭神は饒速日尊。

    こうして見ますと、肥前の媛社神社の神は宗像神の御子神と言えます。ここに下照姫の事が思い起こされます。ヒメコソと云えば、摂津国東生郡(鶴橋)に比売許曽神社が鎮座、この社の近くにも磐船伝承が残っており、肥前国とのつながりを示しているようです。

    『古事記』応神記に「天の日矛の渡来譚と難波の比売碁曾神社の話があり、阿加流比売神が坐します。」とあります。阿加流比売神は摂津国住吉郡(平野区)の赤留比売命神社に祀られており、下照比売神と阿加流比売神とは復層気味。この女神達、織姫でもあり、太陽の女神でもあり、天照大御神にも似ている所があります。」

    神々のこと 二上神社

    大和国當麻は當麻物部の拠点、二上神社の祭神に豊布津神の名が見えます。鹿島神宮の武甕槌神のこととされていますが、元々は物部の神だったのでしょう。饒速日神の降りられた哮峯は二上山のこととは蟹守神社宮司さんの説。これは當麻物部の哮峯ということ。余談ですが交野物部の哮峯は磐船神社付近となりましょうか。

    蟹守宮司の祭神の「天忍人命」とは『古語拾遺』では、掃守連の遠祖で、箒を作り産屋に近づく蟹を掃ったとあり、現在では産婆の神になっています。

    天忍人命は、天村雲命の日向での御子神とされており、當麻が日向とか丹後とつながっていることを示しているようです。対馬の志々伎神社や伊予の高忍日売神社の祭神。

    この高忍日売神ですが、忍はオシで照の意があるとすれば、高照姫に通じ、鴨の女神と云うこと。

    葛城の垂見宿禰と但馬

    但馬(タジマ)の地名は葛城の當麻(タギマ)郷[*1]として大和盆地に現れます。
    『古事記』開化天皇記に「開化天皇は葛城の垂見宿禰の女、ワシヒメを娶して生みましし御子、建豊波豆羅和気。一柱。」

    「建豊波豆羅和気王は、道守臣・忍海部造・御名部造・稲羽(因幡)の忍海部・丹波の竹野別・依網(よさみ)の阿毘古等の祖なり。」との記載があります。

    これについて、門脇禎二著『葛城と古代国家』によりますと、建豊波豆羅和気王が祖とされている葛城の忍海部、河内の依網の阿毘古(よさみのあびひこ)、丹波の竹野別(たにはのたけののわけ)、稲羽(因幡)の忍海部(おしぬびめ)の諸氏は葛城から日本海側への一つのルートにのっていて、神戸の垂水から加古川沿いに北上、由良川を下って氷上(ひかみ)から丹後へつながるルートを想定されています。初期の葛城に拠点を置いた豪族の勢力の動向を示していると云うことです。

    『日本書紀』垂仁天皇八十八年に、但馬に拠点を持つ天日槍(アメノヒボコ)の末裔の清日子(スガヒコ)や多遲麻毛理(田道間守)は、大和へ出てきていることになっています。ヒボコが持ってきた宝物を見たいと云うことになって、「天日槍の曽孫の清彦(清日子)が自ら神宝を捧げ献上した。」との記事があります。『紀』では清彦の子が田道間守となっており、彼は非時(ときじく)の香美を探す旅に出るのです。清彦以降の天日槍の後裔は大和に居住したのでしょう。香芝市の畑、また川西町の糸井神社などが考えられます。

    『古事記』では、清日子は當摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶り、菅竃由良度美(スガカマユラドミ)をもうけています。當摩之咩斐(タギマノメヒ)は當麻の出でしょう。菅竃由良度美は葛城の高額比賣命の母親。即ち息長帶比賣命の祖母と云うことになります。

    葛城の高額比賣命の高額、まさに香芝市の畑に比定されています。ヒボコの末裔の居住に相応しい所。

    『常陸国風土記』には行方郡に當麻(タギマ=当麻)郷が出てきます。道路が凸凹でたぎたぎしかったから、即ち「悪し路」のこと。また『古事記』で倭建命の最後のシーンで、当芸(峠)の野に来た時、「吾が足え歩かず、たぎたぎしくなりぬ。」と云われたとあり、足をひく、高かったり低かったりとの注釈があります。當麻の道もそのような道だったのかも知れません。
    [*1]…當摩は佐賀の邪馬台国説あり。
    葦田神社の「足いたの伝承」と似ています。

    6.倭文(しとり)神社

    いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)を祀る神社。
    建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたもの。その本源は奈良県葛城市(旧當麻町)の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている。

    延喜式神名帳には以下の社名が見える。

    葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)
    奈良県葛城市(旧當麻町)の二上山山麓にある神社である。式内大社で、旧社格は村社。単に倭文神社(しずりじんじゃ)とも呼ばれる。

    天羽雷命(あまはいかづちのみこと)を主祭神とし、右殿に摂社・掃守神社(天忍人命)、左殿に摂社・二上神社(大国魂命)を配祀する。
    天羽雷命は各地に機織や裁縫の技術を伝えた倭文氏の祖神で、当社は日本各地にある倭文神社の根本の神社とされる。

    • 伊勢国鈴鹿郡 倭文神社(現 加佐登神社(三重県鈴鹿市加佐登町)に合祀)
    • 駿河国富士郡 倭文神社(静岡県富士宮市星山)
    • 伊豆国田方郡 倭文神社(現 鍬戸神社(静岡県三島市長伏字石原)ほか論社複数)
    • 常陸国久慈郡 静神社(しずじんじゃ)(茨城県那珂市)鹿島神宮に次ぐ常陸二の宮
    • 甲斐国巨摩郡 倭文神社(山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮)
    • 上野郡那波郡倭文郷 倭文神社(群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東)
    • 丹後国加佐郡 倭文神社(京都府舞鶴市今田津ノ上)
    • 丹後国与謝郡 倭文神社(京都府与謝郡野田川町三河内)
    • 但馬郡朝来郡 倭文神社(兵庫県朝来市生野町円山)
    • 因幡国高草郡 倭文神社(鳥取県鳥取市大字倭文字家ノ上)
    • 伯耆国河村郡 倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)
    • 伯耆国久米郡 倭文神社(鳥取県倉吉市志津)
      他に以下の倭文神社も著名である。
    • 倭文神社(岩手県遠野市)
    • 倭文神社(奈良県奈良市)
    • 美作国久米郡倭文郷倭文神社(岡山県津山市油木北)
    • 淡路国三原郡倭文郷倭文神社(兵庫県南あわじ市倭文)。
      ▲ページTOPへ

    7.日下部氏(くさかべうじ)

    古事記には、次のとおり記されている。

    「この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部(かつらぎべ)を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部(みぶべ)を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。」

    とあります。それぞれの部が何の職務かわかりませんが、大日下王は別名「大草香皇子」なので大阪草香邑で、波多は秦で渡来系ですから、崇神・垂仁から続く半島との繋がりを明確に正当化しているのでしょうか。
    日下部氏は開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家の後裔や越前朝倉氏であると記されています。いずれにしても、日下部氏は、古事記や日本紀といった神話をはじめ、丹後や肥前、豊後、播磨などの風土記にもその名が見える一方、平城京跡や佐賀県唐津市の「中原遺跡」などから日下部の名を記した木簡が出土していることから8世紀初頭には、全国的に展開していたことはほぼ間違いないようです。

    天孫族説では、天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒコホノニニギノミコト)と木之花佐久夜卑売(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた火須勢理命(ホノスセリノミコト)を祖としています。

    火須勢理命は日本書紀における海幸彦、弟は山幸彦。
    天神説では、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫である天照国照彦火櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)(元伊勢籠神社)を祖とする。地祇族説では、近畿から九州にかけて分布していたと思われる先住民族・隼人(ハヤト・ハヤヒト)を祖とする。隼人は九州南部の阿多・大隈・日向・薩摩などの地に居住していたとされる人々の呼称。「古事記」では木之花佐久夜卑売の御子神、火照命が隼人阿多君の祖とする。「日本書紀」では火須勢理命は隼人等が始祖と註がある。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    3.百済王

    百済王(クダラノコニキシ)氏は、百済最後の王である義慈王直系の善光を始祖とする日本の氏族。百済を氏・姓(本姓)とし、持統朝に王(こにきし)姓を賜ったとされています。
    当初より主たる者に従五位下以上が与えられ、中下級官人にとどまる者が多い帰化人のうち別格の地位にありました。

    平安時代は、初期とくに桓武天皇の母(高野新笠)が百済系和氏であったため、「百済王等者朕之外戚也。」(同二月二七日条)と厚遇を受けました。女子を桓武天皇・嵯峨天皇の後宮に入れ、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得ました。本貫地、河内国交野(カタノ)への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られます。

    百済王氏の本拠地は当初難波にありましたが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し、この地に百済王の祀廟と百済寺を建立しました。百済寺は中世に焼失しましたが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残ります。奈良時代末期には俊哲が陸奥鎮守将軍征夷副使などに任じ、武鏡は出羽守となるなど、敬福(きょうふく)以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続しました。8世紀に敬福が、陸奥守として黄金を発見し、東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍しました。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社です。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもあります。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残ります。飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)
    大阪府羽曳野市飛鳥1023番地

    式内社(名神大社)で、旧社格は村社。

    素盞嗚命が祭神

    創建の年代は不詳であるが、奈良時代よりも前とみられる。
    5世紀に渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地。

    『日本の神々3』によると、延喜式神名帳の河内国安宿郡の名神大社。当地は古墳時代に飛鳥戸と呼ばれた。
    出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください