戦国6 織田信長の躍進

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
[catlist id=36 orderby=title order=asc]

織田信長の躍進

概 要

目 次
  1. 家督争いから尾張統一
  2. 桶狭間の戦いから清洲同盟へ
  3. 第一次信長包囲網
  4. 第二次信長包囲網

織田信長は、尾張統一を果たし、また徳川家康が独立して戦国大名となります。越前攻め、武田が滅び、安土城を築城。上洛を開始しました。織田軍団が全国制覇に動き出します。
但馬国では永禄十二年(1569)、毛利氏からの要請を入れた織田信長の羽柴秀吉軍が羽柴秀長を指揮官に派遣。与力に藤堂高虎や宮部善祥房らを配属し、二回但馬攻めを行いました。

1.家督争いから尾張統一

 当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡の守護代であった「織田大和守家」当主にして清洲城主・織田信友が実権を掌握していました。
しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その秀でた智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していました。信秀の死後、信長が後を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持し、信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により傀儡(かいらい)にされていた尾張国守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告しました。これに激怒した信友は、義統の嫡男・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。
このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君・義統を殺した謀反人として殺害します。
こうして尾張下四郡の守護代「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めました。織田氏の庶家であった信長が名実ともに織田氏の頭領となりました。叔父の信光も死亡しているが、死因は不明です。弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死しました。信長も道三へ援軍を出したが、間に合わなかったと言われています。こうしたなか、信長の当主としての器量を疑問視した織田氏重臣の林秀貞、林通具、柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた信長の同母弟・信勝を擁立しようとしました。これに対して信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、両派は対立します。

道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もった信勝を包囲しますが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免しました。しかし、弘治3年(1557年)、信勝は再び謀反を企てます。このとき、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病いと称して信勝を清洲城に誘い出し殺害しました。

こうして信長は、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立しました。

2.桶狭間の戦いから清洲同盟へ

 織田信長は、尾張統一を果たした翌年・永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いののち今川氏を破り、今川氏の支配から三河国の徳川家康が独立して戦国大名となります。永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化していました。その際、信長は妹・市を輿入れさせました。永禄9年(1566年)には美濃の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳でした。このとき、井ノ口を岐阜と改称しています。また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになりました。

このころ中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立します(永禄の変)。久秀らはさらに義輝の弟・足利義昭の暗殺も謀ったが、義昭は細川藤孝、和田惟政ら幕臣の支援を受けて京都から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていました。

永禄11年(1568年)9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始しました。こうして、三好長慶以来中央政治を牛耳っていた三好・松永政権は、信長の電撃的な上洛によってわずか半月で崩壊し、代わって足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生しました。

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限するため、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになっていくことになります。元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで北近江の盟友であった浅井長政に背後を突かれるかたちとなってしまいます。突然の窮地に追い込まれた信長であったが、殿(しんがり)を務めた池田勝正・明智光秀・木下(藤吉郎改め)秀吉・徳川家康らの働き(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れた。信長が京に帰還したとき、従う者はわずか10名ほどであったといわれています。

これを機に、将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化しました。義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成しました。対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川家康軍とともに浅井・朝倉連合軍と合戦する(姉川の戦い)。進退に窮した信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、帝の命をもって浅井・朝倉軍との和睦に成功した。大久保忠教の記した『三河物語』によれば、このとき信長は義景に対して「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」とまで言ったといいます。

元亀2年(1571年)9月、信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた延暦寺を焼き討ちにした。これは、浅井・朝倉連合軍に協力したことに対する報復であったとされている。
元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(のちの織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していました。しかし戦況は信長有利に展開し、8月には朝倉軍の武将・前波吉継と富田長繁、戸田与次らが信長に降伏したという。
10月、足利義昭の出兵要請に呼応した甲斐の武田信玄は、遂に上洛の軍を起こした。武田軍の総兵力は3万。その大軍が織田領の東美濃、並びに徳川領の遠江、三河に侵攻(西上作戦)を開始する。これに対して織田・徳川軍も抵抗した。元亀4年(1573年)4月5日、正親町天皇から勅命を出させることによって義昭と和睦しました。4月12日、武田信玄が病死。これにより武田方は軍を返し、甲斐へ帰国しました。
信玄の死去によって勢いを得た信長は態勢を立て直した。そうして7月、叛旗を翻して、二条城や槇島城に立て籠もっていた足利義昭を破り、京の都から追放。これをもって室町時代に終止符を打った。加えて7月28日には元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させました。
▲ページTOPへ

3.第一次信長包囲網

尾張国を平定し、美濃国、伊勢国、近江国へと進出した織田信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、三河国の徳川家康と同盟(清洲同盟)し、畿内の平定や本願寺攻め(野田城・福島城の戦い)を進めていました。信長と義昭の関係は当初は良好でしたがしだいに険悪化し、元亀元年(1570年)に義昭は独自の外交を志向しはじめます。義昭は反織田勢力に呼びかけ、自身を盟主に織田家に反発する近畿地方の諸勢力を団結させ、包囲網が結成されました。同時期に、甲斐国の武田信玄は信濃を平定して領国を拡大し、信玄後期には外交方針が転換し駿河侵攻が行われていました。信長は美濃平定で武田領国と接していたため武田と誼を通じ、駿河侵攻に際しては将軍義昭に周旋して甲越和睦の調停を試みており友好路線をとっていましたが、駿河を平定した武田は甲相同盟を回復すると、元亀2年(1571年)10月には大規模な遠江・三河侵攻を行い織田・徳川連合との対立が決定的となります。

信玄には織田・徳川連合を駆逐して上洛意図のあったことが指摘されており、元亀3年(1572年)には西上作戦が開始されます。同年10月には三方ヶ原の戦いで家康を撃破し、さらに西上しました。同年12月に浅井長政の援軍として近江において織田軍と対峙中の朝倉義景が、突然本国への撤退を始めた。この撤退によって信玄がもくろんでいた織田軍分散計画は破綻。武田軍の進軍速度は極端に鈍りました。翌年3月には京都で将軍義昭が挙兵するものの信長に制圧され、4月には信玄が死去し、西上作戦は中止されました。

最大の脅威であった信玄が死去したことを知った信長は、一気に攻勢に出ました。信玄なき今、もはや信長と立ち向かえるほどの余力が残された勢力はなく、なすすべもなく各個撃破されていきました。こうして信玄の死から一年足らずで浅井・朝倉・三好といった勢力は信長に滅ぼされ、将軍足利義昭も京から追放されました。

4.第二次信長包囲網

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で攻め殺され、3月、信長は上洛して従三位参議に叙任されました。9月29日、兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出て、これを信長も了承しました。しかし、信興や信広という信頼する兄弟を殺された信長は、一揆衆の退去する動きが遅いこともあり、船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせることで攻略しました。しかし一揆側も激怒した一部が織田軍に襲いかかり、信長の弟・織田秀成らを討ち取りました。

さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒に対しては、城の周囲から包囲して討ち取りました。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって討ち取られたといわれています。この戦によって信長は長島門徒の反乱を治めることに成功しました。

天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任します。

同11月28日、信長は嫡男・織田信忠に 織田家の家督ならびに美濃・尾張などの領地を譲って建前上隠居しました。しかし、信長は引き続き織田家の政治・軍事を執行する立場にありました。

天正4年(1576年)1月、信長は琵琶湖湖岸に安土城の築城を信長自身が指揮を執り開始します。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成しました。天主内部は吹き抜けとなっていたといわれています。イエスズ会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っています。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住みました。信長はここを拠点に天下一統(近年、俗に天下統一とも言う)に邁進することとなります。

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田家に具わっていました。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせました。これら信長配下の新設大名を「軍団」とか「方面軍」などと呼称する研究者もおり、今日では一般書でもかなり見かける記述となっています。もちろん当時はそのような名称はありませんでした。

織田方面軍団

  • 北陸方面:柴田勝家を方面軍総司令官として、与力に前田利家や佐々成政らを配属。
  • 中国方面:羽柴秀吉を方面軍総司令官として、指令官に弟羽柴秀長・藤堂孝虎、黒田官兵衛や蜂須賀正勝らを配属。
  • 畿内方面:明智光秀を方面軍総司令官として、与力に細川藤孝・忠興父子や筒井順慶を配属。
  • 関東方面:滝川一益を方面軍総司令官として、与力に森長可や川尻秀隆を配属。
  • 四国方面:信長の三男・信孝を方面軍総司令官として、与力に丹羽長秀や蜂屋頼隆らを配属(天正10年結成)。
  • 対本願寺方面・佐久間信盛軍団
  • 東海道の抑えは徳川家康謙信の死後、御家騒動を経て後を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・織田信忠、滝川一益、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを(黒井城の戦い)、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備しました。
    織田軍は謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登・加賀を奪い、越中にも侵攻する勢いを見せました。天正6年(1578年)3月播磨の別所長治の謀反(三木合戦)が起こり、また、毛利は激しい抵抗を行い、同年7月、上月城は毛利の手に落ちて山中鹿之介ら尼子再興軍という味方を失います(上月城の戦い)。10月には摂津の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し、本願寺と手を結んで信長に抵抗します。一方、村重の与力であり東摂津を領する中川清秀、高山重友は信長に降伏しました。

    同年11月6日、第二次木津川口の戦いで毛利水軍が信長考案の鉄甲船6隻に大敗を喫し、孤立した石山本願寺と荒木村重は毛利の援助を受けることができなくなりました。このころから信長方は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、村重が妻子を置き去りにして有岡城から逃亡すると城は落城し、荒木一族の大半が処刑されました。次いで10月、それまで毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。翌・天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。同年4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田有利の条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨、但馬、天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めに追い込み因幡、さらには岩屋城を落として淡路を攻略しました。

    天正7年(1579年)、伊勢の出城構築を伊賀の国人に妨害されて立腹した織田信雄は独断で伊賀国に侵攻し、大敗を喫しました。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせました(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を再び総大将とし、6万の軍勢で伊賀を攻略。伊賀は織田家の領地となりました(第二次天正伊賀の乱)。

    天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の生母の築山殿に対し切腹を命じました。理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田勝頼への内通などです。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げましたが、最終的に家康は2人を自害させました(これに関しては異説もある)。

    天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦さに係る不手際を理由に追放処分としました。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放しました。

    出典: 「日本の近世」放送大学準教授 杉森 哲也
    「ヨーロッパの歴史」-放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
    「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
    武家家伝

    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

    ▲ページTOPへ

戦国群青色(ぐんじょういろ #4c6cb3最初のページ戻る次へ
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください