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『但馬故事記』から読み解く但馬国府の所在地

但馬国府の所在地は、但馬史の長年の謎とされている。

日本後紀にほんこうき』延暦23(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」と書かれていることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府移転が考えられる。遷された理由や、どこからどこへ遷したのかについては、記述がないため分からないので今後も発掘調査にかかっているが、所在地については、近年の国道312号バイパス発掘調査により、その移転先は、旧日高町役場からにある祢布(にょう)ヶ森遺跡から国道312号バイパスまであると考えられている。「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」とあるから、この発見は、移転後の第二次、第三次国府だとされている。
ではなぜ、祢布ヶ森遺跡が但馬国府と考えられるようになったのか。

祢布ヶ森但馬国府は条里制に収まっていた

但馬国府は少なくとも三回移転が行われていることがわかっている。

第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もあった。
『日高町史』には
但馬史説・国府村誌説・日置郷説・八丁路説・八丁路南説・国司館移設説が記されている。

詳細はご覧いただくとして、国分寺と国府は、まず距離的に近い場所に造られるのが通例である。国分寺と国分尼寺は移動がなかったことがほぼ確定しており、その付近が濃厚だということになる。国分寺と国分尼寺のあった水上(正確には山本)は隣接区でその2ヶ所を底辺とする二等辺三角形の頂点に国府があったものだと考えると、その三角形の頂点にあたるのが深田遺跡で、この国分寺の近くに国府(国衙)が最初に建設されたと見るのが妥当であろう。

国府と国衙

府とは、『国司文書・但馬故事記』に府と記されているように政務を執る施設のことですが、国府と国衙を同一視する説もあります。通常、国府とは令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市をいい、国司が政務を執る施設(国庁)を国衙(国の役所)という。

川岸遺跡(官衙跡)
兵庫県豊岡市日高町松岡(JR山陰線東側市道建設時)
・川岸遺跡出土(昭和59年)
人形、斎串、馬形、木製品、須恵器、土師器など

都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

深田遺跡(官衙跡)
兵庫県豊岡市水上字深田他(国道312号バイパス建設工事発掘調査)(平成6年)
・深田遺跡出土
木簡、木製品、墨書土器、金属製品、須恵器、
土師器など
(一部兵庫県指定文化財。平成6年度指定 兵庫県立考古博物館蔵)

祢布ヶ森遺跡
(国道312号バイパス袮布交差点北から豊岡市日高総合支所まで)
・祢布ヶ森遺跡出土
多数の木簡、木製品、祭祀具、墨書土器、須恵器、土師器など

長く続いていた国府推定地をめぐる論争は、以下の川岸遺跡・深田遺跡2ヶ所の発掘調査で、国衙と思われる官衙跡が見つかりほぼ断定されてきた。


2011.資料:2011.5.22 「第45回 但馬歴史講演会」但馬史研究会
「祢布ヶ森ニョウガモリ遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡 孝彰氏より

以下、私個人の推察

通常、人々は山間部から稲作が伝わり、田んぼの作業に近い場所に定住するようになり、村が生まれると平野部へと下がってくるものだ。また、国府は水運に便利な円山川に近い平地からやや高い高田郷へ遷ったとすれば、それは何を理由にしたのだろう。台風や天災による水害に見舞われたのか、不便だったからに他ならない。なぜ国学寮は三方郷から移動しなかったのか?

官衙跡とされる深田遺跡(水上)、川岸遺跡(松岡)は、ともに隣接地なので同一のもとも考えられるが、水上という地名の通り、縄文期までは円山川下流域は黄沼前海キノサキノウミという入江で、海抜が0mに近い地点である。すぐ北は城崎郡、東は出石郡、南は養父郡、朝来郡で、西は蘇武岳を越えると七美郡、美含郡、二方郡、また山陰道につながり、但馬国八郡のどまん中である。国府を置くには最適地だ。しかし、それは大水による水害かあるいは地震による地盤沈下と倒壊なのか、移転せざるを得ない止むに止まれぬ大きな事情が起きたからではないかと思っていたのである。

また、興味深い事実を知った。平安期にも縄文海進のような平安海進があったというのだ。8世紀から12世紀にかけて発生した大規模な海水準の上昇(海進現象)と減少を繰り返していた。ロットネスト海進とも呼ばれているが、日本における当該時期が平安時代と重なるためにこの名称が用いられている。ローズ・フェアブリッジ教授の海水準曲線によると、8世紀初頭(日本の奈良時代初期)の海水面は、現在の海水面より約1メートル低かった。10世紀初頭には現在の海水面まで上昇した。11世紀前半には現在の海水面より約50センチメートル低くなった。12世紀初頭に現在の海水面より約50センチメートル高くなった。

8世紀初頭は現在の海水面より約1メートル低かったが、10世紀初頭には現在の海水面まで上昇しているのだ。高田郷に移転したのが、延暦23(804)年であるから、この平安海進の時期に符合するのだ。

最初の国府は国府(郷)にあった

奈良時代に律令制が全国的に整備されものが国と国府(国衙)・国分寺・〃尼寺で、

『国司文書・但馬故事記』に、

人皇42代文武天皇庚子4年春3月、二方国を廃し、但馬国に合し、八郡と為す。
朝来・養父・出石・気多・城崎・美含・七美・二方これなり。
府を国府邑に置き、これをツカサドる。従五位下・櫟井イチイ臣春日麿を以って、但馬守タジマノカミと為す。
櫟井臣春日麿は孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命の孫、彦姥津命五世の孫・大使主命オホオミノミコトの裔なり。

とあるから、律令制度による最初の但馬国府は国府村(官衙跡とされる深田遺跡(水上)、川岸遺跡(松岡)辺り)で間違いないだろう。

大宝3年春3月、国司櫟井臣春日麿はその祖大使主命オオオミノミコトを市ノ丘に祀る。
5月市場を設け、貨物を交易す。しかして商長首宗麿命アキオサノオビトムネマロノミコトを祀る。(式内 伊智神社の現在地 豊岡市日高町府市場935)

「国司櫟井臣イチイノオミ春日麿はその祖大使主命を市ノ丘に祀る。」とあるから、式内 伊智神社の現在地は豊岡市日高町府市場935であるが、遷座される前は国府所在地に近い市が開かれた市ノ丘という丘の場所であったであろう。『国司文書・但馬故事記』に見る限り、第一次但馬国府は国府村内ということになる。しかも美努(三野)神社は国府村に祀ったとしている。美努は今の野々庄だ。遷座されていないものとすると、当時の国府村はいまの府市場から野々庄までを指したのかもしれない。

『但馬国司文書別記・第一巻・気多郡郷名記抄』に、太多タダ郷・三方郷・佐々前ササクマ郷・高田郷・日置郷・高生タコウ郷・国府・狭沼サノ郷・賀陽カヤ郷とある。

国府は国府所在地なので、あえて郷は付けないのだろう。
国府内の村名は山本(古くは八上ヤカミ)・土居ヒヂイ村・伊智村・堀部・美努ミノ・熊野・柴垣・池上イキノエ上石アゲシ

美努(三野)ミノ神社は国府村に祀ったとしている。
同時期の『但馬郷名記抄』には美努とあり、美努は式内三野神社から今の野々庄。気多郡郷名記抄に国府村は記載がないにも関わらず、美努村としないで国府村と記されている。それは、どういうことなのだろう。国府村が戸数増加により分村し美努村が分かれたのか。

『但馬故事記』註解の吾郷清彦氏は、それぞれの但馬国史文書編纂時期を調べているが、『但馬故事記』・『但馬郷名記抄』は、ともに天延3年に完成している。しかし、最初に編纂された第一巻・気多郡故事記から第八巻完成まで、起稿 弘仁5年(814)-脱稿 天延2年(974)で160年という長い年月をかけているわけである。その長い年月の間に国府村・美努村と変遷があったのかもしれない。しかし、国府の郷にあって国府村とするには、国府所在地だったからで、何んらかの根拠があったからではないか。伊智村は市場を意味する。『和名抄』にはいまの地名である府市場に近い国府市場コウノイチバとなっている。国府に近いに違いないが、国衙(国府が置かれていた区画)の所在地ではない。山本は元は国府郷に入っていたことが、国府所在地のヒントだといえないだろうか。国分寺はいまの国分寺区、国分尼寺は今の水上ミノカミ区でともに高田郷である。国分寺と国分尼寺は礎石が残っており、場所は確定されるので、国衙は2つを底辺に二等辺三角形の頂点だと考えられる。それらに近い場所であるはずだから、発掘調査で水上字深田から川岸遺跡の松岡辺りのJR山陰本線西周辺である可能性が高くなった。第一次国府はその近い位置に置かれたとすれば、深田遺跡は高田郷であり、松岡は当時日置郷にあるからおかしいことになるが、深田遺跡とは隣接地である。『日本後紀』延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」がその唯一の記録である。中央から地方に派遣された任官が中央に報告しないと『日本後紀』に記録されるはずはない。第一次但馬国府は、高田郷には近いかも知れないが、高田郷の水上・国分寺・祢布あたりではなく国府(郷)であった。そうでないと、「高田郷に遷す」と、わざわざ書かないだろう。高田郷ではない国府(郷)でなければならない。

第二次但馬国府は高田郷

さて、但馬国府は何かの理由で最低一回は移転されている。おそらく国府平野が海抜0メートルに近い低湿地であったことが原因だったのではないかと思う。国衙が河川の大きな水害に遭ったのだ。祢布ケ森遺跡で大量の木簡などが発掘された、水害を免れるより高い場所の高田郷の祢布(市役所日高振興局周辺)である。

ところが、『国司文書・但馬故事記』は、律令以前の府を克明に記してあり貴重であるが、人皇50代桓武天皇御代に関する記述は、。『日本後紀』にある延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」がまったく記されず、こう記してある。

人皇50代桓武天皇延暦3年冬12月 本国、大毅外従六位上、川人部広井、私物を集めて、公用に供す。勅して外従五位下を賜う。
4年春2月 外従五位下、川人部広井、本姓を改め、高田臣を賜う。

国の正書『日本後紀』に但馬国府移転が記載されるというのは国の重要事項なのに、但馬国府の国学の任官であるはずの執筆者等にとっては、知っていながらさしたる重大事でなかったのだろうかと不思議である。

(続いて、)人皇52代嵯峨天皇大同5年夏5月11日 兵士300人を以て健児と為し、健児一人ごとに馬子二人を置く。
弘仁3年春正月 従五位下、良峰朝臣安世を但馬介と為し、国学寮をして但馬故事記を撰ましむ。これを国司文書と云う。

国衙移転という大事業の時期なのに、軍団は簡素化され、歴史書を編纂し始めると、いたって平穏な印象である。

また、ここは水上といって、出石町にも水上ムナガイという同じ漢字の地名がある。いずれも黄沼前海が入り込んだ低湿地帯のそばであったと思われる岸辺だった。この田園地帯は海抜0メートルに近い場所である。国衙を置くとすれば水害に遭わないように少しでも海抜が高い場所を選んだはずで、沖積土壌で地盤も軟弱だ。

条里制が布かれた頃は、水位が下がってすっかり国府平野も安定していたのかどうか分からないが、国衙もその条里の正方形の一画に組み入れられ計画されたのだあら、その当時は、すっかり平野ができていたのだろうか。

『国司文書・但馬故事記』を見ると、延暦3年(784)には、かなり中央集権からその土地の人々に権限を移譲していったのがが分かる。弘仁3年(812)春正月 従五位下・良峰朝臣安世を以って但馬介タジマノスケと為し、とあり、但馬守は国司で、介はその次官であるので、「弘仁3年(812)春正月 従五位下・良峰朝臣安世を以って但馬介」とあり、この頃すでに国司は任地に赴かず、次官の介を派遣していたようだ。実務上の最高位は次官の介であった。
この3点の年月は10年以内で、中央集権機能は簡素化されていったのだろう。

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