自民党の再評価(2)

091126082_188x141
事業仕分け 自衛隊員の増員認められず

日テレNEWS24

高度成長~源流からバブル経済まで~

 日本経済は敗戦によって、1935(昭和10)年当時の水準に戻ってしまったとされる。しかし、敗戦からわずか6年後の1951(昭和26)年には国民総生産は戦前の水準を取り戻し、昭和30年代に入ると高度成長の時代を迎え、1968年にはアメリカに次ぐ自由圏第二位の「経済大国」へと発展した。

 そうした高度経済成長を方向づけたのは、1960年代に成立した自民党池田勇人内閣が打ち出した、所得倍増計画である。それは、積極的な財政・金融政策により、高水準の設備投資や産業基盤の整備を進める大型の公共投資を展開して、10年後の1970年までに国民総生産を二倍に拡大させ、所得水準も西ドイツやフランスの水準に近づけようとしたものである。当時の国民の多くは、考えられないことだという反応を示した。

 計画の柱は、次の通りであった。
一、社会資本の充実(道路・港湾などをはじめとする経済活動に不可欠な社会資本の充実)
二、産業構造の高度化(公共投資を梯子に、鉱工業部門を柱とする日本の産業構造の高度化)
三、貿易促進(輸出の促進による経済成長)

 特に力が注がれたのが生産の基盤となる公共投資であり、一兆円にのぼるオリンピック関連事業の八割は、新幹線・地下鉄・首都高速道路などの交通網の整備に投下された。また、技術革新などの国際競争力の強化や、割安な円為替相場を背景に、貿易の自由化が進められるなかで日本の輸出は拡大していった。こうして日本経済は、計画当初の年率7.8%という予想を上回り、実質で11%の急成長を遂げ、70年のGNPは計画の1.7倍にも達したのである。

 この年成長率11%というのは、同時期の欧米諸国の二倍、戦前日本の約三倍、という突出した高さである。この過程で、日本経済はイギリス・西ドイツを追い抜いて、アメリカに次いで自由圏で世界第二位の経済力を持つに至った。産業構造の高度化が進んでいった。農林水産業部門の比重が急速に低下する一方、重化学工業が工業部門の七割を占めるに至った。大平洋ベルト地帯を中心とする工業地帯が全国各地に作られた。

高度成長の経済的土台

 しかし、高度成長は政策だけでいきなりやってきたわけではない。政策の受け手となる経済実態がなければ成長は実現しない。

 日本は敗戦によって多くの人的損害のほか、空襲などによって生産設備が約四分の一失われるなど打撃が非常に大きかったが、繊維産業を代表とする民需工業は軍需生産や生産力拡充政策によって設備を増強した重工業や化学工業のかなりの部分は戦後に残された。技術者や労働者も残っていた結果、経済の高度化が進んだ状態で戦後を迎えたのであった。
 また、機械・自動車・飛行機などの部門で大企業を中心に下請制度が発達し、戦後に引き継がれた。軍需会社と金融機関との関係が強化され、一つの金融機関に多くの企業が結びつく金融系列といわれる企業グループが形成されたのもこの時期であった。

 日本的な特徴とされる企業単位で結成される企業別組合も、戦後の社会保障制度の基礎となった健康保険や年金保険の制度が整備されたのも戦時中であった。金融では、統制経済の強化により日銀の金融統制力が強化されたことにより、金融政策における窓口規制が機能する素地が形成された。これは、公定歩合や預金準備率の上げ下げや公社債の売買などの金融市場のメカニズムを利用した金融政策とは異なり、直接市場銀行に対して貸出枠を設定して守らせるという統制政策であった。戦後に市中銀行の資金力が弱体化し資金を日銀に依存するようになると、この政策は強い政策効果を発揮するようになったのである。
 また、国家総動員法などによる経済統制の推進に伴って強化された官庁による産業界への統制力は、戦後に引き継がれた。経済復興を促進する諸政策を通じて、通産省と諸産業、運輸省と海運・造船業などの間に、官庁が政策的支援を行うなかで非公式に指導を行うという、日本の競争力の源泉として国際的に有名になる行政指導へと継承されることになるのである。

 さらに、敗戦後には経済の民主化を押し進める占領政策により、財閥解体や農地改革、独占禁止法の制定、労働の民主化などの戦後改革が実施され、競争的な環境が生み出されていったことも重要な要因であった。
高度成長の光と影

 高度成長の要因として、政策の基調が「富国強兵」ならぬ「強兵」なき「富国」におかれ、経済復興を優先した政策が展開されたこと、国際的環境として、世界全体の経済成長が高くまた資源開発が進んで、原材料の輸入や輸出に好影響をもたらしたことなどを挙げることができる。

 しかし、経済力に比較して割安な円相場と、安価な石油資源への依存という構造は、1970年代にはいると崩れていった。対米輸出の増加の結果、日本は1970年代に西ドイツに次いで世界第二位の対外支払準備高を擁するに至った。一方アメリカは、1960年代後半に、産業の世界的地位の相対的低下やアメリカ企業の海外投資に加えて、ベトナム戦争の膨大な戦費支出もあって、国際収支が赤字となり、金準備高が減少した。

 こうした事態を受けて、ニクソン大統領はドルと金の交換停止を含むドル防衛策を発表した。これはドルを基軸通貨とする世界経済に大きな影響を及ぼし、西欧諸国は12月にドルの各国通貨の再調整、為替変動幅の拡大などからなる合意を発表した(スミソニアン体制)。日本も1ドル360円の固定為替レートを308円に暫定的に切り上げたが、結局国際収支の不均衡は是正されなかった。

 1973年10月6日、エジプト軍がスエズ運河東岸を奇襲したことに端を発した第四次中東戦争が起こり、特に石油消費量の99%を輸入に頼り、77.5%を中東の産油国からの安い石油に依存していた日本経済は、まさに危機に陥った。

 国内では1973年秋から1974年春にかけて、石油連盟による闇カルテルや、便乗した買い占め売り惜しみにより、猛烈な物価上昇が起こり、「狂乱物価」と名づけられた。便乗値上げと相まって、灯油やプロパン、ゴム製品などの石油化学関連製品はもとより、砂糖、塩などにも広がる事態となった。

 田中首相は福田赳夫を蔵相に登用、高度成長の再来を目指す列島改造からインフレ克服による安定成長へと大きく舵を切ったのである。このアラブ諸国がとった石油戦略をきっかけに、資源ナショナリズムが台頭し、経済面だけでなく、政治面でも世界を動かす要因となった。

 さらに世界的には1973年2月にヨーロッパにおけるドルの下落により通貨危機が再燃し、各国が変動相場制に移行したため、スミソニアン体制は崩壊したのである。このため外国通貨に対して円の価値がいっそう上がり(円高ドル安)、輸入増大はインフレに拍車をかけたのである。

 石油危機は、列島改造ブーム、ドル安・円高のなかで起こったため、日本経済は三重苦のなかで世界のなかでも最も激しいインフレ圧力にもがき苦しむこととなった。石油の確保にめどが立つとインフレは次第に沈静化したが、生産の低下、雇用の減少などにより、1974年の実質成長率はマイナスとなったのである。

 1971年の変動相場制への移行が、安い円の時代の終わりであったとすれば、1973年の第四次中東戦争による第一次石油危機、1979~80年イラン革命を契機とした第二次石油危機は、安い石油の時代の終わりを告げるものであった。高度成長は、世界情勢の変化のなかで終わりを迎えたのであった。

~おわりに~

 戦時経済のもとで準備された日本経済の成長力は、第二次大戦後の高度成長を実現させ、日本を経済大国に押し上げた。しかし、高度成長を支えた国際的条件であった安い石油と安い円は、為替の変動相場制への移行と、二度に渡る石油危機により消失し、高度成長は、1970年代の世界情勢の大きな変化のなかで終わりを迎えた。その後の日本経済は、貿易摩擦と円高の危機のなか、構造転換をとげることにより一層競争力を強めていったが、その行き着いた先はバブル経済であった。

 第二次大戦後の日本経済の怒濤のような変化の上に現在の日本経済が存在する。21世紀の新たな経済の構築に向けて、20世紀後半の日本経済の軌跡を再評価することが不可欠であろう。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Scroll to top