筑紫紀行 巻九より 1 播但道を粟賀へ

筑紫紀行は、尾張の商人、菱屋平七(別名吉田重房)が、伯父の商家「菱屋」を継ぎ40歳で楽隠居となり江戸から九州まで広く旅を楽しんだ。この紀行は享和2年(1802)3月名古屋を出て京・大坂を経由して九州長崎を旅したときの記録である。当時の旅行記として出版され、明治にも多く読まれていたようである。
巻1から10まであり、巻9は湯島(城崎)温泉と丹後へ紀行文となっている。但馬の江戸享和期の地勢が詳しく記されているので興味深い。

(変体仮名、続き文字等で難解な箇所は□で記す)

(姫路から)これより大坂に直ちに登るには、加古川に至り高砂を見て明石、須磨の浦、兵庫、西の宮、尼ケ崎を経て大坂に入る。いわゆる播州を廻ること。世人のよくする事なれば珍しきくもなし。

予年来、但馬たじまの温泉に浴をもの志ありしかども、得果さりしに。
この度よきついでなりとおもい立ちて此夜(今宵)荷物書状など取認めて大坂に送って預かり置きて。その用意をしてぞせる(横になって休む)。

八日卯の刻に立ち出て、(姫路)城の西の方を出、堀際を北へ行く。東の裏の方を南へ行けば町家を出るを、東に行く事五丁*1ばかりにして郷町へ出づ。また十丁ばかり行けば茶屋多し。三、四丁行けば白国村の道の傍らへ人家六、七軒あり茶屋なし。

七、八丁行けば砥堀村。人家五、六十軒。出口に茶屋一軒あり。下砥堀村人家三、四十軒あり茶屋なし。一丁ばかり行けば、丹生野にぶの(今の仁豊野?)駅。姫路よりここまで一里半。人家五十軒ばかり茶屋あり。町の中通りに溝川あり。

十丁ばかり行けば小川あり。石橋より渡る。ニ、三丁行けば犬飼村。農家四十軒ばかり茶屋なし。二十丁余り行けば馬橋村。人家十四、五軒。商家酒屋あれど茶屋なし。姫路よりこの辺まで三、四里、四方の平地なり。小石ありて道悪し。十丁ばかり行けば溝口村。人家四、五十軒、茶屋なし。

これより山間いの細道にて、溝口坂といって小さき山を一つ越え行くこの道、甚だ不自由にして、物事を申しいずいとさびし。中国筋の道々さえも東海道などに比べる事は似べくもあらずただ□□ありしにましてこの道は□き道なれば宿駅の内にても食物など心に任ぜず頃、日照り続きぬる暑さゆえ堪えしのんで茶を飲まんとするに。茶屋なきところ多い事は。詮方なく農家に立ち入りて家を守るという老婦に冷茶を乞い得てさわりに喉を潤すの事なり。

一里ばかり行けば新町という間の宿あり。人家五、六十軒。町の中通りを小溝川あり。茶屋、宿屋あり。ここを出て大川の堤の上を二十丁余り行けば、千束。人家二軒あり。これより山の尾を廻れば川へ添いて十五、六丁行けば□まぢ。人家五丁ばかり間に百軒ばかり。果てに茶屋あり。前に細き溝川流る。名草の滝の流れありという。この内にところてんを冷やして売る。二丁ばかり行けば近平村。人家二十軒ばかり茶屋なし。

十丁ばかり行けばちむら村。人家三十軒ばかり茶屋なし。十四、五丁行けば福渡村。人家四、五十軒、茶屋なし。五、六丁行けば大川。かちより渡る。水増されば舟にて渡る時もありという。川を渡れば尾形。(丹生野よりこれまで五里)人家五、六十軒。宿屋茶屋あり。堤道を半里ばかりゆけば谷川あり。歩いて渡る。大内口(おおごち)村、人家二十軒ばかり、茶屋なし。半里行けば谷川あり。歩いて渡る。

一丁ばかり行けば福本町*2。松平伊勢守殿(一万石)の在所なり。郷町四、五丁あり。商家、茶屋、宿屋あれど間の宿なり。二丁ばかり行けば、粟賀あわがの駅。(尾形よりこれまで一里四町)福本領*3なり。人家百四、五十軒。仏霊という銘の茶を出す。茶屋宿屋あり。河内屋傳右衛門という小宿へ。

(続きは2へ)

*1 1丁(1町)=約109.09m、1里=約3927.2m
*2 福本 現在の兵庫県神崎郡神河町福本
*3 福本領 福本藩 播磨国神東郡の福本陣屋(現在の兵庫県神崎郡神河町福本)に藩庁を置いた藩。ただし、藩(大名の所領)であったのは江戸時代初期および明治維新期のごく短期間であり、その間は交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)池田家の知行地であった。

『筑紫紀行』巻1-10  巻9
吉田 重房(菱屋翁) 著 名古屋(尾張) : 東壁堂 文化3[1806] /早稲田大学図書館ホームページより

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