たじまる 戦国5 山名氏の内乱と家臣の台頭

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

山名氏の内乱と家臣の台頭

1.山名家の内訂

赤松勢に大敗北した蔭木合戦ののち、赤松政則と浦上則宗との間に妥協が成立、一枚岩となった赤松軍は勢力を増大、それまでの守勢から攻勢に転じるようになりました。そして、文明十八年正月、山名勢は英賀の合戦に敗北、垣屋遠続らが戦死しました。さらに同年四月、坂本の戦いにも敗北した山名政豊は、書写坂本城を保持するばかりに追い詰められた。長享二年(1488)、坂本城下で激戦が行われ、敗れた山名方は結束を失っていきました。窮地に陥った山名政豊は、但馬への帰還を願いましたが、垣屋氏をはじめ但馬の国衆らはあくまで播磨での戦い継続を求めました。さらに嫡男の山名俊豊も撤収に反対したため、追い詰められた山名政豊は、ついに坂本城を脱出して但馬に奔りました。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な敗走となったのです。

この衰運を予言するかのように、文明十五年(1483)八月に播磨に勢力を回復した赤松政則を討つために此隅城(このすみじょう)から出兵しましたが、「出兵の翌日出石神社の大鳥居の横木が落ちて、前途の不安を皆の者が思いやりました。」と記録され、まさに山名氏の運命を暗示するような不吉な出来事でした。

但馬に逃げ帰った山名政豊に対して、但馬国衆はもとより、山名俊豊を擁する備後国衆らは背を向けました。なかでも一連の敗北で、多くの犠牲を払った山名氏の有力被官で播磨守護代を任されていた垣屋氏と、政豊の間の対立は深刻さを増していました。さらに、備後守護代であった大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせ、俊豊が政豊に代わって家督として振舞ったようです。
明応の政変によって将軍足利義材が失脚。義材に従って河内に出陣していた山名俊豊は窮地に陥りました。ただちに但馬に帰った俊豊でしたが、与党であったはずの垣屋・太田垣氏らが今度は政豊方に転じたため、但馬は俊豊の意のままにはならない所となってしましました。

しかし、この山名政豊と山名俊豊父子の内乱は、確実に山名氏の勢力失墜を招く結果となりました。乱において政豊・俊豊らは、垣屋氏・大田垣氏ら被官衆への反銭知行権の恩給を濫発、みずから守護権力を無実化し、結果として垣屋氏・大田垣氏らの台頭が促したのです。とくに垣屋続成は俊豊と対立、政豊・致豊の重臣として領国の経営を担うようになりました。

明応二年(1493)、山名俊豊は山名政豊の拠る九日市城を攻撃、どうにか俊豊の攻撃をしのいだ政豊は、逆に俊豊方の塩冶・村上氏を打ち取る勝利をえました。以後、政豊と俊豊父子の間で抗争が繰り返されました。

情勢は次第に政豊方の優勢へと動き、ついに山内氏の進言をいれた俊豊は備後に落去していきました。明応四年(1495)、政豊は九日市城から此隅山城に移り、翌年には俊豊を廃すると次男致豊(むねとよ)に家督を譲り、備後守護も譲ったことで山名氏の内訌は一応の終熄をみせました。

2.有力国人衆の離反

戦乱が続く中で、室町幕府は次第に衰退していき、将軍・守護らは徐々に力を失い、遂に家臣団・国人らが実力を持つ下克上の時代となりました。但馬国も例外ではなく、守護山名氏は実力が伴わない象徴的な存在となっていきました。その後、永正元年(1504)には、此隅城の山名致豊(むねとよ)と重臣田結庄方に対抗して重臣の垣屋氏が反旗をひるがえし、八月から九月中旬にかけて戦いが続き、出石神社のあたりまで戦場となり、社殿や寺まで戦火にあって焼けてしまうという事件が起こり、永正三年(1506)六月になって将軍足利義澄(よしずみ)の仲介で和解しました。

永正九年(1512)には致豊(むねとよ)は出家して宗伝と号し、誠豊(のぶとよ)を惣領として、十八年間国中の政治を任せ、致豊の次男祐豊(すけとよ)を但馬守護にしましたが、この頃はかつての山名氏の威勢は全くなく、わずかに但馬一国を守るのがやっとのありさまでした。

垣屋続成の台頭は致豊との対立を誘発、やがて両者は対立関係となりました。永正元年(1504)、出石郡坪井の山名氏を垣屋氏が襲いました。この時、出石神社が兵火のために火災に遭っています。垣屋続成に此隅山を攻められましたが、和議が成立して最悪の事態は回避されたものの山名氏の衰退は決定的でした。さきの蔭木合戦の敗退、政豊と俊豊父子の内訌、有力家臣の自立によって、山名氏は戦国守護大名の地位が閉ざされたといえるでしょう。

政豊の子、致豊(やまな おきとよ)が継ぎますが、1512(永正八)年、「山名四天王」と呼ばれる太田垣氏・八木氏・田公氏・田結庄氏ら有力国人衆に離反を起こされてしまいます。山名四天王は致豊の弟山名誠豊を擁し、但馬国において強い影響力を及ぼすようになりました。山名氏の衰退とともに独立色を強め、西に毛利氏、東に織田氏が台頭すると、二派に分かれ抗争を繰り広げ、山名氏の衰退をさらに加速させました。。

3.但馬山名氏と因幡山名氏の対立

永正九年(1513)、致豊(おきとよ)は弟の誠豊(のぶとよ)に但馬守護の家督を譲りましたが、これは垣屋・太田垣氏らの策謀によるもので、致豊にとっては不本意な引退でした。家督となった誠豊(のぶとよ)は、権力基盤を強固にするため、因幡山名氏の内政に介入しました。そして、因幡国守護山名豊重の排除を策し、豊重の弟豊頼を援助して豊重を布施天神城に討ち取りました。誠豊をうしろ楯てとして因幡山名氏の家督となった豊頼でしたが、こんどは豊重の子豊治の攻勢を受け、永正十二年(1515)には豊治が因幡守護となっています。豊治は妹を将軍足利義材の側室に送り込むなど、守護権力の強化を図り誠豊と対立しました。両者の抗争は繰り返され、誠豊は豊頼の子誠通(のぶみち)を応援して豊治と対抗させました。

大永二年(1522)、播磨国守護赤松氏と重臣浦上氏の擾乱で揺れる播磨に侵攻しました。ところが、赤松政村と浦上村宗が和睦して山名勢に対したため、敗れた誠豊は翌年に播磨から撤退せざるをえませんでした。この播磨出兵の失敗は、誠豊の権力後退につながり、「山名四天王」の垣屋氏をはじめ太田垣・八木・田結庄氏らの台頭がますます促されました。一方で因幡において誠豊と対立していた豊治がにわかに急死したことで、誠通が因幡守護に収まりました。なんとか因但を支配下においたかに見えた誠豊(のぶとよ)でしたが、大永八年(享禄元年=1528)、死去しました。誠豊のあとは、致豊の長男祐豊(すけとよ)が継ぎ、但馬守護に任じました。
祐豊(すけとよ)は、山名致豊(おきとよ)の次男として生まれ、致豊の弟で但馬の守護を務めていた山名誠豊(のぶとよ)の養子として入り但馬守護を継ぎます。

天文11年(1542)、「銀山旧記」によると、山名祐豊(すけとよ)が生野銀山を支配し生野平城を築き盛んに操業しました。生野鉱山が発見されたのは807年(大同2年)と伝えられていますが、詳しい文献資料がなく、正確な時期は不明です。

祐豊は、此隅山城(このすみじょう・豊岡市出石町)を本拠にすると因幡進出を企図しました。しかし、祐豊(すけとよ)にしてみれば誠豊が擁立した誠通は、父致豊を引退に追い込んだ誠豊派であり許し難き存在でした。後楯を失った誠通は、祐豊に対抗するため出雲の尼子晴久と結ぶと、名を久通と改めました。因幡国衆もまた誠豊の死によって但馬からの自立を願い、これを糾合した久通が天神山城(鳥取県)で兵をあげました。以後、但馬山名氏と因幡山名氏の間で戦いが繰り返され、天文十五年(1546)、久通は多治見峠において討死しました。

久通を討ち取ったのち、祐豊は因幡の残敵勢力の掃討戦を行いました。そして、弟豊定を因幡に派遣、豊定は天神山城に入ると因幡の支配にあたりました。その後、豊定の子豊数は武田氏の攻撃を受けて敗北、天神山城から退転、中務太夫豊国が因幡守護となりました。

生野銀山と太田垣氏

戦国末期に至り、ついに太田垣輝延、垣屋・八木・田結庄ら山名の四天王は但馬の有力国人衆とはかって守護山名致豊(いたとよ)に離反し、誠豊(まさとよ)を擁立して但馬の領国経営の実権を握りました。以後、垣谷光成・八木豊信・田結庄是義ら四頭が割拠し但馬を四分割しました。
天正三年(1575)、信長の指令を受けた羽柴秀吉が中国征伐を進めると、太田垣輝延は八木豊信・垣屋豊続を擁立して毛利氏の吉川元春と「芸但和睦」を結び、秀吉に対抗しました。しかし、結局は秀吉によって没落の憂き目となりました。輝延以降の系図は残っていないようです。

生野銀山は、山名氏支配の時代が約十五年の間続いたのですが、弘治二年(1556)、朝来郡を任された家臣である太田垣朝延の反逆によってこの城塞を占領され、銀山の経営を奪われることになって、祐豊は本城である有子山城(出石城)に追われてしまったのです。それ以後朝延は、自分の家臣を代官としてこの城に駐在させて銀山経営にあたり、秀吉の但馬征伐までの永禄・元亀時代の約二十年の間を自分のものとして続けてきました。
それからは実権が徳川幕府に移り、滅ぶまでの約二百七十年間、生野奉行が置かれ、鉱政庁として利用されていました、そして明治維新の改革で明治二年(1869)に生野県がおかれた時、その役所としてこれまでの代官所に使用されていた館などがそれにあてられました。

しかし、同四年廃県となった時に、この由緒ある建物は払い下げて売られ、取り壊して何一つなくなり、ただ石垣と外堀だけが昔を偲ぶ城跡として残っていました。しかしながら、史跡を守り文化財を重要視する現代と違った大正時代に、この生野の歴史的価値のある平城を惜しげもなく取り崩し、埋め立てて宅地に造成するなどによって、その存在した事実さえ知らないというのが、この城にまつわる物語であります。

4.但馬争乱と八木氏

因幡と但馬のあいだを結ぶ山陰道が通じる養父郡は、重要な要衝です。その養父郡を統治していた八木宗頼には長男遠秀を頭に四人の男子がありました。遠秀は山名持豊に仕え、「忠にして孝、武にして文、修斎治平の才」に恵まれた武士でしたが、文明元年(1469)六月、二十七歳で早世しました。そして、宗頼のあと八木氏を継いだのは豊賀でした。延徳三年(1491)八月、山名俊豊が上洛したとき、従した武士に八木氏が見られますが、豊賀であったと思わされています。豊賀も早世したようで、その弟で三男貞直が家督を継ぎました。貞直は、兄豊賀の生存中は僧門にあったようで、その卒去により還俗して、八木氏の家督を継いだようです。明応六年(1497)に小佐郷内の田一反を妙見日光院へ寄進していることが史料に残されています。

四男が宗世で、一説によれば、この宗世が宗頼の家督を継いだともいい、惣領が名乗る受領名但馬守を称しています。しかし、その息子誠頼は八木氏の家督を継ぐことはかなわなかったらしく、八木氏の家督は誠頼の従兄弟にあたる直宗(直信?)が継いだようで、直宗が但馬守を称しています。

戦国時代の永正九年(1512)、八木豊信は垣屋・太田垣・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁しました。以後、八木豊信と垣屋光成・太田垣輝延・田結庄是義らが但馬を四分割するようになりました。

国道9号線但馬トンネルを出て左に、頂上が平らになった山が見えます。大谷川と大野川に挟まれたこの山に中山城の跡があります。本丸、二の丸、三の丸を堀割で区切り、石垣を積み、規模は小さいですが整った城で、堀切も十㍍に及ぶものが数カ所も残っています。
鎌倉時代には菟束(うづか)氏が、南北朝のころは上野氏の城となり、のち八木氏の支城となり天正五年(1577)秀吉の山陰攻めによって落城し、因幡の国に逃げたのですが、用瀬(もちがせ)の戦いで滅んだそうです。立派な城にしては残っている話が少ない城のひとつです。

5.明智光秀と水生(みずのお)城

『但馬の城ものがたり』という書物によれば、昭和50年現在において確認されている但馬の城の数は、215だそうです。この中には徳川時代の陣屋も加えられていますが、まだ未確認の山城もまだあるだろうといわれています。日高町内では20で、但馬の中では数は少ないというものの、但馬史に関係する重要な城がいくつか含まれています。

水生(みずのお)城


豊岡市日高町上石字水生

散り椿で有名な水生山長楽寺の裏から山頂に至る間に、数カ所の平坦地があり、頂上近くや頂上に伸びる尾根に堀割があります。南北朝のころ、長左右衛門尉が居城したと伝え、戦国期には初め榊原式部大輔政忠が居し、ついで西村丹後守の居城となったらしい。天正八年(1580)、秀吉の武将、宮部善祥房らの強襲を受けて廃城となります。

水生城の攻防戦は、毛利党の轟城主、垣屋豊続が打った一大決戦でした。秀吉の勢力が延びると共にいくつかの小競り合いが行われました。天正八年(1580)4月18日には、秀吉勢と竹野衆とが水生城で交戦し、この時竹野衆が勝ったといいます。

水生城は、標高百六十メートルの山頂に至る間に構築された城で、東は険しく、北は切り立つ岩、西の尾根づたいには深い堀割が作られていて、まさに要害の地でした。眼下には広々とした高生平野(たこうへいや)が広がり、その昔、政治の中心地として、但馬一円の政務を執り行った国府の庁や国分寺の当たりもここから一望できます。

円山川の本流は、当時は土居の付近から水生山麓にかけて一直線に北流していた時期があったらしく、北へ流れる円山川のはるか彼方には、山名の本城出石の有子山の城を見ることができ、当時の戦争の仕方から考えて、たいへん大事な城であったことがうかがわれます。
この城は、遠く南北朝のころ造られたもので、南朝に味方した長左衛門尉がいた城として知られています。

その後約二百年あまりは、残念ながら誰の居城であったのか明らかではありません。
ところが、大永年中、丹波福知山の城主、明智日向守光成(後の光秀)が、出石の此隅山(こぬすみやま)の城が虚城であることを聞いて登尾峠(丹波・但馬境)を経て、有子城(出石城)を攻撃しようと考えました。そこで陣代として大野統康・伊藤次織・伊藤加助の三名を軍勢を添えて出石表へ差し出しました。やがて但馬に進入した彼らは、進美寺山(しんめいじざん)に「掻上の城(かきあのげじろ)」を築いて居城し陣を布きました。

その頃の出石の山名氏の勢力は日に日に衰えていく有様でした。しかも中央では、織田信長が天下の実権を握り、その上家来の羽柴秀吉が近々に但馬にせめて来るという噂も高くなったので、山名氏の四天王といわれた垣屋等の武将も、さすがに気が気でありませんでした。

一方、進美山掻上の城に陣取った大野・伊藤の両勢は、軍を揃え、出石・気多の郷士たちを競い合わせ準備を整えました。そして、永禄二年(1559)八月二十四日、西村丹後守の居城水生城を攻撃してきました。この城には前後に沼(円山川から満潮時には潮が差す)があって、自然の楯となり、左側は通れないほど険しい天然の構えとなり、攻め落とせそうにもないので、ひとまず善応寺野に陣取って遠攻めの策をとりました。この時伊藤勢の中に河本新八郎正俊(気多郡伊福(鶴岡)の郷士であり、この家は今も続いている)という豪傑がいました。陣頭に出て大声で敵の大将をさそったので、城中からもこれに応え、服部助右衛門という武者が名乗りを上げて出てきました。ふたりは違いに槍を交えてしばらく争っていましたが、新八郎の方が強く、ついに服部を倒し首級(しるし)をあげました。

明けて二十五日、伊藤勢はふたたび城近く攻め寄せていきました。城中にあった兄の服部左右衛門は、弟を無念に思い、攻めてくる敵軍を後目に城中から躍り出て大音声に、「新八郎出てこい。きょうは助右衛門の兄左近右衛門が相手になってやる、ひるむか新八郎!」とののしりました。新八郎は「心得たり。」と、これに応じて出てきました。ふたりは間合いを見計らって、ともに弓に矢をつがえました。新八郎はもともと弓の名人でもあったので、ねらいを定めて「ヒョー」と放つ矢は見事に左近右衛門を射止めました。この三度の戦いの活躍に対して新八郎は明智光成から感状(感謝状)をもらいました。この感状は今も河本家に残っています。

八月二十八日には、丹波勢が攻め寄せましたが、城の正面大手門の方には大きな沼になっていてなかなかの難攻でした。城中はしーんと静まりかえり、沼を渡って攻めてきたならと待ちかまえています。攻めての大野勢の中で伊藤七之助という者は搦め手から攻めようとして竹貫から尾根づたいにわざと小勢を引き連れ迂回作戦に出ました。

ところが城内の武将「宿院・田中」という家来で、竹貫・藤井などから来ている兵士の中に、中野清助という人がいました。清助は伊藤七之助を遠矢で見事に射ました。この怪力に恐れをなした丹波勢は慌てふためき、この日の城攻めは中止にしました。
大野統康・伊藤加助は無念の歯ぎしりをし、城攻めにあせりを見せ総攻撃をはかり、竹や木を切らせ、沼に投げ入れて沼を渡ろうとしました。しかし、城内から見すましていた城兵は「すは、この時ぞ。」とばかりに、木戸を開けて討って出ました。大沼を渡ろうとしている大野・伊藤勢をここぞとばかりに射かけたので進退きわまり、たまたま沼を渡りきった者たちは山が険しくて登ることができず、逆に退こうとしても沼が深くて思うに任せず、城内からはさらに新手を繰り出し寄手をしゃにむに攻め、櫓からは鏑(かぶら)を構えて、射たてているところに「ころはよし。」と、大将西村丹後守みずから討って出たので、寄せ手は這々(ほうほう)の体で敗走してしまいました。

掻き揚げ城(かきあのげじろ)…掻上げ城とも書く。堀を掘ったとき、その土を盛りあげて土居を築いた堀と土居だけで成る臨時の小規模な城郭。
出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください