能勢妙見山

摂津の式内社めぐりで能勢妙見山は一度ぜひ尋ねたかったところ。鳥居があるが神仏習合の名残である。
HPによると、本来は日蓮宗霊場「能勢妙見山」といい、妙見大菩薩をお祀りし、源氏を祖とする能勢家ゆかりの寺院である。
妙見大菩薩とは、人の運命を司る星々の王と言われる北極星の神様です。星の動きを支配し運気を好転させて下さることから開運の神様として知られています。

 

但馬妙見山として養父市八鹿町石原に名草神社があり、妙見山という名前には馴染みがある。
正式には「無漏山眞如寺境外(けいがい)仏堂能勢妙見山」というそうだ。昔は、神仏習合といい、同じ場所で神様と仏様をお祀りしていたので、妙見大菩薩を仏教と同時に神道式に崇めよういうことで鳥居が残されている。

 

 

小浜歴史探訪 5/6 多田寺・妙楽寺 (但馬史研究会)

■多田寺

小浜市多田27-15-1
山号石照山 高野山真言宗
・木造薬師如来立像(国指定)
像高192.5cm 平安初期
・木造十一面観音菩薩立像
(日光菩薩)(国指定)
像高154.0cm
平安初期
・木造菩薩立像
(月光菩薩)(国指定)
像高144.2cm 平安初期
天平勝宝元年(749)孝謙天皇の勅命によって勝行上人が創建したと伝えられ、12坊の塔頭があったといわれています。江戸初期に火災に遭い、今の本堂は江戸時代文化4年(1807)のものです。
厨子に安置されている本尊薬師如来、十一面観音、菩薩立像の3体は、いずれも平安時代初期に若狭で作られた桧材の一木造で重要文化財の指定を受けています。これらの像は、通常の平安時代初期の像とは趣が異なり、天平的手法を幾分踏まえながら新しい技法様式を求めて造像されています。
また、十一面観音が若狭地方で作られたということは、日本に密教が布教されていった平安時代初頭には既に、若狭では密教受容の社会基盤がつくられていたことを示しています。この十一面観音像は歴史資料としても価値が高いといえます。
県指定文化財、平安後期作の木造阿弥陀如来坐像(三躯;像高144.5cm、他の二躯は91.5cm)を所蔵しています。(小浜市)
ご本尊は日光東照宮の陽明門が施され、絢爛豪華。元々他の寺同様に檀家は少なく二十数軒とか。
■妙楽寺

小浜市野代28-13
山号岩屋山 高野山真言宗
・本堂(国指定)
鎌倉時代初期
・木造千手観音菩薩立像
(国指定)
像高176.3cm 平安中期

山門

小浜の妙楽寺は真言宗のお寺で高台にある敷地の広いお寺です。山門までの両脇には桜並木が続き、その壮大な風情は価値があります。境内は静寂が広がります。桧皮葺の本堂、地蔵堂、鐘楼、神社などの堂宇が建ち並ぶ。鐘楼は
奈良時代の養老3年(719)僧行基が本尊を彫り、平安時代の延暦16年(797)空海が諸国を廻っていたときに本尊を拝して堂舎を建立したと伝えられています。寺領は明通寺より常満保地蔵丸名を寄進されています。
本堂は鎌倉時代初期に建立されたもので、厨子には永仁4年(1296)と銘があり、若狭における最古の建造物です。桁行5間(11.51m)・梁行5間(10.61m)寄棟造桧皮葺で、和様天井は化粧屋根裏内外陣境に菱間と格子戸を入れて区画されています。外観はゆるやかな屋根の流れは豪華な王朝建築にみえます。


本尊の千手観音菩薩立像は、平安中期の作で、桧材の一木造、頭上には菩薩の顔が3面あり、その他に菩薩面・憤怒面・狗牙上出面・大笑相面21面をいただいています。実際に千本の手が整然と美しく配されており、長く秘仏であったため、今も黄金色に輝いています。完全に手と仏具が揃っている千手観音菩薩立像は全国的にも2、3点のみで貴重です。
県指定の聖観音や地蔵像などの文化財も多く所有しています。
本堂わきには、芭蕉没後百年を記念して芭蕉の句碑が建てられています。秋には参道の紅葉が見事です。
引用:小浜市
時間の関係で回れなかったが、小浜には上記の他にも「小浜 国宝めぐり」コースがあり、巡回バスとレンタサイクルコースが設けられている。
○羽賀寺 (高野山真言宗)
○圓照寺 (臨済宗南禅寺派)
○妙楽寺 (高野山真言宗)
○多田寺 (高野山真言宗)
○国分寺 (曹洞宗)
○明通寺 (真言宗御室派)
○神宮寺 (天台宗)
○萬徳寺 (高野山真言宗)
●羽賀寺 (高野山真言宗)
女帝・元正天皇の御影と尊崇される木造十一面観音菩薩立像
●圓照寺 (臨済宗南禅寺派)
モリアオガエルが生息する庭園が見事で、四季移りゆく禅寺に北陸随一・金色燦然の大日如来坐像(重文)、木造不動明王立像(重文)
●国分寺 (曹洞宗)
諸国に建てられた国分寺の一つで、天平の仏教文化の息吹きを感じさせる。木造薬師如来坐像(重文)のほか、像高318cmの木造釈迦如来坐像は福井県下最大を誇る巨像
●萬徳寺 (高野山真言宗)
枯山水の庭園
本尊・木造阿弥陀如来坐像(重文)や絹本著色弥勒菩薩図像
他、見どころ
●常高寺
京極高次の死後京都妙心寺の槐堂和尚を招いて開祖とし、栖雲寺を移転させた跡地に常高寺を創建しました。常高院栄昌尼は、お市の方と浅井長政の3姉妹の次女として生まれ、寛永10年(1633)江戸で亡くなりましたがが、その後侍女たちと共に常高寺に葬られました。現存する常高院の貴重な肖像画、自筆の消息、墓所の他、書院に遺るこの壁画が、往時の盛運を偲ばせています。
本堂は大正12年(1923)に焼亡、荒れた書院、庫裡などが残りましたが、昭和39年(1964)には山門の炎上もあって、まさに廃寺同然の荒れ寺となりました。しかし、この間、由緒ある名刹復興の動きもあって、平成2年より再建事業が本格化し、平成13年に本堂が完成しました。
書院奥の間の床壁画は、壁画床2面、障壁画1面が描かれており、正面壁画は縦253cm、横278㎝、その両側面は80cm幅の画壁です。
●正法寺
真言宗泉涌寺派。本尊如意輪観音は、平安末期の縁起物語に登場する。ときは元暦元年(1184)、佐渡島巡検使船に忽然と現れてその使命を果させた老翁が、帰還着岸の間ぎわ、小浜港坂尻浦にて我を信ずること篤く久しかったことを謝して入水した。ところがその後、夜々海中に金色の光がさすので、その時の浦の長、大橋五郎左衛門なるものが海中に入り、光り耀く仏像を脇に挾んで拾い上げ、堂を上山(うえやま)に建てて奉安した。そして浦の名を仏谷(ほとけだに)と改め、長(おさ)の名を脇左衛門と称したと伝える。
蓮華寺、正林庵、長慶院など小浜は寺院が大変多いが、いずれも真言宗や臨済宗などの古いお寺で檀家が少ないという特徴があるそうだ。

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小浜歴史探訪 2/6 国宝明通寺(みょうつうじ)(但馬史研究会) 

まず我々のバスは、福知山から無料になったばかりの舞鶴若狭自動車道を完成している終点小浜西ICで降り、小浜市内へ。町の中心部は城下町らしくこじんまりしているが、どこの地方都市も同様にシャッター通りと化し活気がない。


JR小浜駅

小浜の東部は昨年、敦賀の気比神宮を尋ねた帰り道に若狭彦・姫神社を尋ねたので大体分かる。若狭地方は福井県だから曹洞宗大本山永平寺が越前のあるので曹洞宗のお寺が多いと思いがちだが、若狭は京都・奈良に近く古くから大陸の玄関口として、また小浜は淡路、伊勢に並ぶ御食国としての交流が深く、曹洞宗よりも真言宗、天台宗の寺院が多いのだそうだ。従って山寺なので建物や仏像がよく残っており、小浜には寺院が多いのも財産。

■明通寺(みょうつうじ)

福井県小浜市門前
真言宗御室派 山号は棡山(ゆずりさん)
ご本尊 薬師如来(重要文化財)

「明通寺縁起」(応安7年・1374年奥書)などによれば、大同元年(806年)、桓武天皇のとき、坂上田村麻呂公が蝦夷征伐に際して創建されたと伝えられる。縁起によると、今の本堂、三重塔は中興の僧頼禅が棟上し、その他鎮守堂、大鳥居など24坊があったと伝えられています。本堂と三重塔は国宝に指定されている。
守護・地頭らの戦勝祈願を繰り返し行うなど、武家と関係を保って寺領を拡大し伽藍整備を行っていきました。


棡橋

駐車場と明通寺の境内を結ぶ赤い橋。下に流れるは松永川。

明通寺略縁起
延暦のむかし、この山中に一大棡樹(ゆずり木)あり、その下に世人に異なる不思議な老居士が住んでいた。たまたま坂上田村麿公、ある夜、霊夢を感じ老居士の命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため、大同元(806)年このところに堂塔を創建し、居士また棡の木をきって、薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体を彫って安置したと伝う。
爾来壱千二百年、つねに天下万民の祈願所として、法燈たえることなし。
現存の堂塔は、中興頼禅法印の再建にかかり、地方にありながら中央のものにも劣らぬ優秀な密教建築である。

石段を登ると山門がそびえ立つ。
本堂(国宝)

国宝の本堂は、正嘉2年(1258)に建立された、入母屋造桧皮葺、桁行5間(14.72m)・梁行6間(14.87m)の建物です。屋根の勾配のきつさと、柱と柱の間を幅広くとるなど建築資材の使い方や組み方が豪壮です。武家社会の円熟期の象徴とされる建物です。

平面は桁行(間口)5間(14.72m)、梁間(奥行)6間(14.87m)である(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。屋根や隅軒の悠然とした勾配は鎌倉時代の特色を示す。正面側を全て蔀戸(しとみど)とした住宅風の外観をもつ。和様を基調としつつ、内部の構架には禅宗様の要素も取り入れている。堂内は内部空間を内陣と外陣(礼堂)に明確に区画する中世仏堂特有の構成で、寛政11(1799)年に内陣を拡張したとの記録がある。大正12年(1923年)に解体修理。昭和28年(1953年)、国宝に指定。
平安後期作の国指定重要文化財、木造薬師如来像や木造深沙大将立像(像高256.6cm)、木像造降三世明王立像(像高252.4cm)、木像不動明立像(像高161.8cm)が、平安後期の仏像4体が重文となっています。

三重塔(国宝)

三重塔檜皮屋根葺替工事により外観はシートで覆われているが、そのかわりに期間中に限り、三重塔初層内部の公開を行なわれている。これまで三重塔内部(初層部)は、保存維持を目的としているため、一般公開は基本的に行なっておりませんでした。(年に数回のみ風通しのために開けることはありますが、これも天候等の条件に左右されるために告知も行なえませんでした)
今回、約30年に一度の檜皮屋根葺替工事という節目を迎えることと、工事期間中は保存維持に務めながらの公開の条件を整えられることができるため、拝むことができる。今年京都東寺五重塔内部(初層部)の特別拝観もできたし、偶然にも内部公開に恵まれる機会が重なった。
釈迦三尊・阿弥陀三尊像や、現在でも色鮮やかに残る十二天の壁画といった秘仏級の寺宝をご拝観いただけた。
期間/平成22年4月24日~三重塔葺替工事完成まで(晩秋予定)
文永7(1270)年上棟。総高22.12m。和様を基調としているが、初層に拳鼻(こぶしばな、部材の末端部に拳状の装飾彫刻を施したもの)を用いる点に大仏様(だいぶつよう)の要素が現れており、塔に拳鼻を用いた最古例とされている。初層内部は四天柱(仏壇を囲む4本の柱)が立ち、釈迦三尊像と阿弥陀三尊像を安置して仏堂風の扱いとする(心柱は初層天井裏から立つ)。柱や壁には十二天などの絵画を描くが、建立当初のものではない。天文8(1539)年と元禄15(1702)年に、それぞれ修理が行われた。明治27年(1894年)以降、屋根は瓦葺となっていたが、昭和32年(1957年)の修理の際、桧皮葺に戻された。昭和28年(1953年)、本堂とともに国宝指定。明通寺の創建1,200年を記念して、2006年4月から11月まで初層内部が一般公開された。
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砦がわりの寺院 経王寺と福成寺


日蓮宗 経王寺(きょうおうじ)

石部神社の向かい、加藤弘之生家の下隣り


福成寺(ふくじょうじ)

国道から左折し、出石城に向かう一通を入ってすぐ右手、田結庄通り突き当たり

戦闘など非常のときは兵を集めて駐屯し防備に当たる目的で、城下の数多くの寺院を街道の大事な場所に置きました。東の京街道の経王寺、吉祥寺、光明院、北東に宗鏡寺とその塔中諸寺や本高寺、昌念寺など、北西には見性寺、西の街道口には称名寺や法城寺を、南の入口には福成寺とその塔中諸寺がありました。

現在でもその面影をとどめる二層の鐘櫓が経王寺と見性寺に残り、経王寺には銃眼をもった高塀もありました。

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【京都散策】 大徳寺 大仙院


勅使門(重要文化財)

慶長年間(1596年 – 1614年)建立の御所の門を下賜され、寛永17年(1640年)に移築されたもの。

大徳寺は、臨済宗大徳寺派大本山。京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿、法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう、本山寺院の境内周辺にある関連寺院)が立ち並び、近世の雰囲気を残しています。

貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする歴代多くの名僧を輩出茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院です。

侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎、千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっています。江戸時代初期に幕府の統制を受け元住持である名僧、沢庵宗彭が紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けたが、幕府との関係ものちに回復しました。本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具、中国伝来の書画など、多くの文化財を伝えています。


三門 (金毛閣 重要文化財)

二層の三門。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)、千利休が上層を完成させて金毛閣と名づけられた。利休は上層に自身の木像を安置した(つまり、門をくぐる者は利休の下を通ることになる)が、これが豊臣秀吉の怒りを買い、秀吉はこのことを楯に利休に自決を迫ったという。


龍源院(りょうげんいん)

大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元、周防の大内義興、豊後の大友義親の三氏が創建。龍吟庭、東滴壷、阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。

江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなりました。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられました。これらの法度には、従来、天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められました。


本院

1627年(寛永4年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じました。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り、前住職の宗珀(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)・東源(とうげん)らとともに、反対運動を行った。

1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵を出羽国上山に、また宗珀を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪としました。上山藩主の土岐頼行は、流されてきた名僧沢庵の権力に与しない生き方と、「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを春雨庵と名づけこよなく愛したといわれています。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇しました。

1632年、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許されました。沢庵が剣術家・柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名です。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入りました。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、1634年(寛永11年)夏までここに留まりました。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、家光が上洛し、天海や柳生宗矩・堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は将軍徳川家光に謁見しました。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになりました。

大仙院

京都市北区紫野大徳寺町54-1
大徳寺塔頭
永正6年(1509年)に大徳寺76世住職古岳宗亘(こがくそうこう、大聖国師)によって創建された。現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹である。
大仙院の三世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれ加茂の河原で梟首された千利休の首を山内に持ち帰り手厚く葬りました。


国宝 玄関

日本の方丈建築としては東福寺・龍吟庵方丈に次いで古い遺構である。「床の間」が現れるのもこの時代で、大仙院の床の間は日本最古とされ、玄関も日本最古の玄関として国宝に指定されている。


三玄院

石田三成、浅野幸長、森可成(蘭丸)が建立。

関ヶ原の戦い後の10月1日、石田三成が家康の命により六条河原で斬首されました。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られました。また一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われています。

但馬国分寺址

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豊岡市日高町国分寺


石碑には昭和七年と記してあるので、それ以前から発見されていたものでしょう。
付近は復元に向けて整備が進められつつあります。

遺物などは但馬国府国分寺館に展示してあります。

【たんごる】 成相寺


京都府宮津市

西国札所
なりあいさんと呼ばれて親しまれています。
よくこんな山中にお寺を建てたものだと感心します。


五重塔

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垣屋氏の菩提寺ぼたん寺隆国寺【豊岡市日高町荒川

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兵庫県豊岡市日高町荒川
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏

隆国寺は、室町時代の開基で、山名の四天王筆頭といわれた垣屋播磨守隆国公の菩提寺と伝わっています。
自宅の檀家 宵田蓮正寺さんを除けば、高校合宿等最も訪れているお寺です。
旧日高町内でも、最も古く大きな伽藍を誇っています。ぼたん寺として親しまれ、喧噪から離れ、庭のぼたんを眺める時間は、癒されるとともに日本人の心と活力を、思い出させていただける空間です。前住職の大穣さんは大本山福井永平寺副管長を勤められていました。

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