【たじまる】 日本海側初のドクターヘリ いよいよ17日始動

コウノトリの郷豊岡からドクターヘリが飛ぶ

鳥取、兵庫、京都3府県が共同運航するドクターヘリが4月17日、公立豊岡病院(兵庫県豊岡市)を拠点に運航を始める。ドクターヘリは全国17道府県21か所で運用されているが、本州の日本海側を拠点とするのは初めて。また、鳥取県は、県消防防災ヘリコプターに医療機器を配備し、4月上旬にも運航を始める。ドクターヘリの拠点・豊岡病院から遠い県西部をカバーするため。医療活動ができるヘリ2機の導入で、山陰地方の救急医療体制は格段に充実することになる。

北近畿共同ドクターヘリ17日稼働 ABC「NEWSゆう」 10年04月16日18時26分

ドクターヘリの運航範囲は、豊岡病院を中心に、県全域と、兵庫、京都両府県の北部。同病院は、学校のグラウンドや駐車場など約360か所を臨時発着場に、年間230回の出動を見込んでいる。
同病院によると、来月から新たに4人の救急専門医が着任予定。鳥取市出身で、但馬救命救急センター長兼ドクターヘリ準備室長の小林誠人医師(41)を含め救急専門医は9人体制となる。
小林医師は鳥取市出身。鳥取大医学部卒業後、千里救命救急センター(大阪府吹田市)などでドクターカーに乗務。05年の福知山線脱線事故の際は県災害医療センター医師として現場指揮にあたった。今年1月に豊岡病院に着任し、就航に向けて準備を進めていた。

小林医師の働きかけで4月から20~30歳代の若手救急医4人が着任予定で、計9人の救急医がヘリに乗務する。小林医師は「緊急の場合は現場で開腹手術も行う。事故や急病での救命率が大きく向上する」とドクターヘリの効用を強調した。

小林医師は、「山陰地方は救急医療の過疎地。行政の枠にとらわれない救急医療を行うよう頑張る。ヘリでは気管挿管や点滴による薬剤投与、手術などの救命処置ができ、救命率向上や後遺症の軽減につながる」と話している。

一方、鳥取県は今月末にも、消防防災ヘリに超音波で内臓の状態などを調べる「携帯型超音波診断装置」、自動で心臓マッサージを行う「人工蘇生システム」を配備。8月には、飛行中のヘリから受け入れ先の病院の手術室にいる医師と連絡ができるイリジウム衛星電話を設置する。整備費は計約5200万円。

鳥取空港を拠点に、米子港の臨時ヘリポートで鳥取大病院の医師を乗せて現場に向かう。日南町で急患が出た場合、豊岡発のドクターヘリとほぼ同じ約40分で到着できるという。(2010年3月23日 読売新聞)
原則、午前8時30分から日没30分前まで、豊岡病院に待機し365日毎日運航します。夜間は近いコウノトリ但馬空港に駐機する。

KTV「ニュースアンカー 2010.4.15」以下同じ

平成22年4月17日 ドクターヘリ運航開始 公立豊岡病院組合

http://www.toyookahp-kumiai.or.jp/kinkyuu/dokuheri.html

ドクターヘリの目的は?

ドクターヘリを用いる最大の利点は、緊急患者のいる救急現場に医師・看護師を素早く送り届け、すぐさま救命処置を開始し 適切な医療機関への迅速な搬送が可能になることです。一分一秒を争う緊急患者の適切な治療が、いち早く行われることにより、 救命率の向上や後遺症の軽減に大きな効果が期待されます。

ドクターヘリの特徴は?

ドクターヘリは、時速200キロから250キロで飛行できるため、常駐する豊岡病院から、30km圏内を9分、50km圏内を15分、70km圏内を21分で医師・看護師を乗せ、移動することができます。   これにより、治療開始時間の短縮が図れ、救命効果を高めることができます。

ドクターヘリの運航範囲

原則として、豊岡病院から半径50km圏内にかかる消防本部の管轄区域を運航範囲とします。 ただし、ドクターヘリによる搬送が医療上有効と認められる場合や災害時には、その他の地域へも出動します。

ドクターヘリのQ&A

Q1 ドクターヘリの運航時間は?

原則、午前8時30分から日没30分前まで、365日毎日運航します。ただし、霧や雪、強風などの悪天候の場合は運航できません。

Q2 ドクターヘリの要請はだれでもできるのですか?

一般の方が直接要請することはできません。119番通報を受けた消防署がドクターヘリの出動要請をします。

Q3 ドクターヘリには緊急患者の他にだれが乗るのですか?

医師・看護師・操縦士・整備士の4名が必ず搭乗します。緊急患者は最大2名まで、付き添いの方は、どうしても必要な場合のみ医師の判断で1名乗ることができます。

Q4 ドクターヘリを利用した場合、費用はかかりますか?

救急現場や機内で行った医療行為については、一般の病院と同じように、医療費の一部が緊急患者の負担となります。

Q5 ドクターヘリはどこに着陸するのですか?

原則として、あらかじめ指定された公園や校庭などの臨時発着場(ランデブーポイント)に着陸します。

Q6 ドクターヘリで搬送される医療機関はどこですか?

原則として、ドクターヘリの基地病院である豊岡病院但馬救命救急センターに搬送します。ただし、医師が搬送患者の容体や搬送時間等を考慮して、他病院に搬送する場合もあります。

Q7 ドクターヘリが着陸するときの注意点は何ですか?

ドクターヘリが近くに着陸する場合は、速やかに退避してください。また、着陸後は救命治療を行いますので、近寄らないようにお願いします。
この件に関するお問い合わせは、下記までお願いします。

公立豊岡病院組合 統轄管理事務所 総務部 総務課
電話:0796-22-6111 内線:2114
fax:0796-22-0170
email:kikaku@toyookahp-kumiai.or.jp

豊岡市の公立豊岡病院を拠点に県北部、京都府北部、鳥取県をカバーするドクターヘリは17日に就航する。
そこで、これまでの動きを追ってみた。

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公立豊岡病院

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但馬救命救急センター長兼ドクターヘリ準備室長に就任した小林誠人医師
本格的な運用を前に、ヘリに乗り込む医師や搭乗員らと、各地の消防機関や医療機関との間で訓練が続いている。ヘリと地上部隊との連携や無線の受信範囲を確かめるなど、課題を洗い出して本番に備える。
訓練は今月2日から始まった。7日までの10回の訓練は天候にも恵まれ、無事に終わったという。16日までに合計で県内9回、京都府内6回、鳥取県内5回の計20回の訓練がある。(朝日新聞2010年04月08日)

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勤務していた千里救命センターで挨拶をする岡本医師

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事前にヘリの装備、機能などについて説明があり、午後1時半ごろ就航機と同型機が神戸空港から飛来。参加者が機内を見学して説明を受けた=写真、南丹市提供。この日は与謝野町の府立与謝の海病院でも説明会、試乗を予定していたが、悪天候のため中止になった。(朝日新聞)
4月13日 ドクターヘリと福知山市消防本部の実地訓練が13日、猪崎の由良川河川敷で行われ、連携を中心に手順などを確認し合った。市民の関心は高く、多くの人たちが見学に集まり、飛来した機体を見上げて期待を膨らませた。傷病者を乗せた各消防署の救急車とヘリが合流するランデブーポイントは、府内には173カ所設定された。
丹後地方は民間施設を含め68カ所。南丹地方は42カ所。中丹地方は学校を中心に公共施設63カ所(福知山市40カ所、舞鶴市4カ所、綾部市19カ所)が設定された。(両丹日日新聞)
12日に舞鶴市
4月7日 鳥取市内
鳥取自動車道・鳥取南インターで乗用車と大型トラックが衝突し、乗用車の男性が重傷を負ったとの想定。東部消防局が豊岡病院の運航管理室に出動要請し、26分でヘリが広場へ到着した。医師2人と看護師1人が降り、救急車内で応急処置を施した後、“重傷者”をヘリに乗せて県立中央病院に搬送した。(毎日新聞・山陰中央新報)
4月6日 丹波市市消防本部のヘリポート 救急隊員ら約20人が参加。午前11時、出動を要請すると、基地となる公立豊岡病院から実際にヘリが飛来。20分程度でヘリが到着した。(神戸新聞)
倉吉市の天神川河川敷など
県内での訓練は初めてで、今後、東、西部でも行って17日の運航スタートに備える。(読売新聞)
4月5日 京都府与謝野町 地元の医療や消防、行政関係者ら約60人が参加
訓練は、与謝野町内の70代の男性が胸の痛みを訴えている-との想定で始まった。宮津与謝消防組合本部(宮津市)の要請に、医師2人と看護師1人を乗せたドクターヘリが豊岡病院(兵庫県豊岡市)を出発。10分後、救急車が待つ大江山運動公園(与謝野町)に到着した。医師が救急車内で応急処置を行い、患者をヘリに乗せて約15キロ離れた府立与謝の海病院(同)へ5分以内で搬送した。
この日は綾部市でも同様の訓練があり、救急隊員ら約50人がヘリの誘導や患者の搬送手順を確認した。16日までに京丹後市や舞鶴市など4カ所でも行われる。市消防本部によると、綾部市から京都市内の病院に救急車で搬送すると通常は約1時間半かかるが、ヘリを使えば4分の1程度に短縮できることが訓練で確認されたという。(朝日新聞・京都新聞)
4月3日 新温泉町の山間部
町内の駐車場で50歳ぐらいの男性が倒れて意識がないという通報があったとの想定で、美方広域消防本部が午後2時半過ぎにヘリの出動を要請。事前にヘリとのランデブーポイント(合流地点)として指定されている同町井土の河川公園には、居合わせた人を退避させるなど安全を確保し、発煙筒で風向きを示すなどしてヘリの着陸を助けるため、消防の支援隊が向かった。

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4月2日 朝来市防災センター(同市和田山町)
医師2人と看護師1人が乗り込んだヘリは公立豊岡病院(豊岡市)を飛び立ち、約9分で朝来市防災センター(同市和田山町)に到着。降り立った医師は救急車内で交通事故で負傷した想定の患者を診察し、応急処置やヘリに収容する訓練を行った。救急隊員らはヘリに搭載されている機器の説明を聞いた。(毎日新聞)
小林誠人・但馬救命救急センター長(41)は「地形の制約で無線が通じないところがあることが分かった。少ない人数でいかに安全に運用してゆくか考えたい」と話した。訓練は16日まで。17日から運用が始まる。
4月2日午前 豊岡市出石町出石中学校グラウンド(同市出石町弘原) 担当医や救急隊員ら23人が参加。
訓練は、狭心症の60歳男性が同町内の自宅で胸部の痛みを訴えて倒れたとの想定。119番を受けた豊岡市消防本部が、公立豊岡病院へドクターヘリ運航を要請するところからスタートした。(神戸新聞)
3月26日 公立南丹病院(南丹市八木町八木) 消防などから約50人が参加した。(朝日新聞)
3月21日 豊岡市大磯町のじばさんTAJIMA 救急医療考える 公立豊岡病院組合フォーラム
4月の救急専用ヘリコプター(ドクターヘリ)の導入を控え、救急医療のあり方を考える「救急フォーラム」(公立豊岡病院組合主催)が20日、兵庫県豊岡市大磯町のじばさんTAJIMAで開かれ、第一線の医師たちが現状について報告した。
フォーラムでは、但馬救命救急センター長兼ドクターヘリ準備室長に就任した小林誠人医師が「医師が救急現場に携わる意義」をテーマに講演。前任地である大阪府立千里救命救急センターでのドクターカーによる救急医療の経験を踏まえ、「医師と看護師が現場に駆けつけて早期の医療介入が行われることで患者の生存率は高くなる」と強調。
そして「地方においてこそドクターヘリ、ドクターカーによる“攻めの医療”の有用性が期待さえる。これから着実に取り組んでいきたい」と決意を新たにしていた。
このほか3人の医師による講演や「山陰における救急のあり方」をテーマにしたパネルディスカッションがあり、出席した病院や消防、自治体の関係者ら約200人が熱心に耳を傾けていた。
4月14日 県消防防災ヘリコプター「とっとり」就航式 米子市流通町の県消防学校
県消防防災ヘリコプター「とっとり」に医師らを乗せ現場へ飛ぶ“兼業ドクターヘリ”の就航式が14日、米子市流通町の県消防学校であった。最新の医療機器を装備し、飛びながら治療ができる。消防防災ヘリをドクターヘリとして活用するのは全国的にも少ないという。(毎日新聞)
ドクターヘリが兵庫県豊岡市を拠点に運航されるのに対し、医師らが搭乗する鳥取県消防防災ヘリは、豊岡市と離れた鳥取県西部やヘリが着陸できない場所での活動を目的に導入された。
鳥取県が運航する県消防防災ヘリに医師や看護師が搭乗し、傷病者の救急搬送時に現場で救急医療に当たる新たな制度が14日、始まった。17日に鳥取、兵庫、京都の3府県による共同運航が始まるドクターヘリと併せて傷病者の救命率の向上が期待される。
鳥取県と鳥取大学などが連携。鳥取空港に待機しているヘリが米子市の鳥取大病院付近に行き、医師や看護師を乗せて現場に向かう。ヘリには新たに心拍数の監視や超音波画像診断などの機器を約5千万円かけて搭載した。(日本海新聞・山陰中央新報)
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安土町の合併

滋賀県安土町と近江八幡市との合併が気になっていた。

数年前に近江八幡市に行ったとき、水郷や八幡山から眺めると安土城のあった小高い山が見える。行きたかったのだが、時間的に難しかった。イタリアでいうとサンマリノやバチカンに値するくらい戦国時代を語るには欠かせない安土の町。平成の市町村合併が進み、皮肉にも安土町と近江八幡市の合併問題が残った。我が町も雄町ながら隣市と合併した経過があるので、織田信長の安土が家来の羽柴秀吉の弟秀長によって築いた近江八幡とに合併されるのはいかんともしがたい思いがあるのではないだろうか。近江八幡市安土町と名前が残るのだろうけど、そのまま残ってほしいと思うのだが。ドイツでは町が合併して両方の町名を連記した町名がある。対等合併だというプライドだと思う。
国からすすめられる自治の合理性による市町村合併は正しいのか今でも納得できない。
地方自治リンク

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日本の地方分権を考える(6) 平成の大合併

 明治の大合併や戦後の昭和の大合併は、それぞれ小学校、中学校の運営に必要な規模という、国において明確な行政規模の設計の上での合併推進だったのが特徴的です。これらに対して、高度成長期の合併と平成の大合併については、そのような目標設定がないまま、財政規模の増大、財政破綻の回避に、住民の競争心や危機感をあおる形で行われ、「理念なき市町村合併」という批判があります。
 次ぎのような大きな流れを経ています。
・1965年(昭和40年)に十年の時限立法として制定された合併特例法は、1975年(昭和50年)以降も十年毎に延長を繰り返して来たが、1970年代後半からは合併の動きが低調になりました。そのような中、1980年代末頃から、商工会議所などの経済団体や青年会議所を中心として、市町村合併を推進する提言が各地で行われ、これを報道機関が、明治の大合併、昭和の大合併に続く「第三次合併ブーム」と報じた。
 これを受けた形で、1995年(平成7年)に改定された合併特例法では、住民の直接請求により法定合併協議会の設置を発議できる制度や、合併特例債制度の設置などが盛り込まれた他に、政令指定都市への移行や、町村の市への移行のための人口要件の緩和なども、数度の改定で盛り込まれ、合併論議が加速されることになりました。
・1999年(平成11年)4月頃から2006年(平成18年)4月頃にかけて起こった合併ブーム。
三位一体改革
 小泉内閣になって「三位一体改革」が行われることになりました。
これは、
・国から地方への補助金削減
・国から地方への税源移譲
・地方交付税の見直し
の三つを一度に行おうというものでした。
 具体的には税源については国税の取り分として入ってきていたものを地方税に切り替え、地方税を充実させて補助金を減らすことで自治体の歳入に占める地方税の割合を引き上げ、その分だけ地方交付税を引き下げることで交付団体を減らそうとしました。このように財源不足を解消して地方財政のプライマリーバランスをとる、つまり公債費を除いた歳入と歳出の収支を黒字にし、国から地方への財政移転を減らそうと考えました。
 また、補助金等の削減によって小さな自治体において行政サービスが立ち行かなくなることを回避するため、行財政基盤の強化のために、2005年3月をめどに国は「市町村合併」を強力に推進しました。つまり、大きな自治体が大きな権限を持って効率的に自治体経営を行うことが望まれたわけで、実際3200市町村は1800にまで減りました。
 しかし、補助金改革では、補助金の対象となっている事業項目も削減してその権限を自治体に委譲するはずでしたが、現在のところ少なからず項目において補助率の削減にとどまっています。このため、補助率を削減しても、自治体が何かの事業を行う際には所管省庁に申請し、そこで審査を受けるという手続きはそのまま残ることになります。
 削減例を見ると、国民健康保険は50%から43%に、児童手当は3分の2から3分の1に、児童扶養手当は4分の3から3分の1に、施設介護給付費は25%から20%に削減されたという状況です。こうして補助率は引き下げられ、財源移譲は進んだものの、権限委譲があまりにも進まなかったことから、自治体の負担は増える一方で、国による関与が続くことになったという批判もあります。
 「三位一体改革」による地方分権を進めようとしていますが、地方への財源と権限の保障が曖昧であるため、地方公共団体からは「『地方主権』『自治型社会の実現』からは程遠い」と指摘する声も少なくありません。
平成の大合併
 影響が大きかったのは、政府(旧自治省、現総務省)による合併特例債を中心とした行財政面での支援及び三位一体改革の元に行われた地方交付税の削減である。
 合併特例債は、法定合併協議会で策定する「合併市町村建設計画」に定めた事業や基金の積立に要する経費について、合併年度後10年度に限り、その財源として借り入れることができる地方債のことで、対象事業費の95%に充当でき、元利償還金の70%を後年度に普通交付税によって措置されるという、破格の有利な条件だった。合併特例債等の特例が2005年(平成17年)3月31日までに合併手続きを完了した場合に限ると定められたことから、駆け込み合併が相次ぎました。
 また、合併直前に施設整備や職員採用を行う市町村や、合併特例債による町おこしとして注目を浴びた兵庫県篠山市がその後急激に財政状況を悪化させるなどの事例が発生し、新聞紙上には「合併バブル」という言葉も現れました。
 合併特例債がアメと言われたのに対して、ムチと言われたのが、地方交付税の削減です。従来、地方交付税は小規模町村には優遇政策が取られていましたが、三位一体改革の名の下、大幅な削減がなされるようになり、地方交付税への依存度が高い小規模町村を直撃しました。
 ただし小規模町村であっても、原発等の電力事業等の交付金等により、地方交付税への依存度が低い町村の合併は進みませんでした。平成の大合併での市区町村数の変化は、東京都が63から61に、神奈川県が37から33市にしか減らず、都市部における合併が進まなかったのに対して、新潟県が112から31、富山県が35から15になる等、地方と呼ばれる地域の合併促進の要因となりました。
 市町村合併の動きは2003年(平成15年)から2005年(平成17年)にかけてピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了し、1999年(平成11年)3月末に3,232あった市町村の数は、2006年(平成18年)4月には1,820にまで減少しました。
 その後、2005年(平成17年)4月に施行された合併新法(市町村の合併の特例等に関する法律)に基づき、引き続き市町村の合併が進められている。合併新法においては、合併特例債などの財政支援措置がなくなったため、合併の動きは鈍いが、県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けて、合併の動きが進むことが予想されます。
平成の市町合併の目的
 政府などが掲げる目的は、概ね以下の通りです。
・地方分権に対応して、基礎自治体の財政力を強化できる。
・車社会の進展に伴う、生活圏の広域化に対応できる。
・政令指定都市や中核市・特例市になれば、権限が移譲される。
 しかし、政府主導による平成の市町村合併ブームには、以下のような批判も少なくありません。
 住民発議で合併に誘導する制度はあっても、合併の是非を問う住民投票が法制化されていない。このため、一応は議会の議決はあるものの、住民に歓迎されない合併も行われている(例:大崎市)。
合併に関する特例法は存在するが、分割や分立に関する特例法が存在しない。
合併後にも、旧市町村の議員が、そのまま新市町村の議員として任期を延長できる「在任期間の特例」に関する問題がある。財政難を理由にして合併をしても、合併後には議員の任期と給与を上げる事例が目立つ。
合併後の市町村の名称が、歴史的な地名を軽視した「方角とひらがな」ばかりになっている。(→#合併後の名称問題)
「規模を適正にする」という観点を軽視した合併が行われている。このため、県の面積に匹敵する巨大な市が、次々と作られている。
財政問題の解決を口実にした合併が目立つため、原発が立地することで国からの支援が降りる小規模自治体、空港などの固定資産税、あるいは大企業・大工場・莫大な収入を持つ個人からの地方税によって裕福な小規模自治体などは、合併による周囲の財政難自治体の債務の肩代わりを嫌って、合併しない例が多かった。そのため、将来の財政難を理由に合併した市町村が、「貧民連合」と侮蔑的に呼ばれた。
各市町村の思惑が絡み合い、いびつな飛地が多数発生した(例:津軽半島周辺)。
初めに合併ありきで合併したため、生活圏が異なる自治体同士が合併したケースがある(例:大崎市、相模原市など)。
財政の健全化が目的なのに、合併特例債(前述)によるバラマキにより却って財政悪化に繋がりかねない。
 これらの問題点が挙げられていることから、福島県東白川郡矢祭町や群馬県多野郡上野村などのように、合併を拒絶して、自立・自律や独自性を謳う市町村も現れている。これらの中には、山間部などに位置していて、合併によって一層の過疎化が懸念されている所も少なくない。
 反面、住民が合併を望んでいるにも拘らず、「自立」を謳って合併を拒絶したり、合併協議の破談や首長と議会の対立の末に「自立」を謳う市町村もまま見受けられる。
 もちろん、住民が分割や分立を望んでいるにも拘らず、議会や首長が拒絶をする市町村もある。
日本の市町村数推移
1888年(明治21年)末 71,314
1889年(明治22年)末 15,820
1953年(昭和28年)10月 9,868
1961年(昭和36年) 3,472
2006年(平成18年)4月 1,820
2008年(平成20年)4月 1,788
2009年(平成21年)4月  約1,300
出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
 放送大学准教授 山岡 龍一
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村が消えた?平成大合併とは何だったのか (祥伝社新書 (026))
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菅沼 栄一郎

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日本の地方分権を考える(5) 日本の地方分権

新憲法における地方自治
 明治憲法は、地方自治に関する規定は存在せず、あくまで国の行政の一環として地方行政があるという位置づけでした。しかし、市町村には一定の自治が認められており、大正デモクラシー期には地方自治の拡充という動きもありましたが、それら市町村は、国の地方機関としての都道府県下に置かれるものであって、本来的な意味での地方自治が達成されていたとは言い難いものでした。
 これに対して1946(昭和21)年に公布された新しい憲法は、第八章に地方自治の章を設け、国家体制のなかで明示しています。憲法のなかでは「地方自治の本旨」がうたわれ、さらに1947年には「地方自治法」が施行され、府県知事は官選から公選に、また府県の役割自体も広域自治体としての性格を持つようになりました。
 その一方で、自治に「不慣れ」な市町村に対する中央省庁の不信感も根強く、いかにして地方をコントロールするかが大きな問題となっていました。こうしたなか、各省は国の事務権限を都道府県から引き上げる方針が明らかにされたことをきっかけに、その妥協の産物として都道府県知事や市町村長などを国の機関と見なして国の事務を行わせる、「機関委任事務」を多用するようになりました。これ以降、1990年代に地方分権改革論議が高まり、機関委任事務が廃止されるまで、機関委任事務は、国の地方に対する重要なコントロールの手段として用いられることとなりました。
シャウプ勧告
 1949年に提出された「シャウプ勧告」は、地方公共団体の財政的基盤を強化することをめざして以下の三つの原則を示しました。その内容は、国庫補助負担金の大幅整理、税源分離原則、のちの地方交付税の原型というべき「平衡交付金制度」などからなるものでした。
責任明確化の原則
国、都道府県、市町村の三段階の行政機関事務は明確に区別し、一段階の行政機関には一つの特定の事務が割り当てられ、さらにそれぞれの行政機関はその事務の遂行と一般財源によってこれをまかなうことについて、全責任を負うべきである。
能率の原則
それぞれの事務は、各段階の行政機関がこれを能率的に遂行するために、規模、能力、財源によって準備の整っているレベルの政府(機関)に配分されるべき。
市町村優先の原則
地方自治のためには、事務の再配分は市町村に第一の優先権が与えられ、第二に都道府県に、そして国は、地方レベルでは有効に処理できないような事務だけを引き受けるべきである。
 実際には、シャウプ勧告は、日本の実情に合わないとする中央省庁の強い反発にあい、その内容が反映されるのはごく一部にとどまりました。また市町村優先主義の明示は、戦前に地方行政の機関として機能してきた都道府県の反発をも招きました。
 やがて1952(昭和27)年、講和条約により日本の再独立が認められると、こうしたシャウプ勧告に示された方向性は転換されました。そして1956(昭和31)年に改正された「地方自治法」では、都道府県と市町村の指揮監督の関係が明確にされ、終戦直後に目指された市町村を中心とする地方自治を構築しようとする試みは、いったん閉ざされることとなりました。こうした動きが再燃するのは、1990年代の地方分権議論に際してでした。
「政治学・行政学の基礎知識」 著者: 堀江湛・真下英二
地方公共団体の財政
 膨大な借入金残高を抱えるなど、現在、日本の地方財政はさまざまな問題を抱えていることが指摘されています。そもそも戦後日本の地方財政は、自治体の税収が歳入全体の三割程度にしかならないことから生まれた「三割自治」と言う言葉に象徴されるように、憲法に保証された自治を可能にするための基盤が極めて弱い。シャウプ勧告は市町村財政の基盤強化を唱えましたが、中央省庁や都道府県の反発により頓挫した経緯もあり、地方公共団体の中央への財政的依存度は非常に高いものです。
 国や地方公共団体の活動のための歳入の基本となるのが「国税」及び「地方税」です。2001年度の国民が負担する租税のうち約六割にあたる約50兆円は、国の財源となる国税です。これに対し同年度の歳出は、国と地方の歳出純計額約160兆円のうち、地方は約96兆円と、国の約1・5倍になります。つまり、地方は収入が少なく支出が多い状態にあるわけです。地方公共団体が活動するためには、国から相当の財源移転を行わなければならないわけです。
 地方公共団体の主な財源は、地方公共団体の税収である「地方税」と、国税として徴収され、一部または全部が一定の基準で地方公共団体に譲与される「地方譲与税」「地方特例交付金」「地方交付税」「国庫支出金」、さらに借金にあたる「地方債」です。
 このうち「地方特例交付金」や「地方交付税」は国からの財政移転ですから、地方独自の収入となるのは「地方税」と、実質的に地方税とほぼ同じ性格を持つ「地方譲与税」です。そして地方公共団体の歳入のうち、これら財源が占める割合は、平均で三~四割程度に留まっています。つまり、必要とされる財源のうち六割は、国からの支出や借金に頼らざるを得ないということになります。
 「国庫支出金」は、いわゆる補助金で、公共事業や義務教育など、地方公共団体が行う特定の事務や事業に関わる経費について、国がその使途を指定して支給するもので、地方公共団体としては、獲得するために特定の事業を行ったりするために地方行政が硬直化する可能性があります。また、地方行政体制の縦割り化を促進することにもつながります。
 「地方交付税」は、富裕団体とそれ以外の団体との格差をなくそうとするもので、使途も限定されていませんが、財源の乏しい地方公共団体ほど多額の交付税を公布されることにつながり、地方が自助努力によって収入を増やそうとする意欲を失わせてしまうとの批判もあります。
 これら国からの支出に、歳入の六割を依存している現状では、地方公共団体の活動に一定の裁量権が与えられたとしても、これを自主的に実施できる可能性は大幅に低下します。その結果、地方公共団体の活動は、財政を通じて国のコントロールを受けることにつながっていると考えられています。
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日本の地方分権を考える(4) 市町村合併の変遷

明治の大合併
 明治に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進されました。
 明治維新後も江戸時代からの自然発生的な地縁共同体としての町村が存在し、生活の基本となっていました。当初、明治政府はこれと無関係に大区小区制を敷きましたが、住民の反発が大きかったことから、1878年(明治11年)に郡区町村編制法を制定し、町村を基本単位として認め、郡制及び5町村程度を管轄する戸長役場を置きました。しかし、府県、郡役所、戸長役場、町村という複雑な4層構造になってしまったため、行政執行に適した規模の町村の再編が必要となりました。
 こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができましたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいいます。
 近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、現在でも地方自治法の第七章「執行機関」第四節「地域自治区」(第202条の4~第202条の9)として旧自然村に相当する単位での自治が法律上認められています。また、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面があります。
 やがて明治政府は、1888年(明治21年)に市制及び町村制を公布するとともに、内務大臣訓令で、各地方長官に町村合併の推進を指示しました。これに基づき強力に町村合併が進められた結果、町村数は、1888年(明治 21年)末の71,314から1889年(明治22年)末には15,820となり、約5分の1に減少しました。このときは、おおむね小学校1校の区域となる、約300戸から500戸が町村の標準規模とされました(明治の大合併)。
 明治の大合併を経て、地縁共同体だった町村は、近代的な意味で地域を行政統治するための地方公共団体に変貌することとなりました。しかし、大きな合併を経ていない小規模町村においては、現代に至るまで江戸時代からの地縁性が残っており、欧米と比較したとき、その地方公共団体と江戸時代からの自然村的な集合体との二重性が日本の町村の特長となっています。
戦前までの合併
1889年(明治22年)以降も町村合併は進められ、1898年(明治41年)までにさらに2,849減少した。
1898年(明治41年)以降は漸減傾向で推移し、1918年(大正7年)までには267が減少したのみだった。
1923年(大正12年)には郡制が廃止されたが、これをきっかけに町村合併等の機運が盛り上がり、1918年(大正7年)から1930年(昭和5年)までの12年間に、町村数は約500減少した。
その後、1940年(昭和15年)紀元2600年を記念して合併が進められた時期などがあり、1943年(昭和18年)には市数200、町村数10,476となりました。
1945年(昭和20年)、第二次世界大戦終戦直後には、市数205、町数1,797、村数8,818となっていました。
昭和の大合併
 第二次世界大戦終戦後、1953年(昭和28年)10月頃から1961年(昭和36年)6月頃にかけて、昭和の大合併と呼ばれる大規模な市町村合併が実施されました。
 戦後、新制中学校の設置管理、市町村消防、自治体警察の創設、社会福祉、保健衛生関係などが、新たに市町村の事務とされ、増大した行政執行の財政確保のために、市町村を適正規模に拡大することが必要となりました。
 このため、1953年(昭和28年)に町村合併促進法が施行され、新制中学1校を管理するのに必要な規模としておおむね8,000人以上の住民を有することが標準とされました。さらに「町村数を約3分の1に減少することを目途」とする町村合併促進基本計画(昭28年10月30日閣議決定)の達成のため、1956年(昭和31年)に新市町村建設促進法が施行され、全国的に市町村合併が推進されました。
 1953年(昭和28年)の町村合併促進法施行から、新市町村建設促進法を経て、1953年(昭和28年)10月に9,868あった基礎自治体が1961年(昭和36年)には3,472になり、約3分の1に減少しました。
高度経済成長期の合併
 1965年(昭和40年)に「市町村の合併の特例に関する法律」(合併特例法)が制定されたが、この時期にも合併ブームが起こりました。
 高度経済成長期には、「大きいことは良いことだ」が流行語となり、首都たる東京都区部への人口の流出も重なって、地方の市町村では、岡山市・倉敷市・富士市などの地域拠点になることを目指した合併や、新産業都市の指定を目指して平市・磐城市など14もの市町村がいわき市になるなどの大規模な合併も行われました。
 また、高度経済成長期には、山間部の過疎が進行したため、隣接する都市が山間部を取り込むという動きもありました。静岡市などがそれに該当します。
 また、市制施行のための人口要件が緩和され、鴨川市・備前市・東予市など、人口3万人以上での市制施行を目指した合併も行われました。
-出典: 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司 放送大学准教授 山岡 龍一
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日本の地方分権を考える(3) 日本の「村」の歴史

 日本の集落や基礎自治体である(むら、そん)の歴史をさかのぼって考えてみたいと思います。
 村は、集落や基礎自治体の一種で、第一次産業(農林漁業)に従事する者が多く、家の数と密集度が少ない地域を指す名称です。とも書きました。社会学や地理学では村落といいます。  町(ちょう)は城下町などの第二次産業(商工業)が密集した地域。または市(都市)。
 近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位であり、複数の集落の統合体であることが多かったのです。
 中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田(みょうでん)を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町を単位としてきました。
 中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する名(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属してきました。百姓らの生活・経済活動はモザイク状のを中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していませんでした。
 しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めました。
都市と農村の自治
 室町時代には、守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加しました。惣村は自治権を確保するために、荘園領主・公領領主ではなく、守護や国人と関係を結ぶ傾向を強めていいました。そして、惣村の有力者の中には、守護や国人と主従関係を結んで武士となる者も現れました。これを地侍(じざむらい)といいます。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自治能力が非常に高まったとされます。
 室町時代になると、産業や交通の発達にともない、各地に商人や職人が集まって住む都市が形づくられてました。日明貿易の拠点として栄えた港町の堺(大阪府)や博多(福岡県)では、富を蓄えた有力な商人の合議によって町の政治が行われ、自治都市としての性格を備えました。京都では、裕福な商工業者である町衆が、地域ごとに自治の仕組みを作っていました。
 自治の動きは農村でも起こりました。農民の暮らしが向上すると、近畿地方やその周辺では、名主や地侍などとよばれた有力な農民を指導者として、荘園の枠をこえ、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村のまとまりが生まれました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣(そう)といいます。
 農民は村の神社や寺などで寄合を開き、惣掟(そうおきて)、生産に必要な森・林・山を惣有財産とし、惣村民が利用できる入会地に設定したり、用水路の管理、祭りなどの行事、水利配分や水路・道路の修築、大川での渡し船の運営など、日常生活に必要な事柄も主体的に取り組んでいいました。
 また、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強めなどを相談して決めました。惣掟は独自の規約を定め、惣掟に違反した場合は惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する自検断(じけんだん)が行われることもありました。追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもありましたが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくありませんでした。なお、中世の法慣習では、支配権を有する領主や地頭などが検断権を持つこととされていましたが、支配される側の惣村が検断権を持っていた点に大きな特徴があります。
 14世紀中ごろの南北朝時代は、全国的な動乱を経て、畿内に発生した村落という新たな結合形態は各地へ拡大していいました。支配単位である荘園や公領(郷・保など)の範囲で、複数の惣村がさらに結合する惣荘(そうしょう)・惣郷(そうごう)が形成されることもありました。惣荘や惣郷は、百姓の団結・自立の傾向が強く、かつ最も惣村が発達していた畿内に多く出現しました。
 また、畿内から遠い東北・関東・九州では、惣村よりも広い範囲(荘園・公領単位)で、ゆるやかな村落結合が形成されたが、これを郷村(ごうそん)といいます。なお、関東においては、惣荘や惣郷の存在について確認されていないが、特殊な事例ですが、香取文書には、下総国佐原において、それに近いものが存在していたことが書かれています。
自治意識の高まった惣村
 惣が発達すると、領主のむやみな介入をしめ出し、年貢の納入を請け負う地下請をおこないました。また、いくつもの惣が目的を同じくして結束し、幕府に借金を帳消しにする徳政令の発布や、武士の地元からの追放、関所を取り払うことなどを求め、武器を取って立ち上がることもありました(土一揆)。
 土一揆は、惣村の生活が困窮したために発生したというよりも、自治意識の高まった惣村が、主張すべき権利を要求したために発生したと考えた方がよいようです。ほとんどの土一揆は、徳政令の発布を要求する徳政一揆の性格を帯びてきました。当時の社会通念からして、天皇や将軍の代替わりには土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んできました。そのため、天皇や将軍の代替わり時には徳政を要求した土一揆が頻繁に発生した(正長の土一揆、嘉吉の徳政一揆など)。また、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆も見られた(播磨の国一揆)。その他、不作により年貢の減免を荘園領主へ要求する一揆もありました。これらは、惣村から見れば、自らの正当な権利を要求する行為でありました。
 惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣村の指導者には、乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)などがありました。また、惣村の構成員のうち、乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅう)といいました。惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)ともいいます。惣村の指導者には、乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)などがありました。また、惣村の構成員のうち、乙名になる前の若年者を若衆(わかしゅう)といいました。
都市と農村の自治
 織田信長が琵琶湖湖畔の安土に安土城という壮大な城を築き、楽市・楽座の政策をとって、城下の商工業者には自由な営業を認め、流通の妨げとなっていた各地の関所を廃止しました。このように信長は旧来の政治勢力や社会制度を打破し、全国統一への道を切り開きました。
 戦国時代に入ると、戦国大名による一円支配が強まり、惣村の自治権が次第に奪われていいました。中には戦国大名の承認の下で制限された自治を維持する惣村もありました。最終的には、豊臣秀吉による兵農分離(刀狩)と土地所有確認(太閤検地)の結果、惣村という結合形態は消滅し、江戸時代に続く近世村落が形成していったとされるが、惣村の持っていた自治的性格は、祭祀面や水利面などを中心に近世村落へも幾分か継承され、村請制度や分郷下における村の統一維持に大きな役割を果たしたと考えられている。
 惣村が支配者や近隣の対立する惣村へ要求活動を行うときは、強い連帯、すなわち一揆を結成した。一揆(連合、同盟)は元々、心を一つにするという意味を持っており、参加者が同一の目的のもとで、相互に対等の立場に立って、強く連帯することが一揆でありました。
 惣村による一揆を土一揆(つちいっき)というが、土一揆は15世紀前期に始まり15世紀中期~後期に多発した。土一揆は、惣村の生活が困窮したために発生したというよりも、自治意識の高まった惣村が、主張すべき権利を要求したために発生したと考えた方がよい。ほとんどの土一揆は、徳政令の発布を要求する徳政一揆の性格を帯びてきました。当時の社会通念からして、天皇や将軍の代替わりには土地・物品が元の所有者へ返るべきとする思想が広く浸透しており、これを徳政と呼んできました。そのため、天皇や将軍の代替わり時には徳政を要求した土一揆が頻繁に発生した(正長の土一揆、嘉吉の徳政一揆など)。また、支配者である守護の家臣の国外退去を要求した土一揆も見られた(播磨の国一揆)。その他、不作により年貢の減免を荘園領主へ要求する一揆もありました。これらは、惣村から見れば、自らの正当な権利を要求する行為でありました。戦国時代に入り、戦国大名による一円支配が強化されるに従って、惣村の自治的性格が薄まっていき、土一揆の発生も次第に減少していいました。
三都の繁栄
 江戸時代には、江戸は商人や職人が多数集まり、18世紀の初めには人口100万を超える、当時、世界最大の都市となりました。
 大坂は米・木綿・醤油・酒などのさまざまな物産の集散地となり、「天下の台所」とよばれて栄えました。各藩は大坂に蔵屋敷を置き、年貢米や特産品の売却を商人に依頼しました。大坂に集められた物産の多くは、菱垣回船や樽回船によって江戸に運ばれました。
 京都は、朝廷が所在する文化の都として、また西陣織や漆器・武具・蒔絵など高級な工芸品を生産する手工業都市として栄えました。江戸・大坂・京都は、あわせて三都とよばれました。
 このほかにも、各地の城下町や門前町、宿場町が、それぞれの地域の特性と伝統を生かして発展しました。
 江戸時代の村は、百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承してきました。また、江戸時代の百姓身分とは、主たる生業が農業・手工業・商業のいずれかであるかを問わず、村に石高を持ち、領主に年貢を納める形で権利義務を承認された身分階層でした。都市部の自治的共同体の単位である町(ちょう)に相当しますが、村か町かの認定は、しばしば領主層の恣意により、実質的に都市的な共同体でも、「村」とされている箇所も多かったようです。
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日本の地方分権を考える(2) 北近畿の地方自治


図:北近畿開発促進協議会

律令制の「山陰道」として丹波・丹後・但馬という地域をもう一度考察してみたいと思います。古くから日本海側に出雲から北陸にかけて朝鮮半島との交流文化圏を形成してきました。また、都に近い(近国)ために大陸との経由地点として交流がさかんでした。

したがって、古代には若狭・丹後・但馬・因幡、さらに出雲・越国も含めた広域な朝鮮・中国との「環日本海文化圏」を形成していました。歴史風土的に似た面が多く、また、若狭・丹後・但馬・丹波は、五畿(山城・大和・河内・和泉・ 摂津)との影響も受けやすい近国と位置づけられ、独自色が薄く強固な基盤を持ちにくいといえます。
廃藩置県後、若狭は当初滋賀県に、のち福井県に、丹後・丹波・但馬は豊岡県に、のちに丹後・丹波(北東部)は京都府、但馬・丹波(南西部)は兵庫県にとそれぞれ分かれており、交通面で鉄道・道路でも県庁とのつながりが主であり、北近畿内の横との直通運行や連携は少なくなっています。

近畿ブロック知事会では、道州制を拒否している井戸敏三・兵庫県知事以外にも、西川一誠・福井県知事が道州制に反対する意見を出しており、山田啓二・京都府知事も道州制に対して慎重な意見を出している。

2004年6月30日には、京阪神の経済団体から、近畿2府6県(福井県・滋賀県・京都府・三重県・奈良県・和歌山県・大阪府・兵庫県)に、四国の徳島県を加えた広域行政体の設置を求める提言が出されており、州庁の組織や行政運営に留まらず、州の様々な設置方法も提案されている。

2007年9月21日、政府の道州制ビジョン懇談会において江口克彦座長(PHP研究所社長)は、東京23区と大阪府を特別州とし、東北・北信越など全国を12道州に分ける私案を公表した。
また、中国地方では、財界では、中国地方5県で一組の州とする「中国州」を提唱している。鳥取県においては鳥取市の経済界を中心に「関西州」への編入を求める声も上がってきている。

一方で県西部の米子市などでは道州制導入に際し、島根県松江市などと合併して「中海市」を設ける考えが以前から存在しており、東・中部と西部の間で意見のずれが生じている。また、平井伸治鳥取県知事は近畿ブロック知事会への参加を表明、2008年6月6日、正式に加入が認められたことから県内の道州制論議に何らかの進展をもたらす可能性がある。

イタリアでも兵庫県のような日本海と瀬戸内海にまたぐ県はありませんが、中央の産地を挟んで東西に分かれており、地勢上プーリア州のような細長い州があります。但馬から若狭までを合わすと似ています。

北近畿の都市圏

都市圏とは一般に、核となる都市および、その影響を受ける地域(周辺地域、郊外)をひとまとめにした地域の集合体であり、行政区分を越えた広域的な社会・経済的な繋がりを持った地域区分のことを指します。自然、歴史、文化など生活を取り巻く環境を概ね共有し、圏域内に居住する人々が概ね域内に通勤・通学先を求め、医療、買物、公共サービスなど都市的サービスも概ね圏域内で享受できるような地域的まとまりのことです。例えば、新しい国のかたち「二層の広域圏」を支える総合的な交通体系最終報告(2005.5、国土交通省)では、人口規模30万人前後、時間距離で1時間前後のまとまりを目安とした圏域としています。

車社会化が発達した20世紀末には、中心都市の市域を大きく超えて生活圏が形成されるようになり、21世紀になって「平成の大合併」と呼ばれる広域合併が行われました。しかし、アメリカでは都市圏について公式に定められているそうですが、日本においては公式の定めはありません。

兵庫県但馬地方は、豊岡都市圏(経済圏)を形成する兵庫県北部の中心都市です。豊岡市の人口は86,895人(推計人口、2008年7月1日)、697.66k㎡となり、豊岡都市圏は11万8565人です(10%通勤圏:毎日の決まった人の移動に注目した都市圏。周辺市町村の定義は、通勤・通学者数の割合が10%以上としています。)。

北近畿では舞鶴市90,121人、342.15k㎡、福知山市80,302人、552.57k㎡。福知山都市圏は、福知山市全域と、綾部市全域、京丹波町の一部、丹波市の一部を指す。兵庫県の丹波市や周辺市町村からの通勤や買い物客も多く、2000年現在で13万6096人で北近畿最大。豊岡都市圏、舞鶴都市圏と並んで北近畿の中心的な都市圏となっています。
舞鶴都市圏は、舞鶴市を中核に、福井県(嶺南)大飯郡全域と宮津市や綾部市の一部などを含み、その都市圏人口は約12万人。
これに福井県嶺南地方を含めて北近畿開発促進協議会が昭和62年に発足しています。地域の歴史を検証すると、この4地域は古来より風土・文化面で交流がさかんであり、鳥取豊岡宮津自動車道の早期開通などに総合整備が進められています。

兵庫県 豊岡都市圏 11万8565人 豊岡市・香住区・京丹後市久美浜町
京都府 舞鶴都市圏 約12万人 舞鶴市を中核に、福井県(嶺南)大飯郡全域と宮津市や綾部市の一部
福知山都市圏 13万6096人 福知山市・綾部市・京都府京丹波町和知町・兵庫県丹波市市島町

10万人以上の都市雇用圏(2000年国勢調査時点の10%都市圏。アメリカでは都市圏について公式に定められているが、日本においては公式の定めはない)
「10%通勤圏」。金本良嗣、徳岡一幸両氏が「応用地域学研究」(2002) で、DID(Densely Inhabited District:人口集中地区)人口を利用して中心地域を決め、その地域の雇用求心力を基準に設定された都市圏。
※日本の都市圏設定基準 10%都市圏…通勤・通学者数の割合が10%以上

島根県 中海・宍道湖経済圏 約68万人 出雲都市圏・松江都市圏・米子都市圏
出雲都市圏 17万3715人
松江都市圏 22万5937人
鳥取県 米子都市圏 25万2387人
倉吉都市圏 11万6650人
鳥取都市圏 24万9067人 鳥取市・兵庫県新温泉町
福井県 福井都市圏 56万0601人
武生都市圏 11万4823人
敦賀都市圏 8万8928人
小浜都市圏 4万4395人
石川県 金沢都市圏 73万2467人
小松都市圏 13万8908人
富山県 富山都市圏 54万1761人
高岡都市圏 37万4530人
魚津都市圏 13万4411人
新潟県 燕都市圏 121,606人
新潟都市圏 94万7310人

日本の都市圏設定基準 10%都市圏…通勤・通学者数の割合が10%以上
米子都市圏は松江都市圏、出雲都市圏と隣接しており、3つの都市圏は相互に重なり合った構造を示しており、全体としてつながりを持った大きな中海・宍道湖経済圏を形成しています。
福井県南部の嶺南(若狭湾沿岸)地方を1つの都市圏とすると、小浜都市圏4万4395人、敦賀都市圏8万8928人を合わせて、133323人です。
但馬・丹後・丹波ならびに関西に依存度が高い福井県嶺南(若狭)地方は、歴史的経過から、本来一つの県として考えるべきであるともいえますが、明治初期の数回に及ぶ廃藩置県の歴史的経過から、3府県に分散されました。

豊岡市の概要

平成17年4月1日、豊岡市、城崎郡日高町、城崎町、竹野町、出石郡出石町、但東町の1市5町が対等合併し誕生しました。新しい市章はとよおかの「と」とコウノトリがはばたく姿をイメージして一般公募によるものです。

豊岡市の隣接する自治体は、兵庫県では養父市、朝来市、香美町、京都府では京丹後市、福知山市、与謝郡与謝野町。豊岡市は、日本で最後の野生コウノトリの生息地として知られ、コウノトリの保護・繁殖・共生の事業が行われています。また、古くは但馬国府が置かれ、城崎温泉、但馬海岸、城下町出石、神鍋高原等観光資源も日本海から高原まで豊富です。日本海に面しているところでは海水浴場や海の幸、山ではスキー場、また城崎温泉があるなどレジャー施設が非常に多く、但東町は日本標準時間である子午線(統計35度)が通過する日本の真ん中に位置し、豊岡市は、日本一のかばん(バッグ)の生産地として広く知られています。

合併後の豊岡市は、豊岡市は、面積:697.66平方キロ、総人口:86,873人、人口密度:125人/平方キロ(推計人口、2008年9月1日)で、兵庫県内で最大面積を占めます。ちなみに兵庫県で豊岡市に次いで面積が広い神戸市は、豊岡市合併までは県内最大の面積:552.23平方キロ(※境界未定部分あり)、総人口:1,533,172人、人口密度:2,780人/平方キロ(推計人口、2008年9月1日)でした。

・東京23区の総面積:621平方キロ、人口:8,727,326人、人口密度:14,043人/平方キロに対し、
・豊岡市は、面積:697.66平方キロ、総人口:86,873人、人口密度:125人/平方キロ
最大都市と比較するのも意味はありませんが、豊岡市は東京23区とほぼ同じ面積で人口比は約100倍、人口密度は112倍なのです。参考までにということです。

豊岡市の生活圏

とくに兵庫県は、政令指定都市神戸市を県庁所在地として、5つの旧国から構成されています。それが多彩なカラーを持ったユニークな県として成立しています。しかし、但馬地域から県庁の神戸市までよりも、大阪・京都へのアクセスが便利で、鳥取・福知山・姫路の方がさらに近い土地柄です。

日高町の場合、かつて昭和大合併で旧気多郡内の6つの町村(日高町・国府村・八代村・三方村・清滝村・西気村)が昭和に合併し新日高町になりました。ほぼ一つの郡域が一つの町になったことから、但馬の市町の中でも面積は最も広いですが、大部分を山林が占めています。それぞれ旧町村は、それぞれの地区単位の公民館、小学校校区として残っています。

豊岡市は旧豊岡市(町)しての機能もあるのと同時に、かつての郡・広域自治体として共同自治を行っていく必要があり、それはかつての出石・城崎郡役所が置かれていた機能とどう違うのかが分かりづらいのではないでしょうか。かつて郡役所が廃止されたのかは、二重行政の簡素化にあったといえるでしょう。新豊岡市は、こうした複雑な二面性を兼ね備えた自治を問われることになるのではないでしょうか。それは、規模は異なりますが、東京都における特別区、大阪府における大阪市など全国の自治体も同様ではないでしょうか。

このように広域なため、旧市町間の疎通はあまりなく、緊急体制に時間を要するようになるのは必至で、政府が進める機能集約化と地域住民の利便性は矛盾するものであって、少子高齢化が進む中において役場機能の集約化による旧町の衰退、医療、買い物等の不便さは増しており、今後合併後の広域行政のあり方には多くの問題点を含んでいると思えます。

政府(総務省)の特例法による平成の合併を考えるとき、国→地方自治体という流れで効率を追い求めては行けないと思います。車で移動する手段がない時代までは、小さな村社会がコミュニティを形成して、それは閉塞的な面はあるが、しかし、少子高齢化が進む中で、歩いて生活できていた各区の、隣保のコミュニティの機能が、相好援助の細やかな自治機能が守られていたのではないでしょうか。日常の疎通が希薄になっている昨今、果たして合併という効率化の方向がまったく正しいひとつの手段だとは思えないのです。

各地域がそれぞれ培ってきた伝統・文化は、長い歴史の中で改めて自然に、必要、必然的に生まれてきた、最も合理的でベストな経過でもあるのではないでしょうか。その最も小さなコミュニティ社会である村を基本に大切に守り育てこそ、町が成り立ち、県、州、それぞれの役割をしっかりと機能を果たせるものにしながら、国が形成されるのではないでしょうか。

歩いて生活できる範囲、目の届くエリアこそがムラが生成された生活の根本です。それは省エネ、コミュニケーションでもあり、合理的な智慧であったのではないのでしょうか。国が出来て村が生まれたのではないからです。まず人が集まりはじめ、村が発生し、小国家が生まれ、国が生まれたのです。小さなコミュニティでできることは小さな単位で、できないことは大きな単位で。それが機能的、合理的な役割分担社会の地方自治の基本であるといえるであろう。

合併は、地理歴史や交通体系、住民の生活圏が異なる複数の地域を併せ持っている市町村で実施されることが一般的です。第二次世界大戦中に国策で合併した町村が戦後に再分離されたり、昭和の大合併で合併した町村が、新市町村内の対立で分離されるといった例がありました。農協の合併、市町村合併、郵政事業、医療制度など、必ずしもデメリットばかりではないと思いますが、果たして合併は本当に正しい方向に向かっていくのでしょうか。

地方分権の先進地である欧米では市町合併はそんなに進んでいません。フランスやイタリアでも行政の合併が図られていますが、失敗したり町の数は中世からあまり変わっていないようです。大きく異なる点は、議会や行政を専業ではないボランティアで行ったり、地域に合ったさまざまな行政体が存在するようです。

出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
放送大学准教授 山岡 龍一
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日本の地方分権を考える(1) 平成の市町合併の目的

 市町村合併の動きは2003年(平成15年)から2005年(平成17年)にかけてピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了し、1999年(平成11年)3月末に3,232あった市町村の数は、2006年(平成18年)4月には1,820にまで減少しました。
 その後、2005年(平成17年)4月に施行された合併新法(市町村の合併の特例等に関する法律)に基づき、引き続き市町村の合併が進められています。合併新法においては、合併特例債などの財政支援措置がなくなったため、合併の動きは鈍いが、県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けて、合併の動きが進むことが予想されます。
平成の市町合併の目的
 政府などが掲げる目的は、概ね以下の通りです。
地方分権に対応して、基礎自治体の財政力を強化できる。
車社会の進展に伴う、生活圏の広域化に対応できる。
政令指定都市や中核市・特例市になれば、権限が移譲される。
 しかし、政府主導による平成の市町村合併ブームには、以下のような批判も少なくありません。
住民発議で合併に誘導する制度はあっても、合併の是非を問う住民投票が法制化されていない。このため、一応は議会の議決はあるものの、住民に歓迎されない合併も行われている(例:大崎市)。
合併に関する特例法は存在するが、分割や分立に関する特例法が存在しない。
合併後にも、旧市町村の議員が、そのまま新市町村の議員として任期を延長できる「在任期間の特例」に関する問題がある。財政難を理由にして合併をしても、合併後には議員の任期と給与を上げる事例が目立つ。
合併後の市町村の名称が、歴史的な地名を軽視した「方角とひらがな」ばかりになっている。(→#合併後の名称問題)
「規模を適正にする」という観点を軽視した合併が行われている。このため、県の面積に匹敵する巨大な市が、次々と作られている。
財政問題の解決を口実にした合併が目立つため、原発が立地することで国からの支援が降りる小規模自治体、空港などの固定資産税、あるいは大企業・大工場・莫大な収入を持つ個人からの地方税によって裕福な小規模自治体などは、合併による周囲の財政難自治体の債務の肩代わりを嫌って、合併しない例が多かった。そのため、将来の財政難を理由に合併した市町村が、「貧民連合」と侮蔑的に呼ばれた。
各市町村の思惑が絡み合い、いびつな飛地が多数発生した(例:津軽半島周辺)。
初めに合併ありきで合併したため、生活圏が異なる自治体同士が合併したケースがある(例:大崎市、相模原市など)。
財政の健全化が目的なのに、合併特例債(前述)によるバラマキにより却って財政悪化に繋がりかねない。
 これらの問題点が挙げられていることから、福島県東白川郡矢祭町や群馬県多野郡上野村などのように、合併を拒絶して、自立・自律や独自性を謳う市町村も現れている。これらの中には、山間部などに位置していて、合併によって一層の過疎化が懸念されている所も少なくない。
 反面、住民が合併を望んでいるにも拘らず、「自立」を謳って合併を拒絶したり、合併協議の破談や首長と議会の対立の末に「自立」を謳う市町村もまま見受けられる。
 もちろん、住民が分割や分立を望んでいるにも拘らず、議会や首長が拒絶をする市町村もある。
市町村合併のメリット・デメリット
 以下にメリット・デメリットを記載するが、規模等により大きく異なることがあるので、あくまでも一般的なものである。
メリット
住民生活の利便向上
* 住民の生活行動圏に見合った行政サービスの広域化
通勤・通学、通院、買い物等の行動圏域は従来の行政区画を越えている場合が多いが、行政区域が広域化することによって、住民票の写しの交付等の窓口サービスが勤務地や外出先などの近くで利用できるようになる。また、文化会館、図書館、スポーツ施設等の各種公共施設については、それまで利用に制限がある、利用料金に差がある等した隣町の施設についても、同条件で利用が可能となる。
* 住民サービスの高度化
住民の価値観の多様化により市町村行政に求められる機能も高度化・複雑化しているが、専門的知識を備えた職員を確保することにより、専門的かつ高度な行政サービスを提供できるようになる。 地域づくりの進展
* 地域のイメージアップ
「市」への施行、あるいは新しい市町村名とすることにより、地域としての全国的なイメージアップが図られ、地域経済の活性化や若年層の定着、観光交流客の誘致、大型プロジェクトの誘致等へのプラス効果も期待できる。しかし、「市」の数が増えてしまうとせっかく「市」になっても知名度が上がらず意味がないことが多い。むしろ今まで知名度のある市町村名を消すことで知名度が下がることもある。
* 地域づくりの契機
合併の議論を通じて、自らのまちを見直す機会となる。合併後も、まちづくりビジョン実現のため、住民、諸団体の地域づくりへの主体的参画が期待される。
行財政の効率化
* 行財政の効率化
個々の自治体が行ってきた管理業務を一つに集約することにより、職員数や経費を削減する一方、新たな行政ニーズの発生している部門に充てることができる。職員数も人口当たり少なくなすることができるため、行政サービスの向上を図りつつ、人件費や経費を抑制することができる。ただし、合併で消滅する自治体においても市町村職員の地位は法律で保証されているため、人員抑制・削減効果が期待できるのは合併後数年以上経過してからとなる。また、支所の配置方式によってもその効率化効果はかなり異なってくる。
* 施設の効果的配置
住民の生活行動圏に即した広域的な視点から公共施設を計画的かつ効率的に配置することとなり、隣接した地域での類似施設の重複を避けることができる。ただし、合併前の駆け込みで事業実施する等の弊害も生みがちである。 権限の拡大、行政能力の向上
* 行政の高度化・専門化
長期的には、行政規模拡大により生み出された財源や人員の余裕を、現代においてニーズの高い都市計画、環境政策、情報化、法務等、高度に専門性を要する分野へと振り向けることにより、多様で専門的な人材を長期的に確保し、行政サービスの高度化・専門化を図ることができる。 また、計画的かつ体系的な職員研修プログラムなどを通じて、行政職員の政策形成能力の向上が図られる。
* 広域的な地域づくり
広域的な視点に立った交通基盤や各種公共施設の整備、総合的な土地利用の推進などにより、一体的な地域づくりを効果的に実施することができるようになる。さらに、環境問題や観光交流振興など従来の市町村域の枠を越えた広域的な取組みが求められる領域においても、一体的な対応が可能となる。 さらに、政令指定都市、中核市、特例市や市制への移行等により、自治体としての権限が拡大する効果も期待できる。
* 大型事業の実現
行財政の効率化によって生み出される財源を、選択と集中により、新たな地域づくりや産業振興のために重点的に投資することが可能となる。財政規模の拡大によって、重点的な投資が可能となり、今までの個別自治体の規模では困難だった大型事業を計画的に実施することができる。
デメリット
* 端々の地域が寂れる
庁舎の存在する地域は市町村の目も届き、各種事業が実施される。しかし、周辺部においては強く事業実施を要望しても、取り残されることはほぼ確実であり、中心部と周辺部の格差が拡大しがちである。また、それまで行なってきた地域づくり活動が継承されず、その成果が省みられなくなってしまう。例えば、2005年に合併した北海道の(新)石狩市では、南北に細長い地形と住宅密集地が南部の地区に集中していることも相まって、北部の旧厚田村(今の同市厚田区)や旧浜益村(今の同市浜益区)で顕著である。
ひいては、従来の歴史、文化、各種伝統行事といった地域の特徴が失われる恐れがある。地区出身の町村職員が自発的に地域文化を支えてきた面も一部にはあり、これら職員が本庁に吸い上げられることによって、担い手が確保できず消滅することになりかねない。
* 市町村行政と地域住民との距離の拡大
行政組織が大きくなって、また議員の数も減少し、地域の住民の意見が市町村行政に届きにくくなる。また、行政の広報委員としての役目の他に、地域と市町村行政との実質的なパイプ役となってきた区長等の地区役員制度も都市部の様式に統一されることによって、機能が削がれる恐れがある。合併により誕生した岐阜県の新・高山市や同県の飛騨市が顕著な例である。
* 行政サービスの低下
役所や公共施設への距離が遠くなり、不便になる。効率化によって、行政サービスが高度化するとはいえ、それらは長期的に効果発現するものであり、また直感的には感じられにくいものである。また、分庁舎方式で各旧自治体役場に各部署を分散させる方式を採った場合、申請や手続きの度にその部署を有する遠く離れた分庁に足を運ばなくてはならない。
* 住民・事業所負担の増大
町村から市に移行する場合、今まで安かった公共料金が合併で大幅に値上がりしたりなど税等の住民や事業所の負担が増大することがある。例えば、函館市と合併した南茅部町、椴法華村、恵山町、戸井町では水道料金が大幅に値上がりし、ゴミと託児所が有料化された。
* 意見が通らなくなる
比較的大きな市と小さな町村が合併した場合、両者の産業の種類に大きな差があると、小さな町村の産業は無視される。また、市長選挙でも大きな市ひとつの人口が他の町村の人口を上回ることがよくある。市議会選挙においても同様で、当選には旧町村議会とは比べものにならない票数を必要とするため、旧町村内で候補者を調整しても、数名の議員しか当選させられず、議会の主導権は完全に旧市側に握られる例が多い。また、選挙日の事務効率化で合併により開票所までの距離が遠いことで繰上げ投票時間を設定する必要が出てくる。
例えば、石狩市は石狩市と厚田村と浜益村が合併して誕生したが、旧石狩市は札幌のベッドタウンと商業港の町だったのに対し、厚田・浜益両村は漁業を中心とした村である。石狩市の人口は両村合わせた数の10倍以上であり、両村の意見はほとんど通らなくなる。
出典: 「政治学入門」放送大学客員教授・慶應義塾大学教授 小林 良彰・河野 武司
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【丹国の歴史】(43) 丹波(たんば)国の始まり


画像:北近畿開発促進協議会

丹波(たんば)の始まり

丹波とは、延喜式で定めた山陰道の国の一つで、格は上国、近国。
丹波ははじめ「たには」と呼び、古くは田庭・谷端・旦波とも記していました。『古事記』では旦波、丹波、『日本書紀』では丹波と記され、『和名抄』では 「太迩波(たには)」と訓じられています。
峰山町丹波には、古代は丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。
丹波は、現在の元伊勢籠神社の付近を地盤として、若狭湾岸の一部と、丹波高地を版図としていました。また
また、丹とは谷または水銀を「に」と読んだ、波(は)とは日本海であり、谷間と海の国をさすとも考えられます。

この「たには」は、(1) 主基(すき)田の「田庭」から、
「タニ(谷)・ハ(端)」から
「丹(水銀)」から
「タワ(峠)」の転などの説があります。

古代丹国は、北ッ海(日本海)を前に朝鮮半島からの日本の表玄関として、古代は奴国(北九州)・文身国(出雲・伯耆・因幡)の出雲から東に水行5千余里(約260km~300km)の地点に大漢国(丹国・越国・近江)の王都があります。おそらく約260km~300kmから推定すると、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。
「タニハのクニ」、丹国(にのくに)は、近畿地方北部を治めた、古代日本の勢力圏の一つです。丹州(たんしゅう)とも呼ばれていました。 5世紀ころ四道将軍の遠征により大和朝廷に服属したとされます。

7世紀に丹波国が定められたときの初期の中心地は、現在の元伊勢籠神社(宮津市大垣)の付近を地盤として、国府と国分寺が置かれていました。現在の丹波(京都府の中部と兵庫県中東部、京都府北部(丹後)、兵庫県北部(但馬)に及んでいました。丹波(タンバ)と但馬(タジマ)の読みが似ていることも、この背景と関係があるのかも知れません。

しかし、律令制度下でヤマト王権の支配下に入れられると、丹国は丹波国・丹後国・但馬国に3分割されました。天武天皇13(684)年?に丹国北西部の朝来(あさこ)、養父、出石、気多、城崎、美含(みぐみ)、二方、七美(しつみ)の8郡を分けて但馬国(たじまこく)を分割、さらに和銅6(713)年に北部の加佐、与謝、丹波、竹野、熊野の5郡を分けて丹後国を分割し、桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿(いかるが)の6郡を丹波国としました。大和朝廷の弱体化政策により、古代文身国が出雲と伯耆、因幡に分けられたのと同様に、古丹波国を三分割されたと考えられます。
現在では丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹(たんたん)または丹但、丹波・丹後・但馬を三丹と総称することもあります。最近ではJR西日本の特急「北近畿」という名前のようにも呼ばれています。

現在の丹波は大まかに言って三つの盆地、亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う盆地があり、互いの間を低い山地が隔てている地勢です。このため、丹波国は一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化しました。
年号が不明ですが、律令制が布かれ、北西部を『但馬国』、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を『丹後国』として分離し、後世まで長く続く地域が定まりました。江戸時代に丹波は丹州、但馬は但州と書くこともあります。

地域性として、
亀岡・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津
氷上・福知山・綾部の中丹(奥丹波)は丹後・但馬
篠山・丹波(西丹波)は但馬・摂津・播磨
に密接に係わっています。

そのことからも明治の廃藩置県では数回の変更の末、兵庫県と京都府に分割されることになりました。
方言的には但馬・丹後は山陰のアクセントに似ており、中丹・南丹は関西弁に近いです。もちろん明確に分かれているのではなくて各地域の距離的位置によってより濃厚になってくるようです。(私見)
丹波南東部の亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓し、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」(ミホツヒメノミコト)の名前にちなみ「保津川・保津峡」と名付けたという伝説が残っています。出雲大神宮(亀岡市千歳町)の祭神となっており、事実、湖だったことを示す地層も明らかになっています。この伝説は、出雲神話をはじめ、但馬の沼地を切り開いたという伝説や網野入り江を切り開いた伝説などとよく似ている(後述)。

これとは異なり、次の説もあります。
上記の峰山町丹波です。6世紀ころには竹野媛や「丹波」の名のつく女性が垂仁天皇の后となっていることからも、古代より丹波の名称はあったようです。

丹後国(たんご)誕生

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。
古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある(丹後王国論を参照)。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説(有力)もある。

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より大和(奈良)の都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられています。南部の桑田郡(亀岡市)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

勘注系図[註1]のなかに見える、「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」の問題がある。同書に見える「丹波」という名の由来では、天道日女命らがイサナゴ嶽に降臨した豊宇気大神に五穀と蚕などの種をお願いしたところ、嶽に真名井を堀って水田陸田に潅漑させたので、秋には垂穂が豊かな豊饒の土地となったということで、大神は大いに喜んでこの地を「田庭」といい、天に帰ったという伝承を載せる。これが丹波の語源となったといい、この記事が勘注系図にも同じく見える。「諸国名義考」にも丹波は「田庭なるべし」とあり、古代の丹波郡(京丹後市峰山町)あたりは実際にも豊かな土地であって、丹波は宮廷の大嘗祭の主基国にしばしば当てられた。しかし、これら「田庭」起源説は、当地の国造一族が豊受大神を奉斎したことからくる説話にすぎないともされています。

また、丹波方面で彦坐王が討ったと崇神記に見える鬼「玖賀耳之御笠(陸耳御笠)」についても、「残欠風土記」に見える。同書の記事では、玖賀耳之御笠の拠った地が丹後の青葉山(舞鶴市と福井県大飯郡高浜町の境界にある山で、若狭富士、標高は六九九M)とされるが、これも疑問が大きい。すなわち、仁徳天皇の宮人「桑田玖賀媛」などから丹波国桑田郡(亀岡市)という説(太田亮博士)があり、この点や山城国乙訓郡には久我の地からいって、丹波路の入口にあたる乙訓郡あたりから丹波国東南部にあたる桑田郡にかけての地域を、大和王権の先兵としての彦坐王の勢力がまず押さえて丹波道主命と称せられたと考えるのが妥当であろう。この地域に居て抵抗した土着勢力が玖賀耳だと畑井弘氏もみている(『天皇と鍛冶王の伝承』など)。

中世には足利氏の一族である一色氏が入封、一時期を除いて室町時代を通じて丹後一国を支配した。ただ、その支配体系は不明です。恐らく、九州探題も務めたことのある一色氏自体は在京し、地元豪族を守護代として支配をしたのであろう。戦国時代が始まる1498年には守護の一色義秀が地元豪族に攻められて自殺していることから、強力な施政はできなかったようにも思われる。それでも一色氏の命脈は戦国期を通じて永らえたが、1579年7月に一色氏が細川幽斎に滅ぼされて以来、細川氏が丹後を支配した。関ヶ原の戦い後、京極高知に、丹後守の称号と丹後一国、十二万三千石の領地が与えられ、国持ち大名京極家の領地となりました。

国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市西舞鶴と思われる。 ただし、易林本の節用集では、与謝郡とあり、国分寺は宮津市府中(国指定史跡)に見つかっており、一の宮 元伊勢 籠神社も近いので、第一次国府は宮津市府中という地名から国府が置かれていたと推定される。

[註1]「勘注系図」は、江戸期の作成ないし書写ではないかとする見解を先に紹介したが、海部氏系図を天孫本紀の尾張氏系図などの知識を加えて大補充したものであって、平安前期より前の部分は、まったく意味をもたない。それどころか、様々な意味で有害である。それ以降の系図は田雄の孫世代まで及んでいるので、平安前期の範囲に記述はとどまる(全体の系図の詳細も刊本として公開されているが、実物の写真全ては入手しがたい事情にある)。

そもそも、天孫本紀の尾張氏系図の記事には様々な混乱があるのをそのまま引き写し、そこにすら見えない人物をいい加減に多数書き加え、その記事を付けた偽撰系図そのものであり、このような系図まで「附」として国宝指定をするのは、関係者の学究としての見識が疑われる。  だいたい記載内容が支離滅裂のかぎりで、本来の海部氏系図に尾張氏、和珥氏、倭国造氏の系図を勝手に混合させている。倭宿禰(椎根津彦と同人という解釈がなされている)と尾張連の祖・高倉下命(椎根津彦と同じく神武朝の人)との関係さえ、混乱している状況である。同書奥書には、「豊御食炊屋姫(註:推古)天皇御宇に国造海部直止羅宿祢等が丹波国造本記を撰した」という記事があると報告されるが(刊本では確認できない)、この表現には多くの誤りがある。   海部直氏は丹波国造ではないというのが史実なのに、何度も繰り返される重大な誤りが一連の史料の根底にある(これは、籠神社祠官家の主張にすぎない)。いま勘注系図の別名が「丹波国造本記」とされるが、この推古朝までの系図がその当時撰せられたとしたら、現在に伝わる内容のはずではありえないほど杜撰な記事内容なのである。「海部直止羅宿祢」という表記形式そのものがおかしいほか、止羅宿祢なる者は系図のどこに現れるのだろうか。

一の宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ、こもりじんじゃ)

延喜式神名帳には大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されています。大社6社は以下の通りで、竹野神社以外は名神大社に列しています。

丹後国府移転の理由は?

この時代の国府移転理由として考えられるのは、やはり桓武天皇の即位でしょうか。天応元年(781年)、桓武天皇は即位すると、新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきます。遷都は前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があったと考えられており、形骸化した律令官職に代わって令外官などが置かれました。また、桓武は王威の発揚のため、当時日本の支配外にあった東北地方(越後国(後の出羽国を含む))の蝦夷征服に傾注し、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征服に活躍しています。そのことから国府が宮津湾の与謝郡から舞鶴湾の加佐郡に移された理由として考えられるのは、平安京からわざわざ遠いながらも、湾が入り組んでおり、防衛上より適している舞鶴湾を蝦夷攻撃や朝鮮半島との最重要軍事基地として重要視したためとも考えられます。軍事上舞鶴湾は朝廷に最短距離かつ日本海側で最も適した湾であることが、すでに認識されていたのでしょう。

参考:舞鶴市HP
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麻生首相にお願いです。郵便局こそ町のよりどころ

郵政民営化は国鉄、電電公社、専売公社の民営化を上回る戦後最大規模の改革とされ、その主たる目的は財政投融資を廃止することとされている。これにより、約340兆円という潤沢な郵貯資金を特殊法人などに代表される政府機関ではなく、個人や民間企業に融資できるようにすることで、日本経済の活性化が図れるとされている。加えて、これまでは免除されていた法人税・法人事業税・固定資産税・印紙税や郵便事業会社・ゆうちょ銀行・かんぽ生命保険から郵便局会社に支払われる委託手数料にかかる消費税、民営化会社の株式を政府が売却することで得られる収益によって財政再建も図れるとしている。

その一方で、民営化前から巨額の赤字を抱えていた国鉄と郵政事業を単純に比較できないとの主張も存在する。各地の農協の統廃合や、個人受諾者の高齢化などに加え、簡易郵便局が民営化に伴い、業務内容や設置方法等が大規模に変更され、法的根拠のある受託業務は郵便事業のみとなったことにも起因している。

世界最大の約340兆円という潤沢な郵貯資金にある。しかし郵便引き受け数は2001年をピークに減少している。

市町村の郵便局は生活に密接した地域コミュニティとしてのよりどころ、治安・福利などの重要な役割を考えなければならないのではないか。

どこでも、酒屋さん、電気屋さんも機能していたが、自由化によって酒屋は廃業やコンビニ転換され、一般電気店は大手家電店により深刻化している。商店街が形成されていた中小都市でさえも、大型SCや郊外の大型店によって中心的役割を担っていたシャッター商店街となり、祭りや子どもたちの育成・安全などの町内活動や地域住民のつながりが希薄となってしまっている。

高齢化が進む中で車に乗れない人々の買い物や郵便局での貯金などが不便になり、国が支出する。たとえばイタリアなどでは中心部は景観保護の観点が発達しているので景観を損なうスーパー、コンビニや新建築は郊外に限られている。

医療介護等の補助金はむしろ増大することにつながり、自由化は価格を抑制するメリットがある反面、以上のように、日本の効率的なコミュニティ機能を破壊してしまい、必ず新たなコストを生むことにつながるのである。かえってマイナスではないか。

ドイツにおいては、通常郵便については長年ドイツポストの独占とされており、同社は、通常郵便の独占利潤をもって小荷物部門への国際事業展開を行っており、通常郵便に競合他社が事実上クリームスキミング的に参入している日本とは事情が大きく異なる。

イギリスでは、窓口会社、郵便会社、小包会社といったように分割されている。貯金事業は独立行政法人のナショナルセービングにより運営される。当時の英国のトニー・ブレア首相は日本の小泉純一郎首相が郵政民営化に熱狂してる様子を見て、「日本だけが逆行していますね」と語った。

スイスでは、連邦政府郵政省によって運営されている。ユニークなものとしては郵便バスの存在があげられる。これは、郵便物をバスで輸送し、そのバスに一般の乗客も有料で乗車できるというものである。

アメリカ合衆国には、かつて郵便貯金の制度が存在したが廃止されたが、郵便事業については公共企業体(USポスタルサービス)により運営。郵政事業を民営化するという法律案はこれまでに2回提出されたがいずれも成立せず、2002年には「一律サービスを民間で行うのは不可能」と結論付け、事実上郵政民営化は断念した状態となっている。

全国一括料金郵便(配達)事業を単独で運営させることは不可能であり、要するに欧米では、郵便取り扱いは公共的なものとして民間介入を許していない。すでに結論が出ている。郵便事業は郵便貯金を含めて黒字化されてきたのである。

西川社長やかんぽの宿売却問題は、そうした住民サービスの本題とは乖離しており、聞き分けのない鳩山弟と、憲法改正論者かと思えば、地方参政権をと180度違うことをいう事大主義者鳩山兄との方がはるかにブレまくり問題ではないのか。西川=三井住友から民主党がもし政権をとって社長交代を行うと、外資本、例えばロックフェラーやロスチャイルド系の世界最大金融の銀行に渡る方がはるかに危険である。

大店法緩和が町や地域のつながりを破壊し、文化を喪失させたのである。外国に行くと分かる。イタリアやヨーロッパの町並の美しさ、市場の人たちの活気と温かさ。韓国や台湾の失われた昭和の匂いのようななつかしさを。
小泉・竹中はアメリカに向いていただけである。日本の日本人の良さを破壊しただけだ。個人の念願で郵政民営化をなしとげた。それは経済問題なのであり、国民の幸せには直結しない。民営化を否定しないが、郵便局が果たしてきた公共的役割は国家が保証しなければ成り立たないこともあるのであるのではなかろうか。

資本経済の一部に偏った豊かさよりも、例えば親子が道ばたでキャッチボールをしていた昭和のころが良かったのかも知れない。日本の歴史と文化が誇りと思える国づくりが最も大切であることを、再認識するのである。

麻生首相が偉いことは安倍さんや福田さんのようにキレないところです。
「じたばたするなよ~♪」(シブガキ隊)と思いますが。

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