但馬歴史講演会「織田・毛利戦争と但馬国」

但馬史研究会第46回但馬歴史講演会に参加してきました。

演題「織田・毛利戦争と但馬国」
講師 岐阜工業高等専門学校教授 山本 浩樹氏
場所 但馬文教府会議室

先生は、「西国の戦国合戦」「愛知県史」資料編11織豊1~3などの著書も出されて、但馬ほはじめ西国の戦国時代にお詳しい。

講演は書状資料などに基づいて時系列に約2時間びっしりと説明をされた。羽柴秀吉の2度の但馬征伐による山名氏や軍団の動きは、すでにあらかたは知っていたが、古文書によるその頃の諸侯たちの動きがわかりやすくなった。

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「第45回 但馬歴史後援会」但馬史研究会

20111.5.22 「第45回 但馬歴史後援会」但馬史研究会
「祢布ヶ森(ニョウガモリ)遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡 孝彰氏

見つかった施設・遺構から、大型建物跡などが確認されている。かなり大きな役所跡だった。
また、全国的にみても多数の木簡が見つかっており、当時の役人の業務が分かる。

 


祢布ヶ森遺跡と周辺の遺跡 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

 

小浜歴史探訪 6/6 県立若狭歴史民俗資料館

■県立若狭歴史民俗資料館

小浜市遠敷2丁目104

重要文化財の福井県若狭町の「鳥浜貝塚出土品」をはじめ、多数の資料で若狭の歴史を紹介しています。鳥浜貝塚丸木舟が完全な形で展示してある。

日本での先史時代の丸木舟の発見例はおおよそ200例ほどで、その分布は関東地方に最も多く150例近くあり、そのうち千葉県での発見例は100例を数え日本全体の半分を占める。各地域での発見例では、千葉県北東部の縄文時代のラグーン(潟湖)が湖沼群として残る栗山川中流域での出土がことに多く、流域には山武姥山貝塚などの貝塚も分布している。次に多いのが滋賀県の琵琶湖周辺で25例ほどあり、福井県から島根県にかけての日本海側がこれにつづく。また、大阪湾では古墳時代のものと推定される大型のものの出土例が何例かある。

日本の先史時代の丸木舟の出土例の多くは縄文後・晩期のものであるが、縄文前・中期の出土例も報告されている。縄文前期の丸木舟として、福井県若狭町の鳥浜貝塚、京都府舞鶴市の浦入遺跡、島根県の島根大学構内遺跡、長崎県多良見(たらみ)町の伊木力(いきりき)遺跡、埼玉県草加市の綾瀬川や千葉県多古町の栗山川流域遺跡群などの出土例があり、このうち、千葉県多古町の栗山川流域遺跡群で1995年に出土したムクノキの丸木舟は全長が7.45mあり、京都府舞鶴市の浦入遺跡で1998年に出土したスギの丸木舟の現在長は4.4mであるが全長8m、幅0.85mと推定されている。このような大型の丸木舟は海洋での使用が十分可能であり、縄文前期には人々は、丸木舟に乗って島々に出かけていたと推測される。

なお、縄文時代の舟材に鳥浜貝塚、浦入遺跡や島根大学構内遺跡の出土例のようにスギ材が使われるのは稀であり、東日本での出土例ではイヌガヤ、ムクノキ、クリ、カヤなどが使用されている。古墳時代の大型の丸木舟にはクスノキの使用例が目立つ。
鳥浜遺跡から1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。前者は縄文時代前期のもので、当時この期の丸木舟としては日本最古であったので第一号丸木舟と名付けられた。(1998年に京都府舞鶴市浦入遺跡でも同時期の丸木舟が出土している。)保存状態は良好であるが先端部分が失われている。船尾はとも綱を巻き付けたものか浅いくぼみが残っていて、長期間使用されたことが窺える。舟体は直径1メートルを超えるスギの大木を竹を縦に二つに割る要領で造ったと想像でき、内と外を削り、火に焦がしたりして造っている。舟底は平たい。長さ6.08メートル、最大幅63センチメートル、厚み3.5~4センチメートル、内側の深さ26~30センチメートル。後者は縄文時代後期(約3000年前)のもの船底のみが残っていた。現在の長さ3.4メートル、最大幅48セントメートル、厚みは4センチメートルで、内側には肋骨のように舟を補強するためのものか、または、漕ぐ時に足をかけるものかは不明だが、凸型の彫り出しがあった。材は第一号と同じくスギで造られており、第二号丸木舟と名付けられた。スギ材で造られている丸木舟は縄文時代では非常に珍しく、東日本で見つかっている舟は、イヌガヤ、ムクノキ、クリ、からなどで造られていた。丸木舟は、鳥浜の人の活躍の範囲を拡げたことであろうし、食料獲得に果たした効果も大きかったと推定される。

漁撈関係では、他にスズキ・マダイ・クロダイ・サメ・フグ・イルカ・シャチ・クジラの骨なども出土しており、淡水魚・海水魚・貝類・堅果・野菜など多様な食糧利用が明らかとなった。

小浜歴史探訪 5/6 多田寺・妙楽寺 (但馬史研究会)

■多田寺

小浜市多田27-15-1
山号石照山 高野山真言宗
・木造薬師如来立像(国指定)
像高192.5cm 平安初期
・木造十一面観音菩薩立像
(日光菩薩)(国指定)
像高154.0cm
平安初期
・木造菩薩立像
(月光菩薩)(国指定)
像高144.2cm 平安初期
天平勝宝元年(749)孝謙天皇の勅命によって勝行上人が創建したと伝えられ、12坊の塔頭があったといわれています。江戸初期に火災に遭い、今の本堂は江戸時代文化4年(1807)のものです。
厨子に安置されている本尊薬師如来、十一面観音、菩薩立像の3体は、いずれも平安時代初期に若狭で作られた桧材の一木造で重要文化財の指定を受けています。これらの像は、通常の平安時代初期の像とは趣が異なり、天平的手法を幾分踏まえながら新しい技法様式を求めて造像されています。
また、十一面観音が若狭地方で作られたということは、日本に密教が布教されていった平安時代初頭には既に、若狭では密教受容の社会基盤がつくられていたことを示しています。この十一面観音像は歴史資料としても価値が高いといえます。
県指定文化財、平安後期作の木造阿弥陀如来坐像(三躯;像高144.5cm、他の二躯は91.5cm)を所蔵しています。(小浜市)
ご本尊は日光東照宮の陽明門が施され、絢爛豪華。元々他の寺同様に檀家は少なく二十数軒とか。
■妙楽寺

小浜市野代28-13
山号岩屋山 高野山真言宗
・本堂(国指定)
鎌倉時代初期
・木造千手観音菩薩立像
(国指定)
像高176.3cm 平安中期

山門

小浜の妙楽寺は真言宗のお寺で高台にある敷地の広いお寺です。山門までの両脇には桜並木が続き、その壮大な風情は価値があります。境内は静寂が広がります。桧皮葺の本堂、地蔵堂、鐘楼、神社などの堂宇が建ち並ぶ。鐘楼は
奈良時代の養老3年(719)僧行基が本尊を彫り、平安時代の延暦16年(797)空海が諸国を廻っていたときに本尊を拝して堂舎を建立したと伝えられています。寺領は明通寺より常満保地蔵丸名を寄進されています。
本堂は鎌倉時代初期に建立されたもので、厨子には永仁4年(1296)と銘があり、若狭における最古の建造物です。桁行5間(11.51m)・梁行5間(10.61m)寄棟造桧皮葺で、和様天井は化粧屋根裏内外陣境に菱間と格子戸を入れて区画されています。外観はゆるやかな屋根の流れは豪華な王朝建築にみえます。


本尊の千手観音菩薩立像は、平安中期の作で、桧材の一木造、頭上には菩薩の顔が3面あり、その他に菩薩面・憤怒面・狗牙上出面・大笑相面21面をいただいています。実際に千本の手が整然と美しく配されており、長く秘仏であったため、今も黄金色に輝いています。完全に手と仏具が揃っている千手観音菩薩立像は全国的にも2、3点のみで貴重です。
県指定の聖観音や地蔵像などの文化財も多く所有しています。
本堂わきには、芭蕉没後百年を記念して芭蕉の句碑が建てられています。秋には参道の紅葉が見事です。
引用:小浜市
時間の関係で回れなかったが、小浜には上記の他にも「小浜 国宝めぐり」コースがあり、巡回バスとレンタサイクルコースが設けられている。
○羽賀寺 (高野山真言宗)
○圓照寺 (臨済宗南禅寺派)
○妙楽寺 (高野山真言宗)
○多田寺 (高野山真言宗)
○国分寺 (曹洞宗)
○明通寺 (真言宗御室派)
○神宮寺 (天台宗)
○萬徳寺 (高野山真言宗)
●羽賀寺 (高野山真言宗)
女帝・元正天皇の御影と尊崇される木造十一面観音菩薩立像
●圓照寺 (臨済宗南禅寺派)
モリアオガエルが生息する庭園が見事で、四季移りゆく禅寺に北陸随一・金色燦然の大日如来坐像(重文)、木造不動明王立像(重文)
●国分寺 (曹洞宗)
諸国に建てられた国分寺の一つで、天平の仏教文化の息吹きを感じさせる。木造薬師如来坐像(重文)のほか、像高318cmの木造釈迦如来坐像は福井県下最大を誇る巨像
●萬徳寺 (高野山真言宗)
枯山水の庭園
本尊・木造阿弥陀如来坐像(重文)や絹本著色弥勒菩薩図像
他、見どころ
●常高寺
京極高次の死後京都妙心寺の槐堂和尚を招いて開祖とし、栖雲寺を移転させた跡地に常高寺を創建しました。常高院栄昌尼は、お市の方と浅井長政の3姉妹の次女として生まれ、寛永10年(1633)江戸で亡くなりましたがが、その後侍女たちと共に常高寺に葬られました。現存する常高院の貴重な肖像画、自筆の消息、墓所の他、書院に遺るこの壁画が、往時の盛運を偲ばせています。
本堂は大正12年(1923)に焼亡、荒れた書院、庫裡などが残りましたが、昭和39年(1964)には山門の炎上もあって、まさに廃寺同然の荒れ寺となりました。しかし、この間、由緒ある名刹復興の動きもあって、平成2年より再建事業が本格化し、平成13年に本堂が完成しました。
書院奥の間の床壁画は、壁画床2面、障壁画1面が描かれており、正面壁画は縦253cm、横278㎝、その両側面は80cm幅の画壁です。
●正法寺
真言宗泉涌寺派。本尊如意輪観音は、平安末期の縁起物語に登場する。ときは元暦元年(1184)、佐渡島巡検使船に忽然と現れてその使命を果させた老翁が、帰還着岸の間ぎわ、小浜港坂尻浦にて我を信ずること篤く久しかったことを謝して入水した。ところがその後、夜々海中に金色の光がさすので、その時の浦の長、大橋五郎左衛門なるものが海中に入り、光り耀く仏像を脇に挾んで拾い上げ、堂を上山(うえやま)に建てて奉安した。そして浦の名を仏谷(ほとけだに)と改め、長(おさ)の名を脇左衛門と称したと伝える。
蓮華寺、正林庵、長慶院など小浜は寺院が大変多いが、いずれも真言宗や臨済宗などの古いお寺で檀家が少ないという特徴があるそうだ。

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小浜歴史探訪 4/6 遠敷と丹生 (但馬史研究会)

遠敷川(おにゅうがわ)


遠敷川 鵜の瀬

小浜市のルーツとなった遠敷郷は、遠敷川流域に開けた地域で若狭国府・国分寺が置かれた。
別名音無川、鵜瀬(うのせ)川とも。川筋をたどる道は、古来都と若狭を結ぶ道だった。遠敷はこの地の郷名・郡名でもあるが先ず読めない。
滋賀三井寺さんのサイトに参考になる記事がある。
福井県の新羅神社(3)若狭地方の新羅神社
三、小浜市下根木(しもねごり)に鎮座する白石(しらいし)神社

http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/index.htm

若狭湾に沿って敦賀市、美浜町と続き、その西側に小浜市がある。遠敷郡(おにゅう)といわれた地方である。白石も新羅からの転化であるといわれている。新羅は白木・白城・白子・白石な どと変わる例が多く、ひどい例は今庄町のように、新羅→ 白城→今城→今庄となり、新羅川が日野川に変わっている。当地方には新羅人和氏の一族を始めとする新羅系渡来人が多く住んでいた。

小浜市から国道二七号を滋賀県今津方面に向かう。遠敷郵便局前の信号を右折する。古い家並のすぐ右手に若狭媛神社がある。この神社から約一・五km、遠敷川の清流が巨巌に突き当たり淵をなすところに「鵜の瀬」なる場所があり、「鵜の瀬大神」を祭っている。この巨岩の上に若狭彦の神(彦火火出見尊(ひこほほでみ))と若狭姫の神(一の宮夫婦神)が降臨されたといわれている。二羽の白い鵜が二神を迎えたことが、地名の由来といわれている。彦火火出見尊は彦火火明命(ひこあめのほあかり)であり、山幸彦である。素盞鳴尊の子神で、大和の最初の大王といわれている饒速日(じぎはやひ)尊である。この鵜の瀬は東大寺二月堂「お水取」 行事の源泉である。このお水取の遠敷神社の遠敷明神は、若狭姫神社の祭神・若狭姫神(豊玉姫命)(山幸彦の妃)である。奈良・東大寺二月堂の右横手にも遠敷神社が奉祀してある。東大寺の産土神となっている。

この地名の歴史は古く、「若狭国遠敷郡遠敷郷」などの文字が記された木簡が、平城京跡などから出土している。和銅5年(712)までは「小丹生(おにゅう)」と書かれていたという。つまり丹生とは赤土であり、水銀の原料である
音読みの「おんふ」が転訛したとも言われている。「遠敷」の言葉自体には朝鮮語の「ウォンフー」(遠くにやるの意)に由来するとの説もあり、大陸と接する日本海に面 した場所ならではの歴史を感じさせる。

この説があながち捨てがたいのは、白石も新羅からの転化であるといわれている。新羅は白木・白城・白子・白石な どと変わる例が多く、ひどい例は今庄町のように、新羅→ 白城→今城→今庄となり、新羅川が日野川に変わっている。当地方には新羅人和氏の一族を始めとする新羅系渡来人が多く住んでいた。敦賀(つるが)も角鹿(つぬが)の転訛といわれる。
辛国(からくに)(韓国)神社や、東大寺近くの漢国(かんご)神社(祭神は新羅系の園神と韓神)とも関係が深いといわれている。根来地方に祖神の白石明神をいつき祭って住み着いた人々は、若狭湾や敦賀湾などから入植した新羅・加那系の渡来人であったといえる。

「若狭地方における豪族の中で目立つのは秦氏の系統である。若狭の木簡には秦人の名が多くみられる。
<美々里秦勝稲足二斗、若狭国三方郡耳里秦日佐得島御調塩三斗若狭国山郷秦人子人御調塩三斗>などである。この秦氏が山城の太秦に根拠をもつ秦氏と血縁関係にあったのかどうかは不明であるが、『続日本紀』延暦十年(七九一)九月の条に若狭国で尾張・近江などと共に牛を殺して漢神を祭ることを禁止している記事をみると、牛を殺して漢神を祭るのは渡来人の風習であったので、秦人の中には朝鮮から渡来した人々や子孫が含まれていたことは間違いない」(『小浜市史』)。
ここから南へ一五〇m。「おにゆかわ」橋を渡ると左手に「白石神社」がある。『若狭彦神社由緒記』によれば「白石神社は若狭彦神社の境外社であり、小浜市下根来白石鎮座する。祭神は若狭彦神、若狭姫神を『白石大神』または『鵜の瀬大神』とたたえて奉祀。若狭彦神社創祀の社と伝えるが、年代は不詳」と説明している。境内には椿が群生し、樹高十二・三mの大木は小浜市の天然記念物。

「瀬にしみて奈良までとどく蝉の声」(山口誓子)の句碑がある。
白石神社の本殿は小屋状の建物に覆われているので、一見して神社の建物が見えず異様な感じがするが、外部を覆っている建物の中に入ると、庇に接して木造の彫刻を施した鳥居があり、「白石大明神」の額が掲げてある。本殿の柱などにも手のこんだ彫刻があり、りっぱな社殿である。境内地は広く千坪位ある。前面は遠敷川であり、神社の森の背後は深い山につながっている。遠敷の里は小浜から保坂・今津・大津を経る若狭路、小浜から朽木・大原を経る鯖街道、更には周山街道など、都とのつながりが深かった。当地方は滋賀県の 今津町や白鬚神社で有名な高島町も近い。

隣接の上根来村の社についても同由緒記は、「氏神の御社については、祇園牛頭天皇の由、昔より申伝候。この神の勧請の時分明ならず。更に、本堂本尊地蔵尊也、右地蔵安地の時代不レ知・・・・・・老人口伝云上下宮白石影向後宮居レ堂……建立の由二月毎年勤三修正会於二祇園・・・・・・宝前一毎年五月五日大般若転読す。延宝三年九月廿日別当神宮寺桜本坊秀俊」と記述しており、上・下の根来村が新羅系の神と縁が深かったことが推測される。
下根来から川に沿って神宮寺、若狭彦神社、若狭姫神社(若狭一の宮と呼ばれる)が存在する。
「これらの神社はみなその根は一つで、どちらも根来の白石(新羅)神社からでている」(金達寿『古代朝鮮と日本文化』)という。

この地方には他にも「白石神社」が多くあり、特に上中町熊川村熊川字宮ノ下の「白石神社」は「元々は白石大明神、或いは白石明神社と称し、三社相並べり。境内の白鬚神社は近江より勧請せりと伝わる」(『遠敷郡誌』)。

上中町河内の白石神社について『若州管内社寺由緒記』によれば、「此明神白神楽谷と申所に御座候」とある。白神楽谷は何と読むのか分からないが、しがらく又はしがらき谷かも知れない。そうだとすれば、しらぎからの転化ではないだろうか。
一方で、小浜市は園城寺や源氏との係わりがみられる。中世の小浜市において、寺門(園城寺)と山門(延暦寺)の争いがあり、園城寺が四十町の免田を認められ、賀斗(加斗)荘とし、加納の名目で荘田を拡大したのに対し、延暦寺も菅浜浦や志津浦に進出していた。十世紀のことである。

日本海では朝鮮半島の東海岸を南下するリマン海流が対馬の近くで対馬海流と合流、 山陰や北陸沿岸沿いに北上してくる。この海流を利用して、 古代から大陸の文化が朝鮮半島を経由して日本にもたらされたといわれている。
出羽弘明氏(東京リース株式会社・常務取締役)

(以上)

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小浜歴史探訪 3/6 若狭神宮寺 (但馬史研究会)

■若狭神宮寺
小浜の若狭神宮寺は、奈良時代初期に創建された天台宗のお寺で、奈良・東大寺二月堂へのお水送りが行われるお寺です。若狭神宮寺の現在の本堂は室町時代に建てられ、重要文化財として指定されています。若狭神宮寺の本堂の中には本尊薬師如来坐像をはじめ見事な仏像が立ち並んでいます。
若狭神宮寺では金剛力士像を安置した鎌倉時代建立の仁王門も重要文化財として指定されていますが、場所が200mほど離れているため見逃す人が多いようです。若狭神宮寺は小浜国宝めぐりの寺院の1つです。(小浜市)
若狭一の宮の神願寺として成立、縁起によれば元正天皇の勅命により和銅7年(714)に泰澄大師の弟子沙門滑元の創建したといわれています。鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました。

  
神宮寺本堂

本堂の前には注連縄と御幣(白い紙垂)が飾られている。初めて見たので不思議な感じだ。

若狭井

奈良東大寺二月堂のご本尊にお供えする閼伽水(あかすい・清浄聖水)をお水送りの神事が行われる閼伽井(あかい)といわれる供養される聖水の湧き水取り屋。せっかくなので飲んでみたが、美味しいふつうの水だが、凡人には違いがわからないのだろうか。

いただいたパンフレットによると、西暦710年、奈良に平城京が造られ、聖武天皇ご在位の752年春に、東大寺において国家を捧げての盛大な大仏開眼供養が行われました。若狭ゆかりの「良弁(ろうべん)僧正」が、その初代別当(開祖)と言われています。

若狭神宮寺に渡ってきたインド僧「実忠」は、その後東大寺に二月堂を建立し、大仏開眼の二ヶ月前から(旧暦二月)天下世界の安穏を願い、14日間の「祈りの行法」を始められました。「修二会(しゅにえ)」と呼ばれるこの行の初日に、実忠和尚は「神名帳」を読み上げられ、日本国中の神々を招かれ行の加護と成就を請われたのですが、若狭の「遠敷明神」だけが漁に夢中になって遅れ、3月12日、修二会もあと二日で終わるという日の夜中に現れました。遠敷明神はお詫びとして、二月堂のご本尊にお供えする「閼伽水(清浄聖水)」を献じられる約束をされ神通力を発揮されると地面をうがち割り、白と黒の二羽の鵜が飛び出て穴から清水が湧き出しました。若狭の根来(ねごり)白石の川淵より地下を潜って水を導かせたと伝えられます。

お水送りとお水取り

奈良のお水取りが終わると春が来る。関西の人々は、毎年この春の兆しを待ちわびます。この奈良東大寺二月堂のお水取り(修ニ会の「お香水」汲み)は全国にも有名な春を告げる行事ですが、その「お香水」は、若狭鵜の瀬から10日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれています。

この湧き水の場所は「若狭井」と名づけられ、約2km上流の川淵は「鵜の瀬」と呼ばれるようになり、古来より若狭と奈良は地下で結ばれていると信じられてきました。3月12日に奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」に先がけて、毎年3月2日に行われる小浜市神宮寺の「お水送り」は、午前11時、下根来八幡宮で営まれる山八神事から行事はスタート。神宮寺僧と神人がカシの葉に息を吹きかけ、手を交差させて後ろに投げる。これは、体内に宿った悪霊を振り払うためだ。それから赤土をお神酒で練ったものをご祈祷してからなめて、残り土で柱に「山」と「八」の字を書き込む。

午後1時からは神宮寺境内において弓打神事。紫の装束に身を包んだ氏子代表が古式にのっとり、30メートルほど離れた的に向けて弓を放つ。

午後5時半ごろ、白装束の僧がホラ貝を吹きながら山門をくぐり入場。午後6時からお堂で修二会を営み、「だったん」の行へ。7メートルもあろうかと思われる巨大松明を「エイッ、エイッ」とのかけ声とともに振り回す。
いよいよ大護摩に火がともされると、炎が水面に燃え広がったようになる。住職が送水文を読み上げ、邪気払いをし、香水を遠敷川に流す。香水は10日後、奈良東大寺の「お水取り」で汲み上げられる。
実際には遠敷川は奈良とは反対の日本海に注いでいるのですが、地下を通って奈良に届くといわれています。古くから御食国として大和に塩や海産物を送ったことも関係しています。
神宮寺(じんぐうじ)
神宮寺とは、日本において神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。神宮寺とその神社の関係は一様でなく、どちらが主体であったのかは、一概には言えない。
平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々は護法善神であるとする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀る神社が営まれるようになった。
鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主によって保護され、祈祷寺として栄えた。
しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈によって、その殆どの寺院が神社に転向したか消滅したりして、急速に数を減らした。現在は、残存した寺院の住職の努力によって再興されている。

鵜(う)の瀬と白石神社

小浜市下根来(ねごり)


鵜の瀬

神宮寺から遠敷川の上流に向かって2kmあまり行った所に鵜の瀬があります。遠敷川が狭まった浅瀬で昔ここいらには鵜が集まっていたことから「鵜の瀬」といいます。奈良時代に若狭神宮寺から東大寺へ行かれたインド僧実忠和尚が大仏開眼供養の指導の後、二月堂を創建し2月初日に全国の神々を召集するものの、若狭の遠敷明神だけが遅れて2月12日に参列されたことより、そのお詫びをかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送ることを約束したのがはじまりで鵜の瀬で3月2日にお水取りの行事が行われるようになりました。鵜の瀬の水中洞窟から奈良の二月堂はつながっており鵜がもぐって行ったとの伝説が残っています。鵜の瀬の水は名水100選に選ばれております。川の水を飲むのはちょっとという方には、近くの鵜の瀬公園に給水場が設けられています。ポリ容器1個に300円、ペットボトル4個に300円のステッカーを購入することで利用できます。
鵜の瀬公園に隣接する白山信仰の白石神社には、天然記念物の椿が群生しています。


良弁僧正像

白石神社の前、鵜の瀬公園入口
良弁(ろうべん、持統天皇3年(689年) – 宝亀4年閏11月24日(774年1月10日))は、奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。
ボランティアでガイドをされている方は、良弁僧正は、ここ小浜市下根来の生まれだとする言い伝えがあると話されたが、他の説もしっかりと話されました。としては『東大寺要録』には持統天皇3年(689)、相模国(さがみのくに:神奈川県)の漆部(ぬりべ)氏の子として生まれ、義淵(ぎえん)僧正に師事されたといいますが、『七大寺年表』では近江百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたともいわれています。
天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇から信任を得て、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定された。天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階を改めるよう奏上した。宝亀4年(773年)には、 僧正に任命され、その年の閏11月24日没。

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小浜歴史探訪 2/6 国宝明通寺(みょうつうじ)(但馬史研究会) 

まず我々のバスは、福知山から無料になったばかりの舞鶴若狭自動車道を完成している終点小浜西ICで降り、小浜市内へ。町の中心部は城下町らしくこじんまりしているが、どこの地方都市も同様にシャッター通りと化し活気がない。


JR小浜駅

小浜の東部は昨年、敦賀の気比神宮を尋ねた帰り道に若狭彦・姫神社を尋ねたので大体分かる。若狭地方は福井県だから曹洞宗大本山永平寺が越前のあるので曹洞宗のお寺が多いと思いがちだが、若狭は京都・奈良に近く古くから大陸の玄関口として、また小浜は淡路、伊勢に並ぶ御食国としての交流が深く、曹洞宗よりも真言宗、天台宗の寺院が多いのだそうだ。従って山寺なので建物や仏像がよく残っており、小浜には寺院が多いのも財産。

■明通寺(みょうつうじ)

福井県小浜市門前
真言宗御室派 山号は棡山(ゆずりさん)
ご本尊 薬師如来(重要文化財)

「明通寺縁起」(応安7年・1374年奥書)などによれば、大同元年(806年)、桓武天皇のとき、坂上田村麻呂公が蝦夷征伐に際して創建されたと伝えられる。縁起によると、今の本堂、三重塔は中興の僧頼禅が棟上し、その他鎮守堂、大鳥居など24坊があったと伝えられています。本堂と三重塔は国宝に指定されている。
守護・地頭らの戦勝祈願を繰り返し行うなど、武家と関係を保って寺領を拡大し伽藍整備を行っていきました。


棡橋

駐車場と明通寺の境内を結ぶ赤い橋。下に流れるは松永川。

明通寺略縁起
延暦のむかし、この山中に一大棡樹(ゆずり木)あり、その下に世人に異なる不思議な老居士が住んでいた。たまたま坂上田村麿公、ある夜、霊夢を感じ老居士の命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため、大同元(806)年このところに堂塔を創建し、居士また棡の木をきって、薬師如来、降三世明王、深沙大将の三体を彫って安置したと伝う。
爾来壱千二百年、つねに天下万民の祈願所として、法燈たえることなし。
現存の堂塔は、中興頼禅法印の再建にかかり、地方にありながら中央のものにも劣らぬ優秀な密教建築である。

石段を登ると山門がそびえ立つ。
本堂(国宝)

国宝の本堂は、正嘉2年(1258)に建立された、入母屋造桧皮葺、桁行5間(14.72m)・梁行6間(14.87m)の建物です。屋根の勾配のきつさと、柱と柱の間を幅広くとるなど建築資材の使い方や組み方が豪壮です。武家社会の円熟期の象徴とされる建物です。

平面は桁行(間口)5間(14.72m)、梁間(奥行)6間(14.87m)である(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。屋根や隅軒の悠然とした勾配は鎌倉時代の特色を示す。正面側を全て蔀戸(しとみど)とした住宅風の外観をもつ。和様を基調としつつ、内部の構架には禅宗様の要素も取り入れている。堂内は内部空間を内陣と外陣(礼堂)に明確に区画する中世仏堂特有の構成で、寛政11(1799)年に内陣を拡張したとの記録がある。大正12年(1923年)に解体修理。昭和28年(1953年)、国宝に指定。
平安後期作の国指定重要文化財、木造薬師如来像や木造深沙大将立像(像高256.6cm)、木像造降三世明王立像(像高252.4cm)、木像不動明立像(像高161.8cm)が、平安後期の仏像4体が重文となっています。

三重塔(国宝)

三重塔檜皮屋根葺替工事により外観はシートで覆われているが、そのかわりに期間中に限り、三重塔初層内部の公開を行なわれている。これまで三重塔内部(初層部)は、保存維持を目的としているため、一般公開は基本的に行なっておりませんでした。(年に数回のみ風通しのために開けることはありますが、これも天候等の条件に左右されるために告知も行なえませんでした)
今回、約30年に一度の檜皮屋根葺替工事という節目を迎えることと、工事期間中は保存維持に務めながらの公開の条件を整えられることができるため、拝むことができる。今年京都東寺五重塔内部(初層部)の特別拝観もできたし、偶然にも内部公開に恵まれる機会が重なった。
釈迦三尊・阿弥陀三尊像や、現在でも色鮮やかに残る十二天の壁画といった秘仏級の寺宝をご拝観いただけた。
期間/平成22年4月24日~三重塔葺替工事完成まで(晩秋予定)
文永7(1270)年上棟。総高22.12m。和様を基調としているが、初層に拳鼻(こぶしばな、部材の末端部に拳状の装飾彫刻を施したもの)を用いる点に大仏様(だいぶつよう)の要素が現れており、塔に拳鼻を用いた最古例とされている。初層内部は四天柱(仏壇を囲む4本の柱)が立ち、釈迦三尊像と阿弥陀三尊像を安置して仏堂風の扱いとする(心柱は初層天井裏から立つ)。柱や壁には十二天などの絵画を描くが、建立当初のものではない。天文8(1539)年と元禄15(1702)年に、それぞれ修理が行われた。明治27年(1894年)以降、屋根は瓦葺となっていたが、昭和32年(1957年)の修理の際、桧皮葺に戻された。昭和28年(1953年)、本堂とともに国宝指定。明通寺の創建1,200年を記念して、2006年4月から11月まで初層内部が一般公開された。
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小浜歴史探訪 1/6 若狭国の歴史(但馬史研究会)

但馬史研究会の春の探訪という企画に、母の変わりに会員となって初めて参加した。参加者は総勢26名。

福井県小浜市は、福井県南西部(嶺南)、日本海側の小都市ながら、畿内の色が濃い港町で、律令時代より前からヤマト王権の日本海側入口として盛えて来た。奈良時代からの数多くの寺社の歴史文化がよく残されていて、文化財も多く残るため、「海のある奈良」という異名を持つ。

天日槍の出石神社と気比神社、新羅、伽耶とのゆかりなどかつては同じ氏族が治めていたことでも同じ丹波王国だった。

また江戸時代に最初に京極高次が若狭を小浜藩として治めたところで、京極氏は後に宮津藩、田辺藩、峰山藩に分かれて、そのあと但馬豊岡藩主となったことからも、小浜と豊岡は縁がある。そして15代豊岡京極家当主が靖国神社の2009年から現在の宮司 京極高晴氏である。前任者の南部利昭氏に続いて神職経験のない宮司である。といっても、廃藩置県後は東京在住で、実父の第14代当主・高光は貴族院議員で俳人であった(号は杞陽)。

くわしくは「但馬国ねっとで風土記」

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