主役は国民であることを忘れているマスメディアはサブである自覚を

日本人は権力に盲信するところがある。新聞なら朝日新聞、テレビはNHKしか観ないことがインテリの象徴のように自慢している人々もいたようだ。
しかし、ずっと長い間伝達手段が新聞、ラジオ、また昭和30年ころからテレビが各家庭に普及すると、テレビが主役に躍り出る。

知っておきたい神社と歴史シリーズ『鳥取の神社』を公開しました

式内社と有名神社を歩いたブログ「神社拾遺」を本にまとめたKindle電子出版本「但馬の神社と歴史」三部作
『但馬の神社と歴史・上巻 「朝来・養父」編』、『中巻「気多」編』、『下巻「城崎・美含・七美・二方」編』
を出版しましたが、
続いて
『丹波の神社』
『播磨の神社』
『摂津(兵庫)・淡路の神社』
『丹後の神社』
と出版でき、本日『鳥取の神社』を公開しました。
いずれも、できるだけ各神社の要点だけをまとめたつもりです。

出版完了して公開されるまで12時間から48時間かかり、この間が長く感じるので、公開できたらちょっぴり嬉しくなります。

 

終戦記念日に考えてみる勝者と敗者

終戦記念日が近づきNHKなどGHQによる自虐史観と化したメディアでは、大東亜戦争を太平洋戦争とアメリカの名称を用い、70年近くたっても進歩しないばかりか、戦後生まれの教育を受けますます酷くなります。

お盆のお墓参りでは亡き父も兵隊で外地に行ったと聞きますが、すでに終戦間近で戦闘に遭ったことはなかったらしいです。
ご存命の戦争体験者は90歳以上になられます。年々少なくなりあと数年であり、貴重なナマの声を大切に残さねばなりません。

チャンネル桜などで大東亜戦争のお話をずいぶんお聞きし、またインターネットで調べられる時代になり、戦争をした悪い国だ、周辺諸国に謝罪しなければならないと教育された自虐史観は間違いだと思います。戦争賛美ではなく、かかる火の粉を払うべく国同士の止むに止まれぬ戦争には、国のために亡くなられた多くの方々に感謝し、終わった時点で勝者も敗者もなく、日本は戦争に負けたのでありますが、日本人とアジアに誇りを残したのです。

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区の神輿が新調されました

  
我が東構区では、日高夏まつりで関係4区として毎年区の舂米神社でも祭典が行われます。

子供用の神輿はありましたが、秋祭りは消防団が伝統の竹だんじりを毎年組み立てていました。近年竹の確保と若者の組立作業が難しくなり、毎年使用出来る神輿を新調することに決まり、この日初お目見えしました。

 

 

昨年最後の竹だんじり 10.6

  

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日本という主語のある自主憲法を

ジェームス・E・アワー 日韓の間の「真実の話」をしよう
ヴァンダービルト大学 日米研究協力センター所長
産経 2013.7.26 03:20

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130726/kor13072603210001-n1.htm

1998年に日本の小渕恵三首相と韓国の金大中大統領(いずれも当時)が、過去の問題に終止符を打って前に進むという合意をして共同声明を発表したときとは、彼らの意見が明らかに様変わりしたのはなぜかと問うた。

 会った韓国人たちの大半が、自分たちの姿勢は98年から変わってはいないと主張し、そうではなくて、現在の自分たちの態度は、慰安婦問題や安倍政権の高官たちによる靖国神社参拝、そして竹島に対する日本の立場といった、歴史問題に対する日本人の無神経さのせいなのだ、と答えた。

(中略)

日本政府高官たちが靖国神社に参拝することに関しては、日本の指導者たちは、一部が神社にその名を列せられているA級戦犯をたたえるために行くのではなく、ましてや、日本として他の国々に謝罪した行為をたたえるために行くのではない、と私は言った。それよりも、中国政府がするような外国からの些細(ささい)な国内批判さえ忌み嫌う国が、国家に尽くして死んだ日本の兵士たちに敬意を表す神社に日本の政治家が参拝するのを批判することは大いなる矛盾のように思う、と私は話した。

≪靖国とアーリントンは同じ≫

 米バージニア州にあるアーリントン国立墓地は、米大統領や、日本や韓国を含む多くの外国の指導者たちが訪れる。埋葬されている兵士の中には南北戦争中、奴隷制を支持する南部のために戦った者がいるにもかかわらず、である。今日、先進的な世界の大方で奴隷制は容認されていないが、それを信奉した南軍の兵士たちは墓地から排除しなければならない、と要求する者は誰もいない。

韓国人と話し合って最も厄介な問題は竹島だった。私は、日本に有利な法的根拠ゆえ竹島に関する日本の見解は変わりそうにないとしつつ、日本が竹島から韓国兵を駆逐すべく自衛隊を派遣することは決してないと思えるのになぜ、韓国はこの問題について心配するのをやめないのかと聞いた。返ってきた唯一の答えが、竹島が間違いなく韓国に帰属することに日本人は同意すべきだと韓国人は考える、というものだった。

(中略)

≪日清、日露の韓国への貢献≫

 韓国の姿勢を改善するために何ができるだろう。韓国の姿勢を改善するために何ができるだろう。生まれたソウルに住んでいて、ヴァンダービルト大を卒業して以来20年以上、ソウルで働いている私の教え子の1人が、日本人は韓国人が劣等感を克服するまで忍耐しなければならないだろうと話した。残念ながら、それは当たっているのかもしれないが、朴大統領は安倍晋三首相と折り合いをつけることができるだろう、と私は期待する。

これは日本人が決して口にしないことだが、日本が清国と戦って1895年に同国を打ち負かし、ロシアと戦争して1905年に同国を破ったのは同じ理由からだったということは、韓国人にとって一考に値するだろう、と私は思うのだ。日本は反韓国ではなかったが、韓国が清国に支配されることを、あるいはロシアに支配されることを恐れたのである。

 もし清国が最初の戦争に勝っていたら、韓国は現在、中国の植民地になっているかもしれないし、もしロシアが次の戦争に勝っていたら、韓国はロシアの植民地になっているかもしれない。日本の勝利はとどのつまり、韓国を自由市場経済の民主主義国という今日の地位へ導いたのである。

中韓の歴史認識問題を正しく理解させることは、容易なことではないと思いますが、70年経てどんどん乖離していった経過は、河野談話、村山談話にあるように、とにかく謝って済まそうという戦後日本の事なかれ主義が増幅させた事が起因している気がします。

事実は黙っていれば消えてゆき、嘘も百回言えば本当になってしまうのが外交手段。朴大統領が事あるごとに「日本は正しい歴史認識を」というのは、曲がりなりにも国の大統領と立つ人物なら、事実を知っていてあえてそう言わねば世論が持たないからなのか、と察する反面、本当に知らないのではないかと思うようになった。中国人や韓国人学者がテレビで謙虚に意見を聞こうとせず一方的に竹島は韓国のものと捲し立てる態度に腹立たしい思いをするのは、多くの日本人ではないでしょうか。客観的に相手の意見を聞き入れようとしないから恥ずかしくもなく主張できるのが支那・朝鮮の気質であるようだ。

ではなぜ、日本は強く言えないのか、風見鶏のように周辺国の顔色を気にするようなってしまったのか。つまるところ、戦後の占領憲法により、独立国家ではなくなり、日本という主語がないことに行き着く。外交と安全保障は一対である。とくに日本周辺はそういった軍事力を傘にしている国だ。右手にピストル、左手に対話がなければ周辺国は何を言っても手を出さないと舐めていく。
竹島・慰安婦・尖閣へ支那・朝鮮半島が強硬に出れば出るほど、国内の憲法9条護憲とか話しあえば分かると戦後左翼を弱めることになっている。
日本を弱体化させるために暫定的に米国が押し付けた占領憲法を、70年も後生大事に守ろうとすることこそ、日本という主語を捨てて思考停止してしまい、日本の国力を弱める内なる敵なのだ。

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総理の靖国参拝

例年新聞各紙は、7月も大暑の23日を過ぎて、8月15日の終戦記念日に首相が靖国神社を参拝するかを取り上げる。

靖国神社や神道を理解している人は、御霊をお祀りし参拝することが日本の歴史伝統であり、自然な心であることは言うまでもないのですが、なぜ朝日新聞はじめ毎日新聞は、鬼の首をとったかのように靖国神社は戦犯が合祀されているから戦争賛美だなどと騒ぎ立てるのだろうか。その朝日新聞の思う壺にハマっている人が、一般人ならともかく国会議員の中にもかなりいるのは情けないことで不勉強です。

ウィキペディアを主に靖国神社について簡単におさらいします。靖国神社は第二次世界大戦の英霊のみを祀るために建てられた神社ではありません。日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀る勅祭社で旧別格官幣社。
東京招魂社は軍が管轄するものとされ、一般の神社とは異なる存在で種々の不安定要素があった為に、正規な神社へ改めようとする軍当局は社名の変更と別格官幣社への列格を要請し、明治天皇の裁可を得て1879年(明治12年)6月4日に「靖國神社」への改称と別格官幣社列格の太政官達が発せられた。

靖国神社の前身である東京招魂社

大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊の司令官、ペリーの浦賀来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。

靖国神社問題

「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離や歴史認識、近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見がある。終戦の日である8月15日の参拝は太平洋戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。
日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであった。 他方、戦争被害を受けたと主張する中国、韓国、北朝鮮の3カ国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に反発している。 もっとも、1978年にA級戦犯の合祀がされた後も、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が首相就任中に参拝をしているが、1985年における中曽根康弘の参拝までは、なんらの抗議も懸念も表明されたようなことはなかった。 1985年の参拝に対しては、それに先立つ同年8月7日付で、朝日新聞記事により『靖国問題』として特集が組まれると、その一週間後の8月14日、中国政府が、史上初めて、公式に靖国神社の参拝への懸念を表明するに至った。

中国、韓国、北朝鮮が、靖国参拝に公式に非難する国として知られているが、個人としては華僑出身のいわゆる中国系のシンガポール首相、リー・シェンロンが不快感を表明したことがある。アメリカの在郷軍人会のなかにも批判があるといわれている[。また、当時日本領であった台湾(中華民国)からも徴兵による戦死者が多数出ており、一部で批判があるが、これは台湾戦死者の靖国への合祀に対するものであり参拝への非難ではない。

東京裁判におけるA級戦犯

A級戦犯の”A級”とは、罪の種別が「平和に対する罪」であることを表しており、犯罪のランクや罪の重さを示すものではない。 組織運営やスポーツなどで、失敗や敗北の決定的要因となるような行いをした人物が「A級戦犯」と表現されることがあるが、BやCよりAが重罪という認識は誤りであるため、正しい比喩とはいえない。

1952年4月28日サンフランシスコ講和条約発効
第11条(戦争犯罪)

日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。

1952年6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
1952年12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
1953年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
1955年7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」

これにより1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」も一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、そして1953年8月3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回復させる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が社会党を含めて圧倒的多数で可決された。この議決は前年(1952年)に、戦犯とされた者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4千万人の日本国民の署名が集まった事に起因する。

そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、1955年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。そうしてサンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11か国の同意を得たうえで減刑による出所が順次、行われることになる。なお、日本政府はこの法について、刑の執行からの解放を意味すると解し、いわゆるA級戦争犯罪人として極東国際軍事裁判所において有罪判決を受けた者のうち「赦免」された者はいないが、減刑された者は10名(いずれも終身禁錮の判決を受けた者である。)であり、いずれも昭和33年4月7日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑されたものとし、この法律に基づく「赦免」及び「刑の軽減」が判決の効力に及ぼす影響について定めた法令等は存在しないという見解を示している。

1952年(昭和27年)5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となった。

以上、すでに国会で議決したことをいまさら異論を挟む新聞・テレビは報道の自由の前に、国家に逆らう反逆行為を犯していることになる。

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親中派・中国文化崇拝者の近視眼的歴史観

宮崎正弘の国際ニュース・早読み

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
   平成25(2013)年7月23日(火曜日)
        通巻第3988号

このグロテスク・リアリズム、中国史の本質は人肉グルメ
  菅原道真はなぜ遣隋、遣唐使の中止を進言したのか?
   ♪
黄文雄『食人文化で読み説く中国人の正体』(ヒカルランド)

 中国人作家でノーベル賞を獲得した莫言より、鄭義のほうが一時期は有名だった。天安門事件の指導者のひとりとして手配され、中国各地に潜伏したのち、1993年に米国に亡命した小説家である。
その鄭義のもっとも評判を取った作品は、ある村の百年の歴史を描いたもので、要するに飢饉のたびに村人は人を食った。大江健三郎は、鄭義の作品群を「グロテスク・リアリズム」と評した。
 黄文雄さんの新作は、まさに人を食ってきた中国の歴史の本質をえぐり出したグロテスク・リアリズムの文明論である。
 中国の歴史は平均すると、十八年ごとに戦争、内乱による飢饉が発生したため、共食いが起こった。
 人肉市場があり、それは闇市ではなく公認市場だった。人肉の値段は豚や犬肉より安く、また人間を食肉として飼育し、屠殺する養人場があった。処刑された罪人の肉も払い下げられたうえ、平穏な時代でも食人の習慣は絶えなかった。味方同士の共食いもあり、最大の好物は子供の肉だった。軍隊は補食として人肉を食べた。
 三国志演義でも劉備玄徳を厚くもてなすため、山奥に潜伏していた嘗ての部下が妻を殺して馳走する場面がある。日本人は卒倒するか、吐瀉するかだろうが、しかし劉備玄徳は部下のその忠節ぶりに感傷に浸るのである。
 水滸伝には人肉饅頭がでてくる。数え上げればきりがないのでこの辺で止めるが、最近も胎児のスープをグルメで味わう闇のレストランが広東省にあることを写真入りで多くのメディアが暴露した。

 菅原道真はなぜ遣唐使の中止を進言したのか?
 水運路が安定せず、海上交通に難があり、コストがかかりすぎた等とする理由付けが戦後の解釈の主流である。本当のことをなぜ言わないのか? 
第一は隋唐から学ぶべきことがなくなり、遣唐使は意味を失ったからである。たしかに遣唐・隋使によって、日本にもたらされたのは唐風文化。建築から彫刻、絵画、仏典などが影響をあたえたことは事実だろう。平安京は唐の長安そっくりである。ところが隋の衰退により文化は荒廃を極めていた。しかも日本が礼を尽くしての外交使節も、中国側は「朝貢」に来たくらいにしか認識していなかった。
第二は遣唐使、遣隋使より遣日使のほうが人数が多く、かれらが日本に来て驚いたのは日本文化のすばらしさ、要するに帰国したくなくなったというポイントが見逃されてきた。
日本では国風文化がひろまり、やがて平かな、カタカナが発達し、源氏物語など世界一級の文学が完成した。もはや隋唐から輸入するべき政治システムも文化文明も尽きていた。
第三の理由は人肉文化にほとほと嫌気がさしたからである。

 そして本書は次のようなことを教えてくれる
 遣唐使停止の決定を菅原道真がしたころ、長安を訪れたアラビア商人は『シナ・インド物語』を書いて、役人どもが地方に派遣されると「その地域の人間をことごとく食い尽くした」と書き残した。
 『唐書』には「城内で逃げ遅れて人質になった者は万に達し、餓死者は日に数人ずつ出た(中略)。そのうちに殺し合い、人肉を食べるようになった」、「城内ではたがいに子供を取りけえて食用にした」とある。
 宋代の『鶏肋編』には「米価が暴騰した。カネがあっても食料が手に入らなくなったため、盗賊や兵隊ばかりか一般民衆までもが殺し合い、人肉を食べるようになった。そして街中で販売されるようになった。人肉は犬や豚よりも安く、肥えたものでも一体が十五貫(コメ三丈分)にすぎなかった」と書かれた。
 『資治通鑑』にも「(902年)唐の西京である鳳翔城の人肉市場では、一斤(600グラム)が百銭に値し、犬の肉は五百銭に値した」と記されている。
 菅原道真の決定は正しかったのだ。

中国4千年の歴史ととかくNHKはシルクロードから現在に至るまで相変わらず中国崇拝者のごとく宣伝してきた。
たしかに日本は随・唐から文字(漢字)や唐風文化である建築から彫刻、絵画、仏典などが影響をあたえたことは事実だろう。

しかし、現在の中華人民共和国(以下、中国とは略さずChina=支那)が誕生したのは1949年、まだ戦後百年にも満たない新興国なのだ。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、大韓民国(韓国)も同様である。なぜ中華人民共和国を中国と略すのは正しくないか、日本の中国地方と紛らわしいということもある。日本において中国とは、『古事記』にある葦原中国(あしはらのなかつくに)、中つ国(なかつくに)であり、中津国、中国とも書く。日本神話における地上世界、高天原と黄泉の国の間。転じて日本の国土のことで、中間の国、中央の国を意味する。
つまり、現在では中国地方4県(島根・鳥取・岡山・広島)のことである。

まず、日本は中国・朝鮮からそれらの文化がもたらされたのだから、仲良くしなければならないという尊敬心が左翼学者やそのもとで学んだ一見インテリ知識人がマスメディア内に大手を振って占めている。例えば仏教伝来の出発点が随・唐・百済からだとし、支那・朝鮮半島しかみていないことだ。

まず。今の支那という大きな国家はなかったのである。漢字の元となった文字は殷(イン)とされ、殷は紀元前17世紀頃 – 紀元前1046年、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。誰が漢字と読んだのかは知らないが、正確には「殷字」とすべきであろう。一小国の文字を中国から伝わったとするのは乱暴だ。

次に仏教についてであるが、仏教はインドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、あるいはガウタマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた東大寺の大仏と知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)完成の天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は1万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。

華厳経は西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。前者は5世紀、東晋の仏陀跋陀羅訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の実叉難陀訳で「新訳」、「八十華厳」という。盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。六十華厳では「盧舎那仏」、八十華厳では「毘盧遮那仏」と表記されるが、これらの原語はサンスクリットの「Vairocanaヴァイローチャナ」であり、密教における大日如来(Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)と語源を等しくする。

中国大陸・朝鮮半島はその通過点にすぎないということ。仏教はそれらの国では廃れ、日本列島で大成したのだ。
世界最古の天皇一系の民主国家・日本と、世界でも70年弱の新興国である支那・南北朝鮮はいまだに儒教が根強いまったく文化・価値観が異なる民族だということを知るべしであろう。

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