曖昧さは悪なのか?

/ 8月 19, 2013/ パンくず/ 0 comments

コンピュータ分野で日本的なソフトやプログラミング言語等は開発されながら世界標準になれなかった。携帯電話も豊富な機能を持ちながら世界から取り残された機種はガラケーなどと揶揄され、今はアップルのスマートフォンに侵蝕されてしまった。

ブラウザではマイクロソフトのI.Eが標準であっても、検索エンジンの老舗YahooからGoogleが短期間に世界標準になった。
ショッピングモールでも国内最大手の楽天をAmazonが急伸し追い抜いてしまった。とくにブック販売ではアマゾンの独壇場である。

なぜかといえば、
日本のコンピュータ、インターネットにありがちなごちゃごちゃした説明やデザインとは違い、英語力がなくてもビジュアルで分かりやすいそのシンプルさ、明瞭さに決定的違いがあると私も大いに使っている。

しかし、Googleの唯我独尊的変更は必ずしも成功していない。次々にサービスを生み出してはいるが、追いつけない間にほとんどが消えていったり失敗しているようだ。また、Googleがベンチャー起業を買収すると、強力になるかといえば必ずしもそうなっていない。その良さが失せてしまう傾向がある。例えば、ブログサービス老舗だったBlogger、クラウド画像のPicasaであろう。

それはそうとして、コンピュータは“0”か”1”かの2進法である。”on”と”off”である。また、西洋文化は善か悪か、”Yes”か”No”か、”白”か”黒”を主張することで成り立っているのである。

ところが、日本は島国という地理的環境から、古来より日本の伝統・文化とは、大陸のような民族の侵略を受けたことがなく、多神教の神道は、自然を征服するのではなく自然に感謝し共生をはかる。日本人はそうした自然信仰や先祖崇拝の慣習と並んで、「神道」の精神性を掲げて、それと呼応する「人道」も大事にして来ていた。仏教が入ってきても、七福神のように同じ神として神道に吸収した。古きを守り新しき良い物は受け入れるのが、あいまいな部分はそれはそれとして許容するのが日本人の精神なのである。たとえ悪人であっても死後は水に流す。それは清めである。同じく祟(たた)る神として崇めるのである。

大陸ではこうは行かない。アメリカでは先住民であるインデアンを残虐し、土地を奪うことで入植する。ハワイ、フィリッピンでも同じだ。征服者であっても勝者が善であり、敗者は悪となる。同じアジアでもそれは同じなのだ。絶えず侵略征服されてきた支那・朝鮮民族には理解し難いのである。

最近グローバルとさけばれて久しい。しかし、近現代の日本は鎖国だったのか。国際化してきた国だ。80年代までGDP世界第二位のインターナショナルな経済大国だった。グローバルとは国境を越えた経済化であり、インターナショナルとは違うと聞く。
歴史・文化を排したグローバルで勝負するとは、コストや物流の勝負になる。つまりアメリカや発展途上国が有利になるということである。TPPなどといってグローバルにならなければ経済が取り残されると煽る人たちは、日本を国家というものを、歴史伝統を知らないの人たちではないかと首を傾げたくなる。国際社会で日本人は、はっきりものをいわないからダメだと英語力だというが、それで何を話すのだ?値段交渉だけなら安い国に勝負にならないではないか。それよりも日本の歴史・文化を知らない事のほうが問題の本質ではないだろうか?小学校で神話、『古事記』や『日本書紀』などを教えることが、まず日本を取り戻す最初の一歩である。日本人の細やかな技である。英語が下手でも構わない。日本人としての自信と誇りをもって、日本の歴史文化を語れる人間が世界で通用するのである。英語や法律、経済の勉強より、今旧身なのは小泉竹中の誤った新自由主義、規制緩和路線でぶっ壊れてしまった、産業構造、技術者、職人の継承が急務だ。地域社会の再生だ。日本は駄目だと思い込んでいるが、日本には外国人から見ると羨ましい歴史や伝統文化が埋まっている宝庫であるということを再認識することだ。それが日本を取り戻すことである。

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