『神道と日本人』を読みながら・・・

Kojiyama/ 3月 25, 2012/ / 0 comments

昨日、山村明義氏著『神道と日本人』新潮社が届いた。私は読書家ではない。本を買うのは、これは読みたいと思うときだけである。昨年2011年9月の初版ですでに3刷り目となったこういう本では異例といわれるほど売れているそうだ。

25歳から40歳まで消防団に在籍し、秋祭りのだんじりは消防団を中心にして神社でお祓いを受けお神酒をいただいてから出発する。

神社に興味が湧いたのは、10年ほど前、組(隣保)の小旅行で区の舂米神社の元である鳥取県八頭郡若桜町舂米(つくよね)にある舂米神社を訪れたことがきっかけだったと思う。

また4年前、区の四役を仰せつかり、区の神社行事に関わるようになり、神社と氏子の関わりこそコミュニティ(共同体)そのものであると感じ始めたからである。

以前からなぜ村々には必ず神社が存在するのかなど深く考えていなかった。自然にあるものだし、古来から村ができればそこに村の神社がある。

政治は、古くは「まつりごと」といった。まつりは、祀り、政り、祭りと書くがすべて神である。祖神を祀り、収穫を祭り、田植えから稲刈りまで多くの人手がかかる稲作の共同作業を決めるために政治があったのだ。

全部は読み終えていないが、神戸生田神社について、神社こそコミュニティセンター(共同体)だと自分なりに思っていたことと合致することが書かれてる。

神社の再興こそが神戸の復興に

P129~133

阪神・淡路大震災の衝撃から震災の中心地・神戸の復興に向けて、いち早く牽引役を果たした生田神社。現在、神社本庁の「長老」を務める加藤隆久宮司が奉職する兵庫県の古社である。

生田神社は長く「神戸の総鎮守」として、いまも三ノ宮駅近くの中心部に鎮座する神社だ。神功皇后が三韓征伐の帰途、現在の神戸港周辺で船が進めなくなったため天照大神に御神託を伺うと、稚日女尊(わかるひめのみこと)があらわれ、「吾は活田(生田)長峡国に居らむ」といわれて以来、約千八百年。今日まで神戸市民の崇敬を受け続けてきた。

(中略)

(阪神・淡路大震災で)生田神社の拝殿の柱という柱が倒壊し、無残にく崩れ落ちた社殿の屋根が、大きな獣の甲羅のように映った。

神戸の街全体も悲壮感に包まれ、いったい、いつ復興できるかわからない。市民が悲観にくれる状況下で、加藤宮司も鉄槌で殴られたような落胆と喪失感に襲われ、激しく意気消沈していた。実際、これから神社を再興しようにも膨大な年月と資金のかかることが予想され、ただ茫然自失とするばかりで、正直、「もう、ダメだ」と何度もやる気を失いかけた。

そう思った瞬間、加藤宮司の脳裏に、亡くなった父親の加藤凌次郎(正しくは金偏)先々代宮司の姿が現れ、こんな言葉を語りかけてきたという。彼の耳には、父親の声がまるで神の啓示のごとく、自分をこう論じているように聞こえた。

「おーい、あんたは大学の先生で、文学博士で、全国の宮司でも唯一の博士学位をもっているということでやっていたんだろうけれども、あんた神社を建てていますか?私は多賀神社(滋賀)と焼けた吉備津彦神社(岡山)、そして大東亜戦争で六百発の焼夷弾で消失した生田神社を苦労して建てて、三べんも神社を建てた」

(中略)

「とにかく一日も早く神社を造営させる」
そう固く心に誓い、以降、社殿の片付けから造営まで、自ら先頭指揮を執り始めたのである。神主の装束を着ていても、その頭には、常に落下物防止の工事用ヘルメットをかぶり、いつしか「ヘルメット宮司」と呼ばれていた。

「神戸市は昭和20年6月5日、米軍の落とした600発の焼夷弾による大空襲で焦土となり、神社は丸焼けになってしまいました。残っていたのは、石の鳥居だけです。それを立て直し、造営したのが私の父親でした。そして阪神・淡路大震災でその石の鳥居も倒れた。私はその父親の言葉で“そうや!”と、発想の転換ができた。

とにかく神社は、その街のコミュニティセンター(共同体)で、街作りの中心なのです。もともと生田神社は、神を守る戸ということで、神戸(かんべ=こうべ)の地名の発祥となっている。神戸の地名の発祥の地が立ち上がってきたら、“生田(神社)さんがこうやって元気になって復興した。我々もやらにゃいかん”と、ひとつの呼び水となって、神戸の街が奮い立つ。復興をとにかくやらなくては、とコロッと考えが変わって、気力が生まれたのです」

いまも昔も神社は、地域の住民とその家族、地縁血縁者たちの心の支えであり、中心であり続けている。だからこそ、神社の中心にいる宮司自身が復興を使命と感じ、頑張らなければならないのである。

(中略)

一般的に、人は何か悪いことが起きると暗い気分に陥り、イベントやビジネスが中止されたりする自粛ムードとなりがちである。

だが、人は苦難や苦境の時こそ、「祓へ(はらえ)」をはじめとする「神迎えの祭」を執り行う必要がある。それは、お互いに助け合う精神のある「祭」によって、人々は勇気づけられ、明日への希望に満ちた活力をもらうことができるからだ。祭りが単なるイベントや馬鹿騒ぎなら自粛もよいだろうが、日本の古い祭りからは逆に力をもらえるのだ。

今にも崩れそうだった加藤宮司の心を奮い立たせ、神社を蘇らせた原動力は、ほかならぬ父親という先祖の“伝統”が存在したと同時に、祭による人々の活力の復活、そして発想の転換という「祓へ」の力であったからだろう。

加藤宮司が振り返ってこういう。

「震災のときは、みんな音楽に飢えているわけですね。オーケストラが来るまでは大変ですが、みんなの支援で実現させました。翌年2月3日の節分(豆まき祭)には、シンディ・ローパーさんが来るという。(中略)本当に(豆まきの「福女」として)来て、三宮の駅の高架下からこの境内まで、約1万5千人も人が集まりました。それから藤本義一さんと河島英五さんが来たりして、NHKの大晦日の『ゆく年、くる年』では生田神社の境内が生中継されました。こんな事は今までありませんでした。」

こうして、加藤宮司は震災への「祓へ」と「祭」を同時進行でおこなっていったのである。

実は山村明義さんはCh桜でもおなじみですが、私のフェイスブックのお友達でもあります。(^^ゞ

東北大震災に、天皇陛下自らがお言葉を発せられ、被災地へお行きになられた事自体が、異例の非常事態であるという認識が野田総理以下閣僚にない。いまの東北大震災や福島第一原発事故対応で野田総理以下閣僚に欠けているのは、口や金だけでは人は動かないという当たり前の日本人としての心である。

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