中国に世界をリードされてはたまらない 4/4 アジアの近代化とは、中国的な価値観を否定していくこと

Kojiyama/ 7月 10, 2010/ トピックス/ 3 comments

アジアの近代化とは、中国的な価値観を否定していくこと

 注意深く観察してみれば中華人民共和国は、我々が近代を象徴していると考える様々な概念をこの21世紀の現在においても、ほとんど会得していない。
 たとえばそれは、
「普通選挙」だったり、
「教育の機会均等」だったり、
「立憲制度」だったり、
「三権分立(司法の独立)」だったり、
「公衆衛生」だったり、
「報道の自由」だったり、
「法の下での平等」だったり、
「商取引における契約の尊守」だったり、
「居住地選択の自由」だったり、
「宗教、思想信条の自由」だったり、
「社会保険制度」だったりするのだが、呆れた事に中国は国内から外国の侵略者を追い出し、労働者・農民による革命を成功させて既に60年にもなるはずなのに、これらの概念を何一つ身につける事ができないのだ。

 逆に言えば日本も、儒教を中心とした中国的な価値観にもし染まっていたなら拘泥(こうでい-必要以上に気にすること)していたら、今日になっても国政選挙もなく、子どもたちはろくに教育すら受けられず、国民は伝染病の恐怖におびえ、不当に逮捕された囚人で刑務所はあふれかえっていたことだろう。

 日本だけでなくしばしば欧米においても、東洋的な思想とか哲学というのは、何か神秘的で人間社会の本質と強く結びついたものであるかのように語られる事が多い。しかしその本家本元である中国社会が、いつまで経っても近代化に成功できない理由もまた東洋的思想によるものだということを、日本人は一度まじめに考えてみるべきだろう。

中国的秩序を、認めてはならない

 かつて日中戦争を戦っていた当時、日本が掲げていたスローガンの一つに「築け、東洋の新秩序!」というものがあった。では、日本が築く東亜の新秩序にとって代わられるべき“東亜の旧秩序”とはいったい何だったのだろうか……?

 それが即ち中国皇帝を中心とする華夷秩序だったのである。そんな理不尽な秩序が通用するアジアは、一刻も早く変革されなければならない。すでに大正~昭和初期の時代ですら、中国的な世界秩序は誰が見ても時代遅れであった。

 しかし現在、一連の事件における中国側の態度に象徴されるように、彼らはもう半世紀以上も前に時代遅れになった“旧秩序”を、呆れたことに再建しようとしている。

 日本人は社会が行き詰まると必ず“新しい国家”を築こうとするが、中国は同じ事態に直面した時、自動的に“かつての帝国”を再興しようとするのである。

 もはや、こういった中国人たちの行動パターンが、マルクス・レーニン主義とも、ましてや近代の精神ともまったく無関係なものである事は明らかであろう。というか、むしろこれには90年代以降、旧ソ連や東ヨーロッパ諸国など、社会主義の体制が次々と崩壊していった事にこそ原因がある。

 いわゆる東側諸国が、次々と共産主義をかなぐり捨てていく現実に直面し、もはやマルクスのイデオロギーでは自らの権力を維持しきれないことを思い知らされた中国の権力者たちは、それにかわるものとして、“中華帝国とその世界秩序”の復活を人民に約束することで、権力基盤の維持と拡大をはかったのだ。

 ソ連や東ヨーロッパ諸国が崩壊して20年が過ぎようとしてする現在、中国政府のこの目論見は恐ろしい事に実現しつつある。世界に対して中国の圧倒的な力を誇示し、アジアの覇権を決定的なものと認識させるための総仕上げが、二年前の北京オリンピックであり、一年前の建国60年における一大軍事パレードであり、そして現在開催されている上海万博なのだ。

 この三年間に渡るイベントによって、まるで世界には「これからは、中国が世界をリードする時代が始まる」という常識が固まりつつあるかのようだ。何よりも中国人自身が、その幻想によい始めているのが恐ろしい。

 日本人はこの光景を、ただ漫然と眺めているだけではいけない。たとえ顛末なことのように思えても、「PRソング」盗作問題」、「毒入り餃子」「艦載ヘリの異常接近」だろうが、事ある毎に声高に非難する事で両国が平等対等な存在である事を知らしめる必要があるだろう。

 それには日本だけが単独で抗議するのではなく、できるだけ他のアジア諸国と連携して事を行う事が効果的だ。
 (中略)実は中国政府が謝罪しないのは日本に対してだけだけではない。中国はベトナムに対してだって70年代と80年代の二度に渡って実施した“懲罰戦争”を謝罪していないし、金日成と結託して朝鮮戦争へ不当介入した事を韓国に対して謝罪していない。インドに対してだって、フィリピンに対してだって、彼らが“夷”や“戎”と考える周辺国家に対しては一度も謝罪や反省をしてみたことは、ないのだ。
(以上)

「中国に世界をリードされてはたまらない」
儒教に発する傲慢なふるまいは修正不能 曙機関 (『正論』8月号)

【拙者補足】
儒教とはなんぞや
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99

周辺諸国への影響

朝鮮

儒教文化が深く浸透した、儒教文化圏であり、現在でもその遺風が深く残っている。それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。一方で、儒教を歴代の為政者が群集支配をするために悪用してきた弊害も存在しているという意見もある。
李退渓:嶺南学派
李栗谷:畿湖学派

日本

日本へ儒教が伝わったのは、513年、百済より五経博士が渡日して以降のことである。これ以前にも、王仁(わに)が『論語』を持って渡来するなどしており、概ね5世紀頃には伝来していたものと考えられている。

奈良時代~平安時代

律令制の継承に伴い、官吏養成及び学問研究として取り入れられ、式部省の被官の大学寮において、明経道として教授された。しかしながら、日本においては科挙制度が取り入れられなかったためか儒教の価値が定着せず、学問の主体は、実学的な文章道に移り、次第に衰退した。
空海が『三教指帰』により道教とともに批判するなど、仏教の隆盛も律令儒教の衰退の原因のひとつとなった。

鎌倉時代~安土桃山時代

元の侵攻を避け、南宋から渡ってきた知識人が朱子学等最新の儒教を伝え、京都五山、鎌倉五山等、禅宗寺院において研究された。
戦国の混乱は、これらの成果を地方に拡散させることとなり、桂庵玄樹の薩南学派、南村梅軒の海南学派等が開かれた。

江戸時代

江戸時代になると、それまでの仏教の僧侶らが学ぶたしなみとしての儒教から独立させ、一つの学問として形成する動きがあらわれた(儒仏分離)。中国から、朱子学と陽明学が静座(静坐)(座禅)などの行法をなくした純粋な学問として伝来し、特に朱子学は幕府によって封建支配のための思想として採用された。藤原惺窩の弟子である林羅山が徳川家康に仕え、以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。
朱子学は、文治政治移行の傾向を見せる幕政において、立身出世の途となり、林家の他の学派も成長した。特に木下順庵門下には、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祇園南海ら多くの人材を輩出。幕府及び各藩の政策決定に大きな影響を与えた。
大塚先儒墓所(東京都文京区)。儒葬専用墓地。
室鳩巣の儒式墓(大塚先儒墓所内)
陽明学派としては、中江藤樹が一家を構え、その弟子である熊沢蕃山が岡山藩において執政するなど各地に影響を残した。いわゆる近江商法にその影響を見る者もいる。陽明学は知行合一を説く実践的な倫理思想となり、大塩平八郎の乱など、変革の思想になることもあった。
儒教と仏教が分離する一方、山崎闇斎によって神儒一致が唱えられ、垂加神道などの儒教神道が生まれた。日本の儒教の大きな特色として、朱子学や陽明学などの後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する聖学(古学)、古義学、古文辞学などの古学が、それぞれ山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠によって始められた。
江戸時代を通して、武家層を中心として儒教は日本に定着し、水戸学などにも影響、やがて尊皇攘夷思想に結びついて明治維新への原動力の一つとなった。
一方、一般民衆においては、石田梅岩の石門心学等わずかな例外を除き、学問としての儒教思想はほとんど普及せず、儒教的な葬礼が、檀家制度を通じ一般的となったのが、数少ない例外の一つであるが[要出典]、儒教的な徳目は曲亭馬琴の南総里見八犬伝などを通じて教化が試みられた。

近代以降

明治時代に入り、1885年(明治18年)に当時の文部卿森有礼によって儒教的な道徳教育を規制する命令が出された。だが、元田永孚ら宮中の保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、奨励された。かつての日本的儒教=朱子学は武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制のもとでは国民全体に推奨された。
日本資本主義の父と言われた渋沢栄一は、1916年(大正5年)に『論語と算盤』を著し、『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げる「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。このように「洗練された近代人」とされる人達の中でも社会貢献の重要性などにおいて、近代社会においてもなお儒教の道徳観が通用する部分もあることを唱えた者もいたが、少数派に留まった。
第二次世界大戦後、支配者に都合の良い前近代的な思想として批判を受け、影響力は弱まったが、現代でも『論語』の一節が引用されることは多く、日本人にとっては親しまれている存在である。
儒教を宗教として捉える研究者は少数派であるが、学術研究において儒教の本質を宗教としてとらえる道を開いたのは、山下龍二・加地伸行である[2]。山下は天地鬼神や祖先への祭祀を儒教の中心に据え、加地は宗教を死を語るものと定義して祖先崇拝を儒教の本質としている。ただし、こうした儒教への解釈については池田秀三などから批判が寄せられている。

儒教研究上の論争

この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2009年11月に貼り付けられました。
儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争がある。
現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに、儒教は宗教か否かというものがある。現在、儒教はあくまで思想論の一種であって宗教ではない、とする考えが一般的[誰?]だが、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。このため、儒教を思想とみなすか宗教とみなすかでは、完全に見解が分かれており、たびたび論争の焦点になっている。儒教を宗教と定義した場合、教義に平等思想が無い事と死後の世界の観念が無い事による死後の再評価ができない事も問題視されている[誰?]。儒教は神の存在を完全に否定している事から、宗教として扱われる思想ではない、という見解が圧倒的に多い[誰?]。
中華人民共和国(中国共産党)は儒教を道徳思想としているが、前述の通り「儒教は革命に対する反動である」との理由から儒家の活動を弾圧の対象にし、大幅に制限していた。これは儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためである。
以下の項目も参照されたい。
人性論
天人の辨
義利の辨
名分論
命定論
形神論
正統論
復讐論
道統論
理気論
儒仏道論争
朱陸論争
格物致知
未発已発
良知
無善無悪
万物一体論
井田論
封建論
今文・古文
道器論

孔子廟

冒頭で述べたように儒教の大成者は、春秋時代の孔子である。中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを文廟といい、孔子廟、孔廟、夫子廟ともいう。(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名。)中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。
日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(儒教の中でも、特に朱子学)を学問の中心と位置付けた。そのため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。湯島聖堂が、その代表である。

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