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小浜歴史探訪 3/6 若狭神宮寺 (但馬史研究会)

■若狭神宮寺
小浜の若狭神宮寺は、奈良時代初期に創建された天台宗のお寺で、奈良・東大寺二月堂へのお水送りが行われるお寺です。若狭神宮寺の現在の本堂は室町時代に建てられ、重要文化財として指定されています。若狭神宮寺の本堂の中には本尊薬師如来坐像をはじめ見事な仏像が立ち並んでいます。
若狭神宮寺では金剛力士像を安置した鎌倉時代建立の仁王門も重要文化財として指定されていますが、場所が200mほど離れているため見逃す人が多いようです。若狭神宮寺は小浜国宝めぐりの寺院の1つです。(小浜市)
若狭一の宮の神願寺として成立、縁起によれば元正天皇の勅命により和銅7年(714)に泰澄大師の弟子沙門滑元の創建したといわれています。鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました。

  
神宮寺本堂

本堂の前には注連縄と御幣(白い紙垂)が飾られている。初めて見たので不思議な感じだ。

若狭井

奈良東大寺二月堂のご本尊にお供えする閼伽水(あかすい・清浄聖水)をお水送りの神事が行われる閼伽井(あかい)といわれる供養される聖水の湧き水取り屋。せっかくなので飲んでみたが、美味しいふつうの水だが、凡人には違いがわからないのだろうか。

いただいたパンフレットによると、西暦710年、奈良に平城京が造られ、聖武天皇ご在位の752年春に、東大寺において国家を捧げての盛大な大仏開眼供養が行われました。若狭ゆかりの「良弁(ろうべん)僧正」が、その初代別当(開祖)と言われています。

若狭神宮寺に渡ってきたインド僧「実忠」は、その後東大寺に二月堂を建立し、大仏開眼の二ヶ月前から(旧暦二月)天下世界の安穏を願い、14日間の「祈りの行法」を始められました。「修二会(しゅにえ)」と呼ばれるこの行の初日に、実忠和尚は「神名帳」を読み上げられ、日本国中の神々を招かれ行の加護と成就を請われたのですが、若狭の「遠敷明神」だけが漁に夢中になって遅れ、3月12日、修二会もあと二日で終わるという日の夜中に現れました。遠敷明神はお詫びとして、二月堂のご本尊にお供えする「閼伽水(清浄聖水)」を献じられる約束をされ神通力を発揮されると地面をうがち割り、白と黒の二羽の鵜が飛び出て穴から清水が湧き出しました。若狭の根来(ねごり)白石の川淵より地下を潜って水を導かせたと伝えられます。

お水送りとお水取り

奈良のお水取りが終わると春が来る。関西の人々は、毎年この春の兆しを待ちわびます。この奈良東大寺二月堂のお水取り(修ニ会の「お香水」汲み)は全国にも有名な春を告げる行事ですが、その「お香水」は、若狭鵜の瀬から10日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれています。

この湧き水の場所は「若狭井」と名づけられ、約2km上流の川淵は「鵜の瀬」と呼ばれるようになり、古来より若狭と奈良は地下で結ばれていると信じられてきました。3月12日に奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」に先がけて、毎年3月2日に行われる小浜市神宮寺の「お水送り」は、午前11時、下根来八幡宮で営まれる山八神事から行事はスタート。神宮寺僧と神人がカシの葉に息を吹きかけ、手を交差させて後ろに投げる。これは、体内に宿った悪霊を振り払うためだ。それから赤土をお神酒で練ったものをご祈祷してからなめて、残り土で柱に「山」と「八」の字を書き込む。

午後1時からは神宮寺境内において弓打神事。紫の装束に身を包んだ氏子代表が古式にのっとり、30メートルほど離れた的に向けて弓を放つ。

午後5時半ごろ、白装束の僧がホラ貝を吹きながら山門をくぐり入場。午後6時からお堂で修二会を営み、「だったん」の行へ。7メートルもあろうかと思われる巨大松明を「エイッ、エイッ」とのかけ声とともに振り回す。
いよいよ大護摩に火がともされると、炎が水面に燃え広がったようになる。住職が送水文を読み上げ、邪気払いをし、香水を遠敷川に流す。香水は10日後、奈良東大寺の「お水取り」で汲み上げられる。
実際には遠敷川は奈良とは反対の日本海に注いでいるのですが、地下を通って奈良に届くといわれています。古くから御食国として大和に塩や海産物を送ったことも関係しています。
神宮寺(じんぐうじ)
神宮寺とは、日本において神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。神宮寺とその神社の関係は一様でなく、どちらが主体であったのかは、一概には言えない。
平安時代になり、仏教が一般にも浸透し始めると、日本古来の宗教である神道との軋轢が生じ、そこから日本の神々は護法善神であるとする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀る神社が営まれるようになった。
鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主によって保護され、祈祷寺として栄えた。
しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈によって、その殆どの寺院が神社に転向したか消滅したりして、急速に数を減らした。現在は、残存した寺院の住職の努力によって再興されている。

鵜(う)の瀬と白石神社

小浜市下根来(ねごり)


鵜の瀬

神宮寺から遠敷川の上流に向かって2kmあまり行った所に鵜の瀬があります。遠敷川が狭まった浅瀬で昔ここいらには鵜が集まっていたことから「鵜の瀬」といいます。奈良時代に若狭神宮寺から東大寺へ行かれたインド僧実忠和尚が大仏開眼供養の指導の後、二月堂を創建し2月初日に全国の神々を召集するものの、若狭の遠敷明神だけが遅れて2月12日に参列されたことより、そのお詫びをかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水を送ることを約束したのがはじまりで鵜の瀬で3月2日にお水取りの行事が行われるようになりました。鵜の瀬の水中洞窟から奈良の二月堂はつながっており鵜がもぐって行ったとの伝説が残っています。鵜の瀬の水は名水100選に選ばれております。川の水を飲むのはちょっとという方には、近くの鵜の瀬公園に給水場が設けられています。ポリ容器1個に300円、ペットボトル4個に300円のステッカーを購入することで利用できます。
鵜の瀬公園に隣接する白山信仰の白石神社には、天然記念物の椿が群生しています。


良弁僧正像

白石神社の前、鵜の瀬公園入口
良弁(ろうべん、持統天皇3年(689年) – 宝亀4年閏11月24日(774年1月10日))は、奈良時代の華厳宗の僧。東大寺の開山。
ボランティアでガイドをされている方は、良弁僧正は、ここ小浜市下根来の生まれだとする言い伝えがあると話されたが、他の説もしっかりと話されました。としては『東大寺要録』には持統天皇3年(689)、相模国(さがみのくに:神奈川県)の漆部(ぬりべ)氏の子として生まれ、義淵(ぎえん)僧正に師事されたといいますが、『七大寺年表』では近江百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたともいわれています。
天平12年(740年)、『華厳経 』の講師として金鐘寺に審祥を招いた。聖武天皇から信任を得て、天平14年(742年)には金鐘寺が大和国分寺に指定された。天平勝宝4年(751年)には、東大寺大仏建立の功績により東大寺の初代別当となった。天平勝宝8年(756年)には鑑真とともに大僧都に任じられる。その後、天平宝字4年(760年)8月に仏教界の粛正のために、慈訓、法進とともに、僧階を改めるよう奏上した。宝亀4年(773年)には、 僧正に任命され、その年の閏11月24日没。

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