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【たんごる】 加悦鉄道加悦駅跡


旧加悦駅舎 「日本の駅100選」 与謝野町指定文化財
建築年:大正15(1926)年
構造階数:木造二階建て

  
駅舎内にはかつての鉄道資料が展示してある。

加悦鉄道(かやてつどう)は京都府与謝郡野田川町(現・与謝野町)の丹後山田駅(現北近畿タンゴ鉄道宮津線野田川駅)から、同郡加悦町(現・与謝野町)の加悦駅まで5.7kmを結んでいた私鉄である。駅数は6駅。

(工場駅)- 丹後山田駅 – 水戸谷駅 – 丹後四辻駅 – 加悦谷高校前駅 – 三河内口駅 – 三河内駅 – 加悦駅 -(鉱山駅)

その後、加悦駅の南西にある大江山でニッケルの採掘が開始されたため、1940年(昭和15年)に大江山ニッケル鉱山への貨物専用線が開業し、1942年(昭和17年)には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金大江工場)への専用線も開通した。

戦後、大江山でのニッケル採掘が中止されたため加悦 – 大江山間の専用線は撤去(ただし、法的には加悦鉄道廃止まで廃止手続きは取られていない)されたが、岩滝工場への専用線は同工場で精錬する輸入ニッケル鉱を輸送するため存続した。

1985年(昭和60年)3月14日の国鉄ダイヤ改正で宮津線の貨物輸送が廃止され、同線でのニッケル鉱輸送が不可能となったため、丹後山田 – 大江工場間の専用線も廃止を余儀なくされた。これにより、鉄道収入の6割を占めていた専用線の輸送業務委託料が失われ、赤字額の大幅な増大が見込まれたため、1985年(昭和60年)5月1日に全線が廃止された。
廃線後、軌道敷跡はサイクリングロード(加悦岩滝自転車道線)として整備されている。


キハ08 3号気動車 SL広場は国道176バイパス沿いに移設された。自動車で移動中にまだ動いていたのを見た思い出がある。
写真は『ウィキペディア(Wikipedia)』よりお借りした。

丹後に鉄道設置を目的とした運動は、明治25年に起こりましたが、実際に鉄道が敷かれたのは大正時代に入ってからでした。
舞鶴・宮津間が大正13年に開通し、改正された「鉄道敷設法」で、丹後山田駅(現在の野田川駅)から、加悦・兵庫県出石を通って江原駅へ向かう路線が計画されました。しかし、関東大震災で測量図等の建設資料が灰燼となってしまったため、計画は中止されました。

そこで、加悦谷の人たちは、丹後ちりめんの輸送手段としての「加悦鉄道株式会社」を設立し、宮津線の丹後山田駅から加悦まで鉄道を敷くことにしました。

出石軽便鉄道

但馬の小京都と呼ばれた出石町(現在の豊岡市出石町)と山陰本線の江原を結ぶべく大正9年(1920年)に会社が設立され、紆余曲折の末に昭和4年(1929年)、地元住民の出資により軽便鉄道(貨物には蒸気機関車・旅客車はガソリンカー)として開通したが、経済不況や自然災害などにより営業不振が続いた。そして太平洋戦争下の昭和19年(1944年)に不要不急線として営業休止に追い込まれる。終戦後、路線復活の動きもあったものの、結局昭和45年(1970年)に正式に廃線となる。事業会社としての出石鉄道では、バスの運行や、営業休止の賠償としてトラックを入手し、運輸事業等も行っていたが、全線運休後に全ての事業を停止している。

100年の夢、氷ノ山越え

●旧山陰道の最短ルート

氷ノ山トンネル 神戸新聞連載「100年の夢」の記事に、「戦国時代末期の天正三(一五七五)年、薩摩藩主島津家久の叔父中書家久は京や伊勢の神社仏閣にもうで、帰路山陰路をとった。六月十五日の日記の記述に「やなせ(山東町梁瀬)」「たかた(和田山町高田)」を通り「八木殿の町(八鹿町八木)に着」とある。翌日は「ひほの山(氷ノ山)」を越えて「つくよね(若桜町舂米)」に至っている。」とあり、氷ノ山越えは山陰道の最短ルートであり、兵庫県では関宮町大久保から現在の国道9号線の旧道とほぼ同じである。
若桜町舂米は、氷ノ山1,510Mの麓で、因幡・但馬・播磨・美作の四ケ国で最も標高の高い集落ながら、かなりの大きな戸数であることが、かつて峠の宿場町として栄えていたことを物語っている。

●氷ノ山越えと山陰本線計画

明治後期に鉄道敷設がさかんになると、舞鶴の軍港と大阪を結ぶ計画の阪鶴鉄道(現JR福知山線)が福知山まで完成。また、山陽鉄道(現JR山陽本線)、さらに姫路から和田山までを結ぶ播但鉄道(現JR播但線)が完成した。さらに京都から福知山そして福知山から舞鶴まで鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきたのだ。豊岡駅から国鉄宮津線(現北近畿丹後鉄道)、鳥取までは、内陸部の八鹿駅から若桜へ抜けるルートである。鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町までは敷設でき(旧国鉄若桜線、現若桜鉄道)ていたが、氷ノ山を貫く大トンネル工事は、当時のトンネル技術では困難なことから、明治42年頃には和田山から城崎まで北進していた鉄道から、余部鉄橋も難工事ではあったが海岸ルートに決まったのが、現在のJR山陰本線である。

●氷ノ山越えと但馬鉄道計画

またそれは別に大正初期に宮津から若桜までの当初の山陰本線最短ルートを実現させようと考えた、とんでもない人物が、「大正の大風呂敷」と言われた我が日高町(当時日高村)だった故藤本俊郎村長である。彼はすでに営業されていた出石軽便鉄道(現存せず)の株主の一人であり、さらに江原駅から村岡へ抜ける鉄道敷設を計画して、江原駅を東西南北を走る交通の要所にしたいという構想である。実際に近隣町村の猛反対にも遭いながら、国会議員の支援も取り付け、軽便鉄道敷設工事は日高町十戸あたりまで完成していく。また丹後山田から加悦まで鉄道は延びており、出石鉄道まで延長するという計画で、藤本村長は旗振り役となり自らも事業家として私財を投げ売り夢見た計画だった。ところが大正の世界的な大恐慌が始まると、敷設工事は不可能となり工事は頓挫してしまう。
そしてその大ロマン但馬鉄道計画の面影を今に伝えているのが、京都府野田川町の北近畿丹後鉄道(旧JR宮津線)丹後山田駅を起点として、加悦町加悦までを走る野田川鉄道と、鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町わかさ駅を終点とする若桜鉄道(旧JR若桜線)である。
現在の国道482号線がほぼそのルートです。

-参考 日高町史-

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