クローズアップされてきた「但馬三江」駅

Kojiyama/ 3月 25, 2010/ ローカル/ 0 comments

「但馬みえ」フィギュア、駅で限定販売…北近畿タンゴ鉄道


限定販売されるフィギュア「但馬みえ」

「但馬みえ」と申します――。
北近畿タンゴ鉄道(KTR=本社・京都府福知山市)は18日、車内で観光案内などのサービスをしているアテンダントのフィギュア1000個を、4月1日から豊岡駅など有人15駅で限定販売すると発表した。
宮津線がJRから転換されて、4月1日で20周年を迎えるのを機に企画。模型メーカー「トミーテック」(本社・栃木県)の「鉄道むすめ」のシリーズで、全国販売されるのをポーズを変えて限定品にした。
市販品は髪に手を添えている姿だが、限定品は左手を上げ、「こちらをご覧ください」と、車窓からの観光名所や郷土史を説明しているポーズをイメージした。
名前の「但馬みえ」は、豊岡市の但馬三江駅から付けた。制服や手に持つカートのデザインは、KTRで使用されているのと同じで、高さは約10センチ。
1個630円(消費税込み)。問い合わせはKTR企画総務課(0773・24・2510)へ。
(2010年3月23日 読売新聞)

鉄道むすめって何?初めて知った。
http://tetsudou-musume.net/character/10_mie.html
<日本三景「天橋立」へKTRがご案内いたします。>
北近畿タンゴ鉄道株式会社/アテンダント
・物静かな美人タイプ。お客さまへの落ち着いた案内が好評。
・日本神話と古文に詳しく、百人一首にも詳しい。競技かるたにも参加。
・「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」の歌は必ずとる。
※北近畿タンゴ鉄道のアテンダント。
※名前の由来は「但馬三江駅」から
※vol.9からの新キャラクターです
だそうだ。無人駅だし…。
天橋立なら羽衣の天女のイメージでは。まあどうでもいいが…。
こんなサイトがありました
http://ktr-tetsudo.jp/attendant/
世紀の大規模工事
“円山川橋りょう” 架け替え見学ツアーを実施
平成22年4月3日(土)・4日(日) の2日間
http://ktr-tetsudo.jp/news/archives/004237.php

兵庫・但馬三江駅の愛称を「コウノトリの郷駅」に

改修後の但馬三江駅
北近畿タンゴ鉄道(KTR)は10日、兵庫県豊岡市日撫の但馬三江駅に「コウノトリの郷さと駅」と愛称を付けた。記念に自転車を積んで乗車できるサイクルトレインが特別運行され、乗客は駅前で愛称を刻んだ石碑の除幕後、市内の観光地を目指して走り出した。
木造の駅舎で1929年に設置された。同社の駅の中で、乗降客は最も少ないという。「降り立ってみたくなる駅づくり」をテーマに利用客増を目指し、近くにある県立コウノトリの郷公園にちなんで名付けた。
この日、運行された記念列車は座席を取り外して自転車を固定する金具を19台分取り付け、京都府舞鶴市の西舞鶴駅と豊岡駅間を1往復。列車がコウノトリの郷駅に到着すると、乗客は自転車を押して降り立ち、駅前に設置された石碑(高さ約2・5メートル、直径約0・6メートル)の除幕式に参加した。
仲間と乗車した同府綾部市上野町、西山裕樹さん(48)は、郷公園や玄武洞を巡るといい、「列車を降りて徒歩や自転車で回るのは健康的でいい」。辻本泰弘社長は「復活を果たしたコウノトリにあやかり、利用者増加に向け、『快速コウノトリ号』やウエディング列車を運行するなどで粘り強くやっていきたい」と話していた。
(2009年5月11日 読売新聞)

KTRは同社駅中で最も乗降客が少ない但馬三江駅に「コウノトリの郷(さと)」と愛称を付けている。豊岡市内に近いため乗降客が少なく存在感のない駅だ。
私も宮津線は、親父が公務員で宮津や舞鶴に単身赴任していたので子どものときに国鉄時代の宮津線は一二度は乗った思い出がある。また近所のお兄ちゃんに連れられて丹後木津にチューリップを見に行ったときに乗ったのをかすかに憶えている。
一昨年京都からの帰り道、福知山で久々にタンゴエクスプローラーに乗って豊岡まで帰ってみた。丹後は日本の美しい風景が残されている数少ないところ。日本海を走る車窓から天橋立などは美しかった。問題は距離が長いため山陰本線を通るよりも高くつくことだ。別会社の問題もあるだろう。
しかし、鉄道ファンにとって開業当時のままの駅舎は段々少なくなっているので貴重だ。2月に改修されたが面影を残している。主要駅でも近年福知山、綾部、亀岡駅はすでに改修され、最後まで大正時代のまま残されていた豊岡駅ももうすぐ改修が始まる。山陰海岸沿いの竹野駅や香住駅などと播但線の竹田、青倉駅など開通当時のままの駅舎は数えるほどだ。早く回らねば。
但馬三江の由来
駅の所在地は兵庫県豊岡市日撫(ひなど)である。本来は三江の中心部からは丘の反対側で路線上三江村の中心部を通らないが村の玄関として三江と決めたのだろう。JR、KTR含めて駅名に「但馬」がつく駅は但馬三江駅のみである。他にも三江駅があるから区別するためだろう。この地区はかつて城崎郡三江郷であった。北に隣接する地区名には田鶴野、下鶴井と鶴にちなむ地区名がある。
城崎郡三江郷の北に位置する城崎郡田結(たい)郷はかつて山名四天王の一人、田結庄(たいのしょう)氏の領地で、三江の西南には田結庄氏の居城鶴城(豊岡市愛宕山・山本)があった城崎郡の中心地であった。
城崎郡は、新田、城崎、三江、奈佐、田結、餘戸が知られている。かつて円山川河口部から豊岡盆地一帯が潟湖で周囲の山々から流れ込む土砂で黄色く濁っていたことから黄沼前海(きぬさきのうみ)と記載されている。城崎と言う地名は(黄沼前)の名を受け継いだ物ではないかと言う説があるが、豊岡城の城の字を充てたのではないか。
三江はその美しい入り江で美江が三江になったのだったのだろう。
三江や出石にかけて古くからコウノトリが生息していた場所で、全国で唯一のコウノトリの神社久久比神社があることからも古くからコウノトリのメッカだったことが伝わる地区だ。ただしクグヒとはコウノトリに限らず白鳥全般をさすようだ。
城崎郡の郡郷名は現在の旧城崎町ではなく、但馬国守護大名山名持豊(宗全)により、此隅山城の出城として、標高48mの神武山に木崎城(城崎城)が建築された。鶴城に対して亀城と呼ばれていた。1580年(天正8)の羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国山名氏が滅ぶと、宮部継潤の支配となった。
しかし、もともと山名持豊(宗全)より前の父・山名時熙(常熈)は、九日市に居館があった痕跡があり、此隅山城はそれより代が新しい。宵田城の垣屋氏によって木崎城(城崎城・豊岡城)がとられてしまい、劣勢になり此隅山城を築城し、さらに現在の出石城の山上の子有山城に退いたようだ。
宮部氏は、城崎を豊岡と改め、豊岡城を改修した。このとき、城下町も整備され、豊岡の町の基礎となった。最初は城崎温泉は湯島と呼ばれて現在でも温泉の中心部は湯島地区である。
コウノトリ伝説
日本書紀によれば垂仁天皇の御宇二十三年冬十月朔(ついたち)、天皇が誉津別皇子(ほむつわけのおうじ)をともない大殿の前に立ち給う時、鵠(くぐい;コウノトリの古称)が大空を鳴き渡った。 その時、皇子が「これは何物ぞ」とお問いになったので、天皇は大いに喜び給い左右の臣に「誰か能くこの鳥を捕らえて献らむ」と詔せられた。 天湯河板挙(あめのゆかわのたな)が「臣、必ず捕らえて献らむ」と奏し、この大鳥が飛び行く国々を追って廻り、出雲国で捕らえたといい、あるいは但馬国で捕らえたともいう。 十一月朔、天湯河板挙はめでたくこの鵠を献上したのである。時に皇子は三十歳であったが、いまだ物言い給わず、あたかも児の泣くが如き声のみで、この日初めて人並みの言葉を発せられたのである。 これほどに鵠は霊鳥なのでその棲家の地を久久比(くくひ)と呼びなし、その後この地に宮を建て、木の神「久久能智神」(くくのちのかみ)を奉斎した。 これが久久比神社(くくひじんじゃ)の始まりであった。 さりながら、その頃豊岡盆地は「黄沼前海」(きめさきのうみ)と称して、まったくの入海、下宮の地はその入江の汀であった。 又そのあたりは樹木繁茂し、木霊のこもろう処、神自ら鎮まり座す景勝の地であった。 われらの先人が、この自然の神秘と霊妙を感得して、木の神「久久能智神」を奉斎し、木の御神徳の宏大に帰依したのも宜なる哉である。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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