NHK『プロジェクトJAPAN』の愚考を止められない糸の切れた凧集団

/ 12月 30, 2009/ オピニオン/ 0 comments

『正論』2月号
『自分史としての戦後史』-続「革新幻想の戦後史」の開始にあたって
 関西大学教授・京都大学名誉教授 竹内 洋(昭和17(1942)生まれ)
 大学では『社会主義者でなければ知的でない』といった雰囲気がまだ強く残っていた。伝統を尊ぶ保守思想は右翼的、暴力的であり、革命と改革を叫ぶ左翼思想は知的でヒューマニスティックだというのである。そうした傾向に反発を覚えたためだろうか、私は社会主義やそれを奉ずる社会主義者という者に好意を持つことができなかった。反論できないような正論や理想論を吐いて自分の正しさを主張するが、「人間の真実」を少しも見ようとしないと感じたからである。
 誤解のないように言い添えておかなければならないが、猪木(武徳:経済学者)は、このあとに、社会主義者でも「魅力的な人」はいたし、保守思想をもった人でも「皮相な人」はいたとしている。その通りであろう。
(中略)
 それから、半世紀もたった。いまや革新幻想の席巻は過去の話に見える。それどころか、いまや保守・革新や右翼・左翼の識別さえままならない世代がキャンパスを構成している。…いまの学生にとっては、右翼は街宣車でイメージしても、左翼はピンと来ないのだろう。
 つい最近にはもっとすごいことがあった。ゼミの学生と雑談をしているとき、わたしが「左翼はあんまり好くではない」と言ったところ、「先生、サヨクって自民党のことですか」ときた。一瞬、この学生、極右学生かと思ったが、そうではない。ふつうの学生である。これには驚いたが、おそらくこうであろう。わたしが、あまり好きではないといったことから、人気が低落している自民党と思ったのではないだろうか。驚きはそれだけではない。このトンチンカンなことをいった学生がゼミ発表をすると、人権とか話し合いとかジェンダーとか弱者とか、格差だとかの「政治的正しさ」用語を多用するのである。
 はたして革新幻想は蒸発してしまったのか。無意識そうに浸透して今やそれと気づかないほど定着してしまったのか。進歩的文化人という用語は死後になったが、進歩的大衆陣は増えているのではないか。いや昔日の進歩的文化人はコメンテーターやニュースキャスターの姿で跋扈(ばっこ)している…。
 であれば、昔は昔にあらず、今は今にあらず、である。革新幻想は私のような世代の昔話というわけではなくなってくる。過去の出来事を見つめ直すことが現在起こっていることへの理解を容易にし、今の出来事を眺めることで、過去を理解することができる。

宮崎正弘辛口コラム
田中英道・責任編集『日本史の中の世界一』(育鵬社)
http://miyazaki.xii.jp/column/index.html
 前々から国内歴史家の議論を聞いていて、不思議でならなかったのは、世界で一番古い憲法は日本の十七条憲法。マグナカルタはそれから七世紀後である。メソポタミア文明のハンムラビ法典は商法であり、憲法の嚆矢とは言いにくい。
 つまり日本は世界史で一番古い民主国家ではなかったのか、という「疑問」だった。
 『源氏物語』は世界初めての長編恋愛小説である。フランスの心理描写の小説は十七世紀、十八世紀である。それは文化大国の証拠である。
 いまでも世界中で『源氏物語』は読まれ続けている。
 ああそれなのに、なぜ日本の民主政治の成熟が遅れていて、文学はローカルで世界的ではないなんて欧米のやぶにらみをまともな批判と誤認し、多くの日本人は萎縮しているのか?
 これは明治文明開化以来の悪しき文明的コンプレックスの後遺症か、それともGHQの占領政策の洗脳がまだ効き目をもっているからだろうか?
 評者(宮崎)は随分と前から、日本は世界最初の民主国家であり、世界でもっとも古い文明国であろうと考えてきた。
 本書は第一に日本人の自信回復への処方箋の役割を果たしている。
 (やはりそうか。そうだったのか)。
本書では体系的に時系列的に、縄文土器から仁徳天皇陵、源氏物語に奈良の大仏など、世界史の金メダルを50項目並べて、一挙に解説を加え、日本人を鼓舞する悠々たるたくらみである。
 世界最大級の木造建築だった出雲大社、世界最初のオーケストラは、雅楽。そして世界最古の国歌は君が代、世界最長の王朝は、もちろん万世一系の天皇。
 
 つまり仁徳天皇陵は、ギザのピラミッドなど問題にしない広大な面積。秦の始皇帝陵墓よりも規模が大きい。
世界一の陵墓なのに、世界遺産になっていない不思議さ。
奈良の大仏開眼は、当時の万博。世界から貴賓を招待しての一大イベントだった。
世界最古の木造建築は法隆寺。世界最古のミュージアムは正倉院。
世界最古にして最大の和歌集は『万葉集』。
 この本を読むとなんだかモリモリと元気が出てくる。不況のいま、この本を読んで日本人は自信を回復しなければならない。
(一部省略)

糸の切れた凧集団
 ペンは剣よりも強し。しかし報道の自由をはき違いし暴走しはじめたペンは糸の切れた凧集団だ。政治も右も左もないし。もはや国民にとって最大の凶器以外の何物でもない。
 日本が戦ったのは列強の植民地化でありアジアの開放であり、社会主義・共産主義なのだ。GHQによって第二次世界大戦の罪は軍部や軍国主義・皇国史観がいけないとされた。保守派が公職追放され、社会党・共産党などの反戦派がNHKや朝日新聞などのマスコミ・教職に就いた。そこは伏魔殿、竜宮城だ。競争にさらされなくて高給にあぐらをかくと、かつての社会主義をいまだに知的なのだと勘違いしてしまい思考停止で世間から乖離してしまっていることに気づかない。助けた亀に連れられて竜宮城から帰ってみれば世界はとっくの昔に変わっているのにだ。連立政権にも亀や老けた左翼の乙姫がいるが…。
 左翼・右翼という用語が生まれたのは、フランス革命後の議会で議長席側から見て鳥の翼に例えて右側に与党の保守議員が、左側に社会主義の議員が座ったからであるそうだ。あの人は右寄りの思想だとか左寄りの思想だとかいう。テレ朝「スーパーモーニングSP」で小沢幹事長の国連主義はすばらしいと輿石東が言っていた。彼が国連主義って何かわかっていっているとは思えないのだ。国際連合の母体は戦勝国会議だ。戦前の国際連盟ではない。国際連盟には日本は常任理事国だった。いまの国連の常任理事国は戦勝国なのであり、彼らが決めたことは自分らの都合で戦勝国の意のままであろうとする建前なのだ。国連に従うとどうなるか。日本が軍備や核武装しようとするとあらゆる手段で妨害する戦勝国連合なのである。
 国家よりも人権という千葉景子や横道、江田五月、仙谷などの左翼学生運動家上がりの人権弁護士の閣僚たち、国旗・国歌反対の社会主義思想にのめり込む日教組の輿石東らは、世界が平和になるには非武装で国家もなくなれば人類は平等で幸せになれる、それが知的な思想だとまだ信じ込んでいるようだ。反対する人はそのくせ建設的な意見はない。
 東西冷戦がベルリンの壁崩壊によって崩れもはや右翼も左翼もないと思われている。たしかにソ連が崩壊しロシアやかつての社会主義国が民主化され、世界を米ソ対立という単純な図式では語れなくなったが、しかし、東アジア共同体というにはまだ東アジアには中華人民共和国と北朝鮮という一党独裁の民主主義国家ではない国が残っている、中央アジアでは相変わらず戦争が起きている現実を忘れてはならない。
日本のオリジナリティ
 保守とは具体的に何をいうのかはわかりにくいが、ようするに一つの思想ではない。左翼的思想が存在する限り、その思想に戦うことを保守というのである。
 右翼とは本来、そうした左翼に対して反対側に座った保守側のことである。したがって日本国内の保守を思想的左翼に対して右翼とするにしても、それは一部の極右や右翼思想(例えばファシズム・全体主義)を「社会主義の亜流」として実質は”左翼”と見る見方もあるので思想ではない。また現代の日本国内の右翼の中には非合法組織である暴力団が偽装化した黒塗りの街宣車で街宣活動を行う右翼団体とは一線をかす。なぜならば、民衆一人一人の自由、権利を無視しても国家の利益、全体の利益が優先される政治原理、およびその原理からなされる主張は、歴史的には近現代において国カを全て総動員する戦間期にこうした主張があらわれたとされるが、今日でも、個人の自由や利益を制約する傾向が顕著な国家について「全体主義国家」あるいは「全体主義体制」の呼称があたえられてそれに共通するからだ。左翼は中国共産党や北朝鮮のようにつまるところ一党独裁はその理想とは裏腹の全体主義であり、小沢幹事長が行っている党の幹事長が陳情を一元化するなどは、民主主義ではなく利権を掌握し天皇の立憲君主国家を否定する全体主義であり、社会主義思想の行き着く先は右翼のやり方と結局イコールなのだ。
 保守は、左翼思想に反対する人で一つの思想では語れないので政党の特徴を主張する際には、旧社会党や共産党のように明確ではないため分かりづらいから弱い。自由主義、民主主義である。しかし、自由主義は行き着くところ資本主義、市場原理主義の危険が伴い、民主主義は国家の意義を民衆の多数決という原則から決めるために、へたをすると空気に流され衆愚政治に陥る危険性がある。それもまた君主を排除し大統領を立てる新しい西洋思想であり、共和制、連邦制などという。また保守には、新保守主義、リバタリアニズム、新自由主義、国家主義、民族主義、王党派、反共主義、キリスト教右派などの幅広い勢力を指す語として用いられる。
 では歴史伝統のある日本が左右どちらかにあてはめねばならないかだ。その答えは必要なのか。日本は建国以来民主主義・社会主義が生まれるよりはるかに古くから天皇を仰ぎ、十七条憲法を掲げた立憲君主制国家だからである。いま日本に問われていることは、保守と革新は相反する対義語ではなく、松尾芭蕉が提唱した不易流行なのだ。「不易」は永遠に変わらない、伝統や芸術の精神を保守とする。「流行」は新しみを求めて時代とともに変化するもの。それを「革新」としよう。相反するようにみえる不易も流行も、ともに風雅に根ざす根源は実は同じであるとすれば、歴史や伝統を否定して一から造り直す革新は革新ではなく、それは革命政党だ。
 古い国家の真髄があってこそその延長にこそ革新があるからだ。あえていうならば、わたしは国体というと誤解されるとしたら世界に類を見ない「日本原理主義」とでも言おう。日本は世界のどこよりも民主主義の完成型をとっくの昔から十七条憲法で定めた国なのだ。わざわざ戦争に一度負けたからといって世界に例のない長い伝統を否定して、何も西洋の思想で自由主義とか民主主義とか社会主義などで定義するにはもったいないではないか。正月が来たら神社に初詣に行き、盆には先祖の墓参りに行く。いまあるのは戦争で亡くなられた英霊のお陰なのだから、慰霊するのは人間として自然な姿ではないか。日本はそんな新しい国ではないのだから。日本国民はNHKや朝日新聞、社会思想、共産政党、宗教政党のような器の小さな民族ではないのであるから。

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