南但馬の古墳

概 要

三世紀後半、倭(大和)には地方の指導者よりも優位にたつ「王」が誕生しました。但馬で育ちつつあった指導者たちは、ヤマトの大王と手を結び、力をつけ、ここに但馬王(国造)が誕生しました。当時は祀りや儀式で地域を支配していた但馬王は、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきましました。

弥生中期初頭の前方後円墳である池田古墳も、ヤマト王権誕生より数百年も前ですので、但馬は丹後・越前・出雲などと同様に、ヤマト王権による中央集権的な国家統一ではなく、連合国家的なものではなかったかともいわれています。いずれにしても、ヤマト政権は、祀りや儀式によって地域を治めるだけでなく、強大な武力と政治力を背景として、ヤマト近国から治めはじめます。丹国(丹波)の一部であった但馬王も、大和の王との関係を強めながら次第に力を伸ばしていきましました。

豊岡自動車道建設中に注目すべき複数の古墳や遺跡が発見されました。若水古墳群A11号墳は、南但馬最古の大型円墳です。茶すり山古墳は、5世紀前半に築造された円墳では全国で六番目の大きさです。

弥生前期後半の城の山古墳、弥生中頃の船宮古墳、中期末から後期初頭の但馬初の方形貼石墓の粟鹿遺跡など、古墳時代の有力な首長墓が、朝来市和田山町とその周辺に集中し、連続的に造られていることは日本国家形成期の周辺地域の歴史を考える上で重要な史料です。粟鹿の駅家跡豪族の居館跡(古墳時代では全国2位の面積)と120軒以上の竪穴住居跡であった柿坪遺跡、古墳中期から後期を中心とする108軒もの竪穴住居跡、加都(カツ)の3つの遺跡は、今まで但馬では発見されていなかった古墳時代の大きなムラです。奈良時代は但馬国府が気多郡に置かれたので、飛鳥時代までは但馬の国造の都であった可能性は高いです。

養父市の6世紀から7世紀にかけての大薮古墳群の時期には、六世紀初頭にヤマト王権は大きく動揺し、王統の断絶という危機を迎えます。『日本書紀』によると、507年、応神の五世孫と称する越前のオオド王が、即位しました(継体)。オオド王は、近江・越前を基盤として、日本海沿岸から琵琶湖・淀川・伊勢湾、さらに朝鮮半島にかけての水運を掌握した人物とされています。継体は、前王朝の手白香(てしらか)王女との婚姻により、いわばヤマト王権への婿入りという形で即位の正当性を求めたものと思われています。しかし、ヤマト王権には、その即位を認めない勢力も多かったため、継体は容易には大和に入らず、淀川水系に沿った宮を長い間転々としていたと伝えられています。

また、粟鹿遺跡から但馬で初めての方形貼石墓を1基が発掘されました。方形貼石墓は出雲・吉備地方から丹後・越国にかけて、日本海沿岸や中国山地で確認されており、山陰・吉備・丹後・越前地方独特の形式で、丹後の貼石墓は、同時期に営まれた出雲や伯耆のように隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる出雲の墳墓の形が、中国山地から出雲・伯耆・因幡、そして日本海を北上して越前・越中へとその広がりを持っているのとは異なり、なぜかこれまで但馬では発見されませんでした。但馬地方は、同じ日本海沿岸に位置しながら、日本海沿岸との土器の交流が希薄で、畿内のものだと指摘されていますので、比較的後からヤマト王権に加わったのではないかと推定できます。

但馬発掘状況

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