【たじまる】 森尾古墳

Kojiyama/ 2月 14, 2009/ ローカル/ 0 comments

  
豊岡市森尾字市尾

この古墳は、1墳丘3石室となっており、埋葬施設は3基の竪穴式石室。早く大正年間の工事中に発見されて以来、地元研究者や大学の研究者が何回となく取りあげていました。その時すでにいくつかの遺物が発掘されています。そして但馬地方が考古学的に論及されるのは、ほとんどこの森尾古墳だけであったのが最近までの状況でした。

昭和51年8月~平成6年3月30日に行われた「森尾古墳確認調査概要報告」(豊岡市教育委員会)によると、

古墳の構成や出土遺品などを考慮すると、この古墳自体が新旧で使われていたものであろうと考えられています。~森尾古墳を但馬最古の古墳と位置づけ、県下でも最古の一群に入れられるものとして考えられてきました。

ところが、近年森浩一氏が消滅したとされる森尾古墳の墳形について、ひとつの可能性として長方形説を打ち出し基底部が残存しているのではないかとの指摘もあわせて行ない、さらに本村豪章氏も「前期古墳の諸様相」を著して森尾古墳の再検討をも行ない、今後の発掘調査等によらなくてはならないとしながらも、大胆に方墳あるいは前方後方墳の可能性を指摘していました。

発掘された青銅鏡は、「三角緑神獣鏡」で卑弥呼の鏡ともいわれる。一面には中国の年号である「正始元年」で始まる文字が刻まれている。また、同時に見つかった鏡の一つが1世紀に中国でつくられた近畿で最古級の「方格規矩四神鏡」であることがわかった。「方格規矩四神鏡」は、約二千年前の紀元前後に中国でつくられた北近畿で最古の鏡で、山口県竹島古墳で出土した「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」や蟹沢古墳(群馬県高崎市)と同笵鏡(同じ鋳型からできた鏡)であり、正始元年は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。それらが遠い距離を隔てて別の地点で出土していることから、ある政治的な意志で1か所から配布されたのではないかとも説明されています。

しかし、従来は三角縁神獣鏡=魏の鏡=卑弥呼の鏡というのが定説で、邪馬台国畿内大和説の有力な根拠とされてきました。しかし中国本土では1枚も出土していないことや、魏の元号が改正されて存在しなかった「景初四年」銘の鏡が見つかったことから、最近ではこの三角縁神獣鏡は日本製との見方が強まっています。

森尾古墳に近い神美台工業団地造成時に墳墓が大量の見つかり、豊岡市埋蔵文化センターが建てられ保存されています。土曜日で閉まっていました(土日は休館日とのことです)。

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